第二章・その3 その男の本音
結局夕飯など外で食べる気分も余裕もなくなり、二人は宿に戻ってきた。
辛うじて宿が食事を出してくれる時間に戻れたので、夕飯にありつくことが出来た。
「出来合いというか、時間が時間だったな……」
宿屋が出してきたものを見て、イオンが苦笑混じりにぼやく。
葱と鴨肉の団子スープと、細切り
ノーチェとイオンはそれをモソモソと食べたあと、二人して食後に葡萄酒を飲んだ。
イオンは葡萄酒をちびちび飲みながら、軽い酔いを楽しみつつ――
つい、目の前のノーチェを盗み見してしまい、目を閉じ、密かに溜息をする。
目を開くが、視線がわずかに下がりかける。それをイオンは首を振り、正す。
イオンは視線を極力そちらに行かないように努める――が、そっちの方を向く。
「あの。私の顔に何かついてますか?」
「……あ。なんでもないない!」
イオンは慌てて首を横に振る。まずい。恐らく挙動不審だ。イオンは立ち上がる。
「ちょっと風呂入ってくる……」
何か言いたげなノーチェを残し、イオンは洗面所の方へと歩いて行った。
「……行っちゃった」
取り残されたノーチェは葡萄酒に使っていた
イオンはとても変な人だ。
奴隷商で処分価格の銀貨三枚で特売されていたノーチェを買った。
玩具にでもするのかと思えば女中として雇い、彼女自身には手を付けない。
実は、奥さんか、意中の人でもいるかといえば、そんな気配、なし。
本当に純粋に女中が欲しくて、女としてのノーチェには眼中にないかといえば、違う。
興味がない、というわけではなさそう。さっきも、顔を見て、そこから下を見て。
特に胸の辺りを熱心に。新しく服を買ってくれた後は、特に熱心だ。
とにかく、温泉へ連れて来てくれたり、服を買ってくれたり。
あまつさえ、怪しい奴に目を付けられていたのにも関わらず、自分を助けてくれた。
あんな人物に追われていると分かれば、普通は警戒するだろう。
そう、たとえば、奴の言っていた〝黄昏の魔女〟。
彼は冒険者をしていた。そしてかなり強い。でもイオンは、黄昏の魔女のことを知っているようには見えなかった。というより、あまり興味がなさそうだった。
彼女のことを、当然のように助けて終わりだった。
「どういうつもり?」
ノーチェはしばらく考えて――ふいに顔を上げてイオンが向かった方を見た。
◇ ◇ ◇
秋も半ばになり、外は涼しい。露天の風呂に張られたお湯と外の涼しさが良い塩梅だ。
「はぁ、落ち着いた……」
人心地がついたイオンが湯に浸かりながら上を向いて一息吐いた。
「今日は色々あったな……」
夜空を見上げながら、イオンが呟いた。
夕刻に見た、輿に担がれた西の高位聖職者らしき
ノーチェを魔女と呼んでいた。奴らとの間で、何かあったのだろうが。
あの
ただ、ノーチェがどのくらい弱みを握られているか。その点だけが気になる。
「本人が言いたがらないものを、無理して聞く必要は、ないんだよな……」
イオンとしてはどうにかしてやりたいが、ノーチェの方が何も言いそうにない。
となると、目下問題になってくるのは――そう考えた所で、イオンが溜息を吐く。
「……まずいな、あれは」
雇う前の「少し美人かな?」が「すごく美人」も大概な誤算だった。
あまりに美人だったので、ノーチェのお仕着せをもう少し良い服にしてあげたくなった。
それがまた、運の尽きだった。
「――体つきが……やばい」
呻くように呟き、顔の半分を湯に沈める。それも、馴染みの店の、悪戯心のせいだ。
奴が、すごく体の線を強調する服を狙って選んでくれたおかげで。とても目に毒だ。
本当に、よく銀貨三枚なんかで売られていたものだと、奴隷商の見る目を疑った。
「……部屋、別々に取れば良かった」
イオンは今さらのように、ぼやいた。
ノルドエストの村でノーチェの様子がおかしかったのが気になり、あまり人目に付かないようにと、彼としては気を使ったつもりで風呂付きの部屋にした。
それも『一緒に暮らしてるから、同じ部屋で良いか。安いし』程度の気軽さだった。
昔から仲間内でいい加減で適当だと言われていたが、その報いが見事に現れた形だ。
「自信ないぞ……さすがに」
夜空を見上げながら大きく息を吐いた……頭がぼんやりする。のぼせてきたようだ。
ほてった体を冷ますため、イオンは湯から上がって湯船の縁に腰を下ろした。
ガラリと、外風呂と洗面とのあいだにある戸を、開ける音が響いた。
岩風呂の縁で涼んでいたイオンが、体に染みついた癖で構えを取る。
