6.ルインズホテル・ベルコールレイン

 君が去って以来この街は雨続きだ。


 傘立てに刺さってある、置いていかれた孤独な紅の傘を見つめ、ジン・アキヨシは湿っぽくそう思う。傘は既に錆びついてしまい、開くことはできない。咲くことを許されない花のように、そこに存在すること自体に特別な意味を見出している。


 遠くで雨漏りの音が聞こえた。ジンは冷える体をさすることなく、生温かい息を吐きだす。傘立てのもう片方の傘を取ると、薄暗いエントランスを抜け玄関へ。


 生え渡る植物を傘でかき分けながら外に出るといつも通りの雨模様。まるで、彼の心の様。


 傘を指し、雨天の下。ジンは来るはずのない待ち人に焦がれる。彼はこの廃墟ホテルのドアマンであり、ベルボーイ。その瞳はあの頃の輝きを廃墟に映していた。


「今日もお勤めご苦労様だね」


 玄関屋根の下、彼女はドア端を背もたれに座り、煙草をふかしながら本を読んでいた。彼女はジンがこの故郷の廃墟ホテルに戻ってきた時、既にここに住み着いていた住人だ。レイナ・アメミヤ。彼女は煙草と読書と自傷癖を健やかな日常を送るための糧としている浮浪者だった。


「本を読むなら中で読めばいい。203号室の電気はまだ生きていた」


「あっそ。私はここでいいんだけど。……ここさぁ、ギリギリ濡れないっぽいけど、風が吹けば少し濡れちゃうんだよね。早く読まないとページがドンドン濡れちゃってね。急いで読まないといけない。私さぁ、追い込まれながらの読書って結構好きなの。親に怒られるギリギリまで本を読み続けるのが昔は好きでね……」


 へへへっと笑いながら、話したいだけ話し始めるレイナに、相槌も打たずに耳を向けるジン。曇り空にも似たいつもの光景。ジンはわかっている。彼女が一人になりたくないから、ジンより早く来てここで待っていることを。


 しかし、傷の舐め合いや癒しは、このジン・アキヨシには必要なかった。この空が晴れを忘れたように、彼も忘れてしまったモノがたくさんある。それでも忘れるわけにいかないモノもある。


「ねぇ、ジン。そろそろどこか遠くに行かない? ここじゃなくてさ。あんた金ならいっぱい持っているでしょ。私を連れてってよ。こんなじめじめしたところじゃなくてさ。もっと綺麗なところに。旅をしようよ」


 これもいつものことだ。雨が葉にパラパラ落ちる音ほどよく耳にした言葉。物語への憧れが強いレイナはことあるごとにジンと旅をしたがる。浮浪者同士、傷を舐め合いながらの旅。実にドラマチックで馬鹿馬鹿しい。


 そう思いながらも。彼自身も一つのドラマチックを求めている。


 今日は雨が弱いなと、たったそんな些細なことでさえ、彼は期待をしてしまうのだ。


 国道が開通し、誰一人も通らなくなった道路と衰退世界のような植物景色。もはや、ジンとレイナしかいないような孤独な世界の中、ただ雨音だけが生を彩るばかりだった。


 とはいえ、少し道を下ればそんな幻想も忘れるような人の世界。切り離されたようにここにいる二人は逃げ出したのか、置いていかれたのか。ジンに至っては後者が適格だと言える。


 雨はやはり今日も止まなかった。


 雨は、ジンに色んな記憶を思い出させる。あの日々も雨だった。ここに戻ってきて、ここに立っているその事実は、あれをもう一度やり直したいというジンの願いとも言えるだろう。彼の願いは流れゆく世界の中。過去に囚われてしまっているのだ。


 本来は社会的勝者。この世が金の世界ならば彼は人権を得ていただろう。人々は彼を成功者と言い。時に孤独だと笑うはずだった。


 平凡に育ち、地元の古いホテルに就職したジンは、国道開通と不況の風を受け、職を失い絶望の中に身を落とした。


 約三年半に及ぶフリーターの生活の中で。彼は思い描いていたインターネットでの観光サービスシステムを完成させ、二年ほどで成功まで導き、その全てを大手観光会社に売却した。


