第9話
「連絡先交換しとこうや」
授業の終わりに、隣に座っていた梨咲がスマホを取り出した。
「ええよ」
「へへっ、中々、友達作れんくて困っててん」
「実は私もなんだ。授業に追われるばかりで、あんまり人と話せなくて」
「分かるわぁ。でも良かったで、碧と友達になれて」
正直者だとは思ったが、碧の想像以上に自分の意見をまっすぐ表現するタイプらしい。しかも、その言葉に嘘を感じない。
「碧は、この後、暇?」
「えーと。うん。授業もここまでやし、特に予定ないけど」
授業予定くらいしか書き込まれていない手帳を開き、碧は頷いた。大抵は一緒に帰っている沙耶香だが、この曜日だけは時間が合わない。遅い時間に必須科目が入っているらしく、沙耶香は、夕方のこの時間から登校してくるようだ。
「お茶でもせぇへん?」
「全然ええけど」
「やった。碧、家はどこなん?」
「尼崎の方」
「アマかぁ。ほんなら梅田やなぁ」
「梨咲はどこなん?」
「大阪市内やで。
「うーん」
碧が首をひねれば、「あー」と声を発しながら梨咲はなんとか説明出来ないものかと考え始めた。
「
「なんとなく」
残念ながら兵庫県出身の碧の頭に、大阪の地図が入っているわけもなく、分かったフリをして頷いておいた。全くの嘘というわけではない。ぼんやりと守口市の位置は分かるので、おそらく大阪市内の北東の辺りだ。
碧があまり分かっていないことを察したようすの梨咲だったが、自分の地元を深堀りするつもりはないらしく「そんじゃ、行こか」と、机に散らかった筆記用具を可愛らしいアップリケのついたジーンズ生地の筆箱にしまい始めた。
*
昨日、パフェを食べてしまったため、カロリーの高いものはできるだけ避けたかったが、せっかくお茶を誘ってくれた梨咲にそのことを言い出せないまま梅田へとついた。阪急のホームから伸びる長いエスカレーターを下れば、何軒かスイーツを扱う店が見えた。鼻から胃袋を擽るのはチーズケーキの香りだ。どれも魅力的だが、今の碧にはカロリー的にも財布的にも厳しいものがある。
そのどれかに入るのかと思ったが、梨咲は見る気もしない様子で店を通り過ぎていった。タピオカ店に並ぶ制服姿ばかりの列を横目に、碧は梨咲のあとを追い阪急百貨店の入り口の方へ進んでいった。
阪急百貨店前のコンコースは気品に溢れている。黄金色の照明に照らされた通路は高級感が漂い、統一されたデザインが落ち着いた雰囲気を醸し出していた。百貨店のウィンドウは季節に応じた展示がされることで有名だ。四月のテーマは『SAKURA、咲くOSAKA』ピンクの照明が織りなす美しい光の桜がガラスの向こうで満開になっていた。
人の往来が激しいその通りを抜け、大通りの交差点を渡ると、街並みは雰囲気を変え一気に騒がしくなる。まだ、夕方だと言うのに、居酒屋の客引きが始まっていた。パンチコ店やゲームセンターが並ぶ商店街には、ちらほらと大人な店が一緒に軒を連ねている。
「梨咲、どこに向かってるん?」
身体のラインを強調する服を着ている梨咲は大人に見えるのだろう。居酒屋の客引きも彼女にばかり声をかける。背が小さく決して余所行きな格好もしていない碧は、子どもに見られているのかもしれない。
梅田には高校生の時にも度々訪れていたが、これほど露骨な通りは通ったことがなかった。スプレーで落書きされた工事現場のパネルに影が落ち、ホテルの派手な照明がキラキラと輝きを増す。ゆっくりと街に忍び寄る夜の雰囲気に、碧が不安げな顔をしたのを見て、梨咲は優しい笑みを浮かべた。沙耶香と違うところは、本気で怖がっているのを察してくれるところかもしれない。
「いいから、いいから」
