第5話
店内に響く甲高い呼び出し音、ざわざわと話す人の声、せわしなく往来する従業員。碧にとって、昼過ぎのまばらになったファミレスの賑わいは、勉強するのにちょうど心地のよいBGMだ。急な休講で時間が出来たので、申し訳ないと思いつつ、ドリンクバーだけでしぶとく粘りながら来週に控えるテストの勉強をしていた。
あー、とだらしのない声とあくびが出て、碧は大きく開いた自身の口元を手で隠す。ふいに緩んだ瞬間を、誰かに聞かれてやしないか、辺りを見渡すと視界の端に人影が見えた。
「あくび、発見!」
すっと迫った顔に、碧は「わっ!」と短い声を上げた。視界を覆った艶美な唇が柔らかく笑みを作ったと思えば、すーっと遠ざかっていく。ある程度の距離になって、その正体が梨咲であると気がついた。
「なんや、梨咲か」
「えらい残念そうやな。お化けが良かった?」
「こんな昼間からお化けは勘弁してほしい」
「確かに」
納得したように頷いて、梨咲は碧の向かいに座った。急に現れた彼女に、碧が不思議そうな顔をしていると、「座ったらあかんかった?」と小首を傾げた。
「ううん。急にやったから。どうしたんこんなところで?」
碧が拒否しないことを分かっていたように、彼女の手にはすでにメニューが握られていた。梨咲は、大きな冊子を開くと顔の方に近づけ、鼻から上だけをこちらに覗かせる。
「ファミレスに来たんやからお昼に決まってるやん」
「そりゃそうか」
昼食の時間にしては少し遅い時間だが、学校近辺の店は昼休み時だとかなり混むので、あえて時間をずらすのは珍しくなかった。パサッ、と大袈裟な音を立てて梨咲は冊子を倒す。美味しそうなメニューに、思わず碧も舌鼓を打ちそうになった。
「なんとなーく、エビフライが食べたくなって来てみたら、大きなあくびをしてる碧を見つけて、シャッターチャンスと思ってん」
「え? ちょ、写真撮ってたん?」
にっこりと悪戯な笑みだけが返って来た。その笑みに、真実はブラックホールに飲まれるように有耶無耶に消えていく。撮られていたとしても別に構いやしない。梨咲は悪用なんてしないはずだから。
「でも意外やなぁ」
「なにが?」
碧は、ドリンクバー用のプラスティックコップに入ったメロンソーダを口に含みながら小さく首を傾げた。梨咲は話しながらもメニュー選びに夢中だ。視線はずっと下を向いていた。
「碧って一人でファミレス入れるんやな」
「ファミレスくらい一人で入れるよ! 子どもじゃないやから!」
「えーでもこの間は、牛丼屋とラーメン屋は入れんって言ってたやん」
「それとこれとは別やろ」
「何が別なん?」
「入りやすさ?」
ふーん、と梨咲は喉を鳴らした。焼肉屋に一人で入れると豪語する彼女にはこの繊細さは理解出来ないことだろう。牛丼屋とファミレスでは明らかにハードルの高さが違う。ファミレスであっても少しは緊張してしまうのだが、碧はそのことをあえて口に出さなかった。自らからかいの餌を撒くほど甘くはない。沙耶香に鍛えられたお陰と言える。
「碧は何も食べへんの?」
呼び鈴に手をかけた梨咲が、逆の手でメニューを碧の方に向けた。人気メニューだと真っ赤な文字で謳われた写真には、こんがりと焼けたハンバーグから黄色いチーズがトロけ出している。最近の不摂生のために、減らした昼食が胃袋に隙間を作っていた。ぐぅぅ、と鳴りそうになるのを堪えて、碧はかぶりを振る。
「私はもうお昼食べたから」
「デザートはいかがですか?」
「やめとく。太るの怖いし」
「ほら、モンブランとか美味しそうだよぉ」
「だから、頼まんって」
「誘惑には弱いタイプかと思ってたのに」
「意外と強情なんやで」
へぇー、とまるで碧を分析するように梨咲の双眸が細くなった。まなじりの隙間から楽しさが滲み出している。
「仕方ないな。少しだけ分けてあげようかな」
「だからええって」