 それにより得た莫大な金で新たな開発に取り組むことも可能だったが、その時期の彼の心にはある記憶が大きく肥大化していた。たまらず彼は戻ってきてしまった。両親も職場も想い人もいなくなった雨の街に。




 ドアマンというが、ジンは廃墟のホテルの玄関で一日中棒立ちしているわけではない。ただ、彼は朝起きた時の曖昧な記憶に怯えてしまうのだ。ハッキリと思い出すために、ドアマンとして玄関に立つ。雨の音に耳を澄ませ記憶の靄を晴らしていく。ただの日課に過ぎない。


 昼前になり、廃墟の中に戻ったジンは見回りへと向かう。雨と植物により流れるように崩壊の道を進むこの建物。

 

 出来る限りの補強をやっていかなければならない。カーペットの剥がされた廊下。牢屋のようなコンクリート貼りの室内。現役の頃とは大きく変わったこの場所でも懐かしさが消えないのは、記憶を刺激するのは、いったいなぜなのだろうかとジンは思う。過去の記憶と変わりゆく景色両方に彼は胸を痛めるのだった。


 そして、見回りの最後に行くのは最上階である四階の401号室。


 ここには未だにドアが綺麗に残っているが、それ故にしっかりと錠が施されている。そのドアの前でジンは錆びついた紅の傘を抱きかかえ、背筋を伸ばして立っていた。


 彼は襟を正し、服の皺を整え、そのドアを軽くノックする。反響を繰り返し廊下に響くその音は、彼の心に温かいナニカを広げさせ、涙を誘う。


「お客様、エントランスにて傘のお忘れ物がございました。お受け取りいただけますでしょうか」


 それは、ジンと想い人との合言葉。今すぐにでも彼女がドアを開けてくれるのではと期待してしまう。


 しかし、もうそのドアは開かれることはない。静かに、残酷に、冷たく彼の前に立ちはだかるのだった。


 俯き数秒。ため息とともに、ジンはその場を後にした。




 エントランスの方に戻ると、買い物に出ていたレイナが帰ってきていた。その様子はいつもの彼女と違って見える。


 レイナもジンも料理はできない。そもそも水回りの設備は浄水器が機能してなく扱えない。彼女が買ってくるのはコンビニ弁当。それに弱いくせに大量の酒。たまに本も袋一杯に持って帰る。それにしても今日は酒の量が多すぎる。


「ねぇ、どれにする? ジンの金だし、選ばせてあげる」


 ジンが選ぼうと袋を覗くと、買ってある弁当は二つとも同じものだった。どうやら、酒のことを言っていると気付き、ハイボールをチョイス。今のジンの心境にはハイボールの薬品のような味わいが良く沁みそうに思えた。


 ジンは数少ない背もたれが機能している椅子。受付カウンターの椅子に座り、レイナはカウンターに飛び乗って静かに昼食を食べ始める。


 ジンの右肩前にはレイナの背中が見える。アルコールを胃に流し込みながらそれを見上げた。ぼろぼろのコートの下にはやせ細った体とその腕には大きな痣があることを彼は知っている。


 話したがりのレイナはことあるごとに右腕に広がる痣を自慢げに服をめくって見せつけてくることがある。そのたびにジンは、痣よりもやせ細った現在の身体状況に心配をしてしまうのだった。


「私さぁ、飽きないコンビニ弁当が出たら最強だと思うんだよね。毎日は無理でもさ、三日に一度ずつなら一生飽きないみたいな。それだと、三種類出せば一生それ食っていればいいと思うんだよね」


「一日三食とるなら、六種類」


「そっかー。確かに」


 くだらない話。返答が帰ってきたことに満足したように、振り返ったレイナは笑顔を見せた。いつも通りの変わらない、くだらない話題。それなのに、なぜかジンは構えてしまう。ついつい口を出してしまった。


