第2話

 傘を差す人が目立ち始めた。今朝はあれだけ晴れていたのに、空にはどんよりとした灰色の雲が広がっている。約束の時間よりも少しだけ早く来て正解だった。うまい具合に雨の降るタイミングを外せた。綺麗なマンションが立ち並ぶロータリーを眺め、碧はうまく面接を乗り切れたのかと考えながら、沙耶香はアイスの乗ったメロンソーダを口に含んだ。

 

 今日は、碧に以前話した名目は小規模の同窓会、本懐は賢人のことを聞く会の開催日だ。沙耶香の知っている友人に連絡を取り、今日の集まりが実現した。色々な店を思案したが、地元近辺のファミレスが無難だという話に落ち着いた。取り繕って大袈裟にする必要はない。JR塚口駅前に隣接する小規模の複合施設に入ったチェーン店で、沙耶香はみんなが来るのを待っていた。

 

 集合時間まではまだもう少しだけ時間がある。碧の性格からして少しだけ早く来そうだが、他のみんなはどうだろうか。残念ながら、その推測をするにはあまりにもブランクが長すぎた。

 

 そんなことを考えていると、店の入り口の扉が開き入店を告げる音楽が流れた。いらっしゃいませ、と元気な声が飛び交う。店員に話しかけられ、少しあたふたしている碧に、沙耶香は声を飛ばした。

 

「おーい。こっちだよ」

 

 夕方前という時間帯のせいだろうか、店内はそれほど混んではいない。水の入った透明なボトルを持って往来するのは、水色のパステルカラーが可愛らしい店員だ。揺れるスカートのフレアを見て、碧に勧めるバイト先をここにすれば良かったとちょっぴり後悔した。

 

「沙耶香、もう来てたんや」

 

「雨降りそうだったからね。碧は降られたんじゃない?」

 

「そやねん。今朝は晴れてたのに……」

 

 傘の差し方が甘かったのか、碧の肩の辺りが少し濡れていた。

 

「雨の日なんだから、グレーのパーカーで来なくても」

 

「今朝は降ると思わんかったんやって」

 

「結構晴れてたもんね。てか、面接行ってから家に帰ってないんだ」

 

「うん。さっきまで映画観てた。傘は、コンビニで買ってん」

 

「へぇ、碧って映画一人で見るタイプなんだ」

 

 幼い頃の彼女は、自信もなく一人では何も出来ないイメージがあった。あの頃の碧は何をするにも沙耶香に引っ付いて来ていた。

 

 図工の時間に絵を書かなくてはいけない時は「何を描けばいいのだろう」と、遠足でグループ分けをする時は「同じ班になろう」と、休み時間になるたびにいつもそばで「沙耶香、沙耶香」と碧は声をかけてきた。同じ大学を碧が選んだのだって、碧はまだ自分に依存しているんだと思っていた。だから、碧が単独行動をしているのは、沙耶香にはにわかに信じがたい。

 

 碧は席に座ると、店員の持ってきたおしぼりで、ほんのりと雨で湿った手を拭いた。

 

「観終わった後に感想を言い合うのとか苦手やし。一人の方が楽しめるから」

 

「碧も大人になったんだね」

 

「そりゃ八年も経ってるからなぁ」

 

「そうか」

 

 なんとも平坦な声で沙耶香は相槌をうつ。碧と離れ離れだった八年間、手紙やメールの近況報告だけで、実際に会うことは一度もなかった。会いたくなかったわけではないが、会おうと互いに言えなかったのは、それぞれが築いているであろう新たな生活に手を出すのが怖かったからかもしれない。

 

 沙耶香がこっちに戻ってきた二週間前、新大阪のホームで久々に見た彼女の容姿は、昔の面影を残し幼いままだった。あの頃と変わらない彼女の姿がいやに懐かしく、何にも染まっていない姿に欲が出たのだ。碧ならば、分かってくれるはずだと、思わず賢人の名前を出してしまった。

 

 碧が知らないはずはないと思っていた。碧となら悲しみを分け合えるはずだ。そう思ったのかもしれない。少なくとも、ノスタルジックな思いにやられていたあの瞬間の自分は適切な判断が出来なくなっていた。あの頃の碧のままだと錯覚した自分のせいだ。沙耶香が想像したものと全く別の答えが、碧の口から紡がれた。

 

 ――よく覚えてないや。

 