外灯が薄暗過ぎるのと、白くけぶった湯煙のせいで、即座に誰だか分からない。
――が、寸秒後、イオンはそこにいるのが誰だか気付く。
「って、ノーチェ!?」
まさかの意外な人物に、イオンが狼狽えた声を上げた。
ノーチェが戸に手をかけ、立っている――しかも、何も身に付けていない。
「……私も入りますね」
ノーチェはそろそろと岩風呂の縁までやって来て、置いてあった桶に手を伸ばした。
彼女の思い掛けない行動に、イオンは完全に虚を突かれた。
イオンは湯船の縁に座ったまま、桶で体に湯を掛けているノーチェを呆然と見ていた。
が、途中ではっと気付いて、慌ててその場から立ち上がろうとした。
桶を持つ手が止まり、ノーチェが顔を上げてイオンの方を向く。
「上がるんですか?」
「いや、まぁ……」
イオンが気まずく返事をするのを見て、ノーチェが俯く。
ノーチェが下を向いたまま、たっぷり数秒間黙りこくって「あの」と口を開いた。
「今、出て行かれると……その……」
途中で言葉が途切れた。ノーチェは頬を染め、胸の辺りを落ち着きなく手で抑えている。
何か、立ち去るには後ろ髪を引かれるような姿だ。
据え膳を喰うつもりはないが、ここで出て行くと、何か居たたまれない。
気持ちを落ち着かせようと大きく息を吐いて、イオンは再びその場に腰を下ろした。
「……あの。どうして目を逸らすんですか?」
ノーチェがお風呂に入ってきた後、何となく隣り合わせで座って湯に浸かっていた。
二人してしばらく黙りこくった末に出てきた会話が、これだった。
「……そりゃ、目に毒だから」
不機嫌そうな、くぐもった声でイオンは呟いた。
湯の表面は白くもやが掛かり、外灯に照らされた水面は光が乱反射して浸っている部分を見え辛くしている。でも見え辛いだけで、ある程度は見える。
「それはそうと……なんで一緒に入ろうなんて思ったの?」
話題を変えるように、イオンが尋ねた。
「確かめたかったから……でも、もういいです。分かりましたから」
「……何が?」
彼女の方を見ないようにしていたイオンが思わず振り向く。
ノーチェはそろそろと湯船を這うように移動して彼の正面まで行くと、小さく呟いた。
「……男の人は、分かり易いですから」
言われた意味が分からないのか、イオンが首を傾げ、暫く考えた。
そして彼女の視線の先にようやく気付いたのか「なっ!?」と喫驚の声を上げてよろめく。
慌てて前屈みになりかけたイオンの懐へ、滑り込むようにノーチェが寄りかかった。
明らかにイオンは動揺しているが、ノーチェは構わず彼の胸元へしなだれかかった。
彼女の柔らかい胸が彼の腹の辺りで押し潰され、滑らかな内腿が彼の膝や腿に触れている。
「これで、どうして何もないのか、分からないわ」
胸元から囁くようにノーチェが尋ね、さらに肢体をイオンに押し付けた。
確実に彼女の太股に触れている。「平気なの?」イオンが焦った様子で尋ねた。
ノーチェは首を横に振って、胸元から潤んだ目でイオンを見上げた。
「むしろこれ……あなたの方が辛くないですか?」
「――……いや!! これ! 直に触れて……いや。落ち着けば、平気!」
イオンがぎこちない笑顔で答え、腰を引いて離れようとする。でも、ノーチェがしっかりしがみついている。長い耳を赤くして、イオンに張り付いたままじっとしている。
イオンの手が所在なさげに彷徨っていた。
しかし、観念したのか、彼女の背に手を回し、抱きかかえ、それから長い吐息を吐いた。
「…………あんな所で雇っておいて、手を出したら、それこそ女買ったみたいだろ」
数秒間、微妙な沈黙をした後、イオンが渋々といったように口を開いた。
「たったそれだけで、我慢してるの?」
「悪いか?」
わずかに離れたノーチェが「いえ……」と呟いてから、首を垂れて後ろを向いた。
「……私をどう扱おうが、あなたの自由ですから」
イオンが酷く驚いた顔をしてノーチェの肩を掴んで自分の方に向ける。
「……何か、思い違いしてない? 俺が――…」
言葉が止まった。イオンがしばらく逡巡して、大きく息を吐く。
「本当に女中が欲しかったんだよ。一人暮らしは生活に追われてキツかったから。雇えて良かったって思ってる。他は……ああもう! もうバレバレで、あー、えっと――」
イオンが気難しい顔をして、何かもごもごと言い淀んでいる。
イオンに抱きついていたノーチェは、彼の様子を見て暫く考える。
顔は赤く、体はしっかり反応している。でも、何か必死に誤魔化そうとしている。
これは、もしかして。遠慮をしているのだろうか?
