第4話

 賢人の家から少し歩いた先に、同じような戸建てが並んでいる区間があった。一階の玄関横がピロティになっていて、雨よけのシートが被せられた車が止まっている。小洒落た郵便受けの上には、ステンレスの表札があり『松本』と書かれていた。ここが梨咲の家らしい。立派な家だが新築という見た目ではなかった。

 

「さぁ、入って。傘はそこに傘立てがあるから」

 

 玄関に入ると、正面は階段になっていた。そこを上がっていくと「おかえり」と声が聞こえてきた。「ただいま」と平坦な声で返した梨咲から察するに母親だろうか。キッチンから顔を出した女性が、こちらを見て少し驚く。

 

「あら、お友達?」

 

「急にごめんな。ばったり、大学の友達に会って」

 

「ええよ、ええよ。梨咲がお友達連れてくるなんて久々」

 

「そう? まぁ高校に入ってからは、みんな家が遠いし呼ぶ機会もなかったか。ってそんなことええねんって。お祖父ちゃんとこの珈琲あったやんな」

 

「美味しいお茶菓子も用意せんと」

 

 梨咲が友人を連れて来るのが余程嬉しいのか、梨咲の母は鼻歌まじりにキッチンの上の棚を物色し始めた。梨咲は上機嫌な母に、やれやれと言いたげに小さく息を吐く。「私の部屋は上やから」と、階段をさらに上って行った。梨咲と母のやり取りを見て、微笑ましくなったのか、碧がのんきな声を出す。

 

「家でも本格的な珈琲が飲めるってええなぁ」

 

「やっぱり、お祖父ちゃんが淹れた方が美味しんやけどな。それでも、インスタント珈琲よりかは断然美味しいと思うで」

 

 梨咲が自室のドアノブに手をかけたタイミングで、下からほんわりと珈琲の香りが漂って来た。碧に連れられて行った、あの喫茶店を沙耶香は思い出す。

 

 あの時も、行く決断を碧にさせた。どこまでも自分は卑怯だ。傷つこうと覚悟を決めていたはずなのに、どこかで寸前のところでうまく逃げようとしているのだ。

 

 梨咲の部屋の扉が開いた。落ち着いた部屋の雰囲気を想像していたが、アクセントにうまくピンクが使われている意外とガーリーな部屋だ。「ソファーにどうぞ」と促され、沙耶香と碧は腰を降ろした。ふと沙耶香の視線は、デスクの上に並んだ写真を捉える。梨咲を含めた学生服の数人が楽しそうに寄り添っていた。化粧も何もしていない少々幼い梨咲の姿の横に、懐かしい面影を残したまま沙耶香の記憶より少しだけ大人っぽくなった男の子が笑っていた。

 

「思ったより女の子っぽいな」

 

「碧、それって私にどういうイメージなん?」

 

「ごめん、ごめん。もっと大人っぽい感じを想像してたから」

 

「あー、たまに言われるかも。でも純粋に昔のまんまなだけやねんなぁ。模様替えも楽ちゃうやろ? 家具買うのにお金も掛かるし」

 

「でも、梨咲ってバイトしてるって」

 

「バイト代を全部、家具に替えるわけにはいかんやろ?」

 

「へぇー松本さんって、何のバイトしてるの?」

 

 沙耶香は、そう言って視界の中に入っていた写真から梨咲に視線を移した。

 

「京橋の朝までやってる居酒屋。夜勤屋から大変やけど」

 

「あ、結局、居酒屋やったんや」

 

「碧、まだ変なバイトやと疑ってたん?」

 

「いや、そういうわけちゃうけど」

 

 気まずそうな碧の反応を見て、沙耶香はピンと来た。

 

「あーそれでバイト探す時あんな反応してたのか」

 

「いやだからちゃうって」

 

「えーなになに? 碧、そういうのに興味津々?」

 

「やから、ちゃうって!」

 

 いつもよりからかう相手が倍になり対応に苦戦したのか、碧は聴こえないように両手で耳を塞いだ。

 

「夜勤は大変じゃない? 繁華街やと時給はいいだろうけど」

 

「まぁね。でも、大学卒業したら一人暮らししたいからお金貯めときたいんよ」

 

「へぇー、ちゃんと考えてるんだね」

 

「……うん。ちゃんと生きないと賢人に顔向け出来んから」

 

 梨咲がそう言ってタイミングで、部屋の扉が開いた。梨咲の母が、珈琲と茶菓子を運んできた。 

 

「ゆっくりしていってね」

 

「ほら、もうええから」

 

「もう、久しぶりに来た梨咲のお友達なんだから」

 

