第一章 冴えない青年、森の中でエルフと暮らす
第一章・その1 青年の事情・エルフの事情
下生えや良木の成長を妨げる木を、木こりであるイオンは片っ端から切り倒していた。
「これが最後――!」
斧を横薙ぎに木を叩く。しばらくして軋む音が響き、最後の一本が倒れた。
「……ふう。終わり! ちょっと一休みしようか」
汗を拭き、切り株の上にイオンは腰を据える。すぐ側で伐採した木の搬出のために待っていた彼の愛馬のウニコが、返事をするように額の角を振ってフンフン鼻を鳴らした。
切り株に座ったまま空を見上げた。自宅の方から煙が昇っている。
同居人が釜土に火を熾したようだ。夕飯に彼女が何を作ってくれのかと、イオンは期待に胸を膨らませつつ辺りを見回した――伐採した木が何本も倒れている。
「……間引いた木をとっとと集めて、狩りを始めるか」
最近のイオンは仕事をすぐに終わらせ、早く帰りたいと思うようになった。
理由は自分でもよく分かっている。
「よし! 休憩終わりっ!」
三分にも満たない休憩を終わらせたイオンは、勢いよく立ち上がった。
少し前の話だ。
イオンはある事情から、東方地域の北の森林地帯に居を移した。
ある事情といっても、そんな大それた事情ではない。
冒険者をしていたけど、疲れたので隠居した。それだけだ。
それで、暮らし始めたのは良いが――そう、うまくはいかなかった。
「――女中、来ないな」
〝応募なし〟と書かれた帳面を見て、人材派遣仲介屋の店主は言う。
「そりゃ、あそこで生活するのは不便だから、女中が欲しくなるのはわかるがねぇ。そりゃ、通う方にとっても一緒だよ。森の奥で不便だ。しかも男一人。まず若い娘さんは応募しないな。おばちゃんでも無理」
「そうですか……」
「それになぁ、あの森だろう。勤務地を知ったら全員裸足で逃げ出すこと請け合いだぜ?」
「そうですか……」
イオンが住んでいる森は、
冒険者だった自分にとってはどうということはなかったが、万人にそうではないらしい。
「あそこじゃあ、来るわけなかったんだな。ははは……」
森の中で生活を始めて気付いたことだが、とにかく一人暮らしは忙しい。
朝起きて食事を作って洗濯掃除して森の中で仕事をして帰ってきて風呂入って――
「起きている間中、働いていた気がする。いや、間違いなく働いていたな」
予想外に家事の負担が大きかった。休む暇がない。あと、一人はちょっと寂しい。
日々の生活を助けてくれる女中がいれば。そう、イオンは考えるに至った。
だが、女中を募集しても、このとおり誰も応募して来なかった。
「なら、いっそ嫁さん……いやいや」
一人、乾いた笑みを漏らす。一番あり得ない話だ。
そんなわけで、イオンは嫁どころか女中を雇うのさえ、半ば諦めていた。
だが――
「何だ? このおっぱいデカいの欲しいんか?」
「おっぱ……? なんで?」
「え? 買いに来たんだろ? 今なら銀貨三枚! 特売価格だぜ?」
ふと訪れたメディウムの街の、その一角。
〝どんな曰く付きの人材派遣でも引き受ける〟という斡旋所の前。
窓から見えたみすぼらしい格好の女が、イオンはどうしても気になった。
話をしてみれば人材派遣斡旋なんて大嘘の、人身売買業者だったが、それはさておき。
そこで見つけた、エルフのノーチェ。
つい買って――いや、雇ってしまったのだった。
ようやく仕事を終えたイオンは、伐採後の木の集積を手伝ってくれた愛馬のウニコを森の中に放し、捕まえた魔兎の耳を意気揚々とぶら下げ、自宅までの道のりを歩いていた。
「普通はぶつからんだろう……普通は」
目の前で魔兎をぶらぶらさせ呟く。こいつは間伐後の切り株へ勝手に激突して自滅した。
阿呆な兎もいたものだ。狩をするつもりだったが、手間が省けた。
「皮を剥いで肉を……ん?」
後ろから何かの気配がし、イオンが兎を持ったまま、その場を飛び退く。
「ガーーー!」
巨大な獣が現れ、咆哮と共に彼の背を狙って、鉤爪が振り下ろされる――が、空振りする。
次の瞬間、獣の脳天にイオンの踵落としが極まり……でーん!
