第5話

 傘が手放せなくなった季節に、構内を行く生徒たちはどこか憂鬱な表情を浮かべている気がする。どんよりと曇った空は今にも泣き出してしまいそうで、雨粒の筋で汚れた校舎の窓を沙耶香は手のひらで撫でた。

 

 終業のチャイムが響く寸前に、教室内からざわざわとざわめきが聴こえてきた。碧なら前の席に座っていることだろう、と入り口の前で待っていれば、何人かの生徒に続いて碧が出てきた。

 

「今日は沙耶香の方が早かったんやな」

 

 廊下で待っていた沙耶香に向かって碧は笑顔を作ってみせた。清々しい笑みを浮かべられるは、今日、賢人の家に行くからだろうか。何年も抱えていた思いがようやく消化されるのだ。いや、いつまで忘れることなんて出来ずに、抱え続けなくてはいけないことかもしれない。それでも、沙耶香の気持ちは碧と同じだった。

 

「松本さんとの約束の時間はまだ少しあるよね?」

 

「うん。三時に正門の前やから、まだ一時間くらいあるで。どうする?」

 

「ちょっと、碧に話さなきゃいけないことがあるから、どこか話せるとこに行こう」

 

「うん。分かった」

 

 梨咲が賢人の家に行くアポを取ってくれ、確認の連絡が来たのは、彼女の家に行ったその日の夜のことだった。すぐにでも来てくれて構わない、と賢人の母が言ってくれたらしく、向こうの都合がいい今日の夕方に約束をした。

 

 バイトや講義で忙しく、碧と話すタイミングが取れずにいたが、ギリギリになってようやく十分な時間を確保出来た。賢人の家に行く前に、伝えておかなくてはいけないことがある。碧に向けていた悪意の数々。鋭く尖った刃を碧の首元に突きつけながら、刀を引くこともなく、向こうが動いて自傷することを待っていた弱い自分をさらけ出さなくてはいけない。

 

 どちらともなく歩きはじめて、中庭のベンチに腰掛けた。次の講義も始まり、天候も相まってか、人通りは少ない。ざわざわと風が木々を揺らした。水分をたくさん含んだひんやりとした空気が、校舎の隙間をぬって足元を駆け抜けていく。神妙な二人の空気に夏すらも気配を隠したようだった。

 

「話ってなに?」

 

 細い足をベンチから投げ出して碧が呟く。くるぶしの辺りでぐちゃっとシワを寄せたソックスが、華奢な足首を締め付けていた。

 

「碧は本当にいい子だよね」

 

「どうかな? そりゃ怒られないようにはうまくやってるんかもしれんけど」

 

「うん。碧はいい子だよ。それに比べて私は……」

 

 つまらせた言葉を空に向けて、沙耶香は息を吐く。声にならずに消えていく思いに、思わず視界が滲んだ。前を向けば涙がこぼれてしまいそうで、目を閉じた。薄っすらと淀んでいる雲越しにもぼんやりと感じる陽の光を沙耶香は暖かく思った。

 

「沙耶香は自分のことを悪い子やと思ってんの?」

 

「そりゃそうだよ」

 

 わずかに湿った目尻を指で拭って碧の方を向く。かぶりを振った碧が「そんなことないよ」と至極真面目な顔をして言った。

 

「そんなことあるの。……だって私は、碧のことを傷つけようとしたから」

 

「私を傷つける……」

 

「そう。碧を傷つけようとしてたんだ。本当はね……賢人くんが事故で亡くなったことを知ってたの」

 

 碧のつぶらな瞳がわずかに揺らいだ。煌めきを濁しながら、真っ直ぐこちらを向いていた瞳が下を向く。「ごめんなさい」なんて言葉は安っぽく感じて、沙耶香はただ真実だけを紡いでいった。 

 

「こっちに帰って来て、はじめて賢人くんのことを探そうって言った時から、全部分かってたんだ。賢人くんの引っ越し先の住所も事故で亡くなったことも全部」

 

 腿の上に置かれた碧の手が震えているのに気付いて、沙耶香はその手に自分の両手を重ねた。暖かい体温が、手のひらから伝わって来る。震えを抑え込むように、沙耶香はその手に力を込めた。

 

