第4話
一限目の講義を終えるチャイムが鳴り響いた。レジュメの記入しなければいけないところに抜けはないかをもう一度確認して、机の上を片付け始めたタイミングで後ろから声をかけられた。
「なぁ、君」
碧が振り返ると、長い茶髪の女子がこちらを向いていた。甘い香りがぱっと鼻を通り抜け、思わずドキリと胸が鳴る。きっちりとメイクされた目を人差し指でなでながら、彼女は碧の顔を見ると少し眠そうに大人びた笑みを浮かべた。少しだけ雰囲気が沙耶香と似ている。
「君、真面目に授業受けてそうやな」
「はぁ……」
「レジュメ見せてくれへん? 一限目ってどうしても眠いやん。その上、私、夜遅くまでバイトしててな。気付いたら夢の中やってん。目が覚めた時には……恐ろしいことに授業はもう終盤。それに、この授業に友達おらんくてさ。頼むわ」
そう捲し立てられ、碧は思わず彼女にレジュメを手渡した。困惑する碧を他所に、彼女はレジュメを受け取り、「ありがと」と空欄を埋めていく。
「君、このあと授業?」
「いいえ、次は三限なんで時間は大丈夫ですよ」
「へへ、なら良かった。すぐ終わるからちょっと待ってな」
話した感じ物腰は柔らかい。ただ、見た目はすごく派手だ。まだ少し肌寒いと思うのだが、オフショルのトップスに首元にはピンクゴールドのネックレスが光っている。夜遅くまでバイトと言っていたが、どんなバイトをしているのだろうか。
「変なバイトちゃうで?」
「え?」
「私が夜遅くまでバイトしてるって聞いて変なこと考えてなかった?」
「いや、そんなこと」
内心を当てられ、碧は戸惑う。彼女はクスクスと笑いながら、こちらにレジュメを返してきた。
「なんでか、そういう風に思われんねんなぁ。まぁ、嫌ではないんやけど。また来週もお願いするかも。それじゃまたね」
「あ、またね」
小さく手を振ると、彼女はそそくさと席を立った。碧も慌てて手を振り返す。チェックのミニスカートから伸びた足はヒールのせいか随分と長く見えた。彼女の姿が見えなくなってから気づく。せっかく会話したのに、名前を聞きそびれてしまった。
*
「うーん」
「何をうめいてるの?」
「スマホと求人誌を見てるんやから答えは一つやろ」
二限目が行われているこの時間、食堂はまだ空いていた。講義を入れていないため、早めの昼食を摂りながら、碧は端的に書かれた仕事内容と時給を精査していく。ソースが飛ばないように、慎重にフォークに巻きながら、沙耶香がミートソースのパスタを口に運んでいた。
「碧は、バイトしたことあるの?」
「無いから悩んでるんやん。沙耶香は?」
「今してるやつが初めてだけど」
「今、バイトしてるん!?」
「そりゃ、一人暮らしなんだから、仕送りだけでやっていこうなんて甘いこと言ってられないよ」
沙耶香がこっちに戻って来てからまだ二週間ほどしか経っていないはずだが、いつの間に見つけたのだろうか。未だに、碧は求人誌とスマホを見つめ躊躇しているというのに。やはり自分は選択するという行為が苦手だ。
「沙耶香はなんのバイトしてるん?」
「阪急塚口の駅近くのイタリアンのお店だよ。今度食べに来る?」
沙耶香の言うお店をスマホで検索すると、駅に隣接する建物の飲食街にあるおしゃれなイタリアンの店が出てきた。
「なんかちょっぴり大人なところやな」
「そう?」
大人というイメージで、思わず脳裏に、先ほど教室でレジュメを貸した彼女が浮かぶ。夜のバイトの姿を想像しそうになり、すぐに考えを引っ込めた。夜勤というだけで、やましい考えを起こしてはいけない。いや、彼女の身なりにも問題はあるのだが。それでも、コンビニや工場など、二四時間で稼働しているところは腐るほどあるのだ。
「碧……なんのバイトするつもり?」
沙耶香の少し引いた声に、碧は自分のスマホに視線を落とす。画面には、高額バイトなバイトの求人が表示されていた。ランジェリー姿の女性が妖艶な表情を作っている。ぼーっ、としているうちに広告をタッチしてしまったらしい。
「違う。そういうつもりちゃうから」
「意外と碧って大胆なんだね」
「ちゃうって。たまたま広告で出てただけやから!」
必死に言い訳している様が可笑しかったのか、随分長い間、沙耶香に笑われた。目尻から涙が溢れるほど、彼女はケラケラと声を出す。「パスタ伸びちゃうで」と冷たい声で碧は牽制した。
「誰も本気で碧がそんなバイトすると思ってないよ」
「だったらからかわないでよ。流石にひどいよ」
「ごめん、ごめん。碧が顔を真っ赤にしてるのがおかしくて」
自分の頬に手を当てれば、確かに顔は火照っていた。「うぅ」と声を漏らしながら、赤面した顔を隠すようにテーブルに伏せる。
「ほら、バイト探すんでしょ。これなんかは……? 今なら入店祝い十万円!」
「もういいから!」
怒りの表情で顔を上げた碧を見るやいなや、沙耶香は必死に笑いを堪えていた。
「冗談だって。てか、どんなのがいいの?」
「うーん。家から近い方がええかな。働くのは放課後になるやろうし、休みの日も入りやすい方がええから」
「それじゃ、地元だね」
沙耶香は食べかけのパスタの皿を端に寄せ、碧から求人誌を奪い取ると、その頁をパラパラとめくっていった。碧は、すっかり冷めた和風ハンバーグを箸で割っていく。
「碧は飲食って感じしないよねー。コンビニとかは?」
「なんか、やること多そうじゃない? 意外と大変やって聞くし」
