第2話 立膝
「汝は目が見えておられるのか?」
式台につくと、よどみのない動作で咲が草鞋を脱ぎ丁寧に整えるのを見て八郎兵衛が感嘆の声を上げる。
光を映さぬはずの咲の眼は、正確に八郎兵衛を捉えていた。
「盲人と一口に世間では言われまするが、盲人にも様々ございます。全く見えぬ者、薄ぼんやりと大まかな輪郭ならばわかる者、色だけがわからぬ者」
「汝はいずれか?」
「私は大まかな輪郭ならわかる者です、そうでなくばどうして女の一人旅などできましょうか」
「成程、失礼つかまつった」
八郎兵衛はそう言って女、それも盲目である咲に深々と頭を下げる。珍しいと思ったが一応は客人であるため礼を尽くそうというのだろう。
座敷に通された咲は、上座に座る主人に一礼して立膝で座る。
座敷は最近の流行である全面畳張りで、主人他数十人の客人がすでに畳の上に腰を下ろして咲を待っていた。
主人は恰幅の良い体格で肉が程良くついていたが、年相応に体にたるみが出ていた。民から絞り取った年貢が彼の体のたるみとなっているのであろう、口元からは昼間だというのに酒の臭いがし、目元には険があった。
咲はそれに気づいていない振りをしながら、立てていない方の脚から太股が見えぬように軽く小袖の裾を引いた。
その様子に座敷の者が唾を呑む音が聞こえ、咲は軽く眉をひそめる。この身は神に捧げた身なのだ。
だが一瞬感じた不快感を意識の隅に追いやり、軽く呼吸をして心を凪いだ湖のように落ちつかせる。
自分の呼吸、庭から座敷に吹き込む草木の匂い、畳に用いた稲藁が脚に伝える感触。
自分と自分を取り巻く世界が鋭敏に感じられたところで咲は琵琶の弦を軽く鳴らし、調律を確かめる。
静まり返った空間に響いた音色は、凪いだ湖に広がる波紋のごとく。
撥(ばち)が強く絹糸の弦を打ちならし、曲が始まる。
琵琶は昔はかつて一大勢力を誇った者達の栄枯盛衰を謳った曲が主流だったが、今では神の教えを説くものや民間に伝承される物語を語るものなど様々ある。
今回彼女が弾くのは西国の伝承の一つ。
朝廷と西の豪族が争い、ある時は勝ち、ある時は敗れる。戦場での男たちの勇ましさと迷い、故郷での女たちの恋い忍ぶ姿。
それを琵琶の調べに乗せて歌い、撥を叩き、魂を込める。
この臨場感を咲は大いに好んだ。
目は見えずとも、空間は感じられる。琵琶を弾き客と一体になっているこの時だけは自らが現世の中心にいるような気さえする。
撥をかきならし、髪を振り乱し、一心不乱に演ずる。溢れる汗が光を映さざる目に入り、髪を額にはりつかせた。
主人が生唾を飲み込む音が咲の耳にはっきりと聞こえた。
目の見えぬ咲の感覚は、他の渡り巫女とくらべても人一倍鋭い。肌が、鼻が、確かに捉えていた。
目の前に座す、人ならざるものの気配を。
自分に向けられる、明確な殺意と欲望を。
主人の気配が変わる。
内側に封じられていたあやかしが、外に這いずり出さんとしている。
黒く、昏く、澱んだモノ。
主人の影が形を変えてゆく。頭部から鬼のような角が生え、柿の実のように丸みを帯びた胴体は荒武者の如くいかり肩となった。
獣の牙の如く先端が尖り、節くれ立った指先までも影からはいずりだそうとする。
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