 それに、普段なら酒を飲むと逆に口数が減ってボーっとし、最終的には眠りだす彼女だが、今日は違うようだった。


 三缶目に手を伸ばしたレイナは艶っぽい溜息を吐いて、カウンターの上で足をふらふらと遊ばせ始める。


「私、同居していた彼氏がいたんだよね」


 彼女の声色で。いつもの無駄話じゃないことにジンは気づいた。


 少しためらった後、彼は食べ終わった弁当をどけて、カウンターに乗り上がりレイナの横に付く。二缶目に手を伸ばし、開けると同時に彼女から「ありがとう」と気弱な言葉が紡がれた。


 体は冷える。彼女が近づいてきたのを感じたが、ジンは引かなかった。外の雨音が強くなってきた。


 そして彼女はそっと語り始めた。


「五年間も付き合っていたんだよね。三年目くらいに、ここらへんで同居を始めて。結婚……するつもりだったんだ。私も彼も。でもさ、なかなか踏み出せなくて。結局お互いのためとか、そんな理由で別れたの。全部私が悪いのに」


 ジンは彼女の痣を思い浮かべていた。長い間交際し円満に聞こえる二人、しかし同居を始めてから変わったのだろうとこの後の話の防衛線を築く。


「この痣はね自分で作ったの。なんか色々耐えられなくて。煙草を始めたり、それで火傷痕を作ったりしだしたのも別れる直前から始めた。これ以上はないってわかっていたから、別れる覚悟っていうか、そういうやつ的な……? 今も、後悔したり、もう一度とか思ってなんかして。そうしたら、いつも通り……ね」


 思ってみない話に、ジンは少しむせてしまった。彼女は自傷を生きる糧にしているということを彼は聞いていたが、腕の痣まで自分でやったものとは思わなかった。


「彼は臆病なだけでさ。フツーの人だった。私って結構わがままだからさ、あそこ行きたいとか、あれが欲しいとか。そういうので一生迷惑をかけるのが不安だったんだというか……、そんな感じかな。まぁ、それで別れたらさ、一文無しなわけ。両親とは縁切っていたし、仕事は付き合っていた頃に辞めていたし。だからって、自殺なんてできない。だってさ、自傷って言ったって、痣をつくる程度しかできないんだよ私。斬ったりとか、薬飲んだりとかムリだし。もう何もなくて彷徨って。そんで、ここを見つけて、独りぼっちで」


 レイナは全体重をジンに預けた。ジンが横を見ると、彼女は目を瞑り。緩やかに呼吸をしている。


「ジンがきてくれた」


 その優しい声音に、ジンは少し怖くなった。任された体重以上に重いナニカがのしかかってきているような気がした。そして、すぐにレイナが眠りについていることに気づいた。


 そっと、カウンターの上に寝かせたジンは羽織っていた自分のコートを彼女に掛ける。ホッと胸を撫で下ろし、彼は紅の傘を持ってくると、カウンターの椅子に再び座りそれを抱きしめた。


 レイナは思っていた以上にここから出ていきたいと願っているのかもしれない。いつも「連れ出してよ」と言っていた言葉は冗談や話のネタではなく本心だったのかもしれない。


 ジンの心は揺れる。なぜなら、彼にはそれをかなえることが出来る。しかし、自分はここから離れることはできない。


 離れると必ず、たまらなくなるのだ。ここで彼女を待つことが最善に思えてしまうのだ。それは悲しい性であり。彼の人生の意味である。ジンは、まっすぐ外の濡れた世界を見つめる。


 雨は止まない。


 ――また、雨の日の思い出ができてしまった。




 太陽が沈めばいよいよ暗闇の世界。エントランスには、買ってきたライトを吊るして明りを確保する。使わず暗闇の世界で雨音に浸る夜もあるが今夜は使った。


 起きたレイナは、ジンが隣にいることを確認すると柔和に笑った。ジンも軽く笑い返し、お互いにぬるくなったビール缶を開けて飲み始めた。


「今度は、僕の話を聞いて欲しい。僕にとってのこの場所の話」


 とぼけた様に頷いたレイナは、ハッと何かに気づき顔を赤らめた。「忘れられるなら忘れて欲しいな」なんて笑って見せて、煙草に火をつける。


「本当は、あんな話をするつもりじゃなかったんだ。別のことを言いたかったんだけど。もう、いいや」


「僕も、君にこんな話をするつもりはなかったんだ。忘れてもらっても構わない」


「……聞いて欲しいの?」


「多分、君と同じだ」


「……なるほどね」


 合図を出すように、レイナは半分ほど減った缶を軽く掲げ、察したジンも同じように差し出す。


 彼の雨の記憶はやたらと良く響いた乾杯の乾いた音と、飲み上げる喉の唸りの後に語り始まった。

 