「楽な仕事なんかないよ」
「そりゃ、そうやろうけどさ。楽に越したことはないやん」
「碧って、真面目そうに見えて意外と横着だよね」
楽をしたいのは人間の性だと言っていい。しなければいけないことならまだしも、わざわざ辛い道を行くのは理解出来ないことだ。口に大根おろしと大葉の香りが広がった。冷めた肉汁が、碧の口の中で人肌に温もっていく。
「碧はさ、宿題はやるけど予習はしないっていう感じだよね。生真面目なんだか、面倒くさがり屋なんだか」
「沙耶香は、予習まできっちり?」
「意外にね。お陰様で勉強に苦労したことはありません」
「へぇー」
生乾きな返事をして、碧はスマホの求人ページを指でスライドしていく。初めてのバイトは、よく分からず選ぶのは難しい。もし、厳しかったら、怖い人がいたら。そういうことを考えると、どうして次の手を打てなくなる。だ
「サボるなら徹底的にサボればいいのに。変に力入りすぎると窮屈じゃない?」
「どうやろ?」
「今だって、やらなくちゃいけないから探してるんでしょ?」
「うーん。そうなんかなぁ」
大学生ならバイトくらいしなくてはいけない。そういう使命感みたいなことがあるのは事実だ。だが、お金はあって困らないし、いつまでも親にお小遣いをせびるわけにはいかない。
「ほら碧。これとかは?」
碧の顔の前に、カラフルな求人誌のページが突き出された。沙耶香の細い指が隅の方の小さな求人を指差している。
「本屋さんか」
「まったりしてそうだしいいんじゃない? そこまで混んでるってわけでもなさそうだし」
沙耶香が提示してきたのは、阪急塚口駅に隣接している商業施設内の本屋さんだ。何年か前に改装された時に入った書店で、何度か足を運んだことがある。町の雰囲気に沿った、ゆったりとした雰囲気で、同じ階に市役所のサービスセンターが入っているおかげか若者よりも年配の方が多い。
「悪くないかも。自転車で通えるし」
「私が働いてるイタリアンの店も近いしねぇ」
「それはどっちでもええけど」
「またまたー、私と同じ大学をわざわざ選んだくせに」
それとこれとは別問題のはずだが、言い返すのも負けた気がして、碧はムスっとしてみる。沙耶香は満足げな顔をして口端を緩めた。
「ほら、まずは電話してみる」
「え、今?」
「早くしないと先越されちゃうよ。善は急げ。急がば回っていては間に合わないことだってあるの」
「なにそれ」
「いいから。どうせしなきゃいけないことでしょ」
沙耶香に説得され、碧は求人誌に書かれた番号に電話をかけた。すぐに女性のスタッフが出て、トントン拍子に話は進んでいった。
「週末に面接だって」
「良かったじゃん」
「あー、面接だと思うと緊張する」
「何を緊張することがあるの?」
「だって何を話したらいいかわかんやん」
「聞かれたことを答えたらいいの。大丈夫、碧は可愛いから受かるよ」
「なにそれ」
「そんなもんなの」
そう言って、沙耶香はデザートの生クリームとさくらんぼが乗ったプリンを小さなスプーンで掬った。プラスチックのスプーンにひっついたプリンの表面が、持ち上げられた拍子にぷるぷると揺れる。
「さて、バイト探してあげたんだから、私の人探しも手伝ってよ」
「それとこれとは違うやろ」
「そうかなぁ。同じだと思うけど」
プリンを口へと運び、沙耶香は甘そうな笑みを浮かべる。
「別に私を誘わなくてもええやん? 一人だって探せるでしょ?」
「碧と一緒じゃないと意味ないの。それに、バイトだって一人で探せたでしょ?」
頼んだわけじゃない、と強がりたいところだが、一人では躊躇しすぎて面接までこぎつけていたか怪しい。
「そうかもしれんけど」
「ほら、一緒に探してよ」
どうして沙耶香は、賢人のことをそこまでして探したいのだろう。それに自分と一緒でないと意味がないなんて。沙耶香の心が見えるように必死に目を凝らしてみるが、彼女はいつも通り悪戯な表情で碧を見つめている。
「なぁ、なんで私と一緒じゃないとあかんの?」
思わず出た碧の素朴な疑問に、きょとんとした沙耶香の瞳がわずかに揺らいだのが分かった。池の底で何かが跳ねたみたいに、水面がわずかなに波立つ。次の瞬間には、普段と変わらない凪に戻った彼女の双眸に、戸惑う碧の姿が映し出された。
「碧と一緒にいたいから?」
「なにそれ」
「なにそれ、って碧の口癖?」
「そんなに言ってる?」
「うん」
初めて指摘された自分の癖に、碧は自分の口元を覆った。これまでの会話を思い出してみるが、思い当たる節はない。
「懐かしい友達を探すのに何を抵抗してるの? もしかして会う自信がないとか? 大丈夫、碧は可愛いって」
「そういうんじゃないから」
あの頃と変わらないはずの沙耶香の眼に、碧の呼吸が一瞬止まる。彼女の悪戯に悪意なんてないはずなのに、疑ってしまっている自分が嫌になった。
「それが沙耶香の為なら」
「そうだよ。探してくれる?」
もう一口プリンを頬張り、沙耶香はいじらしくこっちを見つめた。彼女の為だなんて全部嘘だ。胸の奥でつかえた痛みの正体が、何か分かりながら碧はそれを押し込める。
「ええよ」
「ありがと。やっぱり碧は可愛いよ」
思わず出そうになった「なにそれ」を、碧は漂うプリンの香りと一緒に飲み込んだ。
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