確か、どこかの本で読んだ。あまり男性は我慢をすると、良くないらしい。
「あの……」
ノーチェは自分の裸体をイオンに押しつけ、胸元から見上げた。
「別に、何かしてもらっても構わない……ですよ?」
これ、俺を誘って……いる?
イオンが生唾を飲み込んだ。彼女をどうにかする気で、雇ったつもりはない。
ただ、彼女が自分からこうやって来て、そんなことを言われると、ぐらつく。
それに、ここで拒否したら、男として情けないような気も——
腕の中のノーチェを僅かに離し、イオンは彼女をじっと見つめた。
抱きしめ直すと同時に、彼女の首筋に唇を這わせた。
「んっ、くぅ……!」
背を仰け反らせ、ノーチェが聞いたこともないような声を上げた。
片方の手で背中を撫でるように指を滑らせると、くすぐったいのか、彼女の腰が浮いて逃れようとする。それを、空いたもう片方の手で抑えつけた。頬に口付けて、長い耳を食むと、小さな悲鳴を上げる。その声に煽られ、イオンが貪るように耳から首筋に唇を這わせた。
掴んでいた腰から、太腿の方に手を滑らせる。イオンの胸に押し潰された彼女の胸に触れようと、一旦、体を離そうとするが——ノーチェが必死にしがみついて、離れない。
あれ? と、イオンは思うが、やはりノーチェは彼にしがみつき、離れない。
しかも、気のせいか、先ほどよりも彼女の体が硬い気がする。
「……大丈夫?」
抱きしめながら、耳元に唇を寄せてイオンが尋ねた。
「だ、大丈夫です……」
ノーチェはそう言うが、明らかに緊張で体が硬い。
「あの、無理しなくていいよ?」
「平気です……がんばりますから……!」
気を使って尋ねたその返答は、悲壮な決意を滲ませたものだった。
頑張ると言われても……。
確かにノーチェは頑張っている。頑張って身構えて、体をがちがちに強張らせていた。
「あー、ノーチェ?」
「な、何でしょうか……?」
「今日は…………止めておこうか?」
イオンはそう言い、張り付いていたノーチェを引き剥がし、湯船の中に座らせた。
湯船の中でへたって座りながら、ノーチェが悲哀さ漂う表情でイオンを見上げている。
「あ……あの……。本当に、がんばりますから……!」
ノーチェが泣きそうな顔をしている。それが何だか居た堪れない。
だがこれは、イオンに身を委ねているように見えない。
「いいよ。無理させたくないというか。無理してまではさすがに」
それに、イオンには少し気になることが出来た。
イオンはへたって座り込んでいるノーチェに近付いて、ぎゅっと抱きしめた。
「長湯し過ぎて、ちょっとのぼせてきたんだ——また今度にしよう?」
そのまま彼女を手放し、勢いで湯船から上がる。
そしてイオンは、そそくさと脱衣所の方へ向かっていった。
◇ ◇ ◇
「はぁ〜。びっくりしたぁ〜」
脱衣所に戻ってきたイオンはぼやいた。
手を出しかけたが止めた。止めて、正解だった。
「——なんなんだ、あの背中の印紋は?」
イオンの表情が険しいものになる。
ノーチェの剥き出しの背中に一瞬見えた、茨の印紋。
薄々イオンは気付いていたが、直接見たのは初めてだ。
蔦が這うように何重にも取り巻いて、魔方陣を形成していた。茨、魔方陣――
あれは確か、封印の紋だ。
「二重……いや、三重に掛けられていた」
一つは罪を犯した司祭などに掛けられるものだ。白魔術を使用不能にする。
もう一つは、読み辛いが多分、黒魔術か何かを封印するためのものだろう。
そして、もう一つはよく分からない。未完遂な上にかなり難解だ。後で精査しないと。
いずれも魔術構築に相当な時間がかかる。罠に嵌められた――そう考えるのが妥当だ。
「それにしても、よく俺の前に晒したな——いや。あれなら見える者が限られているか」
隠蔽の術式も組まれて、見え辛くなっていた。並の魔術師には見ることが出来ない。
「なんにせよ……酷いことをするな」
宙を睨んでイオンが呟いた。
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