第6話
季節をひとつ飛ばしてしまったように空気が夏仕様に変わった五月の終わり、梅雨の気配など感じないほどの青い空が広がっていた。
「どこ行くの?」
「えーっと、行きつけのお店」
綺羅びやかな阪急のコンコースを通り、騒がしい商店街を抜けていく。以前、梨咲に案内された道順だ。昼間だというのに、居酒屋の客引きが沙耶香を見て、ナンパついでにと声をかけてくる。軽くあしらうように表情を崩さないまま、男たちの勧誘を沙耶香は蹴散らした。
「碧は、中間どうだった?」
「普通? 悪くはないと思う」
中間試験は、良くも悪くもない手応えだった。大学に入って初めての試験だと考えれば、大きな失敗をしなかっただけ御の字かもしれない。問題に四苦八苦する碧の隣で、なんとも余裕そうな表情のまま定刻時間前に退出した梨咲が印象的だった。
「沙耶香は?」
「私も普通かな。構えていたほどじゃなかったかも」
必死に勉強をしてようやく入学できた碧とは違って、沙耶香や梨咲は随分と余裕があったらしい。この先の四年間が思いやられ、トホホと碧がため息を漏らす。その横で、沙耶香は珍しく不安げな様子だった。
「ねぇ、碧。やっぱりどこに向かってるの?」
赤色と居酒屋の暖簾が華やかな通りを抜け、ホテルのネオンが目立ち始めた。昼間だというのに、うるさいくらいに俗っぽい色の電飾を放っている。腕を組んだ男女の姿にやたらと目がいく。さすがの沙耶香もキョロキョロと目が泳いでいる。「これくらいの道くらい堂々と通らんと」と威勢を張った碧の声は裏返っていた。
しばらく歩き、通りに出る。オフィスビルが並ぶ一角に、都会の喧騒から取り残されたような佇まいが残る喫茶店がある。賢人の家に本当に向かうのか、その最終確認のため、碧はここに沙耶香を連れて来たかった。
「碧が連れて来たかったのって、この喫茶店?」
「そうやで」
連れてこられた場所が意外だったのだろう、沙耶香はシックな店の外装を眺めながら、はぁーと感心したような声を出す。どうだ大人っぽいでしょ、と言いたげに碧は胸を張った。肺に目一杯ためた空気に、小さな胸がわずかに膨らむ。
「碧って、こんな店に来るんだね」
「まぁ、この間、梨咲に連れて来てもらったんやけどね」
ここは梨咲の祖父が営んでいて、以前に梨咲と来た時はお代を払っていなかった。そのお返しも兼ねて、碧はこの店を選んだのだ。
「あー梨咲ちゃんか」
「ここのマスター、梨咲のお爺さんやねん」
碧が扉を開けば、店内にベルが響いた。「いらっしゃいませ」と落ち着いた低い声で梨咲の祖父がこちらを一瞥した。
「向こう座ろっか」
以前に来た時と同様、店内にはそれなりのお客さんがいた。碧は空いていた奥の席を指差す。ちょうど、梨咲と座ったのと同じ席だった。
「沙耶香なに飲む?」
「無難に珈琲かなぁ」
木目柄の分厚い表紙をめくりながら沙耶香が呟く。淡々とシンプルなフォントで書かれたメニューの横には、素人感が溢れる商品のインサート写真が添えられていた。
「暑いから私はアイスカフェオレにしようかな」
「あ、それいいね。私もアイスにしよ」
こちらの会話が聴こえていたのか、二人が注文を決めたタイミングでマスターがこちらの席に近づいて来た。上げようとしていた手を収め、碧は軽く会釈する。碧の顔を見て、マスターは軽く笑みを浮かべた。
「確か、梨咲のお友達だったね?」
「あ、そうです。この間はご馳走していただいてありがとうございました」
「今日もお代はいいから、好きなものを頼みなさい」
「いえ、そんなの悪いですよ」
「梨咲が友人を連れて来るなんて珍しいことだから嬉しいんだよ。老人の頼みだと思って聞いておくれ」
困った碧が沙耶香に視線を向けると、彼女は肩を竦ませた。「仕方ないんじゃない?」と言いたげに上げられた眉を見て、碧は渋々頷く。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
そう言いつつ、遠慮気味にアイスカフェオレを頼めば、マスターがメニューをペラペラと捲り始めた。