 雨の街。悪天候すら観光資源にするこの街のホテルにもそこそこの客は来る。そのいつにもまして大雨な日に訪れた客は少し他と違うところがあった。


 スーツ姿の手ぶらの男と。キャリーバックを引きずった緑色のカーディガンを羽織った女性。その手には紅の傘。


 手続きを行ったスーツの男は、きつい口調で女性に言葉を並べ、彼女はいい加減な生返事でこれに答えた。


 彼女は、ウミ・アサイ。浅い海。麻井宇美。職業は作家だった。


 それから、彼女は約二週間このホテルで缶詰め状態になる。


 そもそも、雨の街のホテル。人を閉じ込めるにはいい環境だ。スーツの男は編集者であり、従業員たちに見張りを依頼した。当初ドアマンであったジンにもその内容は伝えられる。


 高級ホテルでもないこの場所にドアマンとして彼が雇われているのには訳がある。それは雨だった。


 雨の街の丘に建つこのホテルの利用者の多くはタクシーを利用しなければならない。それ故に。タクシーの手配役であるドアマンの必要があった。それでも暇があった彼は、荷物運びやチェックアウト時間を報告する役目であるベルボーイの役目も任された。


 ホテルには必ず清掃の時間が必要になる。朝の十一時までにチェックアウトそれから十四時まではチェックインはできない。


 ジンにとってその間の時間は夜間に備えた仮眠の時間。その時間、ウミは特別にフリーホールの使用を許され、そこで本を読んでいることがほとんどだった。


 彼女がきて三日たった昼前、ジンはウミの部屋に時間を告げに向かった。ドアをノックして出てきた彼女は顔色が悪く、すぐに寝てないことが分かった。


 慌てたように謝り彼女は荷物をまとめ始める。ジンもそれを手伝い、荷物を持ちフリーホールへと彼女を案内した。机に座った彼女はうつ伏せになり眠り始めた。


 チェックインの時間となり、ホテルは慌ただしくなっていく。ホテル内をいったり来たりと繰り返している中。ジンは、フリーホールに忘れられた紅の傘を見つけた。すぐに、ウミのだと気付く。それだけ、あの傘は印象として彼女と結びついていた。回収し、落ち着いたら返しに行くようにした。


 結局傘のことに手が付いたのは仕事が終わった後だった。ジンは回収していた赤い傘を持つと、ウミの部屋へと向かった。


 彼女から、申し出があるのを待つのが通常のはずだ。しかし、運命といえるほど無意識に何も考えず彼は善意でそれを持っていったのだった。


「夜深くに申し訳ございません。お客様、傘のお忘れ物がございます。お受け取りいただけますでしょうか」


 そう声掛けをするとすぐに彼女はドアを開け傘を確認した。


「ありがとうございます。それ、お気に入りの傘だったんですよ。盗まれなくって良かった」


 安堵の表情を見せた彼女は、ジンを見るや否や不思議そうな顔を見せる。


「貴方、今日朝からいましたよね。今から帰りですか?」


「はい、明日は休みなので別のものが呼びに来ると思いますが」


「……そう、良ければこの後もう一度この部屋に来てくれませんか? 貴方の仕事に興味があるんです」


 その目には確かな興味で彩られていて、ジンは彼女が本当に作家であることをそこで理解した。彼女は、フリーホールでは読書か睡眠しかしておらず実際に書いている場面をジンは見たことがなかった。


