第6話

 阪急梅田駅の眺めは壮観だ。神戸線、宝塚線、京都線。主要な三つの路線の終着駅であり、その構内は、品のある格調高い阪急のイメージをまさに表しているデザインだ。落ち着いた色使いは大正ロマンといった趣があり、ハイカラな格好をした人々が歩いていそうなのは沿線のイメージなのかもしれない。マルーン色の電車が停車しているホームの端には、花壇が設けられ、季節の花で彩られていた。

 

 七番線に停車していた普通車両に二人は乗り込む。コートにすられ毛並みの向きを変えたオリーブ色のシートが、その色味をほんのりと深くした。

 

「本当に何もやってないの?」

 

「SNSは、ホンマに連絡を取るくらい。むしろ沙耶香は何個やってんの?」

 

 沙耶香はその綺麗な指を折りながら数え始めた。すぐに片手のほとんどの指が折れ、まん丸く可愛らしい形になる。

 

「それが東京ってやつなんか」

 

「特別、多いってわけじゃなくない? 碧が特別だと思うけど」

 

「そうかなぁ」

 

 振り返れば、高校の同級生もみんなSNSをやっていたし、そこに積極的でないのは少数派なのかもしれない。それでも、やってみようかなとならないのは、自分に向いていないと本能的に感じているのかもしれない。

 

「もしかしたら、そういうの苦手なんかも」

 

「意外と保守的だね」

 

「そう? 昔から自己発信は苦手だよ」

 

 人前での発表や作文の朗読。そう言ったたぐいのものはあまり得意ではない。もちろん、断固拒否というわけではないし、文化祭なんかでみんなと演劇をしたり踊ったりする発表は好きな方だと思う。つまり、自分の意見を自主的に発信することが苦手なのだ。SNSなんてその最たるものではないか。

 

「昔にやり取りしてた手紙の碧は積極的だったのになぁ」

 

「手紙?」

 

 滑らかな発車メロディが流れ、電車はゆっくりと進みだした。まだ外は明るい。ゆっくりと傾き出した太陽が、摩天楼の隙間から覗き、車内を明るく照らし出す。 

 

「嘘、覚えてないわけ?」

 

「待って…………。あ、そういえばしてたな」

 

「本当に思い出した?」

 

「思い出したから! 沙耶香が引っ越す直前まで毎週してたやつやろ?」

 

「そうそう」

 

 淀川よどがわ大橋を渡る車両が軽快なリズムを刻んだ。銀色の遮光板の隙間から、河川敷を自転車でかけていく高校生たちが見えた。

 

「懐かしいなぁ」

 

「あの頃の碧は、割と素直に色々なこと書いてあったけど」

 

 残念ながら沙耶香に送ったはずの手紙の内容は、碧の記憶の彼方へ消え去ってしまっていた。それでも懐かしさは込み上げてくるもので、ふいに碧はその思いを言葉にしてしまう。

 

「確か、まだちゃんと取ってあるはずだよ」

 

「え、本当に? 読みに行っていい?」

 

「ええけど……。沙耶香の書いた手紙やで?」 

 

「さすがに何を書いたかまで詳しくは覚えてないから。ぼんやりとは覚えてるけど」

 

「えー。なんか怖いな」

 

 明らかに何かを企んでいる顔だ。当時の自分は手紙に何を書いていたのだろうか。沙耶香に言わせれば積極的だというその手紙の内容は、彼女の返事から推測できるかもしれない。沙耶香の悪戯な表情の奥に隠された悪巧みは、碧の手紙の内容をからかいたいに違いなかった。

 

 

 *

 

 

 阪急稲野いなの駅から碧の家まではしばらく歩く。自転車を使ってもいいのだが、駅に専用の駐輪所はなく、その上決して歩けない距離ではない。碧の足で十分少々。一限からの授業の日はそれなりにしんどいものではあるのだが、高校を卒業して体育がなくなった手前、最低限の運動だと自分にムチを打って歩いていた。大きな食品工場を左手に、幹線道路を渡りJR猪名寺いなでら駅を通り過ぎ住宅街を進んでいく。

 

「結構、新しい家が建ってるね」

 

「うん。でも古い家も残ってるし雰囲気は変わらんやろ?」

 

 オレンジ色に染まった西の空に、カラスが数羽消えていき、覇権をコウモリへと譲った。灰色の墨汁を溢したみたいな雲が、じわじわと藍色の空を侵食し始める。新築の家々に混じり軒を連ねる日本家屋、苔の生えた用水路、自治会の掲示板に草木が茂んだ神社の入り口。都会の喧騒からほんの少し離れたこの町には、どこか田舎を思わせる景色が落っこちている。

 

「この辺りは、通学路だったなぁ」

 

 沙耶香が見上げた石作りの鳥居は、古墳の上に建てられたという神社のものだ。小高く土が盛られたその上に、小さくも荘厳な拝殿が建っている。この丘が古墳であるという話は、小学生の頃の校外学習で先生が話していた。肝心なことを忘れる割に、どうでも良いことを記憶していることが稀にある。これを知り合いに話せば、もっと覚えておくべきことがあるだろうと、非難されてしまう。だから、碧は些細な知識を、自分の中にひっそり留めていた。

 

「さすがに久しぶりだと違う?」

 

「うん。懐かしいよ。景色も匂いも空気感も。全部が懐かしい」

 

 ランドセルを背負った子どもたちが、大きな笑い声を上げながら二人のそばをかけていった。汚れた制服は、帰り道に公園で遊んだせいだろう。きっと、これから親に怒られるに違いないのに、彼らは満面の笑みを浮かべていた。

 

 立ち止まった沙耶香の影に、碧の影が並ぶ。あの頃よりも少しだけ大きな影は、時間の経過とわずかな成長の証だ。碧が振り返れば、沙耶香も遠ざかる子どもたちを見つめていた。

 

 赤と黒しかなかった子どもたちの背中には、カラフルな色が溢れていて、思い出を描き出すにはあまりに色彩が豊か過ぎる。暮れる夕陽がアフファルトに刻む影のように、モノクロなくらいが丁度いいのだ。

 

 

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