第4話
沙耶香が賢人の死を知ったのは、四年半ほど前、まだ夏の暑さの残る十月中旬の昼過ぎの中間テストを終えてたある放課後のことだった。サッカー部の練習の開始を見届けたあと、沙耶香は祖母のお見舞いへ向かうため部活を早退して家に向かっていた。
尼崎に暮らしていた祖父母がどうして東京にいたかといえば、父の仕事の都合で沙耶香たち家族が東京へと引っ越してすぐの頃、祖父が病に倒れたのだ。医者の話では、病状は望ましくないとのことで、兄弟のいない父は、地元を離れたがらなかった祖父母を半ば無理やり東京へ連れて来た。
それからしばらくして祖父が亡くなった。人の死を見届けるのは初めての経験で、家族に看取られ、静かに逝く祖父を沙耶香はじっと見届けるしか出来なかった。
一人きりになってしまう祖母のことを考えると、東京へ連れてくるのは仕方ないことだったと思う。だが、そのせいで沙耶香は尼崎へ帰る理由を失ってしまった。碧に会う機会もなくなったのだ。ずっと続けている手紙のやりとりも、中学生の沙耶香たちにとって切手代は馬鹿にならない。早く携帯電話を買ってほしいのだが、高校生になるまで待つようにとのことだった。
その日、父は仕事で、母は先に病院へ向かっていた。作り置きされている昼食を摂り、沙耶香も遅れて祖母の元へ向かう予定だった。家に帰って来た時の習慣で、沙耶香は郵便受けを確認する。大事な手紙がいつもそこに入っているから。その日は、学習塾のチラシと共に見慣れない綺麗な封書が入っていた。家族の誰か宛ての大切なものかもしれないと思い取り出せば、丁寧な大人の文字で自分の名が書かれていた。
身に覚えはなく、沙耶香は差出人を確認する。
『岸本
その名前の人物に心当たりはなかったが、送られてきた住所を見て、差出人が誰なのか分かった。
急に嫌な予感がした。背中がぞっと寒くなって、不安が胸の底からこみ上げてくる感覚。汗ばんだ額を拭うこともせず、沙耶香はその場で手紙の封を開いた。
拝啓
挨拶もなくこのように急なお手紙を送ることをどうかお許しください。
とても大切なお話があるので、混乱の中、筆を取った次第です。
いつも賢人に素敵なお手紙を有難うございます。あなたからの手紙を賢人は楽しみにしていました。可愛らしい封筒が郵便受けに入っていないか、毎月の決まった日に確認するのが私のささやかな日課となっていました。
ごめんなさい。苗字が違っているのに名乗っていなかったですね。私は賢人の母です。賢人への宛名は旧名のままだったので、きっと賢人は話していなかったのでしょう。小学校の引っ越しの理由は、お恥ずかしいのですが、主人との離婚でした。そのような理由で、子どもの友人関係を裂いてしまうのは本当に親失格だと痛感しています。
本来であれば、今日は賢人からあなたへと手紙を送る日のはずですね。きっと、あなたはそれを楽しみにしていたはずだと思います。熱心に心を込めて手紙を綴るあなたは、賢人の返事に胸を弾ませているのではないか。そう考えると、伝えないわけにはいかないと思いました。
先月、あなたから手紙が届いた日のことです。家に警察から一本の電話が入りました。内容は到底信じられるものではありませんでしたが、病院ヘ向かい変わり果てた賢人の姿を見て、現実だと悟りました。
事故があったのは、学校のから帰り道でした。賢人を轢いたトラックはしっかりと交通ルールを守っていたそうですが、急に飛び出した賢人を避ける手段はなかったそうです。その場にいた賢人の友人がすぐに救急車を呼んでくれたそうですが、賢人は帰らぬ人になってしまいました。
賢人を失った悲しみと絶望で、あなたにこのことを知らせるのが随分と遅れてしまいました。本当にごめんなさい。すぐにでも知らせるべきだった。
きっと、手紙では受け入れがたく信じられないことだと思います。私も未だにひょっこりと賢人は帰って来てくれんじゃないかと思う時があります。
もし、よければ賢人に線香を供えに来てあげてください。きっとあの子も喜ぶと思います。
急なお手紙、本当にごめんなさい。それから今まで賢人に書いてくれた素敵なお手紙、本当に有難う。
敬具
どういうことなのか理解が出来ず、沙耶香はその場で立ち尽くした。じりじりと太陽の陽が身を焦がす。気づけば握っていた封書がぐちゃぐちゃになっていた。
世界のすべてが闇に飲み込まれていく感覚になった。祖父の亡骸に触れた冷たい感触を思い出す。涙を流す家族の姿、呆然と立ち尽くす自分。ゆっくりと俯瞰になっていく妄想の中で、棺に横たわっていたのは祖父ではなく賢人だった。
