第5話
小学校から帰って来て、何もする気が起きずにしばらくベッドに横になっていると、碧からメールが入った。
『来週の土曜日なら山田先生会えるみたい。沙耶香は大丈夫?』
真っ暗な部屋に、スマホの光だけがぼんやりと浮かんでいた。ベッドは夜の海を漂う難破船のようだ。助けを求めるメーデーは、誰に飛ばせばいいのか。
寂しさを紛らわすために、部屋の電気をつけた。大人びたつもりで揃えた家具がちんけに映る。本当に自分は大人になれているのだろうか? 大きく膨らんだ胸を抑えて、小さく深呼吸してみれば、あの頃から成長した自分が確かにそこにいた。だけど、外面にばかり気を使い、内面は何も成長していない。子どものように、気に食わないから碧に嫌な思いをさせてやりたいと思っているのだ。
きっと、真央が言っていた向き合う意味は、心を成長させることなのだ。だけど、今の沙耶香にはその方法が分からない。
――傷ついてみないと分からないこともある。
このまま賢人を探し続ければ、間違いなく碧を傷つけることになり、同時に自分も傷つく。そんなことは分かってる。もし、素直にすべてを話せば? きっと碧は傷つくだろう。そして自分は救われる。黙っていた罪悪感から逃れられ、碧の傷ついた顔を見て、満足するのだろう。
今の沙耶香には、「その選択はしてはいけない」と真央が言っているような気がした。
『大丈夫。バイトは休みもらっておくね』
そう文字を打ち込み、一瞬だけ送るのを躊躇った。「これでいいんだ、きっとこれで」そう口にだして自分に言い聞かせる。脳裏に過ぎったのは、懐かしい賢人の笑顔だった。
*
終業のチャイムが鳴り響き、水を打ったようだった教室にざわざわと賑わいの芽が顔を出し始めた。カツカツと文具と教科書をしまう音が聴こえ、沙耶香は大きなあくびと一緒に恥ずかしげもなく身体を伸ばした。
机の上に広がった物をカバンに仕舞い教室を出たところで、碧がキョロキョロとしているのを見つけた。向こうも教室から出てきたこちらに気づき、小さく手を振りながら子犬のように近づいてきた。
「あ、沙耶香おった」
「待ってたの?」
「うん」
先に授業が終わっていたらしく、わざわざ迎えに来てくれたらしい。
「わざわざこっちに来るの遠回りでしょ? 別のところで待ってれば良かったのに」
「授業が結構早く終わったから、とぼとぼ歩いててん。動き回らないと構内の地図覚えられへんし」
ふーん、と沙耶香が何気なく返すとふいに会話が途切れた。「帰ろっか?」と沙耶香が歩き出せば、「うん」と碧もそれに続く。
碧いとの関係に、妙な気まずさを抱いていた。だけど、それはきっと一方的なものだ。碧の表情や仕草はこっちに帰って来てから何も変わっていない。自分のわずかな異変に、彼女は気づいているのだろうか。そう考えると、いつもは気軽に出てきていた言葉は、喉の奥につかえた。西日に照らされた校舎の窓に反射して。うっすらと映る自分たちの姿はやけに懐かしい。だけど以前はもっと素直に笑えていたはずだ。何も駆け引きなんてない。相手の気持ちを探らずとも直感で感じ取れた。そんなことを考えているのは自分だけなのだろうか? と沙耶香はふと後ろを振り返る。
難しそうな顔をしてスマホを見つめる碧に、「どうしたの?」と尋ねる。照れた様子で「バイトの先へのメールってどうやって書けばええんかなって」と碧は頬を赤くした。
「バイト先なんて適当でいいよ。軽い敬語で十分、十分。ていうか採用の連絡?」
「うん」
「そっか。おめでとう」
素直に祝辞を述べて、沙耶香は手を叩く。「大げさやって」と照れた碧は、両手で頬を挟んだ。
「これからしっかり働かないと」
