第2話

 マンションが建ち並ぶ区間を抜け、二人は住宅街へ入っていった。雨のせいか人通りは少ない。薄暗い通りを、通り過ぎる軽トラックのヘッドライトが照らし出した。

 

「この辺りなんやけど」

 

「団地なんでしょ?」

 

「うん」

 

 立ち止まった碧が再びスマホに視線を落とす。住所から推測するに、賢人の家は市営住宅だった。住宅街の戸建てが目立つこの辺りで、団地を探すのは難しいことではないはずだ。沙耶香が辺りを見渡せば、少し離れた戸建ての奥に一つ大きなマンションが見えた。

 

「碧、あれじゃない?」

 

「ん、どれ? あ、確かにあっちの方かも」

 

 路地を進み、一つ奥の通りへと向かう。そこにあったマンションは、真新しいわけではないが、古い家々が並ぶこの辺りにしては綺麗な佇まいだった。沙耶香はもう少し雑然なものを想像していたのだが、離婚したあとも賢人がそれなりの暮らしたしていたことに安心感を覚えた。

 

「入り口はどっちやろ?」

 

「地図をちゃんと見てよ」

 

 相変わらず碧は地図に弱い。それでも、沙耶香が先導しなかったのは、碧が傷つくと分かっている所へ手を引く勇気がなかったからだ。私が連れて来たんじゃない、あなたが勝手に来たんでしょ? そんな言い訳を用意している自分に腹が立つ。決心をしたくせに弱いままだ、と沙耶香は責め立てるようにごちた。

 

 狭いエントランスにオートロックはなく、集合ポストとエレベーターだけがあった。碧がエレベーターのボタンを押せば、扉はすぐに開いた。

 

「えーっと、七階や」

 

 七階のボタンがオレンジ色に光る。扉が閉まり、ガタンと激しい音を立て、エレベーターは動き出した。ゆっくりと近づいていく覚悟の時。ポタポタと傘の先から垂れた雨粒が床に小さな水たまりを作る。その輪郭が大きくなっていくたび、沙耶香の不安や焦りも膨らんでいった。

 

 七階に着くと、廊下は左右に続いていた。「705号室だから――」と、碧は廊下の隅にはめられた案内板を見やって右へ進んでいく。廊下からは、鶴見緑地公園が見えた。薄暗いせいで所々に電灯が灯り、雨に包まれた新緑がキラキラと輝いていた。

 

「ここだ」

 

 前を行く碧がふと立ち止まる。それを見た沙耶香は、ドキッと胸が小さく縮んだ。一瞬だけ止まった呼吸を、意識的に吐いてなんとか心を落ち着かせる。躊躇しているのか、表札を見上げたまま碧はその場で固まっていた。

 

「インターホン押さないと出てこないよ?」

 

 強がって悪戯な言葉をかけてみるが、その声に覇気はなかった。いつもなら、楽しげなはずの自分の声を思い出そうとしてみるが、海鳴りのような雨風にかき消されてしまう。

 

「離婚して変わった賢人くんの苗字って、『岸本』やったやんな?」

 

「そうだったはずだよ」

 

「でも、ここの表札、岸本じゃないで」

 

 碧が指差した表札を見ると、確かに別の名前が書かれていた。ご丁寧に下の名前まで、名前の古風な感じから察するに、ご老人の夫婦のようだ。部屋間違えてないか? と表札の上の部屋番号を確認して見るが、間違いなくここは705号室だ。それじゃ、寿子が教えてくれた住所が間違っていたのか? 一瞬で色んなことを考えるが、沙耶香の記憶にある住所と寿子が教えてくれた住所は確かに同じだった。

 

「私、間違えた?」

 

 碧は申し訳無さそうに俯く。

 

「ううん。間違えてないと思うよ。入ってくる時に、マンションの名前は確認したし、寿子先生の家に届いていた年賀状に書かれた住所は確かにここだった」

 

「それじゃ、なんで別の人が住んでるんやろ?」

 

「なんでって……、また引っ越したのかな」

 

