第3話

 沙耶香と帰る時の待ち合わせ場所は、キャンパスの中央付近、食堂が入っている棟の階段の下にある広場だ。芝生が茂りちょっとしたくつろぎスペースになっている。学部別で大まかに校舎が分かれているため、ここが二人にとってちょうど中間地点なのだ。

 

 だけど、碧の授業が早く終われば、トボトボと歩きながら沙耶香がいる教室の前まで迎えに行くこともある。遠回りになるからわざわざ来なくてもいいのに、と沙耶香は笑うけど、迎えに行った分だけ一緒にいる時間は増える。少しでも一緒にいて話をして笑っていたい。それが碧の本音だ。

 

 そもそも待っている間のドギマギしてしまう感覚が碧は苦手だった。自分から迎えに行けばその感覚を少しだけ抑えることが出来る。手紙のやり取りを沙耶香としていた時も、それがメールやSNSに変わってからも、相手の返信を待つ時間の過ごし方がよく分からなかった。そわそわと落ち着かないせいで、他のことが手につかなくなってしまう。

 

 だけど今日は、授業の終わる時間が微妙だったので、大人しく広場のベンチに腰掛け待っていることにした。妙なタイミングで、入れ違いになるといけない。心配しなくとも沙耶香はちゃんとやって来る。そう言い聞かせながら、碧は来週の中間試験の資料に目を通し始めた。

 

 しばらく時間が過ぎ、終業のチャイムがキャンパス内に響いた。そのベルの音が碧の気持ちを焦らせる。もうすぐ来るよ、と心臓の鼓動が語りかけてくるけど火に油だ。パタパタとスニーカーを交互に芝生にぶつけて気持ちを落ち着かせる。舞い上がった青い芝生の匂いが、花粉と混じり合い鼻をむず痒くさせた。

 

「ごめん、ごめん。待った?」

 

 背後から飛んできた沙耶香の声に、碧は上を向く。碧の背ほどの段差の上から沙耶香が顔を覗かせていた。真っ青な五月の空をキャンバスに、まだ見慣れない沙耶香のショートヘアが風になびく。

 

「ううん。勉強してたから」

 

「図書館でもしてたよね? 中間?」

 

 碧の座るベンチの横にあるコンクリートの階段を回り込み、沙耶香は碧の元までやって来た。

 

「うん。初めてのテストやから、ちょっと頑張らなあかんなって」

 

「そっか」

 

 すん、と澄ました顔で沙耶香は碧に背を向けた。そのシルエットは碧の知っている彼女ではない。綺麗な項を見つめているのが恥ずかしくて、碧はふと空に視線を逸らす。てっぺんから少しだけ傾き始めた太陽は、春から夏へと趣を変え始めていた。もうすぐ暑い夏が来る。そんな空気を感じるたびに、碧は賢人のことを思い出してしまう。あの日、寿子から掛かって来た一本の電話。その内容を沙耶香に告げるべきだと思うのに、雰囲気の変わってしまった彼女を前に、碧はなかなか言い出せないでいた。

 

「そういえば、図書館でどっか寄ろうって行ってなかった?」

 

 小首を傾げながら沙耶香は踵を返した。その髪がすっきりしたせいで、くりっとした目元がいつもよりはっきり見えている。彼女の双眸を縁取る長い睫毛が揺れるのを見つめながら、碧は小さく頷いた。

 

「うん。梅田に寄りたいなぁって」

 

「梅田か。いいよ。急ぎの用事?」

 

「ううん。急ぎちゃうよ」

 

 座っていたベンチから立ち上がり、碧は一歩踏み出した。雲ひとつない青空から注ぐ陽射しが、芝生を優しく撫でている。スニーカー越しに感じる太陽の熱を、碧は力いっぱい踏みしめた。

 

「それじゃ、先に付き合ってもらってもいい? もうすぐバイト代出るから夏物を見ておきたくて」

 

「あ、私も見たい」

 

「よし決まりだ」

 

 口端を上げた沙耶香の手を碧はすっと掴んだ。ふいに掴まれた沙耶香の手にぐっと力が込められる。

 

 その感触が心地よくて、碧は強く握り返してみた。胸のつかえが取れた時、こんな風にして彼女の手を引くことはもう出来ないかもしれない。だから今のうち。そんな寂しい考えを誤魔化すように、碧は精一杯笑みを浮かべた。

 

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