第5話

 車内は揺りかごだ。心地よい揺れが、わずかな時間で夢の中へといざなっていく。うとうと、と舟を漕いでいると自覚があるうちは、夢の世界と現実のちょうど中間にいる。指先に絡む春物のコートの感触をたぐると、それが毛布であるように錯覚した。夢の中で自分は可愛らいい天蓋付きのベッドで横になっているのだ。そうして、そんな意識があるうちが一番心地よい。どっちが嘘でどっちが本当なのか、渦を巻き混ざり合う。

 

「あおいー」

 

 沙耶香の声に、夢現で混じり合っていた二つがパキッと分かれた。戻って来たこちら側が現実なのだと、しゃばしゃばする目を大げさにこすってみる。

 

「沙耶香? おはよう」

 

「なに寝ぼけてるの? ほら、もうすぐ十三じゅうそうだよ。乗り換え」

 

「あ、うん」

 

「朝から眠そうだね」

 

「授業で疲れて。まだ慣れてないからかな」

 

「まぁーそうなるのも仕方ないか。今日、三限目まででしょ? 帰りに甘いものでも食べていく?」

 

「えーどうしようかな……こないだ服買っちゃって、お金あんまりないし」

 

「バイトに受かればお金は出来るよ」

 

「そうかもだけど」

 

 電車がゆっくりとスピードを落としたのを見計らい、沙耶香が立ち上がった。それに碧もつられて立ち上がる。

 

「私、梅田に行くのも久々なんだから付き合ってよ」

 

「それじゃ、この間の件はなしということでよろしいでしょうか」

 

「それとこれとは別でしょ」

 

 賢人を探す。渋々了解したものの、碧はあまり乗り気ではなかった。過去の思い出に手を出すのはいつだって得策ではない。自分もそうだし、沙耶香だって悲しむかもしれない。目に見えた答えが待っているのに、そこへ向うのは愚行に思えた。それでも、心の底からやめておこう、と言えない自分がいる。それは確かな悪意に思えた。

 

 コーティングされ艶を持った木目の扉が開いた。授業は二限目からなので、この時間は人がごったがえすピークは過ぎている。それでも十三駅は、ハブ駅にふさわしい人の数だ。神戸線、宝塚線、京都線と阪急の三つの主要路線がここで分岐している。碧たちは、駅舎を登り、大きく弧を描いた京都線のホームへと乗り換える。

 

「んーなに食べようか」

 

「なんでもええけど」

 

「結構、綺麗になってたよね。新大阪からこっちに来る時に通ったけど」

 

「そっか。沙耶香がおった時、梅田も昔のままやったんや」

 

「知らないうちにどんどん変わっていったんだなぁ」

 

 切なさが浮かんだ沙耶香の瞳に、新淀川橋梁を渡るマルーン色の小さな車体が映り込んだ。聞き馴染みのある接近音のあと、「京都河原町方面へ向かう電車が到着します」とアナウンスが流れ、構内で待っていた人がホームの端の方へぐっと詰め始める。

 

「このままサボって京都でお茶するのもええけど」

 

「あれ、碧ってそんなこと言う子やった?」

 

「適度にサボれって言ったのは沙耶香やろ?」

 

「真面目な碧がいきなりサボろうなんて言うとは! この間、変な求人も見てたし、怖い」

 

 一瞬、曇った瞳の奥を誤魔化すみたいに、沙耶香はわざとらしい動きで驚いて見せる。

 

「もうそのことは忘れてよ! そういう気持ちっていうだけで学校はちゃんと行くけど」

 

 始まって早々、授業をサボる勇気など碧にはない。ただ、もう少し慣れてきたら、このまま京都の方まで沙耶香と出掛けてみてもいいのかもしれない。また夢の中へ戻って行きそうな意識の中で碧はそんな想像をした。

 

 

 *

 

 

