第7話

「この奥にあると思うんやけど」

 

 どこへしまったのか、何にしまったのか。思い出という宝箱の中に片付けられた手紙を探し、碧はクローゼットの中をかき分けていく。そもそも家で一番大きなクローゼットが碧の部屋にあり、家族の不要なものまでここにしまわれているせいで、碧が使用しているのは半分だけだった。特に家族のものがしまわれている方は、ごちゃごちゃと散らかっている。

 

「さっきも聞いたよ?」

 

 押入れの中から碧が振り返ると、沙耶香は優雅に紅茶を嗜みながら碧の母が運んできたクッキーを頬張っていた。

 

「さっきパフェも食べたのに今度はクッキーって。太ってもしらんで」

 

「いくら食べても太らない体質なんですぅ」

 

「いけずな言い方やなぁ」

 

 先ほどのパフェが居座るお腹を擦りながら、碧は眉間にシワを寄せる。ただ細やかな怒りよりもすぐに羨ましさが勝った。

 

「いいなぁ」

 

「碧だって別に細いじゃん」

 

 パキリとクッキーの割れた音が響いた。押入れの中まで甘いバニラが香ってきて、碧は一瞬呼吸を止める。体型を維持しているのは、普段の努力の賜物だ。我慢だって時に重要なのである。

 

 沙耶香からもらったお土産のクッキーには手を伸ばさず、碧はさらにクローゼットの奥へと身体を押し込んだ。さすがに自分が使っている側に置いてあるものは把握しているので、あるとすればもう一方の方だ。溜まった埃かコートに着いていた花粉のせいだろう、やけに鼻がムズムズした。荒らしく小鼻をこすれば、ヒリヒリとした痛みがむず痒さを打ち消した。

 

「にしても碧ってこういう趣味だったんだねぇ」

 

 部屋をジロジロと眺められ、「あんまり凝視せんといて」と碧は平たい声を飛ばす。

 

「招き入れといてそれはないでしょ」

 

「手紙を見せろって押しかけたんやろ?」

 

「まぁそういう見方も出来るね」

 

 部屋の趣は小学校の頃と大きくは変わっていないはずだ。それでも、当時集めていたキャラクター物のぬいぐるみは棚からなくなり、今では何冊か小説が並んでいる。勉強机も高校に上がる時、従兄弟に譲ってしまった。カラフルな色合いが好きだった以前とは違い、新たに買い替えた家具は、木を基調とした落ち着きのあるものが多かった。

 

「でもシンプルでいいと思うよ」

 

「本当に思ってる?」

 

「思ってる、思ってる」

 

 人を堕落させてしまうと噂のクッションに埋もれた沙耶香の活力のない声を聞きながら、碧は修学旅行以来使っていないキャリーバックを押しのけた。そこには動かくなった掛け時計、随分古い兄のゲーム機の箱、『碧』と題されたVHSが置かれていた。今はもうビデオデッキはなく再生することは出来ないが、沙耶香に見せれば見てみようと騒ぎ出すに違いない。ご丁寧に『0歳~2歳』『3歳~5歳』などと区分分けまでしてあるそれを、邪魔にならないように奥へ押し込んだ。

 

 懐かしいものに溢れたそのそばに、いつ置かれたものなのか分からない古ぼけた百円ショップの収納ボックスがあった。それに妙な見覚えがあり、思わず碧は手に取ってみる。ある程度の重みがあり、すぐに紙が入っていると分かった。

 

「あったかも」

 

 そう言って、碧が押し入れから出てくると、「待ってました」と言わんばかりに沙耶香はクッションから身体を起こした。

 

「たぶんこの中やと思うんやけど」

 

 埃の被った箱を取ると中にはカラフルな便箋が束になって詰まっていた。まさしく沙耶香と交換していた手紙の数々だ。ぼんやりとしか覚えていなかったのだが、取った手紙を見て懐かしい思い出が溢れ出してきた。

 

「おぉー懐かしい」

 

 自分が送った手紙をまじまじと見つめ、沙耶香はそう漏らす。読み返すことなどなかった手紙だが、こうしたタイミングでしか見ることがないのも少し寂しい気もした。

 

「どれどれ何が書いてあるかなぁ」

 

 丸みを帯びた平仮名ばかりの手紙には、碧が書いた手紙への返事、それからその日にあったことが丁寧に記されていた。沙耶香はこの頃からこういうところが意外と豆なのだ。可愛らしいキャラ物のシールは、少しくすんで糊の辺りが変色してしまっていた。

 

「沙耶香って文才あるよね」

 

「文学部ですから」

 

「心理学科のね」

 