 しかし私服に着替え、彼女の部屋に招かれた後は、その前に抱いていた印象すら忘れるほど、ジンはウミに惹かれてしまうのだった。


 夜を明かし、夜勤の職員と変わる時間になる前に彼はこっそりと外に出た。疲れた体を引きずりながら自宅に帰り、深い眠りについた。そして。ジンは昼過ぎに起きるや否や彼女のことを考えていることに気づいたのだった。


 それは。ジン・アキヨシにとって初めての恋だった。形や真似事の恋ではなく、本物の。


 彼が次に出勤した際、早く十一時にならないかと待ち焦がれていた。同僚や、いつも道を通る顔見知りの人々からは『気分がよさそうだ。こっちまで晴れやかな気分になれる。相変わらず外は雨だがな』と評価されたほどだ。


 そして、待ちわびた時間。ジンは駆け足でウミのもとへと向かう。ドアをノックするとすぐに彼女は出てきた。その笑顔は美しく、彼を晴れやかな気持ちにさせたのだった。


 その後仮眠を取り、エントランスに向かうとすぐにジンは忘れられている紅い傘の存在に気づいた。なぜならそれは、目立つようにわざととしか思えないほど堂々とエントランスに忘れられていたからだ。


 期待に脳を染め上げた彼は、これをメッセージととらえた。そして、その夜もウミ・アサイの部屋のドアをノックしたのだった。


 その次も、またその次も。紅の傘はエントランスに置かれていた。まるで傘があの部屋の鍵であるかのように。ジンはその傘を持って仕事終わりにその場所に行くのだった。


 二人の関係は進展することはなかった。故に、その部屋の中で語られるはずの物語は、他愛のない会話の数々は。それらは、静かにおもちゃ箱の中身のように大事に忘れられるべきだった。


 珍しく雨の街が晴れた日。年に数回あるその日。ジンはまたエントランスに置かれた傘を見つけた。


 十一時、全ての客のチェックアウトが完了し、ジンはその傘を持って裏の倉庫まで向かった。そこには、置いていかれた数々の傘の墓場。雨の街特有の墓場といえる。こういった晴れの日には多くの傘が忘れられる。

 七本もの忘れられた傘の中にはあの紅の傘がある。


 ウミ・アサイは今朝。チェックアウトして、このホテルから出ていった。この傘が置いていかれたのはわざとなのか、たまたまなのか。ジンにはわからなかった。


 しかし、この時のジンは冷静だった。あの日々は綺麗な思い出として胸にしまうつもりでいた。いつか年老いた時に部下たちに昔はこんな素敵な出会いがあった。と語る自分の姿を想像していた。


 それを証明するために。赤い傘だけは、倉庫の上の棚に隠すように寝かせておく。


 その後から、ホテルが衰退の道を歩むまでジンは彼女の帰りを待つことはしなかった。それは、彼が常に人を招く、待つ仕事人だからだっただろう。ドアマン、それは平等な待ち人。


 その居場所から離れたからこそ。しまっていたものが牙をむいたと言える。そして、仕事の皮を剥ぎ、一人の人間としてあの日々を思い出すと。たまらなくなってしまうのだった。


 この街の空は雨ばかりだ。雨を感じるたびに彼は美しい記憶に胸を締め付けられる。


 晴れの日が来れば別れを思い出せるのだろうか。受け入れられるのだろうか。ジンは、一人の女性作家とこの街を照らす太陽を廃墟の中で待ち続けている。故に怖かった。この街の外。雨の無い世界に進むことが。


 彼は、記憶と共に雨の世界に閉じ込められ。止まった時間の中にいるのだ――。


 


