第7話
白い紙袋が一歩前を行く碧の手の中で揺れていた。落ち着いた紫色の花柄に、春の陽射しが眩く反射する。相手方の好みが分からないため、無難なケーキを何種類か買った。「あんまり揺らすとケーキ崩れちゃうよ」と沙耶香が注意すると、碧はピタリと振っていた腕を止める。
「そこまで静止しなくても大丈夫じゃない?」
「沙耶香が動かすなって言ったんやろ」
木漏れ日が、深い緑の隙間から差し込む。細い車道に挟まれた舗道の脇に植えられた桜の木はすっかり緑に衣替えしていた。夏に向けてあんなに着込んで暑くはないのだろうか、と沙耶香がぼんやりと考えていると、「くしょん」と碧が小さなくしゃみを飛ばした。
二人が歩いているのは、『花の道』と呼ばれる阪急宝塚駅から宝塚歌劇団の大劇場へと続く道だ。レンガ調の建物が並び、植木鉢の花から甘い香りが漂う、どこか欧州を思わせる紺色の鉄橋にも花の柄が描かれていた。
鉄橋の脇を抜ければ、オレンジの屋根が映える大きな建物が見えてくる。ベージュのレンガで造られた立派な正門には、女性のファンが往来していた。その奥に見える大劇場を見て、二人は黄色い声を上げる。熱狂的なファンでなくとも、秀麗なこの雰囲気に憧れるのはどうしてだろうか? 碧の目も少しばかりキラキラ輝いて見えた。中にはグッズなどを売っているお店もあるのだが、本懐はそこではない。
「でも、写真だけ撮っておこうかな」
「本当に、撮るの好きやなぁ」
碧のその言葉は嬉しくもあり、同時に切なさを内包していた。自分の求めていることは、本当に大人っぽく正しいことなのか、懐疑的になってしまう。
碧のスマホに表示されている地図を頼りに花の道をさらに進んでいく。花の道が交差点とぶつかる頃に見えてくるのは、宝塚音楽学校の生徒たちが入寮するすみれ寮だ。劇場と同じカラーで建てられた真新しいマンションで、宝塚ファミリーランドという遊園地の跡地に近年建てられたものらしい。その遊園地には、幼い頃、何度か遊びに来たことがあるはずだが、さすがに写真に残った自分の記憶しかなかった。
手塚治虫ミュージアムを目印に右折をして、宝塚大橋を渡っていく。橋の中間辺りで振り返れば、貫禄さえ感じる美しい大劇場が温かな春の陽射しに包まれていた。武庫川の水面にはねる光が、キラキラとレンガの目を埋めていく。それから住宅街を歩けて、大きなマンションの下にたどり着いた。
「ここ?」
「この住所通りならここやと思う」
八年の歳月が経っているとはいえ、沙耶香の見立てでは彼女はまだ三十代前半のはずだ。少し緊張気味に二人が入ったエントランスは随分立派で、賃貸には見えない。その上、明らかに一人暮らしをするマンションではなかった。
碧がエントランスにあるインターホンのボタンを操作している間に、彼女が結婚をしている可能性に沙耶香はようやく気がついた。今日は、土曜日だからもしかしたら旦那さんがいるかも知れない。先生の家に行くという緊張の上に、また別の緊張が乗っかり、沙耶香はゴクリと固唾を飲む。
「はーい」
銀色の艶が光る綺麗な呼び出し機越しに明るい声が聴こえた。なんとなく聞き覚えのある声に、きっと彼女が山田先生なのだろう、と沙耶香は思う。「あ、柏木碧です」と碧が名乗れば、食い気味に「今、開けるね―」と女性は応えた。
凛々しさすら感じるエレベーターに乗り込み、九階を目指す。マンションの雰囲気のせいか、二人して黙ったまま変わりゆく文字盤を眺めていた。九階に着き、広い廊下に右往左往して、碧はスマホに記された番号の部屋を探す。「あっちだ」と嬉しそうに、ホテルみたいに綺麗な黄金色のプレートを指差した。
インターホンを押し、しばらくすると綺麗な女性が顔を出した。薄れていた記憶が、花を咲かせたようにぱっと開く。歳のせいか以前よりも肉付きはよく見えるが、それでも体躯は細かった。長い黒髪は後ろで結んだ彼女は「いらっしゃい」と黒いメガネの縁を支えながら小さく会釈した。
「こんにちは。お久しぶりです」
ちょこっと頭を下げた碧に少し遅れて沙耶香も頭を下げる。その様子を見ていた寿子がクスリと笑みをこぼした。
「二人とも硬い、硬い。さぁ入って」
「お邪魔します」
