四章「青空」
第1話
しとしと、と昨晩から振り始めた雨は梅雨の訪れを感じさせるものだった。夏のような暑さは落ち着きを取り戻し、雨模様も相まって少しだけ肌寒い。七分袖から顕になった自分の腕を擦り、沙耶香は暖を取る。真新しいコンビニのビニール傘が弾く雨粒の輪郭は、はっきりとしていて、そこから覗くどんよりとした曇り空を歪ませていた。どれだけ綺麗な心を持ってしても、水晶体を通せば世界というものは歪んで見えてしまう。沙耶香は、なんだかやるせなくて冷たいプラスティック製の柄を小さく振った。ビニールに張り付いていた雨粒が弾け飛び、いくつもの筋になって滴れ落ちていった。
閑散とした地下鉄鶴見緑地の駅前の広場を見渡すが、碧の姿はまだない。約束の時間には少しだけ早かったらしい。彼女と共にここに来なかったのは、何を話せばいいのか分からなくなりそうだったからだ。それに、ここに来るまで出来るだけ一人でいたかった。今日は、賢人の死を碧に告げることにある。その覚悟をもう一度するには、碧の無邪気な笑顔は障害にしかならない。
碧は、別行動を取ることを拒むかと思っていたけれど、存外、素直に受け入れた。碧だって賢人の家に行くには覚悟が必要なのだろう。これから見ることになる碧の泣き顔を想像するだけで引き裂かれそうなほど胸が痛んだ。
感傷に浸るくらいならやめておけばいい。心の中で囁く弱気な自分を必死に押さえつける。黙っていたって、いずれ碧は知る日が来るかもしれない。その時、自分がやってきたひどい仕打ちを彼女が知れば、絶対に取り返しのつかないことになる。
真央が話していた傷つく覚悟とは、逃げないことだ。ここまで来た以上、自分の衝動が悪意であろうとも向き合うしかない。自ら真実を告げられるほど大人ではないのだ。だけど、この真実から逃げ出すほど、子どもでもない。
駅の構内以外に雨宿り出来そうな場所もなく、沙耶香はとぼとぼと歩き始めた。広場は周囲よりも低く正面には階段があり、そこを上がれば片側三車線の大きな通りに出た。沿道と中央分離帯には木々が生い茂り、その奥には広大な緑地公園が広がっている。かつて、この場所で『花と緑の博覧会』という国際的博覧会が行われたらしいが、残念ながら沙耶香が生まれるよりも少しだけ昔だ。その時のシンボルのようなものなのか、大きな塔が公園の手前にそびえていた。
スマホで、先に着いていると碧に連絡を入れる。すぐに既読の表示がついて、「私ももうすぐ着く」と返信が来た。きっと、一本違いだったのかもしれない。少しだけ辺りを歩いて、沙耶香は階段のそばへと引き返した。
ちょうど沙耶香が戻ったタイミングで、改札からちらほらと人が出て来た。その中に碧の姿を見つけて、沙耶香は階段の上から手を振る。先に着いていると伝えられた碧は、辺りをキョロキョロと見渡し、ようやく手を振るこちらに気がついた。
「転ぶよ」
階段の上まで小走りでやって来た碧を注意すれば、「子どもじゃないんやから」と彼女は頬をふくらませた。夏物の黒いワンピースに薄いコートを羽織った碧は、彼女の言う通り随分と落ち着いた佇まいで少しだけ大人っぽかった。だけど、それは余所行きの華やかな装いとは言えない。慎ましい雰囲気の碧に、沙耶香は思わず言葉が詰まる。
「まさか階段の上におるとは」
小さく息を吐いた碧は、ポシェットからスマホを取り出した。寿子に教えてもらった住所を打ち込み道順を表示しようとしているのだろう。賢人の引っ越し先までは、ここからしばらく歩くことになる。鶴見緑地公園を沿うようにして西側へ行った先にある住宅街の一角だ。地図アプリに住所を打ち込んだのか、碧のスマホがポロンと音を立てた。
「道、分かった?」
「ちょっと待って、えーっと。こっちやな」
スマホと周囲を交互に眺めることしばらく、ようやく行くべき方角が分かったのか、碧はゆっくりと歩き始めた。それに一歩遅れて沙耶香も着いていく。
以前から住所は知っていたものの、沙耶香もここを訪れるのは初めてだった。賢人と手紙のやり取りをしていた頃を思い出す。その頃の彼が過ごし眺めていただろう街並を眺めれば、無性に愛おしく、同時に懐かしさを感じた。手紙に書いていた些細な出来事の起こったところはあそこだろうか、ここだろうか、と想像が膨らむ。脳裏に過る幼い賢人の姿が、前を行く碧を追い越すように歩道を駆け抜けていった。
交通標識に書かれた地名は、何度も手紙で見たものだ。歩を進めれば進めるほど、賢人の家に近づいていく。だが、それは同時に碧にすべてを告げる時間が迫っていることを意味しているのだ。恐怖と緊張に支配され、沙耶香の喉が水を求める。覚悟は決めたではないか。そう自分に言い聞かせて、沙耶香はスカートを握りしめた。
「沙耶香?」
「え、なに?」
「具合悪いのかなって?」
「どうして?」
「めっちゃ静かで怖い顔してるし……それに顔色よくないよ? 大丈夫?」
気がつけば、スカートの握った箇所がじんわりと濡れていた。雨のせいで手が濡れていたのか、それとも汗か。心配そうな碧に向かって、無理やり作った笑みで沙耶香は返す。「大丈夫だよ」紡いだ言葉は
「もしかして、沙耶香ってば緊張してんの?」
「そ、そうだね」
「しっかりしてや」
「碧にそんな風に言われる日が来るとは」
「そうやろ? 緊張すんのは私の仕事」
それっきり振り返らず再び歩を進めた返碧の心情は分からない。穏やかにも感じた碧の声からは、以前の幼い姿は想像できなかった。それなのにここにいる自分はなんて子どもなんだろうか。懐かしさに押しつぶされそうになって、水色の傘に隠れた碧の背中に「私だって怖いんだ」と呟いてみるが、強まった雨に傘が弾かれ沙耶香の声が届くことはなかった。
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