「ずっと、碧のことを騙してた」

 

「でも、それは私が賢人くんのことを覚えてないって言ったからやろ? ひどいのは私ちゃうかな? それで沙耶香を傷つけたと思うし……」

 

「違う!」

 

 震える碧の小さな声を遮るように沙耶香の声が広い中庭に響いた。だけど、この会話を聞かれてしまうなんてことはどうでも良かった。

 

「私が全部悪いの……。確かに、碧が賢人くんのことを覚えてないって言ったのはショックだった。それで嫌がらせみたいなことをしてしまっていたかもしれない。だけど、私が碧のことを騙していたのはもっと昔からなの」

 

 碧の顔を見てしまうと伝えなければいけない思いを言えない気がして、重ねた手だけをじっと見つめた。もう片方の碧の手は、行く場所を失いベンチの上でだらんとしなっていた。賢人の家を訪ねようとしていた時も着ていた黒いワンピースの生地は薄く、碧の腿の柔らかい感触が手首に触れる。沙耶香よりも一回りほど小さな碧の身体はとても細く、いたいけなものを追い詰めていたんだという罪の意識にさいなまれた。

 

「私が賢人くんの住所を知ってるのは、引っ越ししてからずっと賢人くんと手紙のやり取りをしてたから。碧が賢人くんを好きだって知ってたのに、ずっと賢人くんと手紙してたんだ。だから、事故があったことは賢人くんのお母さんから手紙で知らされてた」

 

「手紙をしてたことは悪いことじゃないやろ?」

 

「本当は賢人くんと手紙のやり取りをしていたのは碧だったはずだよ」

 

「どうして?」

 

 しんと静けさがその場を支配して、自販機の稼働音だけが鼓膜が揺らした。押しつぶされそうな静寂に顔を上げることが恐ろしく、沙耶香の視界の中には、レンガが敷き詰められた地面から伸びる碧の細い足と木のベンチだけがあった。

 

「賢人くんが引っ越す一週間くらい前、上履きを靴箱から取ろうとした時に見ちゃったんだ。賢人くんの靴箱に手紙が入ってるいるのを。碧と手紙のやり取りをずっとしてたから、それが碧の書いた手紙だってすぐに分かった。それから賢人くんが引っ越すまでの間、ずっと靴箱を確認してた。賢人くんからの返事が碧の靴箱に入っていないか」

 

 早る鼓動は、重ねた手から碧に伝わっているはずだ。ドクドクと脈打つ心音が、脳内に響く。罪の根源を告げなければいけない。自分の身体が冷たくなっていくのを感じて、辺りの空気が妙にジメッと感じた。額を伝った汗が、涙のように頬を流れていく。

 

「直接渡してるかもしれないのにね。だけど、賢人くんも恥ずかしくて、碧と同じように靴箱に入れるかもしれない。そう思うと、いけないことだと分かりつつ、確認せずにはいられなかった。最低だよね。碧の気持ちを知ってたのに。ううん、きっと知っていたから。……それでね。賢人くんが引っ越す日の朝、碧の靴箱に手紙が入ってた。もちろん、差出人は賢人くん。……本当にひどいんだ。本当に。その手紙を私は――――」

 

 手の甲に雫が落ちた。雨が降り出したのかと思い、ふいに顔を上げれば、宇宙みたいに真っ黒な碧の瞳に涙の膜が張っていた。まばたきをするたびに、ボロボロと溢れる雫が、沙耶香の手の甲に落ちてくる。喉の奥が熱くなった。張り裂けそうな痛みが、胸から上がって来る。沙耶香は震える声を無理やり絞り出した。

 

「私が手紙を隠したから、賢人くんの思いが碧に伝わらなかった。ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 心から出た言葉だった。溜め込んでいた悪意を解き放ったせいか、身体から力が一気に抜けた。崩れるように碧の腿の上に顔を埋める。こぼれた涙で、碧の服を汚してしまいそうになって、顔を上げようとすれば、小さな手が沙耶香の頭を撫でた。

 

「話してくれてありがとう」

 

 優しい声と柔らかな手の平が沙耶香を包み込んだ。短くなった沙耶香の髪を撫でた手は、ゆっくりと項を滑り、背中の方へ動いていく。その滑らかな動きに合わせて沙耶香が顔を上げれば、目を真っ赤に腫らした碧が優しく口端を緩めていた。