本当は食べたい碧の内心を読んで、梨咲は笑みを浮かべる。端麗な容姿に余程の自信があるのか、梨咲の所作のひとつひとつには色気が溢れていた。意図的ではないはずだが、見せびらかすように彼女は髪をかき上げながら、注文を取りに来た店員にエビフライプレートを頼んだ。オーダーを聞く店員もどこか恥ずかしげだった。
「碧は勉強してたん?」
手持ち無沙汰だったのか、梨咲は飲み干したグラスの中の氷をくるくる回しながら真っ黒な瞳をこちらに向けた。
「そうやで。来週、中間テストやから」
テスト範囲をまとめた自習用のルーズリーフを碧は梨咲に見せる。カラフルなペンでしっかりと要点が押さえられた実に見やすいノートだ。
「やっぱり碧のノートは見やすいなぁ」
コップの中で回した氷を勢いよく口の中に放り込み、梨咲は氷をガリッと噛み割った。口内が染みたのか「つっー」と梨咲は顔を引きつらせる。「何してんの?」と碧が笑えば、梨咲も同じようにケラケラと笑った。
「それで、梨咲の方は大丈夫なん?」
「ん? テスト? 平気、平気、中間あるのは碧と一緒に受けてる授業と言語だけやから。まぁ言わば、ノートとらせてくれる碧のお陰だ」
エビフライプレートが届き、碧はテーブルの上に広げていたものを自分のそばに寄せた。鉄のプレートに乗ったエビフライと小さなハンバーグがパチパチと香ばしく弾けていた。
「梨咲は、もとから頭ええんやろ? うちの大学の文学部って一番難しいやん。私のノートがなくたって授業さえちゃんと受ければ、ええ点数取れるんとちゃう?」
「そうかもしれんけど、眠たいから困ってるんだなぁ」
「真面目に受ければええのに」
「眠いんやもん」
「バイトなぁ」
梨咲にはバイトをせざるを得ない事情があるのだろう。それを聞くのは野暮なことだ。それに彼女は碧と同じ講義をサボったことはまだ一度もない。資料を借りる相手が見つかっているのだから、サボったって何も問題はないはずだ。それでもそれなりの時間をかけて、眠いはずの講義に彼女がやって来るのは、借りる側の最低限の礼儀として彼女自身が作ったルールなのかもしれない、と碧は勝手思っている。だから碧は彼女が寝ていたってノートを貸して上げるのだ。
「でも、むしろノート見るだけで大丈夫っていうのも凄いよな。私なんか授業をちゃんと聞いてノート取って真面目に復習しないとついていけそうにない。梨咲って本当に頭いいんやな」
「こう見えてもね」
「誰も外見のことは言ってへんやん。てか、否定しないんや」
「真実は、褒め言葉として受け止めておかなくちゃ。さぁ、せっかくのエビフライが冷めちゃう」
おいしそうー、と梨咲は子どもみたいにはしゃぎながら、ナイフとフォークを手に取った。その爪はネイルやマニキュアもない綺麗なものだ。
「梨咲は素直やなぁ」
「碧も結構、素直ちゃう? 顔にすぐ出るタイプ」
「それ馬鹿にしてるやろ?」
「ハハっ、バレた?」
タルタルソースの掛かったエビフライにナイフが入り、サクっと半分に割れた。こんな風にきっぱりと割り切れたなら、梨咲が咀嚼する切れ端のように自分の中にうごめく悪意を飲み込めたなら、過去を払拭できるのだろうか。生まれて初めて囚われている過去を前に、碧は立ち向かうすべを知らない。けど、梨咲と話していると、人と打ち解け合うのはこんなに簡単なことだったのだと彼女は錯覚させてくれる。
「梨咲とおるとなんか安心するわ」
「なに、嬉しいこと言ってくれるやん?」
大きな硝子窓から差し込むどこか夏っぽい春の陽気と無垢な梨咲の笑みが、不意に碧の心の奥で閉ざされていた扉の鍵を開けてしまう。自分の口が動いていると気付いたのは、梨咲がおかしそうに首を傾げたからだ。
「梨咲にも忘れたい過去ってある?」
無意識に発した言葉が、耳鳴りのように小さな碧の耳の中で何度も反響していた。
「なに、急に?」
口元についたソースを梨咲は丁寧に紙ナプキンで拭う。声のトーンが変わった碧を前におどけたフリをして見せるが、その言葉はどこか冷静だった。
「いや、なんとなく」
