第2話

 カーテンの隙間から、夕暮れの日射しが差し込んでいる。それが一日の終わりではなく、僕自身の人生の終わりを告げているような気がして、光がけして入り込まないように襞をぴっちりと閉めた。


 椅子に座り直す。そうして手を伸ばして、机の上にある教科書を開こうとした。けれどもやはり決心がつかず、手を引っ込めて表紙に印刷してある「生物」の二文字を睨みつけた。


 一体あの絵は何だったのか。おかげで僕はとんでもない誤解を受けた。男なのに女の声色を使う奴として認識されたらしく、先生からは何も怒られず、生徒からはいない者として扱われて、誰からも話しかけられないまま下校した。


 もっとも今までだって似たようなものだった。高校に入って三ヶ月ほどが経つけれども、一人も友達はできず、クラスの自己紹介と授業の受け答え以外、殆ど声を発していなかったから、誤解される下地は整っていたと言えるだろう。


 むろん弁解の余地はなかった。絵が喋っただなんて言おうものなら、誤解の深まりは地球の中心にまで達するだろう。そもそもそれ以前に、あの絵を僕以外の人間に見られたとしたら、もう絶対に学校に行けなくなることはまちがいない。


 教科書が動いたように見えた。しかも中からなにやら声が聞こえてくる気がする。帰りのバスや電車でも、車内がたまたま静まりかえった一瞬などに、「おーい」という呼び声のようなものが漏れて、周りの乗客に怪訝そうな顔をされたのである。


 けれどもまだページを開く勇気がなかった。すると机を伝って、悲壮な声が響いてくる。


「だれか助けて」


 迷っている場合ではなかった。僕はすぐに教科書を掴んで、問題の起こっているらしい項を開けた。そこには高校の制服を着た少女が、手を後ろに組んで、何の問題もないようにニコニコと微笑んでいる。


「こんにちは」


「だまされた」


「うそじゃないって。本当に助けてくれたことになるよ。あの真っ暗闇の中からね」


 たじろいでしまった。しかしまだ教科書と話していることを認めたくなくて、独り言のように喋った。


「これは一体なんなんだ」


「分からないよ。あなたのほうがよく知ってるんじゃないの。なにしろ私を描いてくれたんだから」


 と、まっすぐに視線を注いでくる。自分のかいた絵だと分かっていてもドキドキした。いや、自分のかいたものだからこそだろう。そいつは今まで制作したきた中でも出色の出来だった。キャンバスに向かった時はうまくいかなくて、落書きのほうに生命がこもるなんて皮肉なものだ。僕は目の前に絵のモデル本人がいるような気分で、相手と眼を合わさずに話しかけた。


「本当に自分が誰なのか分からないの」


「うん。だってここには鏡すらないんだよ」


「君の名前は島崎さん。島崎美来っていうんだ」


「あなたの名前は」


「僕は広重。広重樹一」


「えっと、広重君でいいのかな」


「もちろん」


「じゃあ改めて初めまして。よろしくね」


 そう言って、島崎美来の絵は手を差し出してきた。僕も思わず手を出したが、もちろん握手できるわけがない。教科書にぶち当たって紙の手ざわりがするだけだ。だから僕は鉛筆を取り出して、島崎美来の前に自分の手の絵を描いた。彼女はちょっと驚いた後、なるほどという風に頷いて、僕の描いた手を握りしめた。

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