 

「ごめんね。本当にごめん」

 

 その言葉しか出てこなかった。碧を賢人の呪縛に縛り付けたのは紛れもなく自分なのだ。あの日、賢人の手紙が碧に渡っていれば、きっと彼女は苦しむことなどなかった。それなのに今も、碧はなんて優しい顔をしているのだろう。どれだけの報いを受ければ、この罪は洗い流せるのか。碧の表情からは、犯した罪の重さを計り知ることは出来ない。

 

「なぁ、沙耶香。謝るのはやめて」

 

「でも……私がひどいことを……」

 

「ううん。ひどいんは沙耶香だけちゃうって」

 

「どうして?」

 

 許されないよりも罪を認めてもらえない辛さがあることを、沙耶香はひどく嘆いた。強まった沙耶香の語気に、碧は怯えた様子で少しだけ視線を逸し、それからはっきりと口を開いた。

 

「私、知っててん」

 

「何を?」

 

 涙で美しくコーディングされた碧の瞳に、キョトンとしたなんとも間の抜けた自分の顔が映り込んでいる。碧がまばたきをするたびに崩れ落ちる自分の姿を、落ちていく涙の中に探した。

 

「沙耶香が今、話してくれたことのほとんどを」

 

「どういうこと?」

 

 碧の言っている意味が分からず、沙耶香は頭の中が真っ白になった。一瞬、雲が切れて眩しい陽が降り注ぐ。キラキラと碧の頬に光った涙の筋が、まるで宝石の輝きのように綺麗に輝いた。

 

「沙耶香が嘘をついてるって知ってて、騙されてたフリをしてた。やから謝らんとあかんのは私やねん」

 

「賢人くんの住所も、本当ははじめから知ってたってこと?」

 

「ううん。賢人くんの住所を知ったんは、この間、沙耶香と寿子先生のところに行ってから。でも、賢人くんが亡くなってることは初めから知ってた」

 

「いつ?」

 

 碧の手を握った手に力が入る。碧の顔が少し歪んだの見て、はっと沙耶香は我に返り力が抜ける。血の気を失った手が、ほんのりと赤らんでいった。

 

「賢人くんが亡くなったっていう連絡を受けたのは、寿子先生からの電話やった。事故から一ヶ月経ったくらいやったと思う。理由は知らなんけど、賢人くんのお母さんが私に伝えて欲しいって言いはったらしい。そこで寿子先生が教えてくれてん。沙耶香が賢人くんと手紙をしていること、靴箱に入ってた手紙を沙耶香が持ち出したこと」

 

「なんで寿子先生が手紙のこと知ってるの?」

 

「きっと、靴箱に画鋲だとかイジメっぽいことが無いか注視してたんちゃうかな? 別の子の靴箱を触ってるのを見たら疑うのは仕方ないやん。それで沙耶香が私の靴箱から手紙を抜くのを見たんやと思う」

 

 碧の靴箱に入った手紙を抜く時、ドキドキと胸が高鳴ったことを覚えている。いけないことをしている罪の意識が、間違いなく平静を奪っていた。それでも誰にもバレないように注意はしていたはずだ。けれど、所詮子どもの考えること。大人がどこかから見ていても気づかないのは不思議なことではない。

 

 陽だまりに包まれた中庭は季節を思い出したように、ぐっと気温を上げた。ジメッとした空気が地面から舞い上がり、沙耶香の短い髪の隙間を縫っていく。碧の双眸がパチリと弾けて、瞳に張った涙が水気を帯びた空気に溶け出した。

 

「でもな。なんで沙耶香がそんなことをするのか分からんかった。沙耶香は優しくていい子やのに、なんでそんなひどいことをするんやろうって。嫌われたんかな、嫌なことをしてもうたんかなって、手紙やメールのやり取りをしながらずっと悩んでた。でも、ようやく分かった。梨咲の家での反応を見て……なんで今まで気づかんかったんやろ。沙耶香も賢人のことが好きやったんやんな。そんなことも分からずに、沙耶香に賢人のことを好きだなんて言って……。ひどいのは私。自分のことばっかりで」

 