変な質問をしてしまった。下手なはぐらかしが余計に恥ずかしく碧が顔を伏せれば、濡れた仔犬に話しかけるみたいに梨咲の声は優しいものになった。
「私は忘れたいことはないかな。今までがあっての私やし、出来れば何も忘れたくない」
「いいことも、悪いことも?」
碧が顔を上げれば、うん、と梨咲ははっきり頷いて「そんなわけにもいかんけどな」と口端を上げた。それからすぐに彼女の纏う空気感が真面目なものに変わり、梨咲の目が碧をじっと見つめる。
「日々、色んなことを忘れていってるなって思う。小学校の同級生の顔や楽しかったはずの思い出、それに嫌いだ、絶対に許さない! なんて思ったはずのことも。数えたらきりがないくらい。振り返ると今まで歩いて来た道が霞んで見えてる気がする」
「梨咲もそう思うん?」
「ってことは碧も?」
共感してもらえたことが嬉しくて、碧は大袈裟に頷いてみせた。梨咲も同じ悩みを抱えている。自分だけじゃなかった。それだけで不思議と安心感がこみ上げてきた。
「みんな昔のことをちゃんと覚えてて、私はすぐに忘れちゃうから。ずっと寂しかってん」
「本当にそうかな?」
「え?」
急激に鋭さを持った彼女の双眸から、感情という色がすっと抜け落ちていく。まるで無機質な素材で出来てるみたいな冷たく透き通った瞳に、萎縮した自分の姿が映り込んだ。責められたような気がして目を伏せた碧に、「ごめん、ちゃうねん」と梨咲は瞼を閉じて長い髪を揺らした。
「忘れるって本当は無意識なんやろなって思う。みんな過去を振り返ろうとも思わんから、忘れてることにも気づかん」
碧は自分のことを忘れっぽい性格だと思っていたけど、梨咲みたいに考えたことはなかった。――回顧するからこそ、記憶の忘却に気づける。皆は前ばかり向いて、誰も自分が忘れていることにも気付いていないのだ。「みんな無自覚なんやで」と梨咲は少しだけ語気を強めた。
「忘れるのは悪いことやと梨咲は思ってるん?」
「そんなことは無いよ。やけど、忘れてることにも気づかへんのはひどいことやと思う。みんな忘れてるのに、忘れていないフリをしてるのは好きちゃうかな」
「梨咲は、昔のことをよく振り返るん?」
「どうやろ? 出来るだけ振り返らんようにしてるつもりやけど、気付いたら考えてもうてることもある。だから忘れてることを悔いるんやと思う」
大人っぽいリップにコーティングされた唇が、なんとも言えない切なさを紡ぐ。ハンバーグのソースにつかないように、髪を押さえる仕草がやけに色っぽく、彼女のことについて知りたいという碧の好奇心を掻き立てた。
「梨咲、喫茶店で好きな人が遠くに言っちゃったって話してくれたやん。今でも忘れられへんて。考えるのはそのことなん?」
「うん。きっと私はその人に縛られ続けるんやと思う。忘れたくても忘れられへんから。やけど、それも含めて私の人生やし、向き合い続けなあかんことなんやなって。不思議なんやけどそう思った時から、むしろ楽になってん。忘れられへんならとことん向き合って生きていこうって」
「向き合って生きていく?」
「好きやの嫌やのなんて話、大袈裟で馬鹿みたいに思うかも知れへんけど、私の人生にとって、あの出来事はそれくらい大部分を占めてるんやと思う」
「ううん。馬鹿になんかせぇへんよ」
ファミレスの窓越しに見えた五月の空は真夏の空みたいに高かった。梨咲の話す「遠くへ」という響きが、薄く小さなちぎれ雲の向こうにすっーと消えていく。
碧だって沙耶香との向き合い方に悩み、賢人という過去に縛られている。梨咲はとっくの昔に自分の過去と向き合う覚悟を決めたのだ。碧はというと未だに、逃げることばかり考えていた。その事実を重く受け止めると、視界がぼんやりと滲んできた。
「私、自分が忘れっぽいんやとずっと思ってた。やけど、肝心の忘れたいことをどうしても忘れらへんくて。それがずっと辛かってん」
「それって普通ちゃう?」
「普通?」
