第8話
昨日、甘い物を食べすぎたせいで身体がいつもよりも重たい気がする。気のせいだろうと言い聞かせつつも、今朝は朝食を抜き、昼食もサンドウィッチ一つに抑えた。ちゃんと食べた方が良いと聞くが、昨日の食べ過ぎのバランスをカロリー的にも経済的にも取るのは仕方のないことだ。
広い構内は未だに慣れない。次に向かうべき教室を探し、校舎をうろついていると聞いたことのある声に呼びかけられた。
「君はこの間の」
スマホを眺めていた顔を上げると、艶のある茶色のロングヘアーと大きな胸が視界に飛び込んできた。すぐに視線をもう一段階上げれば、今週のはじめ頃に一限目の授業で碧がレジュメを貸した彼女が朗らかに笑んでいた。
「あ、どうも」
「今から授業?」
「そう。ジェンダー論」
「え、ほんなら一緒やん。良かったぁ、これで休んでもレジュメに困る心配はないな」
きっと彼女の紡ぐ言葉に悪意はない。胸を撫で下ろす表情は、率直に碧と同じ授業であることを喜んでいるだけのはずだ。けれど、彼女の言葉は休んでしまった時のための保険が見つかった、と捉えられても仕方がない言い回しだ。他意がないと分かりながらも、碧の眉がわずかに動いたのを彼女は察したらしく、取り繕うようにすぐに言葉を続けた。
「あ、変な意味ちゃうで、知ってる子がおって嬉しいんよ」
「そんな、全然気にしてへんから」
「良かった……意識してないんやけど、変な風に思われることがたまにあって、……まぁレジュメに困る心配がないって言うのも本音ではあるんやけど」
くすり、と溢した笑いには無邪気さが潜んでいた。この人は嫌いになれそうにない。碧は直感的にそう思う。
「正直者なんやな」
「嘘がつけないタイプだとは良く言われる。君はお人好しタイプ?」
「なんでそう思うの?」
「だって、ズケズケとレジュメ借りたのに、あの時、嫌な顔せんかったやん? 今日だって機嫌よく私の相手をしてくれて、笑顔が可愛いし、いい子の証拠」
ふと、彼女の手が碧の耳元に伸びた。碧のこめかみの辺りから輪郭に沿って彼女の細く柔い指が撫で降りる。頬を赤くした碧に、彼女は甘い吐息を吐いた。
「ごめん。つい仕事の癖が出ちゃった」
「え、仕事ってなんなん」
碧の頭に『入店記念十万円』の文字がちらつく。今日の彼女は随分と身体のラインを強調した服装をしていて、思わずその布の下の顕な姿を想像してしまった。慌てる碧に、彼女はウインクをしてみせる。
「冗談やって。にしてもなんか君ってからかいやすいな」
「わざわざ触るから変な勘違いするんやん」
「スキンシップが好きなだけ」
クスクスと笑う彼女の姿を見て、碧は沙耶香に見せるようなラフな表情をしてしまう。それを見た彼女は少し驚いたように「へぇ、そんな顔もするんや」とくりっとした目を細めた。
なんとなく碧が彼女に惹かれる理由が分かった気がした。どうも自分は、知らず識らず、からかわれることを望んでいるらしい。突如として露呈した碧の体質は本質的なものなのか、沙耶香によって形成されたもなのか。どちらにせよ、目の前の彼女にとって最適な獲物になることは間違いない。
「からかいやすいっていうのはよく言われる」
語気を強めた碧に、彼女は申し訳無さそうな素振りをした。知っている。これはパフォーマンスだ。だけど、そのやり取りがなんだか微笑ましくて、碧は思わず口端が緩んだ。
「もうなんか憎めへんなぁ……えーと」
「あ、名前まだ言ってへんかったな。私は
「柏木碧です」
「碧かぁ。ええ名前やな。なんで碧なん?」
「えっ? そこ気になる?」
「名前の由来は大切やで。ご両親がどういう思いで名付けたのか。森羅万象、千差万別。意味のない名前などないんよ」
気になると言われて拒む理由もなく、碧は父に聞いたことのある名前の由来を話した。
「私が生まれた時の空がとっても綺麗で、お父さんが思いつきで名付けたって。だからそんなに深い意味はないと思うよ。私、春生まれだから、桜とか栞とかって名前にしようとしてたらしいんやけど、そっちの方が可愛くてよかったなぁ」
「そう? 碧の方が似合ってると思う」
「お褒めの言葉として受け取って置きます」
「そのつもりだよ。碧って感じがするもん」
「どういう感じ?」
「こう、いじりやすそうな……」
「やっぱり褒め言葉じゃないじゃん」
「嘘、嘘。澄んだ春の青空みたいにきっと綺麗な心を持ってるんやろなぁって」
「なにそれ」
「正直者の私は、感じたことを率直に言うの」
「どうやろうなぁ」
自分が、父の見たという晴れ渡った空のように澄んだ心を持っている自信はない。父が記念にと撮ったその日の空は、信じられないくらいに雲もなく碧く美しい空だった。
「あっ、春生まれってことは、もうすぐ誕生日?」
「ううん。四月三日だからもう過ぎてるよ」
「あー、春休みの間に過ぎちゃうパターンな。中々、お祝いしてもらえないタイプだ」
「そうそう。入学直後は友達いない上に、学校が始まると誕生日は終わってるんよ」
「私も夏休み真っ只中の八月生まれだから分かるわぁ」
話しながら、碧はふと腕時計に目を落とした。始業の時間が迫っている。梨咲もそれに気付いたのか、「こっちやで」と碧を手で招いた。どうやら、碧がスマホで構内の地図を見ていたのに気付いていたらしい。
「私に名前の由来聞いたなら、梨咲の名前の由来教えてよ」
「えーそれ気になる?」
「私は話したんだから、自分だけ言わないのはずるいやん」
「ずるいか。その責め方の方がずるいなぁ」
可愛い子には弱いんよ、と冗談ぽい言い回しで、梨咲は肩をすくめた。随分と大きな荷物を持って次の授業へと急ぐ学生たちと階段ですれ違い、二人は道を譲る。
「水原秋櫻子の『梨咲くと……』って俳句知らん……よな? お父さんが浅草生まれでその俳句を凄い好きやってんて。そっから漢字二文字をもらって、『梨咲』でも、夏生まれで梨の花は関係ないし、さすがに無理やりすぎやろって。まぁそのおかげかは知らんけど、私は文学部。こう見えて本好きなんよ」
「じゃあ日本文学専攻?」
「ううん。西洋文学。そこは少しひねくれてもうた」
碧たちが教室に着いたタイミングで、ちょうど始業のチャイムが鳴った。
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