第7話

 碧が通っていた小学校の下駄箱は、昇降口ではなく教室の前にあった。登校した生徒は、毎朝、そこで土足から上履きに靴を履き替える。教室は土足厳禁だったが、廊下はどちらでも良かった気がする。図書室やパソコンルームへ行くのに、わざわざ上履きを持ったまま、土足へ履き替えて移動した記憶は無いからだ。

 

 下駄箱の場所は、個人で決まっていて、年度の初めに配られるシールに自分の名前を書いてプレートを挟む為に設けられたくぼみの部分に貼る。真新しいシールは一年を通じてボロボロになっていき、錆びた下駄箱にじわじわと馴染んでいく。その時間の経過を見るのが、碧は少しだけ好きだった。

 

 下駄箱の場所は、教室の入口側からあいうえお順に割り当てられる。碧は『柏木』だったので入り口に一番近い列の下隅だった。場所が下なのは、カナ順というだけで決して背が小さいからではない。

 

 入り口とは反対側の一番上端、碧から最も遠い距離に『前原けん人』と書かれたシールは貼られている。不器用で汚いけれど、心優しい男の子の字だ。その隣に、可愛らしい文字で『林さやか』と書かれたシールが並んでいる。碧は沙耶香が羨ましかった。下駄箱が隣通しだというだけで何があるわけでもないのだけど、碧にとって並び順のルールが変わらない限り永遠に叶うことのない願いだった。

 

 そんな賢人の下駄箱に、碧は一度だけ手紙を入れたことがある。それは賢人が転校してしまう一週間ほど前のことだった。

 

 別れの挨拶と一緒に、はっきりと言えなかった遠足の時に助けてもらったお礼、それと引っ越ししたあとに手紙のやり取りをしたい、という旨をしたためた手紙を可愛らしいピンクの封筒に詰めた。直接、手渡す勇気はなく、無い知恵を振り絞り画策したのが下駄箱に入れるという古典的な方法だった。

 

 下駄箱に扉はついていなかったのだが、本人が下校してしまえば、次の日に登校して来るまで誰かが触ることはまずない。鍵も何もないことが、手紙を忍ばせるにはむしろ好都合だった。放課後、読書をするフリをして一人教室に残った碧は、皆が帰るのを見計らい、賢人の上履きの下に手紙を潜ませた。

 

 誰にも見られていないか、入れる場所は間違っていないか。ドキドキと信じられないほどの緊張、それに上がっていく胸の鼓動を必死に抑え、碧は放心状態で家路についた記憶がある。手紙の内容は、直接的ではないし、恥ずかしくて好きという言葉は一つも使えなかったけど、自分の思いは伝わるはずだと碧は思った。

 

 いつ返事をくれるものかと、そわそわしたまま、すぐに賢人が学校に来る最後の日が訪れた。急だった賢人の転校を惜しむ小さなパーティーのようなものが、放課後にクラスで開かれた。お菓子とジュースを持ち寄って学校で食べるなんてことはとても珍しかったので、さすがに覚えている。碧はずっと賢人の方を見ていた。彼が涙を浮かべるシーンなんてなかったと思う。碧の記憶の中の賢人は、ずっと素敵な笑顔を浮かべていた。

 

 そして、その日も賢人から声をかけられることはなかった。手紙には、碧の家の住所も添えていたので、それからもしばらくは賢人から手紙が届かないか毎日、郵便受け確認していた。

 

 だけど、賢人から返事が来ることはなかった。碧の手紙は、男の子にとって少し遠回し過ぎたのかな、と後悔したこともある。だけど、あの時はあれが精一杯のアピールだった。手紙のやり取りをしたいと書いて、自分の住所まで添えたのだ。それで返事がなかったということは、賢人は自分のことを好きでもなんでもなかったんだ、と諦めるしかない。

 

 沙耶香からもらった昔の手紙をぼんやりと眺めながら、碧は遠い過去を回想していた。寝転がったベッドのシーツは、もう夏用に変わっている。

 

 あの日、手紙のやり取りを賢人に申し出たのは、ずっと沙耶香と手紙をしていたからだ。手紙なら自分の気持が素直に伝えられる気がした。いつもは話せないことも文字にすれば伝えられると思ったのだ。沙耶香に、賢人が好きだなんて話をしたのも手紙だった。普段は言えないようなことも手紙だと書ける。それは相手が沙耶香だったからなのかもしれないけど。少なくとも賢人には自分の気持ちは伝わらなかった。彼が手紙の返事をくれなかったことが何よりの証拠だ。

 

 あの頃は、自分にそう言い聞かせるしかなかった。

 

 白い天井に張り付いたシーリングライトが眩しくて、碧はピンクの便箋で視界を覆った。桃色をすり抜けた光は、瞼越しにも感じるほど強い。きっとこれが青春の光なのだ。眩しさに目を閉じてしまい素直になれない。

 

 後悔しないためには思い切って瞼を開き、強烈な光を発する光源を見なくてはいけない。今、碧を照らしているのは、間違いなく過去の賢人という光源。未だにその光に目が眩み、沙耶香との関係も、自分がどこにいるのかも分からなくなってしまっている。

 

 目を見開く覚悟は出来た。過去と向き合い。賢人のことも沙耶香とも向き合う。明日が、寿子に教えてもらった住所に沙耶香と共に行く日だ。

 

 ぱっと、目を開ければ、ぼんやりとした光が視界を覆った。だけど、逸したくはない。しばらくライトを見つめてから、碧はリモコンで電気を消し、眠りに着いた。

 

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