第3話

 涙でかすんだ夜の景色の中を、輪郭のぼやけた車のヘッドライトが流れていく。春だというのに、空気はひどく冷えていた。冷たいタイルの上で膝を抱え三角座りをして、沙耶香は可愛らしいキャラクターもののサンダルのつま先を小さな指でぐっと掴む。

 

 悪いのは全部ママだ。

 

 心の中でそう唱えれば唱えるほど、涙が溢れ出してきた。拭い続けたせいで、すっかりまぶたの周りは赤くなっている。柔い肌が、ヒリヒリと悲鳴を上げていた。

 

「沙耶香ちゃん?」

 

 突然、名前を呼ばれ顔を上げた。上から投げ込まれる白いライトの光が、伸ばされた小さな手の先をひた隠した。

 

 沙耶香は、ふいにその手を取った。男の子の手だ。冷えた沙耶香の手は、ぐっと引き寄せられる。闇の中から光の中へ、まばゆい煌めきが視界を覆った――――

 

 目の前に置かれた皿の音で、沙耶香は自分の意識が遠い場所に行っていたことに気づく。慌ててパスタの盛られた皿を手に取るが、運ぶべき席番号を聞き逃していた。「何番ですか?」と聞けば、「ぼーっとすんなよ」と笑み混じりの店長の声が飛んできた。

 

 *

 

「どうしちゃったの? 今日は沙耶香ちゃん随分ぼーっとしてたやん」

 

「あ、真央まおさん……すみません」

 

「別に怒ってないよ」

 

 照明のすっかり落ちた店内でモップを履きながら、ふふ、と彼女は大人っぽい笑みをこぼした。仕事中は束ねられている長い髪は、すでに降ろされ軽くカールしていた。沙耶香は、テーブルに上げた椅子を一つずつ降ろしていく。

 

「ちょっと昔のことを思い出してて」

 

「昔? なにそれ、私への嫌味? 沙耶香ちゃんに昔なんてないやろ?」

 

「私にだって昔はありますよ! とっても大切な昔が……」

 

 尻すぼみになった沙耶香に、「そっか」と真央は小さく息を漏らした。モップの柄に頬をつけ、優しい笑顔を浮かべる。

 

「お姉さんが相談に乗って上げなくもない」

 

「どっちなんですかそれ?」

 

「そこまで責任は持てないけど、話は聞いて上げるってこと。人生も少しだけ先輩だからね」

 

 彼女は大学を卒業した後、美容師になるために専門学校へ通っているらしい。そのためのお金を自分で稼ぐ為にここでバイトをしている。歳は沙耶香よりも六つほど上だったはずだ。沙耶香には、彼女が随分大人っぽく見えた。

 

「聞いてもらえますか?」

 

「無責任な大人の意見でよければ」

 

 沙耶香は、最後の椅子をテーブルに戻した。綺麗になった店内を見渡し、「それじゃ、お願いします」と頭を下げた。 

 

 *

 

 店を出れば街はすっかり閑散としていた。控えめに灯る蛍光灯が、ぽつぽつと汚れたタイルの上に光を落とし、阪急塚口の駅前まで続いている。駅の周辺を取り囲んでいるのは、さんさんタウンというローカルな商業施設だ。昼間はバスやタクシーでごった返すロータリーは、ペデストリアンデッキでコの字型に囲まれている。デッキの中央部分には広場があって、演歌歌手がよく営業を行っていた。

 

 八年ぶりに帰って来た沙耶香は、西側の建物が完全になくなっていたことに驚いた。近年、大型スーパーマーケットがかつて入っていたスーパーを買収したらしく、建て替え工事が始まっているらしい。西棟は、地下一階から六階まで、専門店や飲食街、食料品売り場やCDショップなどが入り、屋上には遊園地もあった。幼い頃、両親に連れられ、百円を入れると動くパンダの乗り物に乗った記憶がある。建物は古かったが、昭和の気品を感じるレトロで素敵な場所だった。

 

 碧がバイトを応募し面接に行った本屋があるのは、このさんさんタウンの東側の棟だ。建て壊された西棟にあった食料品売場は東棟へと移り、今は電気屋とわずかな専門店だけが残っていた。沙耶香の働くイタリアンは、もうひとつ隣の棟の一階にある。昔からやっている飲食店や散髪屋が軒を連ね、その上は住居スペースになっていた。

 

 沙耶香は、すっかり古びた建物を見上げた。春の霞の隙間から、もうすぐ満ちる月が暗がりに包まれた街を照らしている。

 

「懐かしそうな顔やね」

 

 振り向くと、真央は沙耶香と同じような表情で街を眺めていた。

 

「そうなんですかね」

 

「私も小さい頃はこの辺りで遊んだよ。中学生くらいになると梅田とかに遊びに行っちゃうんやけど。映画を観るのだって事足りたし」

 

 今も残る東棟の駅側には、小さな映画館があった。最新の映画から懐かしいフィルムの再上映まで、休日はそれなりの賑わいを見せているらしい。昼間、碧が観に行ったと言っていた映画はそこだろうか。ロータリーを抜けて通りに出れば、眩い灯りが街にポツンと落ちていた。その光の方を見て、真央が優しい声を出す。

