第3話

 入学式からしばらく経ち、一通り一週間の授業を受けた碧は、大学の購買へ教科書を買いに来ていた。半紙に印刷された指定教科一覧の中から、必要だと謳われたものにチェックを入れていく。それを係の人に渡すと、しばらくして恐ろしいほど高く積まれた教科書の束が奥から運ばれて来た。

 

 どすっと鈍い音をたて、折りたたみ式の長机が揺れる。その上に、さらにもう一つ同じくらいの束が置かれた。折れてしまうんじゃないかと心配になるほどの重みが碧の目の前に積み上げられる。

 

「民法学と西洋経済史の教科書は後日届きますので、また来週来てください」

 

 信じられないことに、さらに追加で教科書があるらしい。係の人が手際よく白いビニール紐で教科書を縛ってくれた。せわしなく後ろで並んでいる人の列を見て、持てるかどうかを思案する前に、碧はその教科書の束を持ち上げる。

 

 重たい。

 

 小さな碧の手は、ビニールの紐に押さえられ色味を失っていく。一瞬だけ熱を孕んだ指先から、すっーと感覚が消えていった。落とすかもしれないという諦めと、落としてなるものかという刹那の葛藤の末、ぽっと腰の辺りから力が抜けた。

 

 あっ、と思った時には、教科書の束がリノリウムの床に叩きつけられ、その衝撃で紐が解けて散らばってしまった。教科書を買い求めていた生徒たちの視線が、ざわざわと騒がしくなりながらこちらを向く。

 

「すみません」

 

 ペコペコと頭を下げながら、碧は散った教科書を集め始めた。

 

 こちらに向く視線が痛い。普段生活している時には気にならないものなのに、こういう時にだけどうしてこうも強烈に意識してしまうのだろう。誰もこの失敗を笑ってなどいないし、むしろ心配してくれているはずだ。それなのに、背中に感じる目が苦しい。

 

「大丈夫?」

 

 辞書に伸びた碧の手が誰かのものと重なる。ベージュのニットの袖から白くしなやかな指が覗いていた。聴き慣れたどこか懐かしい声に、碧は出した手をすっと引っ込めて顔を上げる。

 

「沙耶香、どうしたん?」

 

「碧が困ってるなぁ、と思って」

 

 意地の悪い言い回しは、彼女なりの照れ隠しで悪意はないはずだ。そうと分かっている碧は、お返しとばかりに、露骨に嫌な顔を浮かべて見せる。

 

「からかいに来たってわけ?」

 

「うそ、うそ。教科書買いに来たんだよ」

 

「ふーん。でも少なない?」

 

 沙耶香が抱えていた教科書の束は、碧の半分ほどの量だった。学部によって必要な冊数は変わるはずだが、ここまで差が出るものだろうか。

 

「不要になったのをくれるっていう先輩がいてさ」

 

「いつそんな先輩に出会うん?」

 

 沙耶香のコミュニケーション能力には驚かされる。碧にはまだ顔馴染みしかいないというのに、彼女はすでに教科書をもらえるコネまで形成しているのだ。幼き頃の彼女もこんな風に立ち回りが上手かったのだろうか。友達が多かった印象はあるが、断片的なからかいのシーンしか浮かばず、当時の彼女にそんな能力があったかどうか、碧は思い出せなかった。

 

「普通にしてたら仲良くなれるよ」

 

 未だに、会話をする程度の知り合いしか作れていない碧には、なんともハードルの高いは話に思えた。自分が重度の人見知りだとまでは思っていないが、沙耶香みたいに積極的にはなれない。

 

「ほら、ぼーっとしてないで拾うよ」

 

「う、うん」 

 

 床に散らばった教科書をかき集め始めると、こちらに向いていた目線は次第に消えていった。誰かが困っていることに注視はするが、助けるまではしない。そんな絶妙な距離をおいていた人たちが、「良かった。助かったんだな」と安堵を手に入れて去っていく。

 

「どうしたの、怖い顔して」

 

「ほら、沙耶香が助けてくれるまで皆こっちを見てたのに、誰かが助けたと分かったとたんすっといなくなって。それってひどない?」

 