仲良く声をハモらせ、二人は中へ入る。玄関には、男性用の革靴と子どもようのピンクの可愛らしい小さな靴が並んでいた。やっぱり結婚してるんだ、と思ったのも束の間、玄関のすぐそばの扉から、まん丸い顔の女の子が顔を覗かせていた。
「ほら、さくらちゃん。お姉ちゃんたちに、ちゃんと挨拶しないとダメだよ」
スリッパを並べながら、寿子は子ども用の少し甘えた声を出す。まだ拙い言葉でさくらが「こんにちは」と大袈裟にお辞儀をする。
「かわいい」
とろりとした目をして、碧が飛びつくようにさくらの頭を撫でた。気持ちよさそうに破顔したさくらは、碧の胸の中でコロコロと甘える声を出す。
「お姉ちゃん。お名前は?」
「私は、碧だよ。こっちのお姉ちゃんが沙耶香ちゃん」
「あおいちゃんとしゃやかちゃん?」
「そうだよぉ。偉いねぇ」
碧は猫なで声で、さくらの柔らかい頬に自分の頬を擦り付けた。童顔な碧は、ほっこりと赤く染まっている。腰元に手を当てた寿子が微笑ましそうにその姿を眺めていた。
「教え子が娘をあやすなんて夢見たいやね。碧ちゃんは子どもの面倒を見るんが得意なんかな?」
「どうなんでしょう? 子どもは好きですけど」
碧のワンピースの胸元を、さくらがぐっと引っ張る。寿子の方を向いた碧の意識を自分の方に向けたいらしい。可愛らしい嫉妬に、碧の目は焼かれたマシュマロのように溶けた。
「沙耶香ちゃんも久しぶり。この春に帰って来たんやって?」
「はい。大学をこっちにしまして」
「それじゃ、ご両親とは離れて一人で暮らしてんの?」
「ご飯とか洗濯とか大変ですけど、今までやってもらってた分のありがたみが分かりました」
お母さんは大変なんやで、と寿子は胸を張る。小学校の頃は、大きく見えていた彼女の背丈はすっかり沙耶香より小さかった。
「そうそう、玄関で長話せんと入って入って」
そう言って寿子は、碧にひっつくさくらの手を引こうとする。だが、さくらは離れようとせず、碧の手をぐっと握った。結局、碧がその手を引く形でリビングへと向かう。
木を基調とした温もり溢れるリビングは、生活感にあふれていた。旦那さんと築いているだろう日常を垣間見た気がして少しだけ恥ずかしい気持ちになる。大きなテレビ台の棚には、女の子向けのアニメグッズがチラホラと並べられていた。きっと、さくらに合わせた生活スタイルになっているのだろう。ソファーに腰掛ければ、さくらは碧の隣にひょっこりと座った。
「つまらないものですが」
碧が百貨店で買ったケーキを差し出す。紙袋を受け取った寿子は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「あぁ、気なんか使かわんでええのに。でも、あんなに子どもやった君たちからそんなセリフを聞けるなんて。私も年取ったんやな」
「まだお若いでしょう?」
嫌味のつもりはなく本音だったのだけど、変に捉えられたら嫌だな、と沙耶香ははっと口をつぐむ。沙耶香の心配を他所に、寿子は悪戯っぽく口端を上げた。
「八年前は、まだ二六歳やったから。今の歳はナイショ」
「先生、それバラしてるで」
ケラケラと笑いながら、彼女は紙袋を持って台所へ向かった。リビングから覗くカウンターキッチンはとても綺麗で広々としている。部屋の雰囲気やキッチンを見て、旦那さんは一体何をしてる人なんだろうと下世話なことに想像が及ぶ。
「二人は、珈琲派? 紅茶派?」
碧が手渡したケーキを皿に盛り付けながら、寿子がこちらを覗いた。
「私、珈琲で」
「私も同じで」
遅れて碧も答える。二人の答える反応の順番を懐かしく思ったのか、寿子は少しだけ遠い目をした。
「沙耶香ちゃん、緊張が解れてきた?」
「え?」
「やって、いっつも積極的なんはあなたの方やったやろ? その後ろに碧ちゃんがいつも着いていて。だけど、今日はその反対やった。それで、あー私が見ない間に二人とも少し変わっちゃったのかな? って寂しかったんやけど。なんだか懐かしい二人が見れて嬉しい」
湯を沸かせたケトルのスイッチがカチッと切れ、一瞬、部屋の中が静けさで満たされた。ベランダの向こうに浮ぶ真っ白な雲は、行く宛を忘れたように佇んでいた。
「ケーキ、ケーキ」
甘さを嗅ぎつけたのか、碧の袖を引きながらさくらがはしゃいぎ出す。「すぐにママが持って来てくれるからお行儀よく待とうね」と碧がなだめれば、彼女は素直に大人しくなった。
