第四章・その3 その夜


 イオンがふと目を覚ました。ぼんやりしながら寝台の傍らの時計を見た。

 丑三つ時だった。夜中なのは分かったが正確な時間は分からない。

 この時計は魔具の一種だが、時間の表示が少し曖昧だ。

 微睡んでいたと思ったが、どうやら深く眠っていたようだ。かなり疲れたから仕方ない。

 傍らの女を見る。布団に丸まって深く眠り込んでいる。

 その様子を見て、イオンは小さく溜息をついた。彼女に対して相当、気を使った。

 彼女も疲れているようだが、イオンのほうも疲れた。

 決して悪くはなかった。でも少し、びっくりした。

 なんとなく、そんな気がしていた。しかし彼女はイオンに対し、あまりにあられもない姿で何度も迫って来るものだから、恐らく違うのだろうと思い直した。

 何より、彼女はこれだけ美人で、百年以上生きている。

 きっと、あらゆる経験を積んでいるのだろうと――

「初めて、なんて思わなかった……」


 ねだってきたのは多分、ノーチェの方――いや、イオンにも責任がある。

 彼女は百年以上生きている割に、あまりに察しが悪く、あまりに分からず屋だった。

 あまりにあんまりだったので、イオンはつい。

『君が好きなんだって!!』

 口を滑らせしまった。

 出来れば黙っておきたかった。口に出して言えば、彼女を女中として見られなくなる上に、絶対に手放せなくなるに決まっているし、既にそうなりかけている。

 なのに、ノーチェは『好き』とは即ち『手を出したい、ということなのですね?』だ。

 これはこれで、イオンの予想の斜めをついてきて、非常に慌てた。

 だから、自宅の小屋に戻ってきてから、イオンは真面目に聞いた。

「……あの。なんで〝好き〟が〝手を出したい〟になるの……かな?」

「普通はそうなりませんか?」

 イオンは「ならない」とはっきり言えなかった。もう、色々と知られている。

「その……ほら、心の機微というか、色々とあるよね?」

 一応、イオンが釈明らしきものをした。が、彼女は苦い顔をしている。

「あの、私。百年以上生きているのに、物分かりが悪いのは、否定しませんが……」

 ノーチェは沈んだ顔で呟く。これは、森の中でイオンが口走った言葉だ。

 まずい。イオンが勢いで言ったことだが、彼女は歳を気にしている。

「指摘されずとも、私の今の状況は、年齢の割に知恵は浅く、賢くないと言われても、仕方ないです。力も失いましたし、簡単に奴隷商に捕まって――しかも、売れ残りですし」

「誰だって失敗はあるし、売れ残りは、他の連中の見る目がなかったからというか、えっと。少なくとも俺は、一目見て欲しくなって、あー……」

 あまり自虐的に言うので、慰めのつもりで色々奮闘してみたが、逆に頭を抱えた。

 こんな言い方したら、手を出したくてたまらないみたいだ。

「と、とにかく! そんなことないから! ほんとに!!」

 必死に弁明するも、ノーチェが「変な人」と呟き、おもむろに側に歩み寄ってくる。

 たじろいでイオンが離れようとすると、すぐ側まで来て、胸元に手を置いた。

「やっぱり、私に覚悟や努力が足らなかったでしょうか……」

「いや、どちらかというとそんなに頑張って欲しくないというか」

 むしろ、頑張られると、がちがちに体が強ばって、イオンが何も出来ない状態になるので、頑張らないで欲しい。そう思っていると、ノーチェが気色ばんだ表情をして俯いている。