 ごちゃごちゃに混ざった感情が胸の中をチクチクと傷つける。言葉にならない思いをどうしても吐き出したくて、こみ上げたものは涙に変わった。幼気な碧の目にも浮かんでいる涙を見て、衝動的に身体が動く。気づけば小さな碧の身体が、腕の中にすっぽりと収まっていた。柔らかな碧の匂いが、すすった洟に混じって香る。いつの間にか碧に突きつける為に心の中で鋭く研いでいたはずの刃はすっかり丸くなっていた。

 

「碧に私の気持ちなんて分からないって自暴自棄になってた。だから、賢人のことを忘れたフリをした碧が許せなくて、傷つけてやろうって。でも、初めから賢人くんは碧のことが好きだって分かってた。だから、碧と賢人くんが手紙のやり取りをしないように邪魔して、自分が賢人くんと手紙のやり取りをしてたんだよ」

 

「沙耶香はそれでも私と友達でいてくれたんやん。大学もこっちにするって連絡くれて。こっちに来たんは、私を傷つけるため?」

 

「違う。碧と一緒に学校に行きたかったから。だけど、賢人くんのことを碧と話さなくちゃいけないっていう思いもあって……」

 

「ほら、初めに私が素直に話していればこんなことにはならなかったんやで。二人で傷つくこともなかった」

 

 碧に背中を撫でられ、沙耶香は空を見上げた。雲の切れ間から覗いた水色の空がやけに綺麗で、汚い何かが洗い流された心のようだった。そこに残った小さなナイフ。わずかに尖った悪意を、心に決めて碧に突きつける。

 

「碧、それは違うよ」

 

「なんで?」

 

 落ち着いた碧の言葉はこちらの返事を促している。諭す親と子どものようだと思った。華奢な碧の身体をギュッと抱き寄せて、沙耶香は碧の耳元で呟く。

 

「だって碧が知らないフリをしてくれなきゃ、私は一生、碧を騙したままだった。そんなの耐えられなかったと思う。いつかもっとひどい仕打ちを碧に与えてたかもしれない」

 

「私も耐えれなかったと思う。沙耶香が嘘をついてるって知っていてずっと友達では入れんかった。寿子先生に連絡した時に、相談に乗ってもらってん。沙耶香とどう向き合えばいいか。たまには喧嘩もしなくちゃだめだよって」

 

 抱き合ったまま、どれくらいの間そうしていたのだろうか。降り注ぐ陽の光がじれったく感じるほど碧が近い距離にいる。それでも離れたくなくて、抱きしめる腕に力を込めた。それからふいにこぼれた声が碧のものと重なる。

 

「話してくれてありがとう」

 

 ハモった声に思わず笑いがこみ上げてきた。何がそんなに可笑しかったのか。二人してケラケラと笑い合う。それが妙に懐かしく切なく、思いの外とても愉しかった。笑い疲れて、ふぅと息を吐いたタイミングで、「なんで二人して抱きしめ合ってんの?」と声が聴こえた。

 

 ハッと涙で濡れた顔を上げれば、梨咲がこちらを見ながら、悪戯に頬を赤らめていた。

 

「あー、ラブラブなとこ邪魔して悪かったな」

 

「待って、そんなんとちゃうから! ってかなんで梨咲ここにおんの?」

 

 焦った様子で、碧がすっと沙耶香から離れた。耳が真っ赤になっていて可愛らしい。

 

「約束してた正門に行こうと思ってたら、二人の声が聴こえたから覗いてみたら……。私、先に門まで行ってるから続きをどうぞ」

 

「続きなんてないから!」

 

 頬を膨れさせ、碧は立ち上がった。梨咲がこちらに向けて笑みを浮かべる。

 

「仲直りしたってことでええ感じ?」

 

「たぶん?」

 

 確認するようにこちらに顔を向けた碧に、沙耶香は大きく頷いた。

 

「そうか。それは良かった。ほな、行こうか二人とも」

 

 梨咲が傘を持っているのを見て、沙耶香は教室の傘立てに傘を忘れていることに気がついた。だけど、今日はもう必要ないかも知れない。薄い雲は、すっかり遠ざかり始めている。雲の切れ間から覗いた濃い青の空がじわじわと広がり始めていた。 

 

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