第6話

 あっと言う間に約束の土曜日になった。カレンダーは五月にめくれ、朝、目覚めてから吸い込む空気もどこか夏の匂いが混じっている気がする。ぼんやりと眺めたカレンダーの土曜日の文字が赤く、世間は大型連休なんだと気づいた。バイトもある上に、大学だってすべての休日が休みなわけじゃない。つい先月、家を出たばかりで東京の実家に帰ろうとも思えなかった。

 

 冷蔵庫を開けば、冬を閉じ込めていたかのようなひんやりとした空気が流れ出てくる。過去を懐かしく思う心も、これに似ているのだ。ふいに開いてしまえば、冷たく悲しい気持ちが一気に底へ流れ出て来てしまう。心がじわじわと冷え切っていることを思うと、自分は扉の閉め方を忘れてしまったらしい。

 

 シンクの上で牛乳を注げば、コップの半分ほどでからになった。ポタポタと落ちる白い雫を眺めながら、いつかはこの気持も尽きるのだろうか、と沙耶香は息を飲む。

 

 ドライヤーで髪をセットしながら鏡を見るめる。いつもより少しだけ余所行きの自分がらしくないように感じた。きっと、無理に背伸びをしているせいだ。あの頃と変わっていない碧を見ていると、東京へ行ってからの自分の変化に気付かされる。はたして本当にそうなのか? きっとそうじゃない。あの頃から自分は何も変わってなどいないのだ。部屋や服装を買えて、大人になった気でいる。それがいかに子どもっぽいことなのか、分かっているはずだ。

 

 忘れ物が無いか、カバンの中を確かめ、腕時計を確認する。碧との約束の時間まであと三十分ほど。もう一度、鏡で自分の姿を見た沙耶香は、背伸びする自分を隠そうと薄手のカーディガンを羽織り、余裕をもって家を出た。

 

 

 *

 

 沙耶香の最寄り駅は、JR塚口だ。阪急塚口駅との間に家があり、どちらにも徒歩五分ほどと近い。学校へ向かう時には、阪急の方を利用して碧と待ち合わせるのだが、今日の集合場所はJR猪名寺いなでら駅だ。JR塚口から一駅なので自転車で向かってもいいのだが、ペダルを漕ぐ気にはなれず、とぼとぼと歩き塚口駅へ向かう。

 中々、来ない電車をベンチに座って待つ。電光掲示板によれば、次の鈍行列車は十分後だった。

 

「ギリギリになりそう」

 

 スマホにそう打ってから文字を消す。わざわざ伝える必要の無いことだ。ホームで待ち合わせをしているのだから着けば分かる。それに遅れるわけじゃない。

 

 表示されている碧のアイコンは、可愛らしい花の絵だった。思えば、碧はずっとこのアイコンだ。白く綺麗な花はユリだろうか、と思っているとホームに電車が入ってきた。銀縁の扉が開き、沙耶香は冷房の掛かった車内へ足を踏み入れた。

 

 

 *

 

 

 猪名寺駅に着き扉が開くと、ちょうど碧が待っていた。紺色のカシュクールワンピースを着て、碧もどこか余所行きだ。背中には小さなリュックを背負っている。軽く弾みをつけて、車内に乗り込んだ碧は、ワンピースの裾を軽く広げ、可愛らしい笑みを浮かべて少しだけ恥ずかしそうに頬を赤めた。

 

「昨日、買ってん。どうかな?」

 

「うん。可愛いと思うよ」

 

 素直に沙耶香が褒めれば、碧は照れて口端を緩めた。軽く火照った頬を手で挟む姿が可愛らしい。沙耶香が頭を撫でると、車内を見渡し碧は空いている座席を指差した。

 

「座ろか」

 

 紺色のシートに腰掛けると、電車はゆっくりと動き出した。流れる青い空と街の輪郭がじわじわと混ざり合っていく。一瞬、車内が陰ったのは、新幹線の高架をくぐったからだ。あの線路の遥か先に、家族が住む家があるというのは、なんとも不思議な感覚だった。

 

「沙耶香、今日はなんか雰囲気違うな?」

 