 ジンがレイナに自分のことを話してから数日がたったある日のことだった。いつも通り弁当と酒を買って帰ったレイナだったが、なぜかハンマーを引きずっていた。


「ちょっと話さない?」


「話したいのは僕の方だ。どうしたんだそれ?」


「ホームセンターで買ってきたの。ジンの金で」


 場所を変えたいという彼女に訳も分からずジンはついて行きたどり着いたのは、401号室前。


 彼女のやろうとしていることはわかった。


「やめてくれ……」


「やめないよ」


 ハンマーを振り上げた彼女は勢いよくドアにぶつける。建物全体が揺れる。ホコリが舞う、音が反響し耳が痛い。


 ドアは壊れない。ただただやかましい音を上げて。ハンマーはぶつかり続ける。ジンはそれを見つめることしかできなかった。


 なぜ、彼女はこんなに懸命にドアを叩くのだろうか。いくら叩きつけても壊れない頑丈なドア。たった時間の分だけ冷静さは増し、勢いはそがれていく。


 顔を真っ赤にしながらフラフラとハンマーをぶつけるレイナ。もはやドアではなく彼女自身が壊れてしまいそうだった。


 遂に彼女は折れてしまった。振り上げたハンマーの重さに重心が持っていかれ、尻もちをつく。這うように動き、ドア横に向かい壁にもたれるや否や、一仕事終えたように煙草をくわえた。


「ねぇジン。『雨とホテルと殺人事件』って本知っている?」


「……知らない」


「知らないの? 『〇と△と殺人事件シリーズ』といえば、麻井宇美の代表作たちだよ」


「……憧れにしたくなかったんだ。僕の思いを」


「ジンって変なところで、天邪鬼っていうかドラマチックだね」


 ふぅ、と煙を吐いた彼女は力なくハンマーを持ち上げ教鞭で黒板を叩くようにドアを小突いた。


「その作品の舞台は多分ここなの。その小説にジンが出てくるみたいなロマンチックはないけど」


「このホテルが?」


「殺人事件が起こって、犯人が誰かわからない中。大雨によって一晩止まることになった主人公達。疑心暗鬼の中、一人で孤独な主人公は仲間を求めて就寝前、わざと傘をエントランスに置いていくの。印象的な紅い傘。犯人を捜して観察的になっていた人々は彼女とそれを結び付けていた。そして、主人公はそれを拾い持ってきて人を信じようとする」


 その話は、ジンとウミの体験そのものだった。もしかしたら彼女はそれを書くために。実験としてエントランスに傘を置いたのかもしれない。実際においた時持ってきてくれる人はいるのかどうか。


 最初のフリーホールでの出来事は偶然かもしれないがその後のエントランスでの傘は見るからにわざとだった。


 そう思うと、スッと救われる感じをジンは覚えた。そして、苦しくなった。


「僕は試されていただけだったのかもしれない。彼女が僕に興味を持ったのは、傘を持ってくるような人物の設定の参考にするため……」


「かもね。まぁ、ネタバレになるけど主人公は最終的に自分の推理に過信して他の人を部屋に招いてしまい殺されるの。そして、わざとじゃなくて本当に忘れていた傘。それを彼女が最初に信じた人物が発見し、届けた先で殺された彼女を見つける。その時間のアリバイで真犯人が見つかるって感じ」


 立ち上がったレイナは最後のひと踏ん張りといったふうにハンマーを振りドアにぶつける。ドアの周りに少しヒビが入っているがやはり壊れない。


「そう考えるとさ、この中気にならない? 何もないのはわかっているけど、何もないのを君は知らないんだから。もしかしたら『彼女』の死体があるかも……なんてね」


 ハンマーをジンの前へと投げ捨てたレイナは、今度はドアの向かい側の壁にもたれると、ジンに向けて静かに笑って見せた。


「この前、私の痣のことを言った日。弁当買いに行ったコンビニでたまたま新聞見たらさ、明日、珍しく晴れるみたいなんだよね。私さ、それを見てね、この日にここから出ようって決めたの。本当はそれをジンに伝えるためにお酒を買ったんだけど。……どうしてだろうね」


 ジンは選択を迫られていた。


 短い付き合いだが、なぜかレイナのことは良く理解していた。彼女が自分に惹かれていること。そして何より、自分自身も彼女に惹かれていたこと。


 お互い分かっていた。


 彼女の誘いは何時でも本気だった。無言でそれを流していたジンはただ返事ができなかった。


 そして今、選択の期限が見えてきた。


 晴れの日。それは、ジンにとっては過去との折り合いをつけるための日でもある。それを聞いて、レイナは選択の後押しのためにこのドアをこじ開け、ジンに現実を見せようとしたのだ。


