第3話

 一階のエントランスに戻ったタイミングで、沙耶香が掴んでいた腕は碧に無理やり振りほどかれた。痛そうに碧が手首を擦る。患部は少しだけ赤くなっていた。

 

「急に、どうしたん沙耶香?」

 

「なんでもないよ」

 

 そんな言い訳が通じるワケもなく、何かを察した様子の碧の目がこちらをじっと見つめている。視線が痛い。優しく純粋な碧の目は、まるで拳銃のように恐ろしい武器になってこちらに向いていた。もう逃げられないのかもしれない。そう思ったのと同時、遠くの方で雷鳴が響いた。走って逃げてしまおうか、と思った沙耶香を拒むように雨脚がさらに強くなる。

 

「ねぇ、碧。少し歩こう」

 

「うん」

 

 開いた傘から大粒の雫が弾け飛び、すっかりびしょ濡れになったエントランスの床に散った。土砂降りの雨の中を二人並んで歩いていく。駅に向かうわけでもなく、ただあてもなく黙ったまま足を動かしていた。隣に碧がいるのに、傘の弾く雨音が世界を遮り孤独にしてくれる。ぼんやりと歩いているだけで、心が少しだけ落ち着いて来た。もう逃げるのはお終いなのだ。そう何度、唱えれば自分の心は決することが出来るのか。碧にすべてを打ち明けよう。沙耶香は決心して立ち止まる。

 

 水溜まりに雨粒が織りなす小さな波紋を、沙耶香の足がかき消した。くるぶしの辺りまで飛んだ水しぶきが、その冷たさを感じさせる。ふと、顔を上げると、碧が正面を向いたまま固まっていた。

 

「どうしたの?」

 

 沙耶香が問いかけても、碧に反応はなかった。碧の硬直した表情がゆっくりと驚きに変わっていく。喉元がわずかに動いて、碧は平静を装った声で呟いた。

 

「梨咲?」

 

 稲光とほぼ同時、また雷鳴が鳴り響いた。今度は近い。碧の目線の先を沙耶香が追えば、雨粒にぼやけた傘の向こうに、梨咲が立っていた。彼女は、碧が大学に入学してから仲良くしている女子だ。以前に、一度だけ碧と三人で帰ったことがある。やけに派手な服装をしているイメージだったが、話せばいい子であることは伺い知れた。向こうも碧を見て、目を丸くしていた。

 

「碧なんでここにおんの?」

 

「知り合いの家を尋ねに来たんやけど」

 

「あぁー、知り合いの家をな」

 

「でも、引っ越しちゃってたんよ」

 

「そうか。そりゃ、残念やったなぁ」

 

 梨咲は、気の毒そうに眉根を下げた。すぐに相好を崩したのは、慰めのつもりだろうか。彼女の双眸を縁取る長い睫毛は、瞬きのたび大袈裟な動きをした。再び轟いた雷鳴に、碧の水色の傘がわずかに揺れる。

 

「梨咲は、なんでここにおんの?」

 

「なんでって私の家、この近くやし」

 

「そうなんや」

 

 会話がふと止まる。重たい空気が流れ、沙耶香は傘の柄を握り直した。激しい稲光が町中に一瞬の影を落とした。雷鳴の轟きがまだやまない中、碧が口を開く。

 

「なぁ、梨咲」

 

「なに?」

 

「前に話してくれた遠くに行っちゃった人って、この辺りの子?」

 

「どうしたん急に?」

 

 ふいの質問に、梨咲の顔からすっーと血の気が引いていくのを感じた。話を知らない沙耶香は、ただ呆然と二人の会話を聞いているしかなかった。

 

「なんとなくやねんけど。聞いておきたくて」

 

「全然、ええねんけど、急やから驚いちゃったわ。その子は、中学校の同級生やから家はこの辺りやったで」

 

 碧が何を言いたいのか、瞬時には分からなかった。だが、梨咲の反応を見て、沙耶香の中に一つの憶測が過る。

 

「今、私達が尋ねてたのは、前原……ううん。岸本賢人っていう子の家。この辺りに住んでるなら、同い歳やし、梨咲なんか知ってるんちゃうかな?」

 