「私が手伝い出したからでしょ」

 

「声をかけないことが後ろめたかったんちゃうんかな」

 

「みんな知らん子に声掛けるのは勇気いるんじゃないないの?」

 

「やけど沙耶香は、出来るやろ?」

 

「どうだろう。今回は、碧だったから声かけたんだけど?」

 

「そういう人が一週間で先輩から教科書もらうかな」

 

「私だって知らない人に声をかけるのは勇気がいるけどなぁ」

 

 八年のブランクは、沙耶香がどういう人間なのかという明度を確実にぼやけさせている。彼女の言葉を信じるには、時期尚早に思えた。少なくとも今の碧には、彼女なら声をかけるんだろうなと思う。

 

「ほら、これくらいなら持てるでしょ」

 

「ありがとう」

 

 沙耶香に渡された教科書の束を、今度は落とさないように碧は両手で抱える。沙耶香が碧の分を何冊か持ってくれた。積み上げられた教科書の束は、少しだけ沙耶香の方が多い。

 

「もしかしたら、私だって野次馬根性で近づいてきたのかもよ?」

 

「人ってひどい生き物やと思う。知らん人に声をかけないのは保身でしかないやん」

 

 自分で尖らせた言葉が、自らの喉をひっかいた気がした。誰かを悪く言う時、人は己の醜さに目を瞑るものだ。

 

「碧ってそんなこと考えてたんだね。でも、ブスっとしてたらせっかくのかわいい顔が台無しだよ」

 

「そんなん沙耶香に言われても……」

 

「なに? 男の子に言われたい?」

 

「そういうことじゃなくて」

 

 都会の雰囲気が漂う沙耶香に比べて、自分が可愛いとは到底思えなかった。服装にだって同世代の子と同じくらいに気は使っているし、欲しい服があればお金はいとわない。ただ着飾ることは苦手なのだ。良くも悪くも目立たないように、碧はうまく街に溶け込みたい。

 

 購買から階段の下りてしばらく歩くと、カフェのテラスがあった。空いている席に沙耶香は教科書を置く。ここで少し休憩をしようというのだろう。「ほら、碧も置きな」と、長い髪を彼女は指先で耳殻にかけた。耳元に薄いピンク色のイヤリングが光る。

 

「碧は何飲むの?」

 

 沙耶香は、すでにカウンターの方を向いてメニューを思案している。少ししか歩いていないというのに、碧の腕はパンパンになっていた。ピリピリとしびれる手を少しでも揺らせば、こそばゆい痛みが肌の上を走る。腕にかけたカバンから財布を取り出す余裕もなく、碧は「うーん」と考えているフリで声を出した。

 

「そんなに重かった?」

 

「私、力ないから」

 

「部活とかしてなかったの?」

 

「ずっと、帰宅部です……。沙耶香なんかしてたん?」

 

「サッカー部のマネージャー。かなり重たい水のタンクとか運んでたから、これくらいなら楽勝だよ」

 

 沙耶香がマネージャーならば、可愛らしく理想的なマネージャーだったことだろう。さぞかし部員はやる気が出たに違いない。部内のエースと恋仲になる、といった理想的な高校生活を送って来たのだろう、か碧の妄想は一瞬のうちに遠いところまで飛んでいく。

 

「もう。そんなに腕が痛いなら買って来てあげるから。碧は何飲むの?」

 

「ありがとう。それじゃ、抹茶ラテの温かいやつ。沙耶香は?」

 

「私は普通に珈琲飲もうかなぁ。それじゃ、ちょっと待っててね」

 

 小さなブランドもののカバンから、財布を取り出し沙耶香はカウンターの方へ向かう。肩にかけられた黒いレザーのアウターを、ぐっと押さえる仕草が少しだけ彼女を遠い存在に思わせた。

 

 思えば、不定期に取っていたメールでのやり取りも、決して頻繁なことではなかったし、互いの学校での話はしてこなかった。だから、知らないことはたくさんある。離れていた数年に何を感じ、何を考えてきたのかなど分からない。互いがそれぞれの街でコミュニティを築いていたから、そこに干渉などしなかった。それでも、沙耶香と同じ大学に来たいと思ったのは、本当の意味でもう一度、彼女と繋がりたいと思ったからだ。