 運ばれてきたパフェを見て、思わずお腹が鳴った。向かいに座る沙耶香にこの音が聴こえてないかと碧は顔を見やったが、彼女はタワーのようにそびえる甘味に夢中になっていた。

 

 三限の授業終わり、今朝の約束通り沙耶香と梅田へ来ていた。久々だという沙耶香に着いて、JR大阪駅に隣接している百貨店の中を隅々まで回り歩いた。

 

「おいしそう」

 

 スマホを取り出して、沙耶香は何やら写真を撮っている。いわゆる『映える』というやつなのかもしれない。向かいのビルから反射する日光に苦戦しながら、彼女はほど良いポイントを探していた。SNSに疎い碧は、その辺りの感度が低い。

 

「お昼抜いておいて良かった。まさか、こんなに大きいパフェを食べることになるとは」

 

「えーお昼抜いてたの?」

 

「こんなにお店回るとは思わんかったの」

 

 時計の針はもうすぐ五時を指そうとしていた。もうすぐしばらくすれば夕食の時間だが、これだけお腹が減っていては食べるしかない。母親に、夕食はあまり食べられそうにないとの連絡を入れてあるから安心だ。碧は冷えた銀のスプーンを手に取る。

 

「碧、写真撮らないの?」

 

「私はいいよ。そういうのネットに上げてないし」

 

「今どき珍しい」

 

「人が上げてるのはたまに見るで? でも、自分でわざわざ上げるのは……」

 

 特に理由があるわけではない。なんとなくやっていないだけだ。皆が楽しそうにしている写真やスイーツや景色などを見ていること自体、特に悪い気持ちはしない。そういう写真を拡散したい気持ちは分からなくもないし、誰かから評価を受ければ嬉しいのだろう。だが、自分が上げる写真に、誰かの興味を引く特別な価値があるとは思えなかった。

 

 このパフェだって、沙耶香と同じ店のものを上げることになるし、どこかの誰かが同じものを上げているに違いない。二番煎じ、三番煎じ、それどころではない数の同じものが世界に拡散されているのだ。だから碧は、カメラを向けることに意味を感じない。

 

「ふーん。あ、でも賢人くんも、もしかしたらやってるかもしれないよね」

 

 山のようにこんもりと盛られた生クリームの頂点を、沙耶香のスプーンが崩した。表面に敷き詰められたティラミスのパウダーから、芳ばしい紅茶の香りが碧の鼻の奥までやって来る。艷やかな苺の断面が、グラスの縁に真っ赤な模様を描いていた。

 

「どうやろうね」

 

 碧の曖昧な返事に、沙耶香はスプーンを頬張りながら唸った。それは、美味しいと言ったのか、碧の言葉への反論なのか分からない。

 

 碧は、自分の前に置かれたパフェのオレンジソースをスプーンで掬う。口の中にオレンジのわずかな苦味が広がった。舌で撫でてみれば、それはすぐに甘さへと変わっていった。鼻から抜けていくバニラビーンズのフレーバーは、店内を漂う甘い香りと混じり合っていく。沙耶香は、パフェを食べながら片手で器用にスマホを操作していた。

 

「よし、検索してみようか」

 

「そう都合よく出てくるもんかなぁ」

 

「どのSNSやってのかな。うーん。手当たり次第に当たってみよう」

 

 だらん、と垂れた革製のスマホカバーが生クリームで汚れてしまわないか碧は心配になった。ブランド物だから安くはないはずだ。もう一方の手は、グラスから次々とパフェを掬い上げる。

 

「見つかった?」

 

「賢人くんの名字って前原だよね?」

 

「そうだったと思うよ」

 

「うーん。合ってるよね。でも、親が離婚して名字変わってる可能性もあるか。流石に小学校の途中で転校した同級生を見つけるのは難しいね」

 

 すでに沙耶香のパフェは半分ほどなくなっていた。下地に敷かれたコーンフレークが顕になっている。碧はまだ上層部分も平らげていない。

 

