第8話

 沙耶香の隣で碧が寝息を立てていた。ゆらゆらと揺れる碧の首が、電車のブレーキのたびに沙耶香の方に倒れ込んでくる。うっすらと灯り始めた街の電飾が、電車の窓を少しだけ鏡に変える。怖い顔をした自分の表情を見て、乾いた笑みがこぼれた。

 

 結局、碧にあの表情の真意を追求することは出来なかった。自分の知らない事実を突きつけられたらどうしよう。今の自分は、ナイフを持ったまま、何も持っていない相手を恐れている臆病者だ。心地よさそうに眠る碧の表情は、無防備そのものだった。

 

 JR猪名寺に到着するアナウンスが流れ、沙耶香は碧の肩を揺すった。「うん?」と随分と間抜けな声を出して、碧が目を覚ます。

 

「もうすぐ着くよ。一人で帰れる?」

 

「大丈夫だよ!」

 

 ムクッと立ち上がった碧は、電車のブレーキによろける。眉根を下げながら見ていた沙耶香に「へっへ」と碧は可愛らしい笑みを返した。

 

「また学校でね」

 

 手を振る碧と沙耶香を分かつように、扉が閉まっていく。彼女は覚えていないのかもしれないが、沙耶香が東京に行くときもこんな風に扉が二人の間を裂いた。あの時の碧は号泣していて顔がぐちゃぐちゃだったけど。だから、こういう別れ際を沙耶香は好きじゃない。寂しい気持ちが胸の奥から溢れ出しそうになる。

 

 すぐに電車は塚口駅に着き、沙耶香は電車を降りた。すっかり夜闇に飲み込まれた駅舎から遠ざかっていく電車は、なんとも言えないノスタルジックな雰囲気があった。

 

 春香たちと会ったファミレスがある方とは逆側の出口が、沙耶香の家への経路だ。駅前にはこぢんまりとしたタクシー乗り場と民家に併設された煙草屋、薄暗い道を照らすコンビニだけがあった。

 

 幹線道路へと続く細い道を、駅舎を背に進んでいく。春とは言え、忍び寄る夜闇は肌寒さを共に連れてくる。大通りに出ると、赤いテールランプがイルミネーションのように連なっていた。横断を許さない赤い信号機が、無愛想にこちらを見つめている。

 

 疎水に押しつぶされる形で狭くなった大通り沿いの歩道をトボトボと進んでいくと、大きな建物が見えてくる。ピッコロシアターという県立の劇場だ。コンクリート造りのお洒落な外観は、静かな街並みにすっかり溶け込んでいる。

 

 歩道橋を渡り、沙耶香はぼんやりと黄色い照明に照らされた劇場を眺めた。小径に入った先にある入り口の大階段を見て、恥ずかしく懐かしい出来事を思い出す。またバイト中に思い出にふければ店長から怒られてしまうことだろう。目を閉じれば、あの頃の賢人の声が聴こえて来る気がした。確か、あの日も肌寒い春の夜だった。小学校へ入学した直後、五月のことだったと思う。

 

 母に反抗したのは初めてのことだった。今になって思えば、何がそんなに気に食わなかったのか、稚すぎる出来事ではっきりとは覚えてはいない。怒鳴ったせいで喉の奥がヒリヒリと痛んでいた。こみ上げてくる感情を何かにぶつけることの無意味さを、沙耶香はすでに知っていたから、傍若な振る舞いしか出来ない自分がとても不甲斐なかった。その場に留まっていることがどうしても出来なくて、沙耶香はふいに駆け出す。玄関で裸足の自分を見て、一瞬だけ冷静さが顔を出した。靴を履くのに腰を下ろしていては母に止められる。そう思って、サンダルを履き、家を飛び出した。

 

 街はすっかり夜の空気に包まれていた。普段の沙耶香なら夜闇の恐怖に足をすくませたかもしれない。だけど、大荒れになった感情を止めることはなかった。無我夢中で、街を走り抜ける。自分がどこに向かっているのか、どこに行きたいのかなんて分からない。踏切に侵入したタイミングで、遮断器が降りてきた。後ろから追いかけてきているだろう母を文字通り遮断してくれる。警報機の音は徐々に遠ざかって行った。