 

 小さい頃に、彼女と過ごした時間は間違いなく良いものだった。親友と呼べる存在を上げるとすれば、間違いなく彼女の名前を言うだろう。だが、実態はそうではない。あくまで幼き頃の繋がりでしかないのだ。大人になり、多くのことを見聞きして変わった今、彼女とどういう関係を築けるのか。選ぶことが苦手な碧が、自分の意思で選んでここにいる。

 

 しばらくして、沙耶香がカップを二つ運んできた。手渡されたカップは、とても熱かった。思わず顔をしかめ、碧はカップを机の上に置く。プラスチックの蓋の穴を開け、恐る恐る碧は口をつけた。

 

「やっぱり、沙耶香は誰にでも声かけるでしょ?」

 

「まだ言ってるの? そんなことよりこないだの話の続き。本当に覚えてないの?」

 

「そんなことよりって。覚えてないって何が?」

 

「ほら、賢人くん」

 

「あー」

 

 絶妙な角度で支えられていたカップがわずかに傾く。口の中に吸い込まれた熱気にわずかに遅れて、舌先を熱湯が刺激した。「つっ」と思わず声が出る。

 

「大丈夫?」

 

「う、うん。ちょっとやけどしたかも」

 

「動揺してるところを見るに、やっぱり覚えてるんだ?」

 

「どうだろう」

 

「でもさ。碧、大好きだったでしょ」

 

「わざわざ『大』をつけんくても」

 

「私にはそう映ってたから」

 

「やったらそうやったんかもね」

 

「否定しないってことは覚えてるってことでいいかな?」

 

 優しさを溶かしたように細くなる彼女の双眸に碧は弱かった。あなたよりも大人だ。その事実を突きつけられ、何も言えなくなってしまう。魔法使いみたいだといえば、沙耶香は怒るだろうか。優しさの中にほんのりと香る恐怖、それが彼女を大人っぽくさせる。

 

 無言を貫く碧に、沙耶香のまぶたがゆっくりと弧を描いた。柔和へと移ろう彼女の表情に、碧は危機感を覚える。何かを企んでいる時の彼女の表情を、碧の身体は忘れていなかったのだ。

 

「ねぇ。賢人くんが、どこに引っ越したのか探してみない?」

 

「え?」

 

 沙耶香の口から紡がれた言葉を碧は疑った。

 

「ダメ?」

 

「いやほら……だって」

 

「あの頃と違って、今はこれだけネットもあるんだから大丈夫だって」

 

「そうじゃなくて……」

 

「なに? もしかして、碧、彼氏とかいる感じ?」

 

「別に彼氏はおらんけど」

 

「ならいいじゃん。だって久しぶりに会って見たいでしょ? もし、ものすごく遠くに住んでたら成人式とかでも会えないんだよ」

 

 真っ直ぐな色をした瞳に、珈琲色の悪意が立ち込めているのが分かった。そこにいつも通りの優しさがフレッシュのように混じり合い彼女の本心を濁らせている。沙耶香の真意が分からず、碧はあたふたと口を動かした。普段と変わらないはずの沙耶香の瞳からほんのりと香る苦味が、口の中の抹茶ラテの甘さと混ざり合う。

 

「ねぇ? どう?」

 

 このままではいけないと、碧は逃げる方法を探す。だけど、沙耶香の表情を見ると、あの頃の魔法がかかり、どうもうまく話せず言い訳にならないような言い訳が口について出た。

 

「色々忙しいから。ほら、バイトも探さなあかんし」

 

「バイトよりも賢人くん探す方がいいと思うけどな」

 

 悪戯混じりではない沙耶香の瞳が少し怖くて、碧はうつむいた。どうしてそんなことを言うのだろう。理由を探っても答えは出てこない。しばらく思案して、恐る恐る顔を上げると、沙耶香は普段の表情に戻っていた。

 

「それにしてもこの教科書どうやって持って帰るつもり?」

 

 話題が変わったことに、碧はホッとする。同時にテーブルの上に積まれた教科書の山を見て、碧はハァとため息を漏らした。

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