 パニックになったと言えば、許されるのだろうか。きっと、あの瞬間だ。胸の底に沈めて忘れていたはずの嫉妬心が蘇ったのは。いや、あんな質問をした時点で何も忘れるなんて出来ていなくて、心の中のどこかに真空パックして大事に持っていたのかもしれない。それが碧の尖った言葉で破かれた。

 

 もしくは破いて欲しかったのかもしれない。碧に破かせれば、「悪いのは碧だよ」と言える。なんとも悪い性格だ。沙耶香は、碧とは違う。昔のことを簡単に忘れるなんて出来ない。

 

「碧も何か頼みなよ」

 

 碧にメニューを手渡すと、彼女はちらりとこちらのメロンソーダを見た。「ありがとう」そう呟き少し逡巡して、碧はアイスレモンティーを頼んだ。

 

「それで? 面接はどうだった?」

 

「また後日連絡やって。でも、他に応募者もいないから、たぶん採用しますって言ってた」

 

「よかったじゃん。無事バイト先が見つかってよかった。どこも受からなくて碧が露頭に迷ったらどうしようかと思ってたからさ」

 

「バイトくらいで大げさ。なんで私が露頭に迷わなあかんの」

 

「そのバイトに連絡するのビビってたんは碧でしょ?」

 

「そうやけど」

 

 運ばれて来たアイスティーに碧がフレッシュを落としたのと同時、入店を告げるチャイムが鳴った。入り口付近にいた男女は、案内をしようとした店員に断りを入れ、キョロキョロと辺りを見渡している。

 

「おっ、沙耶香?」

 

 その中の一人の女子がこちらを指差す。黒髪のツインテールにフリフリのロリーターファッションをしているところを見るに、かなり自分に自信があるらしい。化粧をしてあの頃とすっかり顔立ちも変わっていたが、その服の好みから誰だかすぐに分かった。

 

春香はるか?」

 

「ひっさびさやん! 何年ぶりやろ?」

 

 沙耶香たちが座っていた席は、入り口からそれなりの距離があったのだが、春香は大きな声を出しながら一気にその距離を詰めてきた。こっちに来てからは碧のような大人しい関西人を相手にしていたので、その勢いに沙耶香は少し気圧される。

 

「八年ぶりだよ。春香も相変わらず……かわいいね」

 

「うわぁ! 標準語やん。……かっこいい。うちも真似しようかな!」

 

 褒め言葉が詰まったのは、詰めよってくる彼女の圧のせいだ。可愛いと思ったのは本音だったが、変な意味に捉えられないか心配になった。春香は全く気に留める様子はない。

 

「後ろが、長谷川と久瀬やで」

 

「久しぶり」

 

 意図せず揃った声に、二人は少し気まずそうにした。成長期を挟んでいるとはいえ面影が少しは残っている。そもそも化粧をする女子と違い男子は分かりやすい。だが、はっきりと二人を見分けられるのは、SNS上で彼らの写真を見たからだ。この二人の連絡を知ったのはたまたまで、SNSで春香をフォローした際に表示されたに過ぎない。

 

 ちなみに、短髪の黒髪が長谷川、茶髪で背が小さいのが久瀬だ。

 

 旧友が三人現れたことで、碧が露骨に居心地悪そうにしている。この参加にあまり乗り気でなかったのだから仕方ない。無理強いをした手前、助けないわけにもいかず、沙耶香はU字型のソファーを滑り碧の隣に着いた。

 

「ほら、みんな座ってよ」

 

 沙耶香が促すと、三人は席に着いた。「懐かしいなぁ」そう発した長谷川の声は、沙耶香の記憶していたものよりも随分低い。

 

「ごめんね、今日は集まってもらって」

 

 思わず、「堪忍な」などと口走りそうになり、沙耶香は咄嗟に開きかけた口を閉じた。濃い関西弁に当てられ、記憶の片隅にある妙な言葉が意図せず飛び出しそうになる。笑みを浮かべる春香のツインテールが、愉快に揺れた。

 

「ええよ、ええよ。まさか沙耶香がこっちに帰って来てたなんて知らんかった。普通に誘ってくれて嬉しいって」

 

「大学をこっちにしたから。でも、もう八年も経つのに覚えてくれてるなんてね」

 

「うちらの小学校は人数少なかったやん。さすがに忘れへんって。それに、うちらの次の代からは、一クラスになってもうたからな。少子化? 完全にその波が来てるんやで」

 