 文学部の学生だからといって全員に文才があるわけではない。しかし、沙耶香の書く感想文はよく何かの賞を取っていた気がする。碧はそういうたぐいのものが苦手で、いつまでも書くことが出来ずよく叱られたものだ。

 

「碧も手紙はちゃんと書いてくれてたけどね」

 

「手紙は沙耶香しか読まんやん。感想文はみんなに見られるし、それに自分の気持を表現するって恥ずかしい」

 

「あくまでおべんちゃらだよ。どうかけば良く思われるかなって考えながら書くの。すると大人は褒めてくれる。自分の気持を正直に書こうとするから書けないんだよ」

 

「この手紙も?」

 

「感想文に関してはね。この手紙は本当の気持ち」

 

 ニッコリと破顔しながら、沙耶香は懐かしそうに手紙を読み進めた。使い分けということらしいが、それが意識的に出来るほど碧は器用ではない。

 

「それで、何かおもしろそうでも書いてた?」

 

「碧が猫に追いかけられた話が書いてあるよ」

 

「なにそれ?」

 

「えー覚えてない? 学校の帰りに近所の公園に寄ったら、野良猫が何匹も溜まってて、碧を見るなり一斉に向かって来たやつ」

 

「あー言われるとそんなこともあったような」

 

「かなり衝撃的なことだと思うんだけど? 私ならトラウマになるよ」

 

「ぼんやりとは覚えてるんだけど」

 

「私の手紙によれば、何故か碧が給食のししゃもを持っていたって。それに猫たちが群がって来たってことかな?」

 

「そうやったかなぁ」

 

 沙耶香に言われて色々と思い出してきた。当時、公園に捨てられた仔猫がいて、かわいそうになった碧は給食に出てきたししゃもを食べさせて上げようとこっそりと持って行ったのだった。

 

 ビニールに入れていたのか、箱にでもしまっていたのか。五時間目をバレずに過ごしたのだから、匂い対策はそれなりにしていたはずだ。だけど、猫の鼻は騙せなかったらしい。

 

 どうも手紙にはそういう類の笑い話が書かれているようで、沙耶香は手紙を読みながら終始ケラケラと笑っていた。碧をからかう自作の文章のオンパレード。さぞかし愉快なことだろう。逆の立場になって笑ってみたいものだ。

 

「ねぇ、これは覚えてる?」

 

 そう言って沙耶香が差し出してきた手紙を碧は受け取る。ピンクの便箋の隅には、可愛らしいうさぎが泣いたり笑ったり跳ねたりしていた。そこにくどいくらいにうさぎのシールが重ねられている。

 

「どこのこと?」

 

「ここだよ」

 

 沙耶香が指差したのは、手紙の冒頭だった。碧が送った手紙に対する沙耶香の返事の箇所だ。

 

 

 ケガはだいじょうぶ? おふろ入ったらいたそう。キズがのこらないといいね。それにしても、あおいがはぐれた時はどうなることかと思ったけど、よかった。けんとくんが助けに来てくれてたんやな。けんとくんは、とってもやさしいしかっこええから、うれしかったんとちゃう? 大さかじょう、また行きたいな。次は、はぐれないようにわたしが手をつないであげる。

 

 

「そっかこの時だ」

 

 その手紙の日のことを、碧ははっきりと覚えていた。小学三年生の春の遠足。大阪城へ行った際、帰り際にはぐれてしまった時のこと。

 

 大阪城公園でお弁当を食べて、少しだけ自由時間があった。先生の目の届くところから離れないようにと決められた範囲があったはずだが、碧はその指定された場所から外へ出た。理由はぼんやりとしか覚えていない。たとえば、可愛らしい猫を追いかけてだとか、綺麗な蝶々を見つけてだとか、そんな理由だったはず。とにかく、碧は気がつくと知らない場所にいたのだ。

 

 

 *

 

 

 あたふたとしている碧を、通り過ぎる見知らぬ外国の人が微笑ましく見ていた。制服を来た子どもというのはどうも珍しいらしい。助けを求めたいのだが、言葉が通じるとは思えず、うつむいたまま碧はトボトボと当てもなく歩き始めた。

 

 幼き頃の迷子というのは、今にして思えばしようもない話なのだが、当の本人にその自覚はない。サハラ砂漠のど真ん中かアマゾンのジャングルに置き去りにされたような絶望感に襲われるものだ。

 

 右を向いても左を向いても知らない景色。鬱蒼と茂った木々の向こうに大阪城が大きく見えているので、遠くまでは来ていないはず。それでも、皆と別の場所にいるという事実が碧の平静を奪っていく。このまま二度と家には帰れないんじゃないか。母や父、沙耶香にだってもう会うことは叶わず、孤独なまま生涯を終えてしまうのではないか。碧が初めて感じた死と孤独への恐怖だった。