 

「何か飲み物でもいる?」

 

「いえ、そんな」

 

「遠慮しない、遠慮しない」

 

 近くのコンビニで温かい飲み物を買ってもらう。夜になればまだ少しだけ肌寒く、手で包んだ缶珈琲の温もりが心地よかった。

 

「それで、沙耶香ちゃんは何に悩んでるのかな?」

 

 そう言って、彼女はポツポツ歩き始めた。駐輪所の方角だ。彼女は歩いてきているはずだから、向かっているのは沙耶香のためだ。

 

「なんと説明したらいいやらで。うまく話せるか分からないんですけど」

 

「いいんやで、それで」

 

 はっきりとした彼女の顔立ちは、車のヘッドライトに照らされまばゆく煌めく。柔らかく緩んだ唇には、落ち着いた色のリップが引かれていた。

 

「話したいこと、話せることだけ言ってみて。それで悩みが解決することもあるし、自分の考えがまとまることもある。自分の中だけで抱えて、モヤモヤしてるのが一番あかんの」

 

「そういうものですか?」

 

「そうそう。大人の言うことは、わりと正しいんやから」

 

「わりと、ですか?」

 

「間違ってることもある」

 

 感慨深そうに口をムッと閉じて彼女は頷いた。歳上の彼女の言うことはきっと正しい。ただ、その判断をこちらに委ねているところは、彼女なりの優しさでもあり厳しさでもあるはずだ。彼女の表情には、きっとそこまでの含みがある。

 

「何を話せばいいと思いますか?」

 

「一番、奥底にある気持ち。きっとそれが沙耶香ちゃんの悩みやろ?」

 

「奥底……」

 

 沙耶香は自分の胸に手を当てた。缶珈琲を握っていた温もりが、セーター越しに肌に伝わる。残念ながらその温もりが、冷え切った心の奥底を温めてくれることはなかった。色々な感情や思い出に埋もれた心の中を探っていく。そこに居たのは、寂しげに三角座りをしてたあの日の自分だった。

 

「昔の好きな人をいつまでも忘れられないのってどうなんですかね?」

 

 自分の口元が笑みを作っていると気づく。だが、それは寂しさを誤魔化すためのものだ。うーん、と真央が空を見上げながら考えにふけった。街頭の灯りが照らす柔らかい表情とは裏腹に、彼女は真剣な声音を紡ぐ。

 

「悪いことじゃないよ。むしろ素敵なことなんじゃない?」

 

「でも、きっと囚われ過ぎてるんです」

 

 それはまるで呪いのようだった。がんじがらめになった思い出が、鎖のように沙耶香を縛り付けている。――――よく覚えてないや。そう言った碧の言葉が、脳裏に傷のようにこびりついていた。かさぶたになって赤く腫れている。思い出すたびにヒリヒリと傷んだ。

 

「ダメだと分かってるんですけど」

 

「過去に縛られることってそんなにダメなこと? その人のことを本当に好きだったんでしょ?」

 

 慰めの言葉は、むしろ沙耶香には痛かった。ただ純粋な好きという感情ならば、きっと傷つく必要はないのだ。だが、沙耶香の好きは少しひどい感情に濁ってしまっている。

 

「友達を傷つけてしまうんです」

 

 こちらの内情を察したと言いたげに、真央は小さく息を漏らした。綺麗な指がすっと伸びて、沙耶香の額につんと爪先が触れた。

 

「沙耶香ちゃんはケジメをつけたいって思ってるの?」

 

「はい。だけど――」

 

 沙耶香の言葉を遮るように、額に当てられた指がとんと押し込まれた。うっ、と声を漏らした沙耶香に、彼女は無邪気さを押し殺した平静な声を出す。

 

「お友達にそのつもりはないと?」

 

 こくり、と沙耶香が頷けば、彼女のぷっくらとした唇がゆっくりと動いた。

 

「だったら、沙耶香ちゃんが気に留める必要はないと思うけどなぁ。もちろんお友達は大切。ちゃんと素直に話してあげればいんじゃないかな? 分かってくれる子なんでしょ? 沙耶香ちゃんはいい子だから、きっとお友達も――」

 

「違うんです」

 

 頬にこぼれた雫は涙だった。震える喉が、思うように言葉を紡がせてくれない。嗚咽混じりの沙耶香の背中を、真央は心配そうに擦った。

 

「大丈夫?」

 

「すみません、……急に泣き出して」

 

「ううん。ほら、ゆっくりでいいから」

 

 荒れた呼吸を整え、沙耶香は小さく息を吐いた。涙にぼやけた街並みはいつか見た気がする。赤いテールランプが交差点からずっと向こうまで伸びていた。

 

「ケジメのつけようなんてもう無理なんです」

 

 涙を拭い沙耶香が真央の顔を見つめれば、彼女は黙ったまま沙耶香の言葉の続きを待っていた。それだけじゃ、分からないよ。きっとそう言っている。

 