 長いツインテールの毛先が、まくしたてる彼女の首の動きに合わせて跳ねる。「へぇ、そうだったんだ」と碧が隣で沙耶香にしか聞こえない声で相槌を打った。

 

園田そのだ、あんまりグイグイいったら柏木が怖がってるやんけ」

 

「あー? なんやて久瀬? なんで碧が私のこと怖がんのな。理由、言ってみ!」

 

「柏木は、お前と違って大人しいからな」

 

 言い合う二人を気に止めることなく長谷川はグラスの水を飲んでいた。こういったやり取りは地上茶飯事なのかもしれない。ちなみに、園田とは春香の苗字だ。

 

 コミュニケーションの方法は人それぞれとはいえ、喧嘩されるのは厄介なので沙耶香は無難な話題を振る。

 

「碧とも久しぶりなの?」

 

「そうそう。碧とは中学以来やんな?」

 

「うん。久しぶり」

 

 碧のよそよそしい態度をみて、沙耶香は心配になった。この子は自分が転校した後、ちゃんとやれていたのだろうか。一人では何も出来ず、すがるように引っ付いてきた幼い彼女の不安そうな顔が脳裏に蘇る。

 

「碧と春香って、中学校ではクラスとか別だったの?」

 

 探りを入れずにはいられず、沙耶香は何気ない質問をぶつけてみた。淡桃色のチークが塗られた春香の頬が柔らかく持ち上がる。

 

「そうやねん。中学は人数も増えるから一回も同じにならんかったんよなぁ?」

 

「うん。でも、二年生の時、風紀委員会で一緒やったよね」

 

「そうや、そうや」

 

「碧、委員会なんてやってたんだ」

 

 大人しい碧のことだから押し付けられたんじゃないかと心配になる。だが、碧は照れた様子で破顔した。

 

「絶対に何かの役職つかなあかんくて、なんとなく委員会ってかっこいい響きやん。一回くらいやってみたかってん。仲いい子がおるわけちゃうかったから春香がおってくれて助かった」

 

「碧ってそういうことは覚えてるよねぇ」

 

 何気なく呟いた言葉に、今は春香たちの前だと気づく。碧は忘れっぽいことを他の人には言いたがらない。沙耶香は慌てて口を閉じたが、聞こえていなかったのか碧は表情を変えなかった。

 

 へへっ、と春香が照れる素振りをした。碧に助かったと言われたのが嬉しかったらしい。それから彼女は、こちら側を見て、思い出したように言葉を続けた。

 

「そういえば、碧は沙耶香と特別仲良かったよな。ん、もしかして碧、沙耶香と同じ大学なん?」

 

「そうやで」

 

「えーめっちゃええやん。うちは、専門行ってんねんけど、知り合い一人もおらんから友達つくりが大変で、大変で。ちっさい頃はすぐ仲良くなれてた気がすんねんけど、なんなんやろな。急に難しくなった気するわ」

 

「お前に限っては大丈夫やろ」

 

「なんやて久瀬? もういっぺん言ってみぃ」

 

「そんな格好やから誰も近寄って来んのちゃうか?」

 

「なんでや! 可愛いやろ」

 

「集合場所行ったら、その格好されてる側の気持ち考えろ」

 

「あんたかて、大学生やろ? もっとちゃんとした格好したら? モテへんで?」

 

「近所のファミレスに来んのに、おめかしする必要ないやろ。むしろ、お前のやる気が怖いわ」

 

「ほらほら、お二人さんその辺りで」

 

 言い合う二人の間に手を伸ばし、沙耶香は口喧嘩を止める。久瀬の心中は察するが「少しは褒めて上げても構わないのに」と心の中で呟く。だが、久瀬が沙耶香の内情を知れば、いつまでの大人になりきれないのは互い様だ、と怒られてしまうことだろう。

 

 まだ怒りが収まらないのか、春香は久瀬に睨みをきかせていた。ぷん、と自ら発した効果音に合わせ、そっぽを向いた弾みにツインテールがくるりと跳ねる。これだけ好きに言い合えればむしろ仲はいいのだろう。沙耶香の知らない間の八年間を想像と妄想で埋めてみる。

 

「男子二人もありがとうね」

 

「集められんのは全然えんやけどさ、俺らになんかようあんの?」

 

「あれ? 長谷川は、私に会えて嬉しくないわけ?」

 

 わざと胸を強調してみる。二人の視線が一瞬、下がった。昔から沙耶香は人気があったのだ。大人になってからその魅力は増している自覚があった。

 

