第五章・その3 魔女の復活


 大司教メンタールは完全に頭に血が上っていた。同時に、術に揺らぎが出始めた。

 揺らぎのお陰で防御方陣が弛んで、イオンは切り崩し易くなった。

 ノーチェの、嫌がらせのようなささやかな仕返しのお陰で、苦痛と一緒に恥辱と屈辱を被り、メンタールの精神的余裕がなくなって、施術の集中力が維持出来なくなったのだ。

 おかげでイオンはやり易くなった。同時に、彼女のその場の判断に感心していた。

 イオンは大司教と同じく、ノーチェが自滅的な反撃方法を行うと思っていた。

 彼女はイオンの力を借りたがらなかった。そして、自力で解決させるつもりでいた。

 だから、自滅もいとわないとイオンは思っていたが、そうではなかった。

 大司教は彼女を侮っていたが、それは自分も同じかと、イオンは苦笑いした。

「くぅ…!」

 ノーチェの口から苦痛の小さな喘ぎ声が漏れた。

 彼女は大司教を動揺させて隙を作ってくれたのは良いが、そう長く保たない。

 ――ジェスターは……まだなのか!? 

 彼女の喘いだ声を聞いて、若干焦燥感に駆られながらイオンが思った瞬間。

 頭上の天井が崩れて空が見える隙間から、影が素早く過ぎ去る。

 翼のある馬の影、メイアンの有翼の一角獣アリコーンだ。黒い矢を五本、撃ち込んでくる。

 それが大司教の側の床に刺さる。頭上から撃ち込まれた矢を見て大司教は目を剥いた。

 イオンとノーチェが居る位置から見て、五本の矢は線で結ぶと、逆五芒星を形成する。

 黒魔術式だ。廃墟全体に対抗方術の準備が完了した気配がした。

 ――そうなると。イオンが腰を低くして、切っ先を真正面に、突きの構えを取る。

 気魄と魔力を刃の先端に集中し、イオンは力強く踏み込んだ。

 度重なるイオンの攻撃で脆くなっていた防御方陣は、あっさり刃が突き通った。

 剣峰が魔力喰いの術方陣の本体――大司教メンタールの目の前で止まる。

「……っだぁ!? 貴様!!」

 目の前に迫った刃を見て、精神的に余裕のなくなったメンタールが口汚く罵った。

 イオンは眼を見開き、ノーチェとメンタールを繋いでいる魔力の導線と流れを見極める。

 何本も通っている道筋の中で、魔力の所持権の強制変更を行っている、一本の蔦――

「――これか!」

 ノーチェを、賢者を束縛する、一本の棘のある蔦。

 それを、イオンは一閃で断ち切った。


 大司教メンタールの周りに穿たれた五本の矢が魔術方陣を形成し、活動し始める。

「ごああああああ!!」

 大司教が断末魔のような叫びを上げた。

 魔力の所有権を書き換えのために魔力喰いの方術が、メンタール自身の命と関連付けられた影響で、それを引き剥がされる際の、魂を削るような苦痛が、彼自身に襲いかかる。

 メンタールとノーチェを繋いでいた蔦に、膨大な魔力が逆流し始めた。

 彼の中にあった魔力が、本来の持ち主へと還っていく。

「やめろ! 私の! わたしのぉぉぉぉ!!」

 メンタールが喚き散らかすが、イオンが切っ先を首に向けた。

「お前のじゃない。彼女の力だ」