大きな音を立てて獣がその場に伏した。
イオンは自分が落とした獲物をじっくり見る。魔熊が、目の前で伸びている。
「なんだ、お前か……あ、違う。新入りか」
ここらで見かけない奴だ。そもそも彼を襲おうとした時点でよそから来た奴だと思い至る。
「
やれやれと溜息混じりに、イオンは伸びた魔熊の脇腹をコツンと蹴飛ばした。
目を覚ました魔熊がしばらく呆け、彼の存在に気付き、ビクッと震える。
魔熊は脱兎の如く、全速力でその場を逃げ出すのをのんびり見送って。
そこで「しまった!」と何かを思い出して、熊の走り去った方を見た。
「そういや、魔熊の胆、高値で売れたんだった」
と、ぼやいてから「ま、いいか」と呟いた。全力で逃げる魔熊の尻を見ながら。
魔熊は希少部位以外、不人気だ。人を襲わない限り、無理して狩る必要もない。
「そんなことよりも……」
早く家に帰って、ノーチェの顔を見てみたい。
◇ ◇ ◇
一方、ノーチェは流し台の上に並べた野草を前に「うーん」と唸る。
「――多分、これでいいと思うけど」
主人のイオンは狩をすると言って、弓矢を持っていった。
なので今、ノーチェは釜土でお湯を沸かしている。
「間伐は時間が掛かるから、狩をするなら小さい獲物狙いよね……」
何を捕ってくるのか分からないが、恐らく山鳥か兎あたりだろう。
「もしかしたら鹿かも? でも、熊とかだと、ちょっと困る……」
この
むしろ、
「ただいま帰りましたぁ……」
「お帰りなさい」
思案するうちに、彼女の主人、イオンが帰ってきた。
彼の手には魔兎がぶら下がっていた――良かった。熊じゃなかった。
「あ、お湯を沸かしてもらえたんだ……ありがとうございます」
ペコリ、とイオンは頭を下げた。
狩った後の獲物を捌き、肉や毛皮を扱うのにはお湯を使う。
いつもイオンが自分で湧かしていたのを、今日はノーチェが沸かした。夕飯のついでだ。
「じゃあこれ、すぐに毛皮を取って枝肉にするから」
イオンは彼女の目の前に兎を見せた。ずいぶん立派な魔兎だ。
でも、ちょっとおかしい。ノーチェは首を傾げる。
矢傷がない。イオンは今日、弓矢を持って行っていた。なのに。
魔法を使った形跡もない。さりとて刃物の切り傷も見えない。
では、何で仕留めたのか?
――そういえばこの魔兎、どうして頭に大きなコブを?
その理由を知っている当人はというと、早く枝肉に変えたいのか、作業小屋の方へとそそくさと向かっていった。そんな彼の後ろ姿を見つめながら、ノーチェは呟いた。
「やっぱり殴って仕留めたのかしら?」
狩ってきた兎はノーチェによって香草を詰め込まれ、丸焼きにして夕飯に出した。
「うわ……良い匂い。旨そう!」
焼きたての肉と香草の香りが漂う。食欲をそそり、居ても立ってもいられない。
「でもこれ、ニンニクとネギ? 俺のためにわざわざ入れてくれたのかな?」
イオンの予想は近いが、少し違う。
「
「え? そっちなの?」
ノーチェが「ええ」と答えた。森に自生していたのだ。
香草は臭みを消し、肉のうま味を引き立ててくれる。特にこういう葱の仲間は肉に合う。
だが、イオンは目の前のウサギの丸焼きを前に「うーん」と考え込んでいる。
「どうか、しました?」
「いや……確かエルフって、ニンニクやネギが苦手だったんじゃ、なかったかな?」
「ああ……それ、それですね。エルフは別にネギ類が苦手ではないんですよ。どちらかと言うと食べて品位を損ねたくないんです。特に、ハイエルフは」
「ハイエルフ? 品位?」
「見栄っ張り……いえ、高潔でいらっしゃいますから。口臭や体臭で匂わせたくないんだそうですよ。私は、そうは思いませんけれど」
本当の意味でネギ類を食べられないのは魔族の
だがエルフでも、ハイエルフだけがネギ類を避けるのは、そういうしょうもない理由だ。
「へえ。ハイエルフは見栄っ張り、か」
イオンが感心したように呟いてから、不意にノーチェの方を見た。
「もしかして、ノーチェはハイエルフの血統……かな?」
気になったのか、イオンが尋ねてきた。聞き方が、慎重そうだった。
ノーチェとしては、言いたくないことは黙秘するので、そんなに問題ない。
「――そうですね。
ノーチェは無表情で答えた。嘘は言っていない。