梨咲は、堂々と街を闊歩する。この道を通るのがまるで日常のように。やっぱりバイトって……誰かを待っているスーツ姿の中年男性の元へ駆け寄る女性を見て、碧は彼女と梨咲を重ねた。男性の腕へひっつき、女性は満面の営業スマイルを浮かべている。あの女性だって、自分たちとそれほど歳は変わらないはず。もしかすると、梨咲もあの女性と同じように――――
「ここ、ここ」
梨咲の声に、碧の意識は破廉恥な想像から戻ってきた。よそ見をしているうちに、少しだけ落ち着いた場所へ出ていた。小規模なオフィスビルが並んでいる通りには、スーパーマーケットも見えている。
「お茶って……ここ?」
「そう。ええ雰囲気やろ」
梨咲が指差していたのは。紛れもない純喫茶だった。
*
その喫茶店は、オフィスビルに挟まれる形でぽつんと佇んでいた。まるでこの場所だけ時間の流れに置き去りにされてしまったように不思議な雰囲気が漂っている。
シックなデザインの扉を梨咲が開けば、なんともレトロなベルの音が響いた。その音を合図に、カウンターから「いらっしゃいませ」と低く落ち着いた声が聴こえてきた。
店内には、軽快なジャズが流れていた。音源は蓄音機だ。針のレコードを擦る音が心地よく、店の雰囲気にもう一味加えている。
入ることを臆している碧を置いて梨咲はそそくさと中へ入っていき、入り口から一番遠い窓際の席に座った。少し遅れて碧もそれに続く。一瞬、マスターと目が合った。白い口髭を蓄えたダンディーなおじいさんだ。マスターは、碧を見ると小さくお辞儀した。どうやらあまり口数は多い方ではないらしい。それにつられ、碧も軽く会釈する。
「梨咲、ここにはよく来るの?」
店内にあるワインレッドの革製の椅子は、随分古いものだった。碧が腰掛けるとギギギと軋んだが、綺麗に手入れされていて座り心地は良い。
「うん。カウンターに寡黙そうなマスターがいるでしょ? あれ、私のお爺ちゃんやねん」
「それじゃ、ここは梨咲のお爺ちゃんのお店?」
「そう。だから心配しなくてもお金は取らへんから」
「え、でも悪いよ」
「大丈夫、大丈夫。もう半分趣味でやってるようなもんやし、普段は結構流行ってるんやで?」
いくつかのテーブル席とカウンター席で構成されている店内には、碧たち以外にも何人かお客さんがいた。この辺りには大型チェーンのカフェもあるはずだが、こうして人がいるのを見るとそれなりに流行っているのは本当らしい。そこまで言われて断るのも悪いと思い、注文を取りに来た梨咲のお爺さんに一番値段の安い珈琲を注文した。
「碧はほんまにええ子やなぁ」
梨咲は湯気立つ珈琲に、砂糖を溶かしていく。細い指でティースプーンを掴み、そっと珈琲をかき混ぜていた。
「なにさ、いきなり?」
ぶっきらぼうな声を出しながら、碧は珈琲を口に含む。砂糖が少なかったのか、渋みが口の中へ広がった。だが、その苦味もまずいわけではない。一瞬、しかめた顔はすぐにほぐれる。
「タダや言うねんから、もっとええの頼んでもええのに」
「そんなわけにもいかんやろ」
「それは、友達になったばかりの遠慮? それとも碧本来の優しさ?」
遠慮がなかったわけではない。だけど、優しさかと言われるとそうとも思わない。結局はタダという言葉に甘えてしまっているのだ。答えに渋った碧に、梨咲は「ごめん」と笑みを浮かべた。
「意地悪な質問やったな」
「ううん。遠慮してるなら私はお金を払ったと思う。でもこれは、優しさでもない。梨咲と友達になりたいからっていう私のエゴやと思う」
「碧も正直になってきたな」