「私がすごく寂しい子みたいな言い方やめてくれる?」

 

 あっ、と大袈裟に梨咲の母は口を押さえた。梨咲と性格は随分違う。小柄な体躯に似合った動きはなんとも可愛らしいものだった。

 

「いや、友達はちゃんとおったから。ほら、お母さんはキッチンに戻って」

 

 梨咲の言葉の前半は半分こちらへの弁明だろうか。はいはい、と娘とのコミュニケーションを楽しみながら、梨咲の母は部屋から出ていった。子どもっぽい梨咲を眺めながら、碧はやたらとニタニタしていた。

 

「梨咲、お母さんと仲いいんだね」

 

「そうかな、普通ちゃう? 碧は仲悪いの?」

 

「うーん。普通ちゃうかな」

 

 碧の反応が可笑しかったのか、梨咲はくすくすと笑う。片頬を膨らませた碧は、テーブルにおかれたクッキーを頬張った。

 

 母親が来る直前、梨咲がみせた憂いの表情に、沙耶香は賢人の母からの手紙を思い出した。あの手紙に書かれていた事故のことを、梨咲なら詳しく知っているのかもしれない。

 

「松本さん。賢人くんのこと訊いてもいい?」

 

 聴かずにはいれなかった。梨咲は、その場で居直る。小さく息を吐いて、じっと碧の目を見つめた。

 

「碧、賢人くんは、事故で亡くなったんよ」

 

 碧も梨咲の目を見つめ返した。真っ直ぐで綺麗な双眸は、今まで見たどんな碧よりも美しかった。小さく息を吸い込んで、梨咲が言葉を続ける。

 

「五年前、中学二年生の九月にあった事故の話。私はそん時、賢人と一緒におった」

 

「事故を松本さんも見てたってこと?」

 

「うーん、どうなんだろう。たぶん、一番近くにはおったはず。やけど……、ううん。順をおって話すわ」

 

 洟をすすった梨咲の目に涙が浮かんでいた。だけど、沙耶香はその涙の理由をなんとなく察した。きっと梨咲の心の中には、あの写真で微笑む賢人がまだ生きているのだ。

 

「その日はたまたま部活が休みやってん。あの頃、賢人はサッカー部で、私はそこでマネージャーをしてた。優しくてかっこよかったから女の子からも人気があったよ。私もそのうちの一人やった。賢人のそばにいたくてマネージャーになったから」

 

「梨咲が賢人くんを好きだったっていうのは少しだけ嬉しいな。私の知ってる賢人くんは変わってなかったんやって思えるから」

 

 碧は、体育座りをして自分の腿を抱え込み、優しく崩れた頬を膝の上に転がした。碧の言う通り、きっと賢人は変わっていなかったのだ。沙耶香たちの知る優しいままの彼がこの街に暮らしていた。梨咲は、嬉しそうに口端を少し緩まる。それから真面目な顔つきになって、慎重に言葉を続けた。

 

「私ともうひとりマネージャーの女の子、それから賢人くん含めた部の男の子三人と仲が良くて、帰る方角も一緒やったからいっつも一緒に帰ってた。その日は、ホンマは良くないんやけど、みんなでボールを蹴りながら帰っててん。道幅も広い路地で車通りも多いほうじゃないから、危なくないやろって。やけど、私が蹴ったボールが明後日の方向に飛んでいって、ぼーっとしてた私は慌ててボールを追いかけた。次の瞬間やった。クラクションが響いて、流れてく景色がスローモーションになった。振り返ると、トラックのタイヤが目の前にあって、「あ」って思った時には、身体が弾き飛ばされてた。何が起こったんかよう分からんかった。世界から音が消えたみたいに静かになって、気づいたら辺りも真っ暗やった。どれくらい経ってからか分からんけど、しばらくてようやくそこがトラックの下やって気づいた。次第にざわざわと騒いでるみんなの声が聴こえてきて、みんな私を心配しているもんやと思ってん。やから、大丈夫やで。私は無事やから! そう言おうとした時に、道に倒れ込んでる賢人の姿が見えた。驚いて、這いずり出てみたら、みんなが賢人に群がって行って。アスファルトには真っ赤な血が流れてて、トラックの運転手の人が慌てた様子で電話をかけてた」

 

 梨咲の話す状況があまりにも鮮明で、沙耶香と碧は何も言えなかった。同情も情けも共感もこの場では何の意味も持たない。沙耶香は、必死に溢れそうになる涙をこらえるのが精一杯だった。

 