「なにそれ。沙耶香には関係ないやろ」
「しっかり働いてもらいますよ、お嬢さん」
わざと低く出し、碧の肩にそっと手をかける。きゃっきゃっ、と笑いながら碧が足早にキャンパス内の坂を下って行く。沙耶香もそれに続いた。
「あれ?」
大きな図書館の前で、やけに派手な服装の女子がこちらを見ながら声を出した。まだ少しだけ肌寒いというのに、胸元の開いた服を着ている。沙耶香よりも少し高い背がヒールでさらに強調されていて、くりっとした双眸は服装に似合わずやけに可愛らしい。
「あ、梨咲」
声をかけてきた女子に反応したのは意外にも碧だった。彼女のその服装から、まさか碧の友人と思いもしなかった沙耶香は驚く。
「やけに楽しそうやん。どうしたん」
「いや、なんというか。ちょっとはしゃいでただけで」
「はしゃいでた? そりゃ、珍しい。今から帰るとこ?」
「うん。梨咲は?」
「私も今から帰り。今、本借りててん。せっかくこんなだだっ広い図書館あるんやから使わな損やろ?」
確かに、と碧は楽しげにケラケラと笑った。それがどうしてか無性に沙耶香の胸を傷ませる。こちらの存在に気づいた梨咲が、はっと視線を向けた。
「あ、碧のお友達?」
「うん、林沙耶香ちゃん。小学校まではこっちに住んでたんやけど、東京の方に引っ越して、今年、一人でこっちに戻って来てん」
「へぇー東京か」
羨ましげに梨咲は細い眉を持ち上げた。東京いう響きに感心があるらしい。梨咲の甘い香りに沙耶香がドキリとしている間に、碧が彼女の紹介を始めた。
「こっちは、松本梨咲ちゃん。たまたま二つ授業が一緒やって。あ、沙耶香と同じ文学部やで。知らんってことは、授業とかはかぶってない?」
受講人数が百単位の授業のことまで鮮明に覚えているわけではないが、少なくとも沙耶香は彼女のことを記憶していない。それは梨咲も同じ様子で「多分、ちゃうんちゃうかな」と明眸を細くさせた。
「梨咲も阪急やんな? 一緒に帰ろ」
「え、でも林さんと帰ろうとしてたんちゃうの?」
「ええやんな?」
碧の小さな顔がこちらにくるっと振り向いた。華奢な肩に乗った薄手のパーカーがふわりと翻る。
「全然いいよ」
作り笑顔は、自己評価最低のものだった。梨咲と一緒に帰るのに、問題なんてないし、碧が懐いているのだから、きっと梨咲はいい子のはずだ。だけど、心の中にどっしりと居座る子どもがしようもない嫉妬心を抱かせる。申し訳無さそうな顔で、こちらを向いた梨咲が小首を傾げた。
「本当に大丈夫?」
「うん。大丈夫、大丈夫。沙耶香もお友達は増えた方がええやんな?」
無邪気な笑みの碧に、沙耶香は大げさに頷いてみせる。梨咲は、「ほんなら、私は
「堺筋線ってことは、大阪市内?」
「うん。そっから
一瞬の顔の強張りは梨咲にバレなかっただろうか。何か返さなくては、と言葉を吐き出そうとするが、胸の奥につかえ沙耶香は咳き込む。「大丈夫?」と心配そうに覗き込んで来た碧に「私も花粉症かも?」と冗談を言えば、「花粉症はくしゃみやろ」と乾いた笑みが返ってきた。
きっと偶然だ、と沙耶香は自分に言い聞かせる。碧は彼の引っ越し先を知らないはず。それに梨咲とは授業でたまたま知り会っただけだと言っていたし、彼女が言ったのは路線の名前であって賢人の引越し先とは何も関係ない。だから気に留める必要はないのだ。
それでも妙な胸さわぎが、脳内をふわふわと浮つかせる。歩き出した碧たちの後ろを沙耶香はとぼとぼと着いて行った。オレンジ色に滲んだ空の端に、夜闇から逃げるように流れる小さなちぎれ雲が二つ浮かんでいた。
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