5.愛ゆえに溶けゆく曖昧に

 あの日のことは何時でも鮮明に思い出すことができる。


 二人で読んだ『ヘンゼルとグレーテル』。そして、彼が言った一言。


「いつか、僕らがもう少しだけ大人になったら。逃げよう。一緒に逃げよう。二人なら、大丈夫」


 私達は血は繋がってなかった。でも、同じ家で育ったから兄妹といっても間違いではない。私は無力で彼がいないと何もできないから、一緒にと言ってくれたことが嬉しくてたまらなかった。




「ただいま、レミ。今日も、遅くなってごめん」


「いいよ。シズルが大変なのは私も知っているし。それにシズルにとって必要なことでしょ?」


 私が笑顔でそういうと、シズルは無表情で視線をずらした。別に脅すような意味で言ったわけじゃない。私は容認したうえで言っているのに。


「ごめん」


 でも、シズルはそう呟いて自分の部屋に向かった。わざわざ、私の部屋まで来て謝ってきたのだ。本人の心は揺れているのだろう。


 流石の私も二人のこの関係がいつまでも続くなんて思っていなかった。二人で一人前。昔からよくそう言われていたし、自分たちもそうだと思っている。だからこそ、ここまでやってきた。


 いいじゃないか、一人前にならなくても、半人前でもやりたいことをすればいい。そうすることでもう一人の半人前が取り残されてしまおうが、どうだっていいじゃないか。




 それは数日前のこと。シズルは社会人で意味不明なくらいホワイトな場所で働いている。だから、大抵ブラックなバイトに出ている私よりも早く帰ってきているはずだった。


 専門的な仕事らしく、いつも勉強用の書物に囲まれて自室で唸っているシズルがその日はいなかった。会社で珍しく残業なのかなと思って夕食の準備をしていると、絶望的な表情で彼は帰ってきた。彼に表情はないはずなのに。いや、ないからこそ、その顔に絶望がハッキリと浮かんでいたのかもしれない。そして、何を聞いたわけでもないのに、シズルは全てを話してくれた。


「心を、教えてもらっていたんだ」


 変に聞こえる一言だが、私たちにとって心というものは重要なものだった。成長の過程で欠けてしまった大事なもの。


 特にシズルは酷かった。親に捨てられ、施設で出会ったときにはもう、表情という表情が作れなくなっていた。よくしゃべるし意思表示もハッキリとしているのに、喜んだり悲しんだりせず常に無表情。変に顔に意識すると、頭が混乱してまともに会話ができなくなるらしい。


 そんな彼だから、隠し事などせずに私に全てを話してくれたんだと思う。


「ノラ猫みたいな人だった。駅の近くで近づいてきて。よくわからないまま家へ招かれたんだ。そして、数分話をして……僕は彼女を抱いていた」


 彼は震えていた。何が何だか分からないといった感じだった。私はただ聞くことしかできなかった。だって私は無力だからだ。シズルがいる限り私は無力でいられる。私は楽させてもらってきたのだ。だから、シズルが女性を抱こうが、心を知ろうが、何もできない。


 そんなことがあって数日。シズルが遅い時間に帰ってくるのは不規則で週に一回も行かない時があると思えば、五連続で遅くなる時もあった。


 寂しい思いもあるし焦りもある。それなのに、私は彼に何も聞けない。絶妙な二人のバランスを崩したくないとかじゃない。ただ、私はなにもできない。それだけなのだ。




 バイトが急遽休みになった。シフト変更を伝え忘れていたという。まぁ、行く前に知れたのだからいっか。


 そういうわけで、今日一日中部屋で死んでいた。やることなんてないし、やりたいこともない。無気力というよりも無知。こういった一人の時に何をすれば楽しく、何をすれば充実するのかわからない。


 決まった時間になったら外に出て買い物をして、帰宅すると夕食を作り始める。シズルは遅くなろうがなるまいが、飯は食べる。食べてくれる。たぶん、分かっているからだろう。彼が飯を食べないなら、私は作らないし、何なら食べることもしないから。


 できれば温かいものを食べて欲しいが、遅くなった時の彼に時間を合わせるとそれはそれで、私のやる気がなくなってしまう。作れるときに作らないと。彼のために。


 外の寒さを真似たような明度の低い部屋。まな板に打ち付ける包丁の音、沸騰する鍋の音、換気扇の小動物のような鳴き声。多くの音に囲まれながら、私は今人知れず孤独を感じている。


 少しだけ笑みがこぼれた。


「――ただいま」


 突如、真横の玄関からシズルが現れる。足音は聞こえていたけど彼と思わなかった。だって、会社が終わったならもっと早く帰っているはずだし、心を教えてもらっていたならもっと遅いはずだから。なんか、微妙な時間だ。


「……今日は、先客がいたんだ。彼女に会えなかった」


 驚く私の顔を見て、なぜか誇らしげにそういってきたシズル。私は「そう」と一言だけ返す。何の感情も込めずに。そして、彼は無表情のまま部屋に去っていく。


 まぁ、でもいいか。温かい飯を一緒に食べられるんだから。


 私たちは二人とも、食事は大体私の部屋で取る。彼の部屋には資料とか参考書で満ちているけど、私の部屋は特に何もないからだ。


 会話少なく、お互い黙々と食べ続ける。施設に入っていた時の記憶が浮かんでくるから、余りこういった無言の食事をとりたくはない。不意に作り物の笑顔で「おいしい」って言わないといけないっていう焦燥に駆られてしまうからだ。