 

 大通りへ出てから沙耶香の足取りはゆっくりになった。無機質な景色に流れていく車の列を眺めていていると、知っている街並みとは別世界のものに思えてきたからだ。夜の街はまるで仮面を被ったように恐ろしい。ひんやりとしていて、ぶっきらぼうなくせにじっとこちらを睨んで「悪い子はどこだ?」とわざとらしいことを投げかけてくる。「分かってるやろ?」と沙耶香は一人呟いた。

 

 見慣れない景色が目立ち始めた。それが夜のせいなのか、自分が気づかぬ間に遠くまで来てしまったせいなのか。サンダルで走っていたせいか足が痛い。寂しさか悔しさか悲しさか、無性に涙が溢れ出してくる。ぼんやりと光りの中に浮かんでいた建物が見えて、沙耶香はその階段に腰掛けた。入り口には大きく『ピッコロシアター』と書いてあった。景色が潤んでいく。拭っても、拭っても、涙は止まらなかった。

 

 ――悪いのは全部ママだ。

 

 そうじゃないことくらい分かっている。分かっているけど、そう口走らなければ孤独に心が押しつぶされてしまいそうだった。

 

 こぼれる涙を拭うたび、目尻の薄い皮膚がヒリヒリと傷んだ。その痛みがまた次の涙を呼んで来る。帰りたい。そう思った時だった。

 

「沙耶香ちゃん?」

 

 ふいに名前を呼ばれて沙耶香は顔を見上げる。白い光の中から伸びた小さな手を、沙耶香は握った。引き上げられると、可愛らしい顔の男の子が心配そうな顔でこちらを見つめていた。どうして私のことを知ってるの? そう訊こうとして、その子が同じクラスの男のだと気がつく。

 

「賢人くん?」

 

「あ、覚えてくれてたんや」

 

 そう言って、賢人は破顔した。その顔が無性に可愛らしくて、沙耶香は今までに感じたことのないほど胸が高鳴った。車のクラクションが、静けさに満ちていた路地にざわめきを与える。柔く吹いた風に葉が擦れて、カサカサと音を立てた。それに驚いた黒い野良猫が身を震わせながら、真っ黒な世界の割れ目の中へ逃げ込んでいく。そうして再び訪れた静けさに包まれて、世界は落とされた照明の中だけになった。初めて繋いだ男の子の手はとても小さく、だけど少しだけ安心した。

 

「なんで賢人くんがここにおんの?」

 

 こくりと傾げた沙耶香に、賢人は身体を捻り背中を見せてきた。大きなリュックがまん丸く膨らんでいる。よく見れば、彼は何かのユニフォームを着ていた。

 

「サッカーの練習」

 

「サッカー?」

 

「うん。近くにある小学校で練習してんねん。帰ろうと思ったら、沙耶香ちゃんが歩いてるんのが見えたから追いかけて来た」

 

 泥で汚れたソックスは、左右アンバランスの高さになっていた。擦りむいた膝は、綺麗に洗われていたが、赤く血が滲んでいる。

 

「沙耶香ちゃんはなんでここにおんの?」

 

「え、それは……ママと喧嘩してもうて」

 

「そっか。なら、謝らなあかんな」

 

 手を引かれ、階段を降りていく。道の脇に子ども用の自転車が止まっていた。「帰ろう」と笑いかける賢人に、沙耶香は頷く。自転車を押す賢人に着いて見慣れない道を帰って行く。何か会話をしていたのかもしれない。だけど、高鳴る胸の音だけが記憶に残っていて、それ以外の音は覚えていなかった。街灯の下を通り過ぎるたびに、賢人の顔がはっきりと見え恥ずかしくなる。家に着くまでの間、沙耶香はじっと横顔だけを見つめていた。

 

 

 ぱっと着いた部屋の灯りに、あの頃と同じ輝きを感じる。おしゃれに飾り付けたはずの部屋がやけに虚しい。眩い光が目にしみて、沙耶香は思わず瞼を閉じてしまった。沙耶香が賢人を好きになったのは、碧なんかよりもずっと前のことなのだ。

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