第9話
皿に残ったピザの耳を、沙耶香はゴミ箱に投げ入れた。もやもやした気持ちと一緒に捨ててしまいたのだけど、人の感情はこびりついた油汚れのように落ちにくい。碧のように簡単に忘れられれば、どれほど楽なんだろうか。
「まだくよくよしてる」
小さな照明だけが残るキッチンで沙耶香が皿を洗いると、カウンターに肘をかけ真央が覗き込み冷やかしてきた。
「そんな簡単に解決しませんよ。そりゃ、真央さんに色々アドバイスを持って、なんとかしなくちゃって気持ちにはなりましたけど」
「私がもっといい大人だったら、沙耶香ちゃんを楽に出来たんかな」
カウンターにもたれるようにこちらに背中を向け、真央は店内をじっと眺めた。オレンジ色のぼんやりとした照明だけが残った店内は、いつも流れているBGMも消え、切なさだけが充満していた。沙耶香は蛇口の水を止め、脱水用のタオルを手に取る。
「そんなことないです。真央さんに話を聞いてもらえて嬉しかったんですよ。今まで誰にも話せなかったことを真央さんには話せた。それで少しだけ楽になったんです」
「楽になったなぁ」
視線を天井に向け、真央はため息のような声を出す。皿を拭く手を止めて、沙耶香はオレンジの光でぼやける真央の背中を見つめた。
「楽になっちゃダメでしたか?」
「ううん。たぶん私は沙耶香ちゃんを楽にしたかったんやろな。やけど、これから沙耶香ちゃんに待ち受ける試練を思うと、そうしたんは正しかったんかなって」
「少なくとも今は真央さんに感謝してます」
「これからどんなことがあっても?」
振り返った彼女の双眸は、迷いなく沙耶香の目を見つめた。シルバーのスプーンのような煌めきを持った美しい瞳から沙耶香は視線をそらせない。
「それはわかりません」
無意識のうちに素直な言葉を紡いでいた。沙耶香のその反応を見て、真央の瞳が瞼に隠れる。長いまつげが目元を覆い隠した。すぐに開かれた目は、少しだけ柔らかい色をしていた。
「私は今でも、沙耶香ちゃんに嫌われたくないなぁ、って思ってる。良き先輩で、良き後輩。そんな他愛もない関係やったらええなって。やけど、沙耶香のことを見てたら昔の自分を見てるみたいでいたたまれなくなんねん。やから、嫌われてもええ。沙耶香ちゃんには後悔のない道を進んで欲しい」
「私は、どうすればいいんですか?」
すがる思いだった。碧との向き合い方、過去との向き合い方。それを教えて欲しい。単純にそう思った。だけど、真央は助けを求めた沙耶香を突っぱねる。
「それは沙耶香ちゃん自身が考えて決断せんとあかんことやろ? 私に出来るんは、沙耶香ちゃんの話を聞くこと、それから決断を後押しすること。どうするべきかは言ったらあかん。もちろん、ダメな時は止めて上げる。でも、前も言ったやろ? 傷つかないと分からんこともあるって」
真央が話すその言葉の真意を、沙耶香は未だに分からない。だけど、少なくとも逃げてもいいとは言っていないはずだ。キッチンに転がっていたボウルに歪んだ自分の顔が写り込んでいる。
奥底にある気持ちを告げるべきだと、真央は言っていた。そして、沙耶香はまだその内なる思いを誰にも明かせていない。残った照明を、真央が一つずつ消していく。さらに暗くなっていく店内に向かって、沙耶香は小さな声を出した。
「真央さん。実は、私、まだ言えてないことがあるんです」
「なに?」
「賢人くんは、碧のことが好きだったんです」
説明もなく沙耶香は二人を言ってしまうが、真央は察したように頷いた。
「それは沙耶香ちゃんの勘?」
「いいえ。間違いないです。私のせいで賢人くんは碧に気持ちを伝えられなかった」
きっと、自分が余計なことをしなければ、碧は賢人の思いを知ることが出来た。それに賢人は自分の思いを秘めたまま死ぬこともなかったのだ。涙は不思議と溢れて来なかった。その理由を真央がすぐ教えてくれた。
「傷つく覚悟は出来たん?」
「はい。怖いですけど」
「そっか。なぁ、沙耶香ちゃん。髪切ってみいひん?」
「髪をですか」
「決意表明っていうとベタかな? しいて言えば、私が沙耶香ちゃんの髪を切ってみたくなったから。ダメ?」
美容師を志す彼女なりの優しさに違いない。長く伸びた自分の髪を、沙耶香はそっと手櫛で撫でた。
「いいえ。是非、お願いします。あの子と離れてしまった心の距離を埋められるくらい」
「分かった。よし、それじゃ、今から家に来れる? さすがにここで切ったら店長に怒られちゃう」
真央は口端を上げながら、指でハサミを作り、髪を切る素振りをしてみせた。
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