「男子は単純やな……。まぁ沙耶香はモテてたからなぁ。あんたらも好きやったんちゃう?」

 

「ちゃうわ!」

 

 慌てた様子で春香の言葉を否定しているのを見るに、どうやら長谷川の方はそうだったらしい。だが、それも八年前のこと。すっかり大人っぽく好青年になった彼なら、他にいい子がいてもおかしくない。彼が頬を染めているのは、かつての恋をからかわれたからだろう。懐かしい思い出は、瓶に入れ蓋をして大切に残しておくべきなのだ。少なくとも、自分を好いてくれていたという彼の思い出を汚さない行動を取らなくてはいけない。

 

「そんなに強く否定されたショックだなぁ」

 

 だけど、口について出た言葉は彼をからかうものだった。

 

「ちげぇって」

 

 机の端に置かれていたメニューを取り、長谷川は乱暴に言葉を吐き捨てた。「ほら、俺らもなんか頼むやろ?」と、隣に座る久瀬と春香にドリンクメニューを突き出す。

 

 三人がドリンクを注文したところで、春香が仕切り直すように空咳を飛ばした。

 

「それでうちらを呼んだんはなんで? まさか、ホンマに超絶ミニ同窓会を開きたかった分けちゃうよな?」

 

 お見通し、と言いたげにつぶらな双眸が細くなる。リップで艶を持った唇が、ぷくりと色っぽく開いた。それに反応して久瀬が声を飛ばす。

 

「お前が仕切んなよ」

 

「久瀬はうるさいねん! うちが仕切ったってええやろ」

 

「春香ちゃんは、こう見えて中三の時、委員長もしてたから」

 

「碧? こう見えては余計ちゃう?」

 

 ごめんごめん、と碧が口端を緩める。時間が経って碧の硬さもほぐれてきたらしい。きっと、久しぶりに会う同級生に緊張していただけなのだろう。はじめの碧の反応で、もしかすると、と沙耶香は嫌な想像が働いた。どうやらその心配はないらしい。

 

「春香が委員長ねぇ」

 

「あー、沙耶香もぽくないとか思ったん?」

 

 共に過ごせなかった時間は、共有できないものを作り出す。彼女の持つリーダーシップを、沙耶香は計り知れない。ただ、みんなに合わせた発言をしたに過ぎないのだ。碧たちが笑い合うのを見て、寂しさにも虚しさにも似た感情が湧き上がった。

 

「こいつの委員長ネタはもうええから」

 

「ネタってねんやねん。久瀬ぇ、ええかげんにせな怒んで」

 

「おぉ、おっかな」

 

 久瀬は両手を上げて降伏する。すでに手遅れな気もするが、ぷっくらと頬を膨らませた春香は存外、楽しそうな目をしていた。

 

「せっかく戻って来たんだし、会いたかったっていうのも勿論あるよ。でも、みんなに聞きたいことがあるの」

 

「うちらに質問? 答えられることなら何でも答えるで」

 

 な、と彼女は久瀬の背中を強めに叩いた。きっと仕返しだ。あまり嫌な顔をしないところを見るに、なるほど、と沙耶香の女の勘が働く。つまり、お似合いというわけだ。

 

「私が東京に行く半年くらい前に、引っ越しした男の子おったん覚えてる?」

 

「ん? 小学校の時か。あー、賢人やろ? 確か苗字は……久瀬覚えてる?」

 

「前原な。長谷川はクラス一緒やったやろ」

 

「そう、前原や。前原賢人」

 

 男子二人が賢人の名前を出したタイミングで、注文したドリンクを店員が運んできた。ホットの珈琲が三つ。テーブルに並ぶドリンクを見て、まるで自分だけあの頃に取り残されているような感覚になった。メロンソーダは、どうも子どもっぽい。

 

 珈琲を頼んだ三人が、ソーサーに乗ったフレッシュに手を伸ばす。春香は、フリフリの袖が汚れないようにと気を使いながらティースプーンで珈琲をかき混ぜた。

 

「前原賢人くんか。おった気もするけど、うちはぼんやりとしか覚えてないかもしらん」

 

「園田は、クラスが別やったからちゃう? 俺、一回も同じになったことないはずやもん」

 

「あー確かに、うちはずっと久瀬と同じやったからそうかもな」

 