彼女の溢した子どもっぽい笑顔を見て、碧は友達になれたんだと思った。それにしても、いつもにまして積極的な自分に、碧自身が驚いていた。どうしてか梨咲と話していると、不思議と本音が引き出される。彼女にはそういう才能があるのかもしれない。
「碧と仲良くなれて良かった」
「ホンマに正直すぎて照れるわ。私も梨咲と友達になれて良かったと思ってるで」
「ありがとう。で、どう? おじいちゃんの珈琲」
「苦い。けど美味しいよ」
「まぁ、私も珈琲のことはよく分かんないんやけどね」
そう言って梨咲はにっこり笑みを浮かべる。ここまで気が合うのも珍しい。こんな短時間で打ち解けられたのは初めての経験だった。もしかすると、過去にもあって碧が覚えていないだけの可能性もあるのだが、あるとすれば沙耶香くらいだろうか。
気がつくと、硝子窓の向こうはすっかり夜の色に染まっていて、車のテールランプが赤い星々のように連なっていた。すっかり話し込んでしまい、時間が過ぎるのを忘れてしまっていたらしい。そろそろ帰らなきゃ。碧がそう思った時だった。
「碧って好きな人とかおらんの?」
きっと、当たり障りのない質問のつもりだったに違いない。現に梨咲の顔には、素直な好奇心であふれていた。恋バナの一つや二つ、仲良くなれば当然のように話題にあがることだ。だけど、沙耶香のせいで碧の脳裏には賢人のことが浮かんでいた。
「えーなんで」
逸した視線の先で、わずかに残った珈琲が淀んでいた。すっかり冷めたそれを口に少し含めば、芳醇な苦さが広がる。手が少しだけ震えて、戻した珈琲カップがソーサーに軽くぶつかった。
「もう二週間経ったんやから、学校でびびっと来る人とか見つけてないん?」
「いないよぉ、そんな人」
「でも、碧ってちっちゃくて可愛いからモテるんやないの?」
「ちっちゃくては余計」
「ごめん、ごめん」
「別に私モテるわけちゃうし、そういう人、今はおらんから」
カップの底に残ったわずかな茶色い液体に、動揺した自分の瞳が映り込んだ。好きな人を考えるたび、賢人のことを思い出してしまう。揺れる茶色い鏡に向かい、下手くそな笑みの写してみる。
「今はなぁ。昔はおったってことやな? 高校の時とか」
「もう詮索せんといて」
「うーん。それじゃあれか、昔の人が忘れられないって感じ?」
「そうなのかもな」
「大恋愛の末に別れてしまった男と女みたいな」
「そんな大袈裟な話ちゃうから」
ははっ、と梨咲は無邪気に笑う。頬杖をつき、ひんやりと静まる夜の街に潤んだ双眸を向けた。
「……でも昔の好きな人を忘れられないって分かるなぁ。私もそうやねん」
そう言って、彼女は珈琲カップを傾けた。古めかしい格子窓から差し込む夜の色が、梨咲の柔らかな頬に溶け大人な彩りを与える。そこに浮かぶ真っ黒な瞳は妖艶で、悲しい何かが息を殺して潜んでいた。それが恐ろしいほど魅力的で、碧の心は切なさに犯される。
「そうなんや」
「遠くに行っちゃってん。もう二度と会えないくらいずっと遠くに」
「ううん。分かるかも」
梨咲の気持ちは痛いくらいに分かる。好きだった人が手の届かないほど遠くに遠くへ行ってしまう。その悲しみは、随分前に味わった。彼女もまた同じなのだ。ずっと口の中を漂う珈琲の苦さみたいに、悲しみを背負って生きている。飲み込むことも吐き出すことも出来ず。
ドアが開くベルが鳴り、軽快なレコードの音楽が止まった。「そろそろ遅くなるから帰りなさい」そう言って、梨咲のお爺さんが水の入ったグラスを運んできた。その口調はとても穏やかだった。きっと彼女の内情を知っているのだろう。
口の中に残った珈琲の苦味を流したくなくて、碧はその水に手をつけなかった。
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