 自分と共に来て欲しかったから。


 ジンは、ハンマーを持ち上げそれを振り上げた。


 幾度の打撃。掌にできたタコはすぐに破れて血を流す。時間は想像以上にかかった。休憩をはさみ夜を明かした。後日の筋肉痛は誇らしさすら覚えるものとなる。


 そして、開かれた部屋には本当に何もなく。ドアがなくなったことによる虚無感は彼の心に恐ろしいほど傷をつけた。


 朝日が差し掛かっている。この部屋は一番端であり、最上階。雨漏り、植物の浸食。一番劣化が進んでいる。


 その部屋で、一人膝をついた男は、かみしめるように泣き声を漏らし続けていた。




「せっかく晴れの日に出たのに、旅先で雨とか本当に私たちは雨に好かれているみたいだね」


 雨宿りに選んだ喫茶店は、雨の音を聞くには最適だった。雨音に耳を澄ませながら、風流を感じ心を穏やかにする人々。その中でジンは、まだ痛む心に悲しい気持ちを抱いていた。


「そんな顔しないでよジン。大丈夫、晴れの日も雨の日もきっと好きになれる。今から、そうしていくんだから」


 雨はまだ止まないが、ジンとレイナは店を出た。予約していたホテルのチェックインの時間が近づいて来ていた。連絡を入れれば変更も可能だが、ジンはそれを良しとしなかった。


 雨の日の外にも慣れている。


 コンビニでビニール傘を買い、ホテルに向かう途中何かに気づいたような素振りでレイナは振り返りジンを見た。


「そういえば、ジンは傘持っていたよね。結構、よさそうな奴。どうしちゃったの?」


 それを聞いたジンは誇らしげに微笑んだ。


「忘れてきてしまったんだ。あの廃墟に」




 雨の街の廃墟。もとホテルのその場所の四階。雨漏りにより最も劣化の激しいその一番端の部屋。ドアが人工的に壊された部屋に、二本の傘が置かれている。


 紅い傘は閉じた状態で寝かされ、もう片方は藍色の立派な傘。この街には珍しい連続した晴れ模様。窓から入る日差しを浴びてその傘は花を開かせている。


 その傘の影の中には一冊の重い病名が書かれた本と、煙草の箱が一つ。――忘れられている。忘れられようとしている。


 あの雨は、過去を洗い流してくれるものではない。締め切った、浮世から孤立した廃墟の外で。雨は、いつまでも彼らを呼んでいた。


 雨がいつか止む様に人の命も終わりが来る。ならば、晴れたり曇ったり雨が降ったりする空のように、思い出し忘れながら歩んでいくべきなのだろう。




「ごめんね。せっかくいい部屋とってもらったのに。天気確認すればよかった」


 生憎の天候で窓の外に広がるはずの海と地平線は見えない。しかし、レイナの表情は晴れやかでありどこか悟ったように澄んでいた。


「次はどこ行こうか?」


 レイナはその問いかけに答えることを躊躇ってしまう。


 この雨に心を苦しめられているのはジンだけではないのだ。この空模様は彼女の心でもあった。


 彼女が婚約者と別れた本当の理由。時間をかけ過ぎた理由。わざと腕に痣を作ってまで離れた理由はまだ、ジンには言えなかった。婚約者に別れを切り出したのは彼女だった。


「どうせなら、雨の降らない場所に行きたいかも」


 それでも、彼女はわがままを言ってしまう。昔は不安だった。終わりまで長くはない、それなのに溢れ出る思い。好きな人を苦しめ続けたくはなかった。今も、変わらない。


 晴れ空の下でなら。本当に言いたいことも言えるだろうか。レイナは思う、自分はいつでもそうだと。いつもしたい事ややりたいことばかりで、いざとなったら何もできない。遠回りを繰り返して長い時間を掛けないとたどり着けない。


 今もまた、遠回りの最中だ。また繰り返すばかりだ。彼も私も。


 ため息。煙草を取り出す仕草。また、ため息。


 ジンはそんな彼女の様子を見て優しく肩を抱いた。その温もりに残り少ない命を消費するようにレイナは涙を流した。



 ――雨はまだ止まない。

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