 ここじゃない。その事実を知って、力んでいた身体がぐっと楽なった。覚悟を決めていたはずなのに、結局、碧にすべてを告げることから逃げ出したかったんだと気づく。けど、このまま終わっていいはずはない。賢人のことについて、碧と向き合うと決めたのだ。ここで引き下がるわけにはいかない。

 

 とはいえ、最後の当てだった寿子からの情報も空振りに終わってしまった今、次なる手はなにもない。寿子が出してきた年賀状は、印刷されていた干支からして、何年か前のものだった。最新のものがあるなら、それを出してきたはずだから、彼女は本当に引っ越しのことを知らなかったのだろう。

 

「これで振り出しにもどっちゃったな」

 

「そうだね。なんだか、どっと疲れちゃった」

 

 ため息交じりに笑みがこぼれ、つい本音が出てしまう。碧に真実がバレなかった安堵感を隠すため、沙耶香はわざと空咳をした。「そうやな」と碧は疲れた様子で頬をかき、様子を伺うようにこちらに視線を向ける。いつも通りのやり取りも、どこか詮索し合っているように思えるのはどうしてだろうか。きっと、自分の内面にある悪意が、碧を悪く見せているに違いない。だから、悟られないようにと気を張り警戒してしまう。

 

 本当は、気を許し信頼できる友達のはずなのに。だから、この件のあと、碧にどう思われたって仕方ないのだ。それだけのひどいことを自分はしてきた。そして、これからそれ以上のことを碧にしようとしている。賢人の死という真実を知り、碧はどういう反応をするのか。傘を握る手に力が込められる。冷たい六月の雨がしがみついたビニール傘の表面はザラザラとしていて、滑り降りる沙耶香の指を食い止めようとした。

 

「でも、ここに賢人くん住んでたんやな」

 

 所々、塗装の禿げた扉の表面を碧が撫でた。すっーと、滑る小さく華奢な指は、確かに懐かしさに触れていた。小学校四年生の時から彼女と賢人との時間は止まっている。碧は何も知らないのだ。開くことの出来ないタイムカプセルに触れ、碧の表情は切なくなっていった。

 

「会いたいなぁ」

 

 碧の口から紡がれた言葉は、沙耶香の胸にナイフのように鋭く尖って刺さった。もう会えないんだよ。胸に刺さった言葉よりも鋭くギザギザ何かが、沙耶香の喉の奥につかえた。張り裂けそうな痛みを伴って、血のように吐き出したのはわずかな息だった。

 

「碧……」

 

 帰ろう、沙耶香がそう言い出そうとしたちょうどその時、隣の扉が開いた。家から出てきたのは、お婆さんというには若く、沙耶香や碧の母よりかは少々ふけて見える女性だった。見慣れない若者二人を、彼女は怪しげな目で見つめる。咄嗟に気を利かせた碧が、軽くお辞儀をした。

 

「あ、すみません。以前、ここに岸本さんって方が住まわれてませんでしたか?」

 

 胸の前で手をもじもじさせながら、碧はそれとなく尋ねた。

 

「岸本さん……? あぁ、あの若い娘さんのことやね」

 

「ご存知ですか? 今、別の方が住まわれてみるたいなんですけど」

 

「引っ越したのはどれくらい前やったか。えー、そうそう、もう三年にもなるかもなぁ。あんな事故があって、残念やったけど、ここに住んでるのはつらなりはったんやろなぁ」

 

「事故……」

 

 まずい。沙耶香の想像していなかった状況で、想定外の話題が飛び出した。ここにくれば碧にすべてを知られる、そう覚悟を決めていたくせに、話題を逸すような質問が口についてでる。

 

「どこに引っ越されたか知りませんか?」

 

「ごめんなぁ。急に引っ越しはったから、どこに行ったかまでは」

 

「そうですか。ありがとうございます」

 

 早々に会話を終わらせ、沙耶香は頭を下げた。碧の腕を乱雑に掴み、エレベーターホールの方へ向かう。「待って、沙耶香」と呼び止める碧の声を無視して、その場を離れた。

 

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