 碧の目は硝子玉みたいにひどく澄んでいた。半球の中に映る雨に濡れた町が街灯に照らされて色めいている。賢人の名前が出た瞬間、梨咲の目が大きく見開かれた。ごくり、と音が聴こえて来そうなほど、固唾を飲んだ彼女の喉元が大袈裟に動いた。

 

「なんで碧が賢人のこと知ってるん?」

 

「梨咲が想像してる通りやと思う。私がずっと忘れられへんのはその子やねん。梨咲の住んでる町と賢人の住所が似てることに気がついてから、もしかしたらと思ってたんやけど」

 

「待って、それじゃ碧が好きやったっていうのは、引っ越してくる前の賢人くんってこと?」

 

 困惑する梨咲の傘が風に煽られた。彼女の肩が激しい雨に打たれる。碧が一歩、梨咲に歩み寄り、傾いた傘を直した。二人の手が、ビニール傘の柄で重なる。

 

「……梨咲が言ってた子も賢人くんやんな?」

 

「そうやで」

 

 少しうつむきながら、梨咲は首を縦に振った。重ねた碧の手に、ぎゅっと力が込められる。雨に冷やされ赤らんでいた梨咲の細い指が白く染まっていく。

 

 その瞬間、沙耶香はようやく諦めがついた。梨咲は賢人の同級生だった。賢人の中学校時代のすべてを知っている彼女ならば、碧にすべてを話してくれるに違いない。自分自身が語り部にならなくて済んだ安心感と、碧を傷つけてしまう罪悪感がごちゃごちゃに混ざり合う。視界が霞んでいるのは、雨のせいではないことに気がついて、沙耶香は慌てて目元を拭った。

 

「碧は、松本さんが賢人の知り合いって知らなかったの?」

 

「うん。この辺りに住んでるのは聞いてたからもしかしてとは思ってたけど、まさか本当に同じ中学校やとは思ってなかった」

 

 動揺する梨咲を見れば分かる。きっと碧は嘘をついていない。こちらがよく見えるように、傘を少し後ろに傾けて、梨咲が言葉を紡いだ。

 

「二人は賢人に会いに来たん?」

 

「そう。私の為にって、沙耶香が探してくれててん。少学校の先生にあたってようやく住所知って訪ねてみたんやけど、また引っ越してもうてたんやな」

 

 碧はそばに寄った梨咲とこちらを交互に見やる。重なった傘から下垂れ落ちる雨粒が、碧の肘の辺りをわずかに濡らした。一度、碧の袖に落ちた梨咲の視線がこちらを向いた。くりっとした目の奥は、すごくひんやりとしている。「二人は知らんの?」雨音にかき消されてしまいそうなほど、彼女は声のトーンを下げた。

 

 沙耶香は咄嗟にうつむいてしまう。否定をする勇気はなかったのだ。どこまでも保険をかける自分の愚行に腹が立つ。どれだけ傷つくことになろうと、真実を話すべきなのだ。今から梨咲が、自分に変わりすべてを話してくれることに期待している。頬を濡らす雨の方が温かいと感じるほど、梨咲の声音は冷たく落ち着いたものだった。

 

「前、碧に喫茶店で話した、私の好きな人が遠くに行ってしまったっていうのはな。転校したとか、そういう話とちゃうんねん。賢人はな……五年前に事故で亡くなってもうてん」

 

 どしゃ降りの雨が、言葉を発さないことを容認してくれている気がした。傘が弾く雨音に勝る声を張り上げる気力など湧かない。梨咲の口から告げられた事実が、辺り一面を悲しみの海に沈めてしまった。顔を上げられない沙耶香はじっと自分の足元を見つめる。風を受けた雨が、波のようにショートブーツの足先を濡らしていく。誰もこの場から動こうとしないのは、この海を渡りきる術を知らないからだ。

 

 逃げてばかりの自分を、沙耶香は心の中で叱咤する。覚悟を決めたではないか。だけど弱々しい声で、「梨咲が話してくれるなら、すべて知らないフリを出来るよ」と悪魔の顔をした自分が囁いてくる。

 

 賢人の家を尋ねて来たのは、手紙をくれた聡子なら沙耶香がすべてを知っていることを碧に告げてくれると思ったからだ。自分の口からはどうしても伝えられない。だから、代わりにすべてを話して貰おうと思った。