 カップの中の茶色と白が思い出のように混ざり合っていく。ティースプーンがカップ似当たり、キーンと甲高い音を立てた。顔をしかめた春香がさらに続ける。

 

「でも、なんで急に前原くんのこと聞くん?」

 

 当たり前の追求だった。そんな切り返しが来るなんて簡単に想像出来るはずなのに、沙耶香はほどよい言い訳を考えていなかった。春香の切れ長な目に見つめられ、頭が真っ白になる。何か返さないと。それだけが空っぽの脳内を目まぐるしいスピードで駆け巡った。

 

「えっーとね。帰って来た日に、たまたまその話になったの。……久しぶりに会ってみたいなって。碧が好きだったから」

 

「ちょっと沙耶香! なんでいきなりそれを言うん」

 

「あれダメだった?」

 

 あはは、とおちゃらけてみたが、駄目に決まっている。大人しく自分のことをあまり主張しない碧の性格上、好きな人がバレるより辛いものはないはずだ。軽率な自分の言葉を、取り消したいがもう時間は戻らない。

 

「もう……」

 

 拗ねるような素振りをして、碧はストローを口に加えた。透明な筒の中を、濁った茶色い液体が吸い上げられる。ほのかなレモンの香りが広がった。その話を懐かしみながら、春香が垂れたツインテールをくるくると指に巻く。

 

「まぁでも、昔のことやろ? 前原はかっこよかったもんな。運動神経もあったし」

 

「確か、五十メートル走、学年で一か二番やったっけ?」

 

「俺が二番で前原が三番!」

 

「ええねん。久瀬の足速い自慢は。園田の好みはもう足速い人じゃなくなっとるわ」

 

「なんやそれ、そんなんちゃうから」

 

 あー、やっぱりそういうことか、と沙耶香は納得する。春香があまり動揺しないところを見るに、互いの気持ちを薄々は気付いているのかもしれない。付き合っているわけではないらしいが、絶妙な時期なんだろう。なんとも羨ましいことだ。その話をわざとらしく流すように、春香が言った。

 

「でも、確かに同窓会とか成人式でも会えん可能性あんもんな。どこに引っ越したかわからんってことやろ?」

 

「そういうことだよ」

 

「久瀬なんか知らんの? 長谷川は名字すら覚えてないらしいし」

 

「俺もさすがにどこに引っ越ししたかまでは。賢人って誰と仲良かったんやっけ……」

 

 手がかりは無いものか、と久瀬はスマホを操作し始めた。その様子を、碧が真剣な目で見つめていた。意外にも碧は平気そうだ。賢人が好きだったという話をした時、てっきり泣き出すまであるかもしれないと思っていたのに。沙耶香は少しだけ拍子抜けする。

 

 大切にしまっていた瓶の蓋を開けてしまった。その動機は確かな悪意だ。隣にいる碧の幼い顔を見つめ、沙耶香は胸が痛くなる。もう後戻りは出来ない。平静を装いながら、前方に座る三人に向かって笑みを浮かべた。

 

「三人とも、SNSとかも分かんないだよね?」

 

「すまん。力になれんくて」

 

「全然いいよ。むしろ、ごめんね。わざわざ来てもらって」

 

「ええって。久しぶりに沙耶香にも碧にも会えたし。楽しかったで、また誘ってや」

 

 春香の顔はぐしゃりと破顔した。その表情は、思い出の中にあるものとそっくりとだった。

 

「うん。また買い物でもいこう」

 

「やった! あ、そうや。学校に聞いてみたら? 何か教えてくれるかもしれん」

 

「そうだね。今度行ってみるよ」

 

 残っていた珈琲を口に含み、春香が席を立った。長いツインテールを揺れして「はよ、しぃや」と久瀬を急かす。その横で長谷川が名残惜しそうにしていた。沙耶香は頬杖をついて、口端を上げる。

 

「長谷川は残りたいの?」

 

「正直に言えば、そういう気持ちもないわけちゃうかな。でも、今度でええわ。今の林はなんと言うか……まぁ、またゆっくり話そうや」

 

 長谷川は、すっと細く筋張った手を上げた。それが妙に色っぽく、少しだけ胸がキュンとする。別に好きになったわけじゃない。からかおうと思ったのに、肩透かしされてショックだったのだ。碧も含め、みんなすっかり大人になってしまった。自分だけが取り残されてしまったような気持ちになる。

 アイスの溶けたクリームソーダは、すっかり濁ってしまっていた。

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