ぱちり、と瞬きした拍子に、大きな粒が頬を伝った。はっきりと晴れた視界の真ん中で、なんでもない笑顔を梨咲が浮かべていた。
「だって、大切なことやから忘れられへんのやろ? 人によって何が大切かは違うし、だからみんな思い出はバラバラであるべきやと思う」
「やけど、自分だけ忘れてるって寂しくならん? みんな思い出話で盛り上がってる時に入れなかったり」
「そういう時もあるよな。やけど、無理に共有しようとする必要はないはずやで」
「どうして?」
「そりゃ、みんなと話せたら楽しいと思うよ。だけど、私には私の思い出がちゃんとあるから。みんなと同じにする必要はない」
みんなと思い出話を共有できないことが、罪だと思っていた碧にとって梨咲の言葉は衝撃だった。今まで誰も認めてくれなかった碧の行いが初めて許された気がした。「あの時は、あーだったね、こーだったね」と盛り上がる輪に入れなかった自分。だけど、それは悪いことじゃないんだ、と梨咲が教えてくれた。
「それぞれに気持ちがあって思い出がある。碧にとってそれは忘れちゃいけない大切なことなんちゃうかな?」
「それって、好きで居続けることが辛いことでも?」
「碧に何があったのか分からんから変なことは言われへんけど。人を好きになるって素敵なことやと思う。人生においてわずかな時間やったとしても、その人を好きやった時間は嘘じゃないから。キラキラした大切な宝物をわざわざ捨てるなんてことせんでええんちゃうかな? もちろん、ひどいことをされたやとか、辛い思いをさせられたって言うんなら別やけど。碧はそうじゃないんやろ?」
頷いた拍子にこぼれた涙が、ルーズリーフのインクを滲ませる。何度も拭ったせいで、柔い瞼はヒリヒリと痛んだ。慌てて片付ける碧に、梨咲がさらに尋ねる。
「その人を好きやったって記憶まで忘れてしまいたいん?」
「違う。忘れたいんは、そのせいで友達を傷つけてしまってるかもしれんから」
握りしめたルーズリーフに、ぐしゃりとシワが寄る。浅い息を吐きながら、梨咲は頬杖をつき、柔らかく目尻を細めた。
「そういうことか。碧はやっぱり優しいんやな」
「どうやろ……私はひどいと思うんやけど」
沙耶香が傷ついてしまうからなんて、言い訳でしかない。結局は、自分が傷ついてしまうのが怖いからなのだ。それを優しさと呼ぶのはあまりにおこがましい。だからこそ、しなくちゃいけないことに分かった。いい子ぶるのはやめよう。にこやかな梨咲の表情に、沙耶香の顔が重なる。その唇がゆっくり動いた。
「そっか。自覚症状あるなら大丈夫なんちゃう?」
「え、なんか急に適当ちゃう」
「あ、バレた? 早くしないとハンバーグが冷めちゃうから」
そう言って、梨咲はプレートにハの字に置かれていたフォークとナイフを手に取る。すっかり大人しくなった鉄板の上で、ハンバーグの肉汁が溢れ出した。
「もー。急に真面目じゃなくなるんやから。でも、なんかちょっと楽になったかも」
「ふふっ、私が相談に乗ったからなぁ」
したり顔の梨咲は、待ち焦がれたように料理を口に運んでいく。解決はしていないけど、やらなくちゃいけないことに覚悟が出来た今、碧の心は少しだけ軽くなった気がした。朗らかな笑みがこぼれ、ふと腕時計に視線が落ちた。
「あ。もう授業始まってもうてるやん」
「ええよ。今日くらい休んだって」
「やけど、二人とも休んだらノート取れへんやん?」
「そうやけど、講義以上に有意義な人生相談やったと思うで。それにノートなんか誰かに借りればええねん。碧がな」
「なんで私が? 梨咲の方がそういうの得意やろ!」
「得意とは失敬な」
「真実は、褒め言葉として受け止めるんやろ?」
思わぬ切り返しだったのか、梨咲は楽しそうにケラケラと笑った。少しだけ気分が良くなり、碧はモンブランを頼む。今日は碧が初めて授業をサボった記念日だ。
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