 こちらの全身をじっと見つめながら、碧がそんなことを言ってきた。中吊りの代わりに設置されているモニターへ、沙耶香はすっと視線を逃がす。

 

「そうかな?」

 

 

「うん。いつもは大人っぽいけど、今日はちょっと抑え気味? でも、可愛いと思うで」

 

 きっと咄嗟に羽織ったカーディガンのせいだろう。だけど、そんな風に言われるのが少しだけ嬉しかった。

 

「ん? 碧、その服買ったって、この間はお金ないとか言ってなかった?」

 

「うん。でも、バイトも決まったし、少しくらいええかなって」

 

「碧って、真面目な割に、案外そういうところ緩いよね。せめてバイト代入ってから買いなよ」

 

「バイト代入ってからだと春物間に合わんやん」 

 

「だから、夏物を買えばいいじゃん」

 

「今日、着ていく服が欲しかったの」

 

 小さく頬を膨らめせる姿は、昔と変わらない。自分の意見をあまり主張しない割に、碧は少しだけ頑固だった。

 

 しばらく電車に揺られていると、徐々に見慣れない街並みになっていった。小さい頃、この車窓を眺めたことがあるのかもしれないが、さすがに覚えていない。碧のことを笑えやしないと心の中で自嘲してみるが、きっと普通のことだ。

 

「降りるのどこだっけ?」

 

「えーっとね、宝塚たからづか

 

 碧がスマホで、送られて来た住所を地図上で確認している。JR宝塚駅の南側。武庫川に掛かる橋を渡りしばらく歩いた先にあるマンションを地図上のピンが差していた。

 

「先生の家に行くの?」

 

「うん。家においでって言われた」

 

「気を使っちゃいそう」

 

 てっきりどこかの店で会うのかと思っていた沙耶香に、「お店に行ったって、お会計で奢ってもらったりしそうで気を使うやん」と碧が口をムッと閉じる。

 

「まぁ確かに」

 

 納得した沙耶香に、碧は軽く鼻歌混じりにブーツのかかとを鳴らした。

 

 会うと決まってから、沙耶香は彼女のことを色々と思い出していた。かすかな記憶では、細身の女性の先生で、それなりに若かった印象がある。当時の感覚なので定かではないが、まだ二十代だったのではないだろうか。沙耶香は、夏休みに入り転校してしまったため、一学期の三ヶ月ほどしか請け負ってもらっていないはずだが、彼女は自分のことを覚えてくれているのだろうか。

 

「それにしても、先生の家に行くなんて初めてだよ」

 

「私だって初めてやって」

 

「そりゃそうだよね」

 

 長閑な景色が流れていく車窓を目で追いながら呟いた沙耶香に対し、碧は揺れる吊り革をぼんやりと眺めていた。膝の上に乗せた碧の小さなリュックを見て、沙耶香はふと疑問を抱く。

 

「そう言えば、手土産とか買ってないの? さすがに家に行くなら何か買っていった方がいいんじゃない。その鞄には入ってないよね?」

 

「うん。持ってきてないよ。でも、駅の近くで買えばええやん。宝塚なら、お菓子屋さんとかあるかなって」

 

「あーありそうだね」

 

 窓の向こうの街並みが少し都会っぽくなり、宝塚に到着するアナウンスが流れた。電車が速度を落とすのに合わせて、席に座っていた多くの人が立ち上がる。

 

 兵庫県の南東部、伊丹いたみ市と西宮にしのみや市の北側に位置する宝塚市は、百年以上の歴史を持つ宝塚歌劇団が全国でも有名だ。沙耶香も小さい頃、両親に連れられ観劇した。綺羅びやかで美しい衣装を着た女性たちの歌と演技に幼いながら感動したのを覚えている。

 

 駅を出れば、気品に溢れる阪急宝塚駅の駅ビルが見えた。美しい薄茶色に統一されたレンガ調の壮麗な駅舎は、街の雰囲気を象徴している。

 

「百貨店で何か見てみる?」

 

「そうやな。そうしよう」

 

 沙耶香の提案に、碧が頷く。眉根に掛かった碧の前髪がわずかに揺れた。

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