「それで五つ買ってたのか」
「あれ言ってへんかったっけ?」
てっきり選択の幅を広げるための気遣いかと思ったが、碧は初めから結婚していることもお子さんがいることも知っていたらしい。
「はーい。お待ち遠さま」
皿の上には四種類別のものが並んでいた。さくらが可愛らしい苺のショートケーキを指差す。
「私、これがいい!」
机の上に手を伸ばすが届かないさくらの代わりに、碧が皿を引き寄せる。店がつけてくれたプラスティック製のスプーンを使い、さくらはケーキの端を崩した。
「二人は何がいい?」
「私は何でも大丈夫ですよ」
沙耶香に同調するように、碧も首も縦に振っていた。
「それじゃ、教え子に甘えちゃおうかな」
彼女はモンブランの皿を自分の方に引き寄せた。先生は栗好きだ、と買う時に碧が話していたのだが、どうやら正しかったらしい。
「そういえば、今日、旦那さんは?」
「主人は、出掛けてるから気使わんでせんでええよ」
小さくスプーンにすくい、寿子がモンブランを口に運ぶ。幸せそうにしてしるのは、きっとモンブランの味以上の何かだ。沙耶香の隣では、碧がケーキを食べる桜を献身的に手伝っていた。
「碧ちゃんは、ええ先生になれるかもな」
「え、そうですか? でも教育系の学部じゃないですし」
「全然、まだ間に合うよ。特に小さい子の面倒見るのええかも。まぁ、その気になったら相談聞くで」
頬杖をついた寿子の目がきゅっと細くなる。教え子を見つめるその目は真剣なものだった。
寿子とこうして話していると。その物腰の柔らかさに碧が随分懐いていたのを思い出してきた。碧を一人残してしまうことに不安を感じていた沙耶香は、寿子になら任せられると幼いながらに思った。随分と偉そうな考えだが、そうやって沙耶香の不安をも取り払ってくれたのでは無いかと今では思う。寿子は優れた教師で、素敵な大人なのだ。
「山田先生は、優しい先生でした。引っ越してしまって、少ししか教えてもらってないけど」
「もう山田じゃないんやけどな」
「あ、そうか」
「ひさっちゃんでええよ」
「いやさすがにそれは……。じゃあ、寿子先生」
あだ名で呼ばれなったのが不服だったのか、寿子は拗ねたように唇をとがらせた。だが、教え子に褒められたことが嬉しかったのか、まだ張りのある頬が少しだけ赤くなっていた。
「褒めても何も出んからね! それで、今日は話があるんでしょ?」
照れを隠すように、珈琲カップを傾けた寿子の言葉に、「そうだった」とさくらをあやしていた碧がようやくこちらを向く。
「ちょっとお話するから、遊んできてくれるかな?」
寿子の言葉に、ぷっくらとした頬を揺らしながらさくらは素直に頷いた。きっといい子に育つんだろうな、と沙耶香は感心する。自分のように悪意を持った人にだけはならないでね。心の中で呟いた願いのような言霊を、てくてくとベランダのそばに置かれた遊具の方へかけていく小さな背中に向かい飛ばした。
「先生に聞きたいことがあるんです」
碧の表情がさくらを見つめていた朗らかなものかなすっと真面目なものに切り替わった。その顔を見て、沙耶香もピンと背筋を伸ばす。少し離れたところで、さくらがおもちゃで遊びだした。そっちに一瞬だけ気を向けて、寿子はこちらへ視線を戻す。
「なに? 話せることなら何でも話すで」
「四年生の時、……つまり寿子先生が私達の担任をしていた時に、転校した男の子がいたのを覚えてますか?」
「もちろん。前原賢人くんでしょ?」
寿子が小首をかしげれば、結ばれた長い黒髪も一緒に揺れた。碧が「そうです」と頷いて言葉を続ける。
「私達、その賢人くんを探してて」
「あれ? どうして賢人くんを探してるの?」
やけに知った風な寿子の口調に、「それはいいじゃないですか」と碧が早口で止める。どうやら碧の気持ちを知っているらしい。そもそも碧は隠しているつもりらしいが、昔から彼女はわかりやすかった。担任になった人であればみんな気付いているんじゃないだろうか。いや、生徒の中にだって気づいていた者はいたはずだ。悪戯な笑みを手で隠しながら、「分かった、聞かない」と寿子はしゃんと背を伸ばした。
「引越し先をいろんなところに尋ねたんですけど、最近は色々あるみたいで教えてくれないんです。先生やったら何か知ってるかなって」