「黙れぇぇぇ! このぉぉぉぉ!」

 己に刃を向ける勇者を大司教が睨み、次の瞬間、取り出した呪珠を彼に投げつけた。

 イオンが切り捨てようとすると、半端に発動し、凄まじい爆風が起きた。

 大司教が廃墟の壁まで吹き飛ばされて叩きつけられる。

 イオンは――無傷だ。彼のものではない防御魔術が展開されている。


◇ ◇ ◇


「わたしの力、か……」

 聞き慣れた声が響いた。イオンが声の方を振り向く。

 一角獣の側に、見慣れた女が立っていた――だが、その姿は見慣れたものではない。

 顔は確かにノーチェ。しかし、全てが違った。

 金と銀の髪は、黒と銀に変わっている。血の瞳は爛々と輝き、露出している肌は幾つもの呪術印が顕れ、長い耳の先は螺旋の黒い模様が走り、角のように見えた。

 肌を這う呪術印、耳の螺旋模様、黒と銀の髪。どこか、禍々しさが漂う。

 その姿は、魔族を彷彿とさせる――いや、魔族そのものだ。

「人は魔族のような狡猾さと、ハイエルフのような高潔さを持つ者だと聞いていた」

 血のような眼が大司教を冷たく見ている。

「私と近しい存在だから、誠意をもっていれば、信頼されるって……違っていたみたい」

 黒エルフの眼光が怒りで満ちている。

「魔女……魔女が……!」

 メンタールが禍々しい黒エルフの姿を見て呻く。

「否定しない――それに、今さら」

 ニィと黒エルフが笑う。口元にはそれまでなかった牙が覗いている。

「ここまでのことをしてくれたのだから、当然、覚悟は出来ているよな? 人間?」

 黒エルフがそう言った途端、不意を突くように大司教が魔術を発動させた。

 鎌鼬のような風が、黒エルフの周りで発生し、彼女の髪を巻き上げる。

「白魔術の設置発動型、抗魔術式……」

 方陣内に風を発生させ、対象を切り刻む、設置型の魔術方陣式だ。

 奴のことだ。予め構築して廃墟の至る場所に設置していたのだろう。そして、抗魔術式なので使う魔力は相手のものだ。人の魔力で事を成そうという、奴らしい魔術方陣だ。

 目を細めてから、黒エルフが片手を上げた。彼女の全身に這う術印の一つが蛇のように動き出し、彼女の振り上げた腕を伝い、その手にどす黒い魔術方陣として顕れる。

 白い風は黒い風に書き換えられ、渦を巻き、意思を持った生き物のように大司教の周りに押し寄せ、彼を締め上げようと、周りをぐるぐると取り巻く。

「ぐ、ぐぅぅぅぅぅぅ!」

 呻いたメンタールは腕環をかざし、自分を締め上げる風を、環の中に吸収させる。

「ああ、そういえば。そういう魔具を持っていたっけ……」

 ニッと笑い、黒エルフが指先をクィっと上に向ける。

「おおおおおおお!」

 大司教の叫びが上がる。風を吸収した腕輪が、奴の身体ごと上へと昇る。

 崩れかけた天井に大司教が押し付けられ「ヴぉっ!?」と踏まれた蛙のような声を上げた。

 そのまま天井に張り付いたと思いきや、そこから落ち――叩き落とされ、床上まで強く打ちつけられた。「ギャ!!」と短い悲鳴が上がり、廃墟の床に散らばっていた砂埃が舞う。