 

 とにかく、知ってるところへ戻らないと。そう思い足を進めるが、すでに自分がどちらから来たのかも分からなくなっていた。誰か大人に声をかけるべきだとも思ったが、知らない人に声をかけるというのは、碧にとってかなりハードルの高いことだった。

 

 それに今でこそ綺麗に再開発され、おしゃれなカフェなどが軒を連ねる大阪城だが、当時はまだそういった雰囲気になく、子どもが一人で歩くには少々重々しい空気感があった。

 

 どこへ向かおうか、どうやって帰ろうか。そう考えを巡らせているうちに、徐々に不安が碧の心を支配していった。その不安が限界に達した時、どうすることも出来なくなり碧は思わず走り出した。あてなどあるはずが無い。自分がどうして駆けているかも分からない。ただ溢れてくる感情が足を動かした。だけど、不安は消えることはなく、むし募っていくばかり。その碧の足を止めたのは、小さな石ころだった。

 

 転んだ拍子に膝から血が出ていた。じんわりと痛む傷が、胸に募った不安を押しのけ始める。痛みと不安がシーソーのようにグラグラと揺れ動く。どうしようもなくなり、碧がしばらく歩いていると、後ろから碧を呼ぶ声が聴こえた。

 

「碧ちゃん!」

 

 その声に碧は振り返る。

 

「ほら、涙を拭いて」

 

 ハンカチを差し出さて、初めて自分が泣いていることに気がついた。溢れた涙を紺色の柔い生地が吸い取っていく。

 

「賢人くん、なんでここにおんの?」

 

 碧がそう聞けば、彼はニッコリと微笑んだ。

 

「碧ちゃんが離れてくのが見えたから。はぐれちゃうんちゃうかなって」

 

 彼の表情があまりにも優しくて眩しくて、助けに来てくれた安心感からか碧の目はさらに潤んでいく。

 

「もう大丈夫やから泣かんといて」

 

「ちゃうの……」

 

 どうして涙が出てきているのか自分でも分からなかった。怖くて不安で恐ろしかった思いが晴れたから。だけど、それだけじゃない。胸の奥にある柔らかい場所がくすぐられ、ドキドキと心臓が高鳴る。気持ちの良い呼吸の乱れが、碧の頬を赤く染めさせた。

 

「碧ちゃん、膝怪我してるやん」

 

「あ、うん」

 

「先生が救急箱持ってるはずやから、早く戻ろう。歩ける?」

 

 そう言って、伸ばされた彼の手を握るのが無性に恥ずかしかった。思わず碧は顔を伏せる。すると、賢人の手がすっと碧の手を掴んだ。初めて繋いだ男の手は、少しだけひんやりとしていて、碧の手より少し大きかった。それでも、まだ幼い手は柔らかく、遊びで作った小さなかさぶたがいくつか出来ていた。

 

 賢人に手を引かれ、碧はみんなの元へ戻った。その間、碧は何も話せなかった。お礼を言わないと、そう思っても言葉が喉の奥につかえる。ただ、彼と手を繋いでいるのはとても幸せだった。このまま戻れなくても良いかもしれない。せっかく迎えに来てくれたのに、そんな風に思った自分を碧は少しだけ責めた。

 

 

 脳内に蘇った思い出は、鮮明で眩いものだった。あの時の感情がなんという物なのか、今なら分かる。初めてのときめきは、今もまだ碧の心にしっかりと刻まれていた。だけど、それは懐かしく遠い思い出に過ぎないのだ。硝子のケースの中に閉じ込めて置いた方がいいものだってある。

 

「思い出した?」

 

 その声に、碧は顔を上げた。沙耶香の顔が目の前にあり、部屋には彼女もいたことを思い出す。目を丸くして「あ」と漏らした碧に、沙耶香はケラケラと笑い出した。

 

「神妙な顔してどうしたの」

 

「どうもせえへん」

 

「そう? てっきり好きになった日のことを思い出して、感慨深く物思いにふけってるのかと思ったよ」

 

「そんなんちゃうから」

 

 沙耶香の言うことは半分当たっていて、半分は外れている。思い出に浸っていたわけではない。懐かしさが織りなす悲しみをこらえるのに必死だったのだ。あの時みたいに、ふいに涙が溢れていないか心配になり、碧は自分の頬を確かめる。指の腹が撫でたのは、あの頃にはない薄っすらとしたファンデーションの肌触りだ。カラフルな箱の中に手紙を仕舞い、碧は我慢していたクッキーをひとつ頬張った。

 

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