「私がわざわざぶり返したんです。昔のことを。きっと、あの子は忘れようとしてたのに。だから、覚えてない、知らない、って言われた時に悲しい気持ちになったんです……。だから、なんとなく胸がモヤモヤして」

 

「話してくれてありがとう。だけど、それならどうしてお友達は傷つくの? その子はその男の子に未練は無いんじゃないの?」 

 

「違うんです……」

 

 繰り返された沙耶香の言葉に、真央は困ったように眉根を下げた。せっかく聞いてもらっているのに、めちゃくちゃなのは分かってる。だけど、心の一番奥底に沈んでいる悲しい事実を掬い上げるのが本当に辛かった。きっと碧にも押し付けたいのだ。湖の底で冷たく凍りついた鋭く尖った感情を。

 

 沙耶香は、春のくすんだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。そうでもしないと声には出せないと思ったからだ。かすかな声音は、遠い踏切の音と重なった。

 

「もう随分前に亡くなったんです」

 

 やけに凛とした空気が街を飲み込んだ。電車が通り過ぎる音と、車のエンジン音が混じり沙耶香の鼓膜を揺らす。どれくらい間があったか、「そっか」と真央が声を発するまで沙耶香は自分がここでないどこかにいる気がしていた。

 

「沙耶香ちゃんはどうしたいの?」

 

 真央の質問に正確に答えることが出来ない。心の内を正直に言えば、ひどい言葉が出てきそうになる。碧の覚えていないという事実が、沙耶香の心に明確な悪意を生み出していた。黙ったままうつむいた沙耶香に、真央は優しい声音を紡ぐ。

 

「時間が解決してくれることもあるし、そうじゃないこともある。そのお友達との関係はどっちかな?」

 

 時間が経ったから忘れてしまう? そんな風にはしたくないんでしょ? だから、碧を見て苛立ち、悲しくなったんだ。やけに俯瞰で他人事のような言葉が心の中に流れる。だけど、それは自分の本心だった。

 

「時間なんて理由で、彼のことをうやむやにしたくなかったんです。でも、私のやり方はあまりにひどくて」

 

 彼を忘れた碧を傷つけたい。もちろん罪悪感はある。だけど、碧の反応はそれよりひどい。真央の目は、歳の離れた妹を見つめるようにひどく温かった。

 

「ひどいと思ってるってことは、沙耶香ちゃんにも非があるの?」

 

「碧は、きっと彼が亡くなったことを知らないんです。私は素直に話すべきだったと思います。だけど……子どものままの私は、どうしてかそれが出来なくて」

 

 心は、複雑で難しい。正しいことが分かっているのに、素直にそっちに歩き出せない。それをいけないことだと自分を責め立てれば、また心にシミのような闇が広がる。再びこぼれそうになった涙をこらえながら、沙耶香は唇を震わせた。

 

「私が大人になるべきですか?」

 

 帰って来た日、碧にありのままを話せなかったのは、きっと彼の死を自分がまだ受け入れられていないからだ。自分の口からそれを話せないなんて子どもだ。真央の髪がふわりと左右に揺れた。 

 

「大人になれなんて言えないよ。だって、沙耶香ちゃんはまだ若いんだから。ひどく傷ついてみないと分からないことだって人生にはたくさんある。覚えとかなくちゃいけないのは、そうだと分かって向き合えるかどうか」

 

 真央の手が沙耶香の頭を撫でた。しっとりとした肌が沙耶香の頬を滑り落ちていく。くすぐったく、少しだけ冷たい。こちらをじっと見つめる双眸を、沙耶香はじっと見つめ返した。暗い瞳に映る自分の姿は、彼女に比べて随分幼かった。  

 

「私、向き合えますかね?」

 

「それは沙耶香ちゃん次第。どこかで冷静な心を残しておくのは大切。でも、気持ちに嘘はついちゃダメ。きっと後悔する」

 

 碧との関係、気持ちの整理、感情に素直になること。大人にならなくてはいけない使命感が、心を急かすばかりで、正しい向き合い方なんて今の沙耶香には分からない。けれど、「今は分からなくてもいいんだよ」と彼女は口端を優しく持ち上げた。

 

「大人の階段は、二段飛ばしなんて出来ないんやで。急ぐときっと転げ落ちちゃうから。でもその場で転ぶなんてよくあること。あの時、転んだねなんて言い合える友達がいるのは、すごく嬉しいことなんよ」

 

 悪戯っぽく締めた真央の言葉を、春の強い風が夜空へ持ち上げていった。霞に浮かんだ一等星が、ちらちらと煌めいている。

 

 真央のアドバイスの意味をすべて理解出来たわけじゃない。だけど、碧とどう向き合うのか。階段を上ることがどういうことなのか。後悔しないよう自分に問い続けなくてはいけないことだけは分かった。たとえ、今していることがどんなにひどい行いだったとしても。きっと真央の言いたいことはそういうことなのだ。

 

「聞いてもらってありがとうございました」

 

「ううん。いいアドバイスになってればいいけど」

 

 手を振る彼女に、沙耶香は深くお辞儀をした。

 

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