「うん。知ってるで。ちょっと前まで年賀状のやり取りをしてたから。ちょっと待ってて」
寿子は立ち上がり、テレビ台の下の引き出しを開けた。そこから一枚の年賀状を取り出す。大事に抱えたまま、彼女はソファーに戻って来た。
「見せてくれますか?」
沙耶香が少し食い気味に尋ねると、寿子は「うーん」とうねる。
「どうして沙耶香ちゃんは賢人くんを探しているの?」
ドキリ、と心臓が張り裂けるかと思った。そんな沙耶香の反応を、じっくり観察するように薄いレンズ越しに彼女の瞼がぐっと開かれる。
「私には碧ちゃんよりも、あなたの方が賢人くんを探すのに必死な気がしてる。今だってそんなに前のめりになって」
「それは……」
沙耶香は何も言えなかった。浮いた腰を柔らかいソファーにおろし、沙耶香は俯く。彼の居場所を探しているのは、碧にひどい思いをさせたいから。そんな悪意を優しい寿子の前で白状することなど出来ない。口籠りする沙耶香に、寿子は柔らかい表情を作った。
「でも、そこまで必死なのは沙耶香ちゃんにも理由があるんやろ? 私はもうあなたたちの先生ちゃうけど、人生の先輩として沙耶香ちゃんにも色々相談して欲しいなぁ」
意図的に織り上げられた優しさは、閉じた沙耶香の心を試そうとしているようだった。握り混んだ小さな拳が腿の上でぷるぷると小刻みに震える。自分の思惑は寿子に読み取られている。落ち着いた寿子の雰囲気に、沙耶香はプレッシャーを感じた。
「……もう、仕方ないなぁ。ほら、これが賢人くんとこからの年賀状」
諦めに近いため息と共に、寿子が机の上に年賀状を出した。ネイルのされていない綺麗な指が葉書を掴んでいる。宛名は、『井上寿子』、そして差し出し人の名前は『岸本聡子』になっていた。
「岸本?」
賢人の両親の離婚を知らない碧が、キョトンとした反応をした。
「引っ越しの理由は、離婚やったからね。自分のことが理由で子どもの生活を壊してしまうのは忍びなかったやろな」
ふと、寿子の視線がさくらに向けられた。可愛らしい人形の服を脱がせたり着せたりしている。その視線を追うように碧の瞳が流れた。
「そうだったんですか」
「今どきは珍しくはないことやもんな」
沙耶香は、聡子から受け取った手紙を思い出す。寿子の言う通り、彼女は自分の離婚のせいで、子どもの友人関係を裂いてしまうことに罪悪感を抱いていた。だけど、仕方のないことなのだ。親に頼らなくては生活なんて出来ないし、母親に着いていたのだって、賢人の意思が全く無かったわけではないはずだ。それに、苦しんだまま結婚生活を続ける両親のことを無関心で過ごせるほど子どもは鈍感ではない。
「そんで、これが住所やで」
寿子の細い指が、葉書をくっと目に差し出す。その手には指輪がはめられていない。離婚の話題の後に気づいたせいで胸が騒いだが、きっと子育てのためだ。寿子の示した住所を見た碧が、「あっ」と声を漏らした。
「どうしたの?」
沙耶香は、碧の顔を覗きこむ。住所を知っている沙耶香は葉書を確認する必要はなかった。碧のくりっとした目がわずかに揺れ、小さく首を横に振る。
「いや、別に大したことちゃうんから」
ゴクリと碧の細い喉が固唾を飲んだのが分かった。明らかに動揺している。その理由を追求しようと思った刹那、ガチャンとベランダの窓が鳴った。
「もう、さくら何してんの!」
お人形を仕舞っていたカラーボックスが倒れていた。母の叱りに、悪いことをしてしまった、とさくらが申し訳無さそうに半べそをかいている。すかさず碧がそばに寄って、陽射しに茶色っぽくなった柔いさくらの髪を撫でる。
「うっかりひっくり返してもうたんやね。怪我はないかなぁ?」
ぐっと頷き、さくらは碧の胸にうずくまった。寿子は、やれやれと言いたげに温かい息を吐く。
「やっぱり、碧ちゃんはそういう仕事向いてそうかな」
「そうなんですかね」
ヘラヘラとした笑みの向こうに碧は何かを隠している。八年も離れていたけれど、彼女のことは分かっているつもりだ。脳裏に浮かんだのは、碧の友人にしては少しだけ派手なあの女の子だった。
――大阪市鶴見区……。
そう書かれた達筆な年賀状の住所を、沙耶香は記憶にあるそれと重ね合わせた。
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