「賢人が私の身体を突き飛ばして庇ってくれたって知ったのは、病院で賢人の治療を待っている間、事故の一瞬を見ていた友達から聞かされて。……ボールなんて蹴って帰らなければ……私が飛び出さなければ……そうやって自分を責めている間に、気がつくと治療は終わってた。泣き崩れた賢人のお母さんが、私達に教えてくれた。賢人が死んじゃったって。あとから聞いた話やけど、私、かなり乱れてたらしい。何度も謝りながら、泣きじゃくって。もうええよ、って賢人のお母さんが止めても、ごめんさない、ごめんさない、って。だって私が悪いんやもん。賢人を殺したのは私や」

 

 部屋の中に漂う珈琲の香りが、口の中をほろ苦さで満たした。かけるべき言葉を自分の中に探してはみるが、空虚だけが支配する心は動揺を表に出さないように務めることしか出来なかった。隣に座る碧を見る余裕もないまま、沙耶香は自分の頬から涙がこぼれていることにようやく気がついた。

 

「梨咲はまだ後悔してんの?」

 

 滲んだ部屋に、優しい碧の声が響いた。ぼんやりとした視界を嫌い、沙耶香が強く瞬きすれば、涙がこぼれ鮮明になる。梨咲がはっきりと首を横に振っているのが分かった。

 

「ずっと自分のことを責めて塞ぎ込んでた。部活もやめて、友達とも疎遠になっていって。出来るだけ賢人を感じるものと触れたくなかってん。やけど、それじゃあかんって気がついた。ずっと同じ場所で立ち止まって蹲って。時間がしばらく経って、せっかく賢人に助けてもらった命やのに、死んだ賢人に申し訳ないって思えるようになっていった。それからようやく賢人の仏壇にも手を合わせにいけたし、お墓にも行けるようになった。お葬式以来、何年かぶりに会った賢人のお母さんに言われてん。『賢人に救われた命を大切にしてほしい。そうして見せて欲しい。賢人が救ったのはこんなに素敵な命だったんだよって。すぐには前に進めなくてもいい。結果として、その場で足踏みをしてるだけの状態だっていい。立ち上がって前に進もうとしてほしい。蹲って悲しんでいるより、賢人は何倍も喜ぶはずだから』って」

 

 沙耶香は気がついた。梨咲はずっと前から賢人と向きあっていることに。それに比べて、自分達は未だに過去に縛り付けられている。重たい何かを背負ったフリをして、事故の通知を受けたあの日から同じ場所で蹲っているのだ。痛みに涙を流すばかりで、前に進むことなんてしていなかった。現状は、その代償でしかない。

 

「梨咲は偉いね。ちゃんと前を向けて」

 

 碧の視線が動かないのは、目に溜め込んだ涙がこぼれないようにする為に違いない。自身の弱さを露呈するように吐かれた言葉とは裏腹に、潤んだ双眸すら碧の表情の凛とした美しさの彩りに加担していた。

 

「碧の方が強いんちゃう? 賢人のことを聞いても平静で毅然なまま。それとも、あまりにも驚いてリアクションが取れんって感じ?」

 

 碧はかぶりを振り、無言で反論した。取り澄ました表情の梨咲は、視線をこちらにゆっくりと移した。その瞳に写った自分の姿は、なんとも間の抜けた表情をしていた。梨咲に追求されることに怯えている仔猫のようだ。ゆっくりと動く梨咲の口元が、沙耶香の鼓動を早める。

 

「どっちかと言えば、林さんの方が動揺してる」

 

 見透かされているような目から逃れる方法を知らず、沙耶香は目を伏せた。それが彼女に真実を告げていると気づいたのは、「ほら」と笑み混じり言葉が返って来たからだ。うちに秘めた思いが梨咲にバレて、開き直ったように逃げるのが億劫になった。こちらを見つめているはずの梨咲の双眸には、沙耶香の気持ちが綺麗に反射しているはず。それでも恥ずかしげもなく顔を上げて、沙耶香は梨咲に尋ねた。

 

「松本さんは、賢人くんのお母さんが引っ越し先を知ってるの?」

 

「うん。私も行けたのは一昨年のことなんやけど。林さんが知りたいなら教えるで」

 

 誰かに気持ちが知れ渡るというのは、毒などでなく薬だろう。しょうもない保身が消えてしまった。逃げる意味など、もはやないのだ。

 

 沙耶香はようやく碧のことを見た。

 

「碧はどうするの?」

 

「私は、賢人くんに会いたい。伝えられなかった思いを含めて、色んなことを話さなあかん気がするから。沙耶香も来てくれるやんな?」

 

 戸惑いはなく沙耶香は頷いた。碧にすべてを告げる。それは決意の表れだった。

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