「そうだね」

 

「案外簡単に見つかるかなぁって思っただけどね。これは難事件になりそうだ」

 

 そんなことを冗談っぽく言いながら、沙耶香はカップの底に沈んだ生クリームとコーンをかき混ぜた。沙耶香に追いつこうと碧も慌ててパフェを食べ進める。

 

「それで、どうするん?」

 

 ネットが彼女の頼りだったなら、もしかすると諦めるのではないかと碧は思った。沙耶香がそこまで彼に執着する理由も思い当たらない。しかし、碧の予想に反し、沙耶香は次の手を考えていた。

 

「みんなに聞いてみよう」

 

「みんな?」

 

 あまりに抽象的な話に碧は首を傾げる。とはいえ、今から「前原賢人」を知りませんかと街中で聞き込みをするわけではあるまい。ネットで捜索する何倍もの時間を費やしてしまいそうだ。

 

「小学校の同級生。何人か連絡先を知ってるから聞いて見ようよ。碧は誰か知らない?」

 

「うーん。本当に何人かだよ。高校が同じだった子とか。そもそも私、高校に入るまで携帯持ってなかったから。知ってるのは、ほとんど女の子だし」

 

「そっか。それじゃ、とりあえず私が連絡取るから週末にでも会ってみようか」

 

「え、私も会うん?」

 

「手伝ってくれるんでしょ?」

 

 底に沈んだオレンジのソースを、碧はスプーンで絡め取る。掬い上げる手を止めれば、ねちっこく伸びたソースが再びカップの底へ沈んでいった。

 

「そうとは言ったけど。じゃ誰と会うん?」

 

「長谷川とか久瀬とか」

 

「え、男子やん」

 

「そりゃ、男子のことは男子に聞かないとダメでしょ。碧だってそれを分かって、自分が知ってる連絡先は女子ばかりだって言ったんでしょ?」

 

「そうやけど」

 

「他の女の子も呼ぶから」

 

 古い知り合いに会うのはなんとなく気恥ずかしいのだ。会う相手が男子だからというのは恥ずかしい理由の一部でしかない。同窓会や成人式みたいな大層な名目があれば少しは恥じらいもマシになるのだが。

 

「うーん」

 

 返事を渋る碧に沙耶香が浅いため息を漏らす。長い黒髪を、細く白い指に絡みつけ、柔らかく口端を持ち上げた。

 

「碧って自分に自信がないの?」

 

 弱みを見つけた時の目だ。そこから彼女はいつも、碧のくすぐったいところをうまく撫で回す。だが、余程この話をうまく進めたいのか、今日ばかりはその悪戯心を引き出しの奥にしまい込み、代わりに慰めと励ましを取り出してきた。

 

「碧は頑張って勉強して大学に進んだ。それもそれなりにいい大学。胸を張っていいと思う」

 

「そうかな」

 

 会話のすきを突いて店員がグラスの水を補充しに来た。カラカラと氷が冷たい水の中で揺れるのを見つめる。気後れしているのは自分に自身がないからなのだろうか。自問自答の返事は返って来ない。

 

「ちょっとした同窓会やと思ってさ」

 

「そう言われればまぁ」

 

 望んでいたレッテルが張られたのだから、これ以上渋るわけにもいかず、碧は不満げに頷いた。

 

「よし。それじゃ、週末の予定空けといてね。みんなには連絡しておくから」

 

 商談をうまく取りまとめた会社員のように、沙耶香はご機嫌に立ち上がった。思えば、彼女は長らくこの土地を離れていたのだ。皆に会うことを楽しみにするのは当然のことだった。沙耶香が無理に賢人を探そうとしているのは、旧友に会いたい口実なのかも知れない。広がった甘ったるさの口直しに、ひたひたになった水を少しだけ口に含み、碧はレジに並ぶ沙耶香を追いかけた。

 

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