ハイエルフどもは見栄っ張りなのは確かだ。
彼女が生まれ育った
ただ、ノーチェには言わなかったことがある。
ノーチェが住んでいたのは『
何せ、ノーチェはハイエルフと他種族との混血――ハーフエルフだ。
そして、彼女はハイエルフが関わってはいけない種族との間に生まれた
ハイエルフたちが嫌いで嫌いで仕方がない種族との
『そうしてあなたは生まれたの。いがみ合う者同士が結ばれる。素晴らしいでしょ?』
ノーチェは母が自分の過去話に完全に酔っ払いながら語っていたのを思い出す。
母は自分の状況を良い方にしか理解していない。幼いながらもノーチェは思った。
ハイエルフは排他的だ。彼らはノーチェのような混血の者を、穢れた血と厭う。
その高慢さを、彼らは高潔と言うらしい。無自覚も甚だしい。
お陰様でノーチェの扱いはというと『推して知るべし』の状態だった。
結局、父母は自分たちの大恋愛に酔っ払い――その後、別れた。
『やっぱりあの女は駄目だ』
父はそんな風に、かつての妻の愚痴を娘のノーチェにこぼしていた。
娘に愚痴をこぼす父というのも情けない。
そして、これがまた――
「ノーチェ?」
突然、声を掛けられた。イオンが眉を寄せて見ている。
「あ……。ごめんなさい。少し、ぼうっとしていて」
いけない、とノーチェは自分を戒める。どうもハイエルフ絡みは、ろくな思い出がない。
「何か、聞いちゃいけないことを聞いたかな」
イオンが気遣わしげに尋ねた。どうやら彼女がハイエルフの話をするときに、彼らに対して辛辣だった理由に思い当たったらしい。その視線は、金髪に混じった銀色に向いていた。
「何もないですよ?」
ノーチェは作り笑顔で答えたが、イオンはまだ心配そうな顔をしている。
この人は雇い主なのに、いつもノーチェを気に掛けている。
銀貨三枚の特売価格だった自分に気を使うなんて、変な人だ。
――でも、あそこには絶対に帰りたくないわね。
イオンから顔を逸らし、ノーチェが心の中でそっと呟く。
ノーチェも昔はエルフらしく相当な魔法を使えたが、今は無力だ。
でなければ、奴隷商に捕まったりしない。確かに南方地帯(ユーク)にある郷に帰れば安全だろうが、魔力を失ったと知ったら、どんな扱いをしてくるか分かったものではない。
奴らハイエルフの、見栄え良さとは裏腹で性格が悪いのは、よく知っている。
高潔は高慢。孤高は排他的。自分たちこそ一番! そんな尊大な種族がハイエルフだ。
――気が付くと、イオンが彼女の方をじ〜っと見ていた。
ノーチェは慌てて「早く食べましょう」と笑って誤魔化した。
◇ ◇ ◇
夕飯の後、イオンは一人食卓でくつろいでいた。
ノーチェは、今、井戸端で食後の皿を洗っている。それをイオンは窓から眺める。
彼女は
全て、ここに来る前にイオンが古着屋で買い与えたものだ。
「やっぱり古着はないよな……」
彼女の姿を見て、イオンが溜息を漏らす。
何度も洗濯を繰り返され、着古したせいか、よれているし、色褪せている。
最初、彼女はボロ着だったので、まず服を新調した。でも、普段着で仕事着なんだから。
そう思って、古着屋で適当に見繕ったことを、今さらだがイオンは後悔している。
「……美人だよな、やっぱり」
彼にとっての大誤算――それは、ノーチェが〝とんでもなく美人〟ということだ。
最初に見た時は、やつれて髪も傷んでいたので『少し美人』程度にしか見えなかった。
それがこの家に連れ帰ってしばらく経ってから、とんでもない美人だと判明した。
「俺、なんであんな美人にヨレヨレの服、買っちゃったんだろうなぁ」
奴隷のボロ服に比べたら全然ましだが、それでも他にもっとあっただろうと。
色褪せてよれた服を着て、皿を洗っているノーチェの姿を見ていると、物悲しくなる。
「何か新しい服……あーいや。それだと贈り
相手は元奴隷。手籠めにされるのか解体されるのか、と言われたのは忘れられない。
軽々しく贈り物などしたら、なんと思われるか。
自然に渡す方法はないかと考えるが、そっちは苦手だ。
イオンが苦く溜息して頭を掻く——それが出来るならとっくに嫁がいる。
「嫁……」
思い出してはいけない単語だった。
「いや。そっちはいい、そっちは。今は美味しいご飯作ってくれる女中(メイド)がいる!」