「うちは、ホットケーキがオススメだから」
メニューの『ホットケーキ』という文字の横には、ハチミツが垂れた分厚い二枚重ねのホットケーキの写真が添えられていた。申し訳ないと思いつつ、あまりに美味しそうでつい頼んでしまう。
「テスト終わりのご褒美ってことね」
求めてもいないのに、沙耶香が碧の内心で呟いた言い訳をスパッと言い当てた。「そんなんちゃうから」と語気を強め、碧はすっかり暑そうな窓の外を見やる。
夏の装いをして立ち込める空気が、アスファルトの上に陽炎を浮かべていた。ビルの隙間から顔を覗かせた太陽の日射しは、小さな格子窓のこちら側をジリジリと焼き焦がしてくる。
「なぁ沙耶香。本当に賢人の家に行くつもりなん?」
至極、真面目な顔をして碧は尋ねてみる。顕になった彼女の耳殻がヒクリと動いた。少しだけおちゃらけた声で、「せっかく寿子先生が教えてくれたのに」と沙耶香の口元がほころんだ。
「そうなんやけど」
「せっかく宝塚まで行った意味がなくなっちゃうよ?」
「そうかもしれんな……」
「碧が寿子先生の連絡先を知ってたから、賢人くんの家が分かった」
「うん」
「本当は、もっと簡単に見つかるのかなって思ってたけど。春香に聞いたり、学校を尋ねたり。割と簡単じゃなかったよね。でも、ようやく賢人くんの引っ越した住所が分かったんだよ? 八年ぶりでしょ?」
碧が知りたいのは沙耶香の本心だ。彼女は賢人を探すのに必死になっている、その理由がどうしても分からない。沙耶香自身が賢人に会いたいわけではないだろうから、彼女は碧と賢人を何が何でも会わせたいのだ。それを素直に捉えれば、あの頃、思いを伝えられなかった碧の為に、お節介とも言えるほどの親切心で働いてくれている。だけど、それだけじゃないのは、はっきり分かっていた。だって、沙耶香は――――
「碧は、賢人くんに会いたくないの?」
ちぎれ雲が太陽を隠し、窓から射し込んでいた陽が陰った。橙色の照明だけが灯る薄暗い店内で、沙耶香の微笑が浮かぶ。仮面にも思える笑みの奥にあるのは、悪意なのか、優しさなのか。沙耶香の本音を知らない以上、今の碧には判断がつかないし、したくもない。沙耶香のことを嫌いになってしまう結末が待っていようとも、逃げ出すことだけは出来ないのだ。逃げ出した先には、最悪の結果しか待っていないから。全力で正面から向き合ってぶつかるしかない。そうじゃないと、沙耶香の本音を聞き出すことは出来ないはずだ。
その為には、傷つく結果が待っていようとも、悪意を持って立ち向かうしかない。
「うん。会いたいよ。もう一度会えるなら」
しっかりと抱いた悪意を剣にして、彼女と向き合う覚悟を碧は決めた。このせいで沙耶香に嫌われるかも知れない。失望されるかもしれない。だけど、そんなことはどうでもいいのだ。このまま、なぁなぁで過去を引きずったまま、沙耶香と一緒に居ても、一生心は晴れることはない。むしろ、いつか沙耶香の本心を不意にしり、自分が失望してしまうかもしれない。それだけは嫌だ。今は、ぶつかりあった末、彼女ともう一度、友達と言い合えるはずだと信じるしかないのだ。
急転した碧の反応に、少し驚きながらも沙耶香は満足そうに耳たぶをかいた。
「そっか。テストも終わったし、今度、教えてもらった住所に行ってみようよ」
「そうやな」
碧が頷いたのとほぼ同時、テーブルの上にアイスカフェオレとホットケーキが運ばれてきた。注文したホットケーキは一人前だったが、マスターは二人分のナイスとフォークを持って来てくれた。湯気が立つホットケーキの上で、ハチミツの掛かったアイスがじんわりと溶け始めていた。
グラスの底に沈んだミルクを、沙耶香がマドラーでかき混ぜる。調和されていく茶色と白をぼんやりと眺めながら、碧は苦味が充満した上層部の珈琲だけをストローで口に含んだ。
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