第9話 準備、オッケー の巻

 12月24日。世間一般ではクリスマスイブだが、小学生にとっては同時に二学期の終業式でもある。式は午前中で終わり、ヒロキたちは早々に家路につく。頭上には眩しい太陽が紫外線をたっぷり振りまきながら輝いているが、気温は一桁。いつも薄着の男子たちにとってはなかなか厳しい寒さである。


「ただいまあ」


 ギギ、と音を立てて玄関の重い扉を開き、ヒロキは普段と変わらぬ声がけをした。いつもなら誰の返事も返ってこないところだが、今日は違っていた。


「おかえり」


 母の仕事は、毎年12月24日が休みだった。会社の福利厚生にクリスマス休暇があるのだ。


「ちょっと遊びに行ってくるわ~」


 帰宅するなり自室にランドセルを置いて出ていこうとするヒロキを、母が「ちょっと待ち」と呼び止めた。親の勘というのはすごいもので、待ちに待った冬休みが始まったにも関わらず、ヒロキが「普段通り」のテンションであることにわずかな違和感を覚えたのである。


「……なに?」


「アレ、もろたやろ。見せて」


「アレ?」


 ヒロキは分かっていてとぼけた。それを見せたくないからこそ、平静を装ってサッサと家を出ていこうとしたのだ。


「アレ。通知表」


 具体名を出されては、もう逃れるすべはない。観念して、ランドセルの中から死の宣告書を取り出した。


「……………………」


 無表情のまま、母がそのグロテスクな内容にじっくりと目を通している。何が書かれているのかを知っているだけに、ヒロキはその時間がとても長く感じられた。


「成績、下がったんやね」


「……うん」


 この場合、適切な返事は「うん」ではないのだが、代わる言葉を持っていなかったので「うん」としか言えなかった。


「それで、この先生からのひとことは何? 『最近、授業中に居眠りをしていることが多いようです』」


「……………………」


 まさか、夜中にこっそり布団に隠れてゲームをしていて寝不足が続いている、などと言えるはずはなかった。


「三学期は、もうちょっと頑張らなあかんで」


「うん……」


「それから、ゲームのことやけど。これから冬休みで友達と遊ぶやろうし、そろそろ返してあげようと」


「やった!」


「……思とったけど、この成績では、そういうわけにはいかへんわ」


「そんなん!」


 あの通知表をもらった時点で予測できた最悪の事態が訪れた。


「自分でもわかってるやろ?」


「…………………」


 自覚はある。だから言い返せない。けれど納得もできない。返す言葉を持たないヒロキは、喉の奥に感情を溜め込んだまま、下唇を噛んで子供部屋に走った。そして、あてつけるように大きな音を立てて扉を閉めた。


 その日の夜。


 ヒロキは布団にくるまって思った。もし、お父さんやったら、絶対に自分の気持ちを分かってくれるはずやのに……と。


※ ※ ※


 ブロロンとエンジン音を響かせ、朝刊を届け終えたバイクが走り去ると、聞こえてくるのはまたスズメの鳴く声だけになった。朝の静寂を壊さないように、ヒロキは慎重に身支度を整えていた。背負ったリュックにはゲームボーイアドバンスとファイアレッド、それから「百万円貯まる」はずだった貯金箱から取り出した、ありったけのお小遣い。そして昨日、母が寝静まった後に化粧箪笥からこっそりと取り出した、ニンテンドー3DSとポケモンYが詰め込まれていた。


(準備、オッケー)


 母を起こさぬよう、静かに部屋を横断する。台所の床……一歩踏む度にミシリと鳴る音が、いつもよりもずっと大きく聞こえた。立て付けの悪い、重い玄関ドアをゆっくり、ゆっくりと開く。


 外はまだ薄暗い。しかし、鎖から解き放たれたヒロキの心は明るく希望に満ちていた。


 12月25日、午前5時。ヒロキの、父を探す冒険の旅が始まった。


※ ※ ※


 冷たい朝の風が頬に当たってチクチクする。陽が昇り始めるにつれ、少しずつ景色が青みがかっていく。薄いモヤに包まれたいつものご近所は、どこか幻想的に見えた。


「えっと、まずは駅まで……」


 ジャンパーのポケットから一通の手紙を取り出した。離婚後に父から送られてきたものだ。そこに書かれている父の現住所……大阪市浪速区が旅の目的地である。ヒロキ邸からは、まず最寄り駅から梅田へ向かい、そこから地下鉄に乗り換えてミナミへ出るのが最短ルート。そう書くといかにも簡単そうだが、まだ一人で電車に乗ったこともないヒロキにとっては、すべての道程が未知の世界だった。


「あれ……こっちじゃなかったっけ……」


 曲がり角の先に、想像していたものとは違う風景が広がる。初めて通る道ではないはずだ。しかし、普段は何も考えず母の後をついて歩いていたから、その道順の記憶は正確ではなかった。今、迷子になっても誰に頼ることもできない。その現実が余計に不安を駆り立てる。幾度か行き止まりにぶつかり、その度に後戻りをする。予定よりもかなり遅れて、ようやく見知った駅舎が見えた時、ヒロキは心底ホッとした。


 通勤ラッシュにはまだ早い時間とあって、改札口から覗き込んだ駅構内に見える人影はまばらだった。


「切符……買ったらええねんな」


 自動販売機の前に立ったはいいが、ボタンがたくさんありすぎてすぐには理解できなかった。そこで、誰かお手本を見せてくれないかと考え、いったん少し離れたところから観察することにした。


「………………」


 5分ほど待ってみたが、まだ乗客数が少ない時間とあって、なかなか人がやってこない。たまに来たところで、切符を買わずにICカードで改札口を通過してしまう。それでも根気よく待っていると。


「君、どないしたんや?」


 低い声に振り向くと、制服姿の駅員が立っていた。ヒロキは心臓が飛び出るかと思ったが、必死にそれを抑え込んだ。


「あの、う……梅田へ……」


「梅田? ああ、切符の買い方わからへんのか。上見てみ、路線図が書いてあるやろ」


 見上げても、ヒロキの身長ではよく見えない。数歩下がって、やっと販売機の上に貼り出された路線図に気が付いた。


「ここから梅田までやったらな……」


 駅員は、宙で進路を指でなぞりながら、小学生にも分かるように丁寧に説明してくれた。一方のヒロキは、家出してきたことを悟られまいと、ただ大人しくすることだけに意識を集中していた。


「お金は? 持ってる?」


「……あっ、ハイ」


 リュックを前に持ってきて、前面のチャックを開いて迷彩柄の財布を取り出す。大金こそ入っていないものの、細かい小銭でパンパンに膨らんでいた。


「ほな、お金ここへ入れて。ほんでこのボタン押して。あとは出てきた切符を改札に通したらええから」


「あ、ありがとうございます」


「ほな、気ぃつけてな」


「はい」


 自動改札を抜け、エスカレーターを駆け上がったヒロキは、ホームに出るや「ふうう」と大きく息を吐いた。どうにか第一関門突破である。そしてタイミングよくやってきた電車に乗り込み、誰もいない座席に腰掛けた。


-つづく-

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