 でも、やっぱり無力の私は何もできない。何を話せばいいのか。どうすればいいのか。


 そうか、今まではシズルが話題を振ってくれていたんだ。「僕は今日会社でこうだったけどレミは?」「買いたいものがあるから今度一緒に出掛けない?」とか。


 でも彼は無表情で黙々と食事を続けている。向かい合っているのに背を向けて食べているような感覚。そこにいるんだろうけど、なぜか孤独を感じてしまう。


「心、分かった?」


 無理に絞り出した言葉を微笑とともに放つ。


 でも彼の表情を見て、すぐにこの話題は失敗だったと気付いた。慣れないことはしない方がいいか。ごめん。


「今の無しで」


「うん」


 食事を済ませて、彼は自分の分の食器を洗いに部屋を出てキッチンまで向かった。彼が食器を洗う音を聞いていると、少しだけ安心して食べることに集中し始めることができた。




 私たち二人は小学四年生の頃に施設から出た。引き取ったのは画家の妻と、平均をなぞった社会人の夫の夫婦。新しい母は絵本作家もたしなんでいたらしく、家の中にはたくさんの絵本であふれていた。ヘンゼルとグレーテルもそこで知った。


 新しい母の名前はアヤカといい。私たちに『アヤカさん』と呼ぶことを強制してきた。アヤカさんは私たちと少し似ている。彼女も心が欠けていたのだ。


「私はねぇ、あんたらと違って親はまともだったのよ。良くも悪くも一般的。大事に育ててもらえて、愛情いっぱいに育った。でもね、私はそんな愛情いっぱいに育てられた自分自身を贅沢に壊してしまったわけ」


 簡単にいうと、アヤカさんは今でも子供のままらしい。ピーターパン症候群というものがあるが、それとはちょっと違うと彼女は語った。


「子供でいたいわけじゃないの。自分自身大人の自覚はあるし、大人の振る舞いもできる。でも、ふとした時私は子供になっているの。子供みたいに駄々をこねたり、お姫様に憧れたり、当たり前ができなくなったり。だから私はその心を大切にして、画家になって自分の世界を写そうとしている。性行為ができないから、あんたたちを引き取った。あんたらは私を利用しまくってまともな大人になればいいの。学べるものは多いと思うわ」


 アヤカさんは私たちの前では大人だった。でも時折聞こえてくる駄々や、絵に行き詰まると全部をぐちゃぐちゃにしだす姿は見るに堪えないものだった。


 父親の方は本当に普通だった。何でアヤカさんと結婚して、私たちを引き受けたのかわからないほど。可能性の塊で縛りもなく、自由ながらも平均を突き進む人。


 でも、アヤカさんよりも彼の方から学べることが多かった。


 拗らせた母親と、平均の父親。この二人の背中をみて中学卒業まで暮らした私たちに結局変化は起こらなかった。


 ただ、生き方だけは身に付けた。アヤカさんという近い存在と、普通の模範である父、模索していくには十分な環境だった。だからこそ、私達は家族であり、その場所は我が家だったのだ。


 でも私たちは逃げ出すという欲求を消し去ることはできなかった。夫婦には感謝している。でも、ずっと家庭で子供として育つには苦しかった。私たちは親という存在自体が嫌いだったのだ。もしかしたらアヤカさんはそれをわかってくれていたのかもしれない。でも、やっぱり彼女は私たちにとって母親だったのだ。認めてしまっていたのだ。


 約束通り逃げ出した私達だったけど、見事に失敗した。高校生くらいの年齢になれば自立できると思っていたけどそんなに甘くもなく、道端で寄り添っているところを補導されて家に連れ戻されてしまった。


 子供なアヤカさんは大爆笑で、父親は真剣にこれを捉えた。


 そして、流れるように、私たちは二人の計らいによって今のアパートで二人暮らしすることになったのだ。


「高校はちゃんと最後まで行っときな。その後の自由が広がるからさ。そして、二十歳くらいになったら、こっちの援助も完全に切る。――私は、楽しかったよ。家族ごっこ」


 アヤカさんは柔らかい肌で私たちを包んで最後にそう囁いてくれた。やっぱり、彼女は母親だった。私は思わず、抱き返してしまったんだから。


 それから灰色の高校生活を得て、私は家事、シズルは推薦された会社に就職して働きに出るという日々が始まる。まぁ、私は高校に一年も行かずにずっと家のことをしていたんだけど。


 一年と半年で会社を辞めたシズルは、ある期間だけ死んだように動かなくなっていた。私は無気力だが、シズルのためなら動ける。その時期から、バイトを始めて意外とうまくいき、今でも場所を変えながらバイトと家事を続けている。そうじゃないと社会から離れたままだから。一応、自立の意思はあったり、なかったり。


 私がバイトを始めてから二、三か月たってから死んでいたシズルは動き始めて、今の仕事に就いた。ホワイトすぎるし、本人も楽しんでいるようでよかった。


 そこからは、安定していた。心が欠けた私たちなのに、驚くほど安定した暮らしができていた。収入があり、住むところがあり、支える存在がいる。


 そして今、私たちの年齢は二十二歳。私はヒトとの交流ができないが、シズルは女性と何かあっても可笑しくない時期だ。中学の頃も彼に惹かれた女性はいなかったわけじゃない。


 私が思うに、シズルは恋をしたのだ。でも、心の無い彼にはそれが分からない。だからこそ、彼は『心を教えてもらっている』といったんじゃないだろうか。


 私はどうだろう。シズルがいないと何もする気が起きないかもしれない。でも、私のせいで彼の未来を汚してしまうなら……。まぁ、何を考えても、私は関与しないだろう。流れがあればそれに流されるだけだ。




 今日もシズルの帰りは遅かった。いや、今日はシズル達だった。彼は小さな女の子の手を握って帰ってきたのだ。


「ごめん、レミ。少しの間預かることになったんだ」


 その娘は、幼いのに目に光はなく、人形の様な子だった。まるで、シズルの様な。


「アイ。ごさいです」