――賢人が死んだ。その事実を何度か脳内で繰り返すうちに、全身の力がどっと抜けた。雲の落とした影が、熱くなった身体を冷やしていく。あの日、玄関先でどれだけ立ち尽くしていたのだろう。気がつくと日は暮れていた。祖母のお見舞いに顔を出したのかも覚えていない。ただずっと泣いていたことだけは覚えている。
この世界にもう彼はいないのだ。
*
「沙耶香?」
投げかけられた声に、沙耶香は目を覚ました。朗らかな笑みを浮かべた碧の小さな手が、年季の入ったドアの木製の縁を滑り落ちる。うっすらとチョークの粉が張った黒板の方へ、碧はとぼとぼと歩き出した。
「ごめん寝てた」
懐かしい木の机から沙耶香は身体を起こす。眠ってしまったのは、背中に毛布を乗っけた温かな春の陽射しのせいだ。懐かしく切ない夢を見させたせいで、うっすらと視界が涙で曇っていた。今なら、寝ていたせいに出来る。指で拭って、わざとらしくあくびのせいにした。碧の履いた来客者用のスリッパがぱつぱつと音を立てる。教卓の前で先生のような顔で立ち止まって、静かに目を閉じた。
「やっぱり教えてくれんかったね」
「今は個人情報保護がなんとやら。厳しいんだね」
春香のアドバイスに基づき、母校の小学校へ彼の引っ越し先を聴きに来た。「今どきそんなん教えてくれへんのちゃうかな」という碧の言う通り、個人情報は簡単には教えられないそうだ。
それでも急な来訪にも関わらず、卒業生だからと学校側は構内を見回ることを許可してくれた。それでこうして碧と共に懐かしさを噛み締めながら構内を回っていたところだった。
「卒業して以来やから、六年ぶりか」
「私は八年ぶりだけどね」
少し凹凸のある机を撫でながら、沙耶香はふと窓の外を見る。大きな声でボール追い駆け回っている少年少女たちはこの辺りのサッカー倶楽部の子だろうか。あの頃よりも狭く感じるグランドは少しだけ綺麗になっていた。真新しくなった倉庫とボロボロの遊具。混在する今と昔を見つめて、まるで整理のつかない自分の気持ちみたいだ、と心の中でひとりごちる。
その表情を諦めと取ったのか、碧が穏やかな声を吐いた。
「これで賢人くんを探す宛はなくなってもうたな」
「そうかなぁ」
本当は賢人の引越し先を、沙耶香は知っていた。だけど、それを告げるには、自分が彼と手紙のやり取りをしていたことを話さなくてはいけない。それは大きな裏切りだ。碧が賢人のことを好きだと知っていながら、彼が転校する寸前に沙耶香は手紙のやり取りをしてほしいと願い出た。
遠く離れてしまう彼と繋がっている方法を、当時の沙耶香はそれしか思いつかなかったのだ。とはいえ、こっそりと抜け駆けのように彼と繋がっていた事実は、どうしても隠していたかった。ずっと碧とやりとりをしていた手紙という手段を使ったことへの後ろめたさともう一つ……。
賢人の引越し先を、誰か一人くらい知っているはずだと思っていた。探せばすぐに聞き出せるだろうと。だけど、蓋を開ければ、賢人の居場所を知っているのは自分だけだった。
真央の言う、向き合うという意味は分からない。教室で懐かしさに押しつぶされそうになりながら、賢人が死んだ事実すら知らない碧を前に、なんと言葉を紡げばいいのか。こみ上げてくるのは、ひどくくすんだ感情だった。胸焼けのように気持ちの悪い空気が、胃の上辺りでモヤモヤと留まっている。しばらく黙りこくっていた沙耶香をじっと見つめながら、碧はこっちに歩き出した。
「でも、もしかしたら山田先生なら知ってるかも」
「山田先生?」
「あれ、覚えてない?」
珍しく沙耶香が記憶していないことを見て、碧はくすりと笑みを浮かべた。馬鹿にされたと沙耶香はムッとするが、きっと自分と同じ反応をしたことが嬉しいだけなのだろう。一瞬だけこみ上げた怒りは碧に伝わらなかったようで、「ほら、」と彼女は懐かしそうに続けた。
「小学校四年生の時の担任だった山田
「あー、言われると思い出した。細身の女性の先生でしょ?」
「そうそう。私、連絡先知ってるから会えるか聞いてみようか? 賢人くんが引っ越した時の担任の先生なら知ってるかもしらん」
「確かにそうだね」
碧の話によれば、彼女は何年か前に移動になり、すでにこの学校にはいないらしい。だけど、彼女に頼れば、自分の事情を話さず碧に賢人の住所を教えられることが出来る。
そうして自分は何がしたいのか。自分の心へ問いかけた質問答えは、「碧に泣いて欲しい」だった。自分の中に確かに存在する悪意と正面から向かい合いながら、懐かしそうに教室を見渡す碧の横顔を見て、沙耶香は思わず吐き気を催した。
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