 

 だけど梨咲が話してくれるなら、保身をした上で碧を傷つけられる。そんな卑怯な考えが沙耶香の思考を支配しそうになる。「賢人の母が引っ越して、目の前に梨咲が現れたのは逃げてもいい運命なんだ」と。沙耶香は弱い自分の気持ちを断ち切りたい一心で顔を上げた。目の前のことから目をそらさない。これが今、弱い自分に出来る最大の抵抗だった。

 

 沙耶香は目の前の光景を疑った。涙に暮れていると思っていた碧の目は、やけにまっすぐで、じっと逸らすことなく梨咲を見つめていた。凛とした佇まいは、いつもより彼女を大人っぽく見せている。近づいた距離のままの二人は、沙耶香が見ていることを意にも介さず、互いの瞳を見つめてあっていた。

 

 梨咲の言葉からどれだけの時間が流れたのだろう。それを知る術はない。ただ、雨の中で見つめ合う二人の構図が美しく、沙耶香はそこから目を離せなかった。それからどちらからでもなく、二人は距離を取る。それでも碧の視線は、ずっと梨咲から離れることはなかった。

 

「二人とも賢人の知り合いやったんやな」

 

 一度閉じられた梨咲の瞼が、はっきりと開いた。碧、沙耶香の順に瞳を動かし、それから天を仰いだ。ビニール傘越しの空は、灰色に満ちている。そこから降り注ぐ雨は、今まで溜め込んだ悲しみの総量だろうか。いつの間にか流すことを忘れていた涙が、悲しみの湖から氾濫しているのかもしれない。梨咲の問いかけに、碧が恐ろしいほど落ち着いた声で返した。

 

「私の中の思い出の殆どが賢人くん。梨咲に話したみたいに、ずっと忘れられへんまま」

 

「賢人がこっちに来てから一度も会ってへんの?」

 

「小学校の四年生の時に転校したあの日から一度も会えてない」

 

 てっきり碧は賢人への気持ちに一人でケジメをつけたのだとばかり思っていた。だから、こっちに戻って来て初めて賢人の話題を出した時、覚えていないとはぐらかしたのだと。過去のことをもち出し、碧の気持ちを掻き乱していたなんて思い上がりだったのだ。彼女は初めから逃れられない過去と闘っていた。くすみなんてまったくない澄んだ双眸が、その奥にひしめく覚悟を透かしている。

 

 だから、賢人の死を突きつけられても、しゃんと胸を張っているに違いない。

 

「でもな。梨咲が賢人くんを知ってて良かった」

 

「良かった?」

 

「だって、このまま探してても見つけられへんかったかも知れへんし。沙耶香は一生懸命になって探してくれてたから。私の過去の為に」

 

 痛々しいくらいに真っ直ぐな瞳が、鋭く尖ったナイフを心に突きつけてくる。くすんだアスファルトに広がる水溜りは、沙耶香の傷から流れた血で真っ赤に染まってしまった。

 

「碧の為に?」

 

 懐疑的な色合いをした梨咲の双眸がこちらに向いた。沙耶香の瞼は、ぴくりと跳ねて内心の動揺を表に晒す。その一瞬を逃さないと、梨咲の大きな瞳がぐらっと揺れた。

 

「そっか。林さんは、碧の為に探してくれてたんや」

 

「うん」

 

 迷いながら沙耶香は首を縦に振った。「本当はどうなの?」梨咲が、そう問いかけていることくらい分かっている。

 

「うーん。碧のためか……」

 

 そう言って、梨咲は、決意を改めるように空咳を飛ばした。わざとらしいその仕草が嫌味にならないのは、妖艶とも言える彼女の見た目のお陰だろう。

 

「二人が賢人の知り合いなら話しとかなあかんことがある」

 

「話とかなあかんこと?」

 

 自分の声が震えていることに気がついたのは、くすりと梨咲が笑みを浮かべたからだ。不安がる子どもを見るような彼女の瞳は、いつも自分が碧に向けているものにそっくりだった。

 

「ここじゃなんやし、今からうち来れる?」

 

 優しさでコーティングされた言の葉が、ぷかぷかと水溜りに浮かぶ。沙耶香と碧は、梨咲を見つめて同時に頷いた。

 

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