 床で這いつくばる大司教へ、間髪入れず、巨大な雷が落ち、業火が上がる。

 焼き尽くさんばかりに強い閃光と火花を散らす。


 イオンは何もしないで、黒エルフが魔力を振るう姿を見ていた。

 彼女には、今までの借りを好きなだけ返させているが――怒りと魔力が戻ったことで、抑えていた彼女の本質が表に顕れている。今、彼女は魔族の魔気を纏っている。

 ――黒エルフの恐ろしさか。

 イオンは西の英雄ヘイロスの警告を思い出す。

 西の英雄が魔女といって恐れ、警戒するほどの魔力を、確かに彼女は持っている。

 かなり抑え込んでいるようだが、恐らく彼女の中には魔族由来の残忍性もあるだろう。

 禍々しいはずだが、イオンにはそれほど嫌悪感はないし、恐れを感じない。自分が魔王を倒した勇者のせいなのか。それとも彼女の美しさに、自分が惑わされているせいなのか。

「英雄や大司教の言うことは、間違ってないんだろうなぁ、少なくとも俺に関しては」

 イオンが自嘲するように笑った。


「――うぉーい? 調子はどうだぁ?」

 廃墟の周りで術を仕込んでいたであろう、ジェスターが、神殿の中まで入ってきた。

「ってうぉ!? すげぇ!!」

 ジェスターは黒エルフが魔術を振るう姿を見て、恐れるどころか感嘆の声を上げる。

「黒魔術の詠唱短縮のために、呪術陣を全身に描いてる……すげーな。あんなに纏ってたら、めちゃくちゃ疲れるだろうに、屁でもないのかよぉ……」

「相変わらずズレてるな……。って、そうなのか?」

 好奇心剥き出しで熱く語るジェスターに、呆れたようにイオンが尋ねた。

「まーなー。俺にゃ、あそこまで器に大きさがないから、同じことしたら、ぶっ倒れるわー。あのお姉さん、俺の組んだ裏魔術、いくつか試してくんねーかなー?」

 ジェスターは何やら良からぬことを思いついたのか、そう呟いた。

「そんなことよりも……」

 イオンが雷と炎の魔術を浴びせられている大司教を、一瞥した。

 ノーチェは反撃の暇を与えずに、魔術を行使している。その理由は分かっている。

 魔術の行使結果を確認するように、ノーチェが一時的に攻撃を中止した。

 結果を見るや「ちっ……!」と、らしくない舌打ちをした。

 ジェスターも大司教を見て、険しい表情になる。

 雷や炎を浴びて法衣はあちこち焼き焦げているが、大司教自身は脂汗を流してその場に膝をついているだけで、極端に損傷を受けているように見えない。

「――やっぱりな。何人喰ったか知らねぇけど、喰った分、魔術耐性と生命力があらぁ」

「二十人分だ。多分、単純な魔術耐性だけなら、高等魔族くらい強い――」

 ジェスターの呟きに、イオンが応える。

「が……が……がいぶつが……!」

 歯を食いしばり、目を血走らせて、メンタールがぶつぶつ呟いた。

 大司教の身の回りに魔力が立ちのぼり、それが血管を膨らませ、露出する皮膚に蚯蚓が這ったような血管が浮き出る。それ同時に、大司教の目つきが変わる。

「――まずいな」

「――まずいわね」

 イオンが口にするのと同時に、ノーチェも呟く。

 喰った魔力を、大司教は本格的に引き出そうとしている。イオンが琥珀の眼で見る。

 喰った人間の分の魂が、ぐちゃぐちゃに大司教の精神へ混ざり込んでいる。

「あれは、早く決着付けないと、アブねぇ……!」

 ジェスターも気付いて嫌悪と焦りが滲む声で叫んだ。

 今、大司教が発動させているのは、白魔術の禁則魔術だ。己の生命力と魔力を使用して放つ、最終手段として用いるものだ。通常、術を発動させた本人は死に、仲間さえも巻き込む故、禁じ手として使用を憚れている。放たれれば、この廃墟を含め、周り一帯が吹き飛ぶ。

 追い詰められたこの場を切り抜けるため、大司教は魔力を喰ったうちの、一人分の命と魔力を使用して、禁術を発動させる気だ。

「がいぶづ……ぎえれぇぇぇぇ!」

 血管どころか身体自体がパンパンに膨れ上がった大司教は、人のものと思えぬ獰猛な声で呻き、避けんばかりに広がった口から、巨大な光珠を吐き出す。

「……怪物? お前もだろう!!」

 ノーチェも獰猛そうに牙を剥きだして吠えた。

 それを合図に全身に這う呪術印が全て動き始める。彼女の魔気が怒気を帯びて毒々しい瘴気と殺気をまき散らし、手のひらにそれらが集まり、黒い球を形成していく。

「おいおい……マジかよ……!」

 今度こそ恐れを感じたのか、ジェスターが呻いた。

 ノーチェが作った黒い球体は黒魔術の禁術だ。

 魔族と魂を売る契約をして使える魔術だ――あくまで人の場合は。彼女には関係ない。

「じねぇぇぇ……」

 獣のような叫びと同時に、メンタールの裂けた口から、光球が放たれる。

「永劫の闇の中に消えろ――!」

 ノーチェが黒いそれを、放とうとした――瞬間、腕を掴まれた。

 彼女の手の中にあった黒い球体が突然、霧散して消える。

 驚いてノーチェが自分の腕を掴む者を見る――イオンだ。

「もういいだろう?」

 優しく諭すように、イオンが囁く。

 大司教が放った光の球の方は、イオンが掲げる剣の先で止まっている。

「でも……」

 ノーチェが反論しようとするが、それを遮るようにイオンが剣を軽く振った。

 すると、メンタールが放った光の球が、しゃぼん玉のように弾けて消えた。


 ――そう、そうだった。彼は、東の勇者だった……。

 ノーチェが忘れていたことを思い出す。

 今イオンは、双方が放とうとした黒魔術と白魔術の禁術を、あまりに簡単に消し去った。

 実際に魔王を倒した東の勇者。倒しきれなかった西の英雄と違う。

 ノーチェの険しかった顔が緩み、がっくりと肩を落とす。

 彼女の纏っていた魔気と殺気が消え、肌に這った印も消失し、髪は元の色に戻った。


◇ ◇ ◇


 禁術が消え去った後――息の荒い大司教が目を血走らせ、床に手をついていた。

 膨れ上がった身体は元に戻っているが、喰った人一人分の魔力と生命力を放ったメンタールは、この一撃で一気にやつれた。後ろにじりじりと後退り、廃墟の片隅へと退避する。

 肩で息をし、歯を食いしばり、渾身の禁術をいとも簡単に破った勇者を睨んだ。

「これを……この術を……!」

 どうやら、とっておきだったらしい。かなり動揺している。

 大司教の目には、憎悪と嫌悪と――そして、恐怖の色が出ていた。

 彼の惨めな変わり様を見て、多分、そうなるだろうなと、イオンは思っていた。

「そうだ、やはりそうだ! やっぱりだ! 英雄ヘイロスも、勇者おまえも!」

 まるで追い詰められた犬のように、大司教が喚く。

 こいつの言いたいことは、イオンは大体想像がついていた。

 西の英雄にだって、わかっている。

「この、化け物め――!」


〔イオンジェン。彼女の恐ろしさを目の当たりにしてから後悔しても、僕は知らないよ?〕

 西の英雄が呆れたようにイオンへ忠告する――こいつは、何を言っているんだか。

「ヘイロス。お前は肝心なことを、忘れている」

 魔水晶に映る英雄が、どこか気の抜けた調子で〔うん?〕と声を上げた。

「黒エルフ(スヴァルトアールヴ)が魔王と変わらぬ危険分子なら――」イオンの瞳が琥珀色に染まる。天眼を使った時に出る色だ。「――魔王を倒せる力を持つ、俺たちは一体何なんだ?」

 ヘイロスは一瞬驚いた表情をした。そして突然、声を上げて笑い出した。

〔あはははは! 確かに! 僕たちは彼女と、いや、魔王と大して変わらなかったね! ――そう、僕たちは化け物だ。人が僕たちに栄誉を与えるのは称えてるんじゃなくて、恐れているからなんだよね。僕らが臍を曲げて機嫌を悪くして、暴れでもしないようにさ!〕

 魔水晶の中で笑い転げていた英雄が目尻に溜まった涙を拭った。

〔あの大司教も、結局のところ、僕を恐れているんだよね。凄く良く見えるよ、彼の恐怖が。魔王討伐という本来の目的よりも、僕を排除するのに必死だ――本末転倒なのにね〕

 西の英雄は、琥珀色の瞳の眼で勇者を見つめる。

〔ねぇ、イオンジェン。君のところはどう? どんな扱いだった?〕

 イオンが渋い顔をした。何もなかったとは言わない。ただ、誰かに話すことでもない。

〔ま、いいや――。にしても面白かった。忘れていたことを久々に思い出したよ――そうだ。笑わせてくれたお礼に、君にだけ、内緒話をいくつか教えてあげるよ〕

 軽薄に笑っていたヘイロスの眼から、笑みが消えた。

〔本当はね、僕はメンタールが殺せない。後見人見張り役契約の呪術のせいだ。殺そうとした途端に僕が死ぬ。これは、西方地域の人々が英雄を恐れるあまり、その力を縛った結果だ〕

「西方地域はそんなことをしていたのか? それで、魔王は倒せるのか?」

〔倒せるわけないよ。でなきゃナクティスが封印したりしない。歴代の英雄がこの状況で討伐出来ていたのが不思議なくらいだ。多分、共闘する仲間に恵まれていたんだろうね〕

 今まで英雄が、殆ど動かなかったことに、イオンは納得する。力が、発揮出来てない。

〔こんなに縛られた僕でも、メンタールは怖かったようだよ。当然だよね、最終目標が全地大司教オイクメノスじゃあ。僕みたいに魔力喰いを見抜く人間がいると、困るよね。でも、全地大司教オイクメノスになるには相応の名誉が必要――英雄ぼくと共に戦ったという華々しい名誉がね〕

 英雄は己のことを含め、嗤うように語る。

〔さすがに君に対しては、東方地域が遠過ぎて、直接関わり合いもないから、彼もそれほど恐怖を感じなかったみたいだね――利用する余裕があったみたいだ。まあ、そういう所が、どこまでも小物なんだけどね――何にせよ、色々やり過ぎた。彼には罪を償う必要がある〕

 軽い調子で語り終え、西の英雄が、初めて真剣な顔をした。

〔縛られている僕は弱い。だから伏してお願いする――奴を、大司教を止めてくれ〕


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