ノーチェの飯は旨い。雑でいい加減なイオンの料理に比べたら、何倍も良い。
今日の彼女は
イオンが摘もうとしたら猛毒の
自生の山菜を見分けて摘むノーチェの目利きには目を見張る。
既に諦め『塩と胡椒でいいや』になっていた彼にとって、飯が旨いのは嬉しい。
の、だが。
「それにしてもノーチェ。ハイエルフの出身なのに、ハイエルフが好きじゃない、か」
隠していたつもりかもしれないが、態度にはありありと出ていた。
あまり大事にされていなかったのだろう。排他的なハイエルフならありえる。
ハイエルフは自分たち以外は全部、劣っているものだと信じて疑わない。
「あの血筋だと、あいつらはそういう扱いをしてくるかもな」
イオンは彼女が混血のエルフであることも、そこに混じった血筋も本当は気付いている。
奴らなら、彼女のあの血筋を忌んで避けても驚かない。
「俺も嫌いだな、ハイエルフは。偉そうだし。それにこの程度、避けるほどじゃないだろ……でも。本人が言いたがらないしなぁ、そっとしとく方が、吉だよな」
誰にだって言いたくないことはある。イオンにだってある。
しかしそんなことよりも、だ。イオンにとっての最大の問題は。
「美人だからな……うん。美人なんだよなぁ……。美人だしなぁ……」
「――お茶を、淹れました」
突然、声を掛けられて、イオンは飛び上がりそうになるも、辛うじて踏み留まる。
ノーチェがお茶を入れた
気配を消して近寄ってきたのか?
いや、違う。イオンがボケっとしていただけだ。
「えーあー、ありがとう……ございます」
イオンが慌てながら礼を言う――明らかに挙動不審だ。
「もっと普通で大丈夫ですよ? 敬語なんて使わなくても。雇い主なんですから」
「いや、え、あの……俺の方が年下ですから、だし……」
敬語と普通が混じって、おかしい言い回しだ。挙動不審がより深刻化している。
しかも、言ってしまってからイオンは気付く。しまった、これはよくない話の流れだ。
「それは、そうですね。私はエルフですから」
捨て鉢のようにも聞こえる言葉が返ってきて、イオンが心中で狼狽える。
「いやあ、ノーチェさんは若く見えるから、年上って全然分からない。あ、俺は二十五です」
いや駄目だろ、その話の流れ。
自分の挙動不審を誤魔化つもりが、もっとも進んではいけない方向に転がっていた。
最初に出会った時の『大分年上よ?』というのが気になっていたからかもしれない。
「……」
「……」
イオンが黙っていたのはこれ以上口を滑らせないためだった。
ノーチェが黙っていたのは——何か、迷っている。
まずい。すごく、まずい。
もしかしたら自分の無言を「あなたはおいくつですか?」という質問に取られた可能性が。
しばらくの間、二人は黙っている。しかし、ややあって、ノーチェが口を開いた。
「……ゃ……二十八……」
蚊の鳴くような声だった。
イオンが「ああ。俺より三つ年上かぁ……」とほっとした声を上げる。
大分年上という言葉から想像していたよりは、ずっと若くて安堵する。
良かった。これでびっくりするくらい年上だったら取り返しが――
だがしかし。ノーチェはそんな彼を、明らかに機嫌の悪い表情で睨んだ。
「あ……え? どうした、の、かな……です、か?」
つっかえながら、やっとのことでイオンが口にした言葉に、返ってきた答えは。
「百二十八、です」
いっそ厳かに響くその声に「え?」とイオンが間の抜けた声を出した。
「だから、ひゃくにじゅうはち ですよ……」
「ご、ごめんなさい……」
長い耳を先まで真っ赤にし、これ以上は何も聞くな、という様子で、ノーチェは念を押す。
その声に圧倒されたイオンは、即座に詫びた。
少し考えれば分かる話だった。
彼女は一応エルフ。長命種だ。定命種の自分と近い歳に見えるのは『見えるだけ』だ。
今まで会ってきたどんな女より美人でも、そこは別の種族の女性だ。
色々な意味で彼女は妙齢で、本人はそれをかなり気にしていた。
なのに、もののはずみで尋ねてしまった迂闊さに、イオンは頭を抱える。
その後しばらく二人の間に微妙な空気が漂い、まともな会話が出来なかった。
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