「……では、どうすればいいのでしょうね、私」

 やさぐれているような、諦めているような。放っておけない。

 ——まずい。これはまずい。あまりに気を持たせ過ぎた。

 とにかく、どう慰めて、どう懐柔しようか、必死に考えを巡らせた。その結果、イオンがそろそろと手を伸ばす。遠慮がちに抱きしめたところで、ノーチェが小さく溜息した。


 ――結局、そうしてほだされてしまった。

 言い訳なら山ほど思いつくが、その殆どが彼女のためというよりも。

「俺自身のためだな……」

 肩を落としてイオンは小さく溜息し、隣で寝ているノーチェをちらりと見た。


◇ ◇ ◇


「――…ん……」

「ごめん……起きた?」

 焦点の合わない眼でノーチェは見上げ、気怠そうに「ええ」と返事をする。

 枕に俯したノーチェが「ねぇ?」と声を上げた。

「やっぱり、おかしい?」

「何が?」

 イオンが首を傾げた。彼女の、質問の意図が即座に分からなかった。

 でも、少しむくれた彼女の表情から、鈍いイオンにも察しがついた。

「――あー、うん……意外、だったかな? 美人だし」

「……百年以上生きてるのに、とは言わないのね」

 付け加えられた指摘に、イオンが詰まった。それは確かに思った。

 百年以上生きていて、しかも美人で、何故、初めてなのかと。

 ノーチェはそうした彼の疑問は織り込み済みだったのか、横になったまま語り出す。

「私は、黒エルフスヴァルトアールヴだから。ハイエルフに魔族の血が厭われる」

「そうなの?」

「嫌われていましたもの」

「いくら大きな魔力を持っていても、鍛えなければ使い物にならないんじゃないの?」

「それでも恐れて避けます」

「そこまで怖がるようなことでもないと思うけど……」

 ノーチェは諦めたように溜息し、イオンの手を掴んで頬ずりした。

「あなたが変わってだけですよ……きっと、強いから」

「そっかなぁ?」

 イオンはごろんと横になった。そんなことを言われても、今一つ、実感が沸かない。

「大体、それを言うのなら、西の英雄とかと一緒にいて――あ、いや……」

「彼らにはもっと避けられてました」

 イオンが気を遣って言い辛そうにしていると、ノーチェがはっきり答えた。

 そういえば、西の英雄の仲間にノーチェ――賢者がいたことは、イオンも知らなかった。

 少しくらい噂話に上がっても良いはずなのに、全く聞いたことがない。

 西の英雄と仲間たちが、彼女の存在を表に出さぬよう、隠していたことがよく分かる。

「余計な手出しをした、って言われました」

「余計な手出し……?」

 イオンが首をひねる。彼女と一緒に暮らしていて、むしろ気が利いて助かっている。

 それが、余計な手出しとは一体――? 

「……やっぱりあなたも、出しゃばる奴は、邪魔だと思う?」

 ノーチェが逆側に寝返りを打って、丸くなり、尋ねてくる。

 どう答えようか迷った。多分、冒険者として尋ねられている。

「――わからないな。何せ、一緒に戦ったことがないから」

 中途半端な慰めなどせず、正直な感想を言う。

「例えばだけど。ノーチェが戦闘の流れを読まずに行動するような人物なら、足手まといだ。でもそれなら、単に仲間から外れてもらうだけだ。いつまでも同行してもらわないし、ましてや、最後に力を奪ったり封印したりしない」

 イオンは天井を睨んだ。そう、邪魔なら単に戦力外で放逐するだけだ。

 それを、わざわざ封印を施したり力を奪ったりする必要はない。

 と、そこでイオンが封印のことを思い出し、身を乗り出して彼女の掛布を剥ぎ、肩に手を掛けて俯せさせた。イオンのいきなりの行動に、驚いたノーチェが固まる。

 彼女の背が露わになり、そこに刻まれた印紋がはっきりとイオンの目の前に晒された。

「やっぱり、術式が進んでいる……」

 非常にゆっくりだが、背中の魔力喰いの術は、確実に進行している。

「かなり難読なのに」

「それはいくらなんでも、俺のことを侮り過ぎてるんじゃあ?」

 ノーチェが俯せたまま諦めたように呟いた言葉に、イオンが苦笑いで返した。

「それで、今どんな感じ?」

「どんな、って……」

「魔力喰いの定式だろう? もう分かってるから、あまり隠し事はしないで欲しいな……」

 ノーチェが枕に顔を伏せたまま、ふるふると首を横に振った。

「まだ自力でどうにかしようと思ってる? さすがに無理だよ、これは」

 黙ったまま返事がない——これは、答える気がないな。

 今はこれ以上聞かないが、明日、ちゃんと話し合ってみよう。そうイオンは思った。

 とはいえ、彼女は意固地だ。少し悪戯をしたい気持ちが沸いてきた。

 それでつい、目の前にある彼女の首筋に、イオンは口付けた。

「————っ!」

 少し、反応があった。面白くなってきたイオンは、彼女の上に覆い被さり、さらに首筋から背中にかけて唇を這わせる。ノーチェが仰け反ってくぐもった声を上げた。

「……んっ! お、お願い。もう一度は……」

 ノーチェが枕から僅かに顔を上げ、涙目で懇願する。悪戯したいが苦しめたくはない。

「今日はもうしないよ。少し、触るだけ……」

 優しくそう言うと、安心したようにノーチェが頷き、枕に顔を埋めた。

 俯せているノーチェに、後ろから手を回して、胸を掴んで、耳の後ろに舌を這わせた。

「っあぁっ!」

 今度こそ本当に、ノーチェの口から嬌声が漏れた。

 その声に反応して、もう一度手を出したくなったが、止めた。今の彼女には辛いだろう。

 それに、彼女の背中の術印が月明かりで僅かに目に映る。それが少し、気になる。

 イオンは目を細め、その印をじっと見る。早く、取り除きたい。

 ノーチェが上体を浮かせ、振り向いた。眉を寄せ、目尻に涙を溜めている。

 その表情があまりに愛々しく、思わずイオンは抱き上げ、唇を重ねた。


◇ ◇ ◇


 窓から光が入り、徐々に覚醒していく。自分の部屋がいつもと違うことを感じた。

 それが彼女の残り香だと気付いた時、イオンは完全に目を覚ました。

 傍らで眠っていたはずのノーチェは既にいなかった。

 近くに気配を感じるから、彼女はちゃんと家の中にいる。

「って、何やってるんだか」

 イオンは苦笑いした。起きて真っ先に彼女の所在を確かめようとしていた。

 また、前と同じことをやっている。どれだけ彼女の行方を気にしているんだか。

 イオンは寝台から起き上がる。そして、彼女の元へ向かおうと、立ち上がった。


 ノーチェは井戸端で髪を洗っていた。服を濡らさないためか、上半身は裸だった。豊かな胸が顕わになっている。お湯なのか、髪を浸けている手桶からは湯気が上がっている。

 イオンが側までやって来たことに気付いて、手桶の前で屈んでいたノーチェが軽く頭を上げて振り向く。すぐさま、髪を絞り、井戸の縁に掛けていた手ぬぐいで髪を拭いた。

「おはようございます」

「あ……うん、おはよう」

 返事をしたイオンは井戸の手押しポンプで井戸の水を汲み上げる。

 パイプから出てくる水をイオンは直接頭からかぶり、ざぶざぶ頭と顔を洗った。

 ノーチェが、井戸の縁に置いていた手ぬぐいを彼に差し出した。

「ありがと」

 受け取った手ぬぐいでイオンは顔を拭い、頭をごしごしと拭き、ノーチェに返した。

 ノーチェは手桶のお湯に手ぬぐいを浸して絞り、自分のうなじや腕を拭いている。

 その姿を見て、イオンが渋い顔で唸る。

 彼女の上半身むき出しで身体を拭く姿は、拭いている理由も含めて、とても煽情的だ。

 夕べのことを思い出して、イオンは再び頭から水をかぶりたくなった。

「あ、そうだ。朝飯食おう」

「あ、ごめんなさい。まだ用意してないわ」

 己の気を逸らそうと適当に口にしたことに、ノーチェが律儀に返答した。

「じゃあ、今日は俺が作るよ。ゆっくりしてて」

 ノーチェが何か言いたそうにするが、彼は気にする様子なく「たまにはなー」と呟く。

 井戸端に彼女を残したまま、イオンは小屋の中に入っていった。


「茹でた馬鈴薯じゃがいも……焼いた猪の塩漬け肉ベーコン……」

 ノーチェは目の前に盛られた料理を見て、呆然と呟いた。

 イオンが自ら朝食を作ってくれたのは良いが、中々の見栄えと出来だ。

 馬鈴薯は皮付きのまま茹でてある。塩漬け肉も随分と大振りな切り分け方をされている。

 スープも添えられているが、鶏ガラを丸々寸胴の中へドボンと入れて、玉葱と大蒜を大雑把に刻んで入れて煮たものだ。作り方といい、見栄えといい、男気と野性味溢れる料理だ。

 でも、味は悪くない。塩漬け肉はいい焼き加減だし、馬鈴薯も茹で過ぎず生煮えでもなく、ちゃんとしている。スープは灰汁を取ってあるし、塩加減もいい。

 ただ、野戦食といった豪快さと雑さで、ノーチェは少し、苦笑いした。


 二人して黙々と朝食を食べていたが、イオンがふと匙を動かす手を止め、顔を上げた。

「それで、背中の封印の件なんだけど」

 夕べの話題を蒸し返してきた。

 ノーチェがごくりと馬鈴薯を飲み込んで、目を瞬かせる。

「夕べ、話の途中だったけど、夜中だったし、寝ちゃっただろう?」

「あの、あれで終わり……では?」

「んなわけないよ」

 イオンが切り分けた肉を口に放り込んで噛み砕き、手にした木杯カップの水と一緒に飲み込む。

「術は励起して、少しずつ進行している。放置するわけにはいかないよ。相手に命と一緒に魔力をくれてやるっていうのなら話は別だけど、いくら何でもそのつもりはないでしょ?」

 ノーチェは目を伏せて俯いたが、ややあって小さく頷いた。

 確かに魔力が戻る戻らない以前に、あの司教に魔力をくれてやる気はない。

「英雄も、その仲間も、西方地域シーファンの要人として高い地位に居るのは知っている」

 イオンは水をごくごく飲んで、それからノーチェをしっかり見据える。

「魔王討伐が、今の地位の箔付けだったんだろうな。でもいくら目障りといっても、ノーチェに掛けられた封印はやり過ぎだ、おかしい。そもそもそんなに目障りなら、なんで最後まで一緒に連れて行くんだ? その上、力まで奪おうとする。何か、解せない」

 機嫌の悪さを隠そうとせず、イオンが捲し立てた。

 彼は魔王を倒してその後は、勇者としては隠居状態。得た名誉に頼らず生活している。

 別に、完全に廃業しているわけでもなさそうだが、冒険稼業は気まぐれ程度だ。

 そんなイオンにとって、西の英雄たちの行動は理解不能、ということらしい。

「そんなにノーチェが邪魔なら、自分たちだけで魔王を倒せばいいのに……」

 ノーチェは俯いて黙っていたが、それから少し顔を上げて小さな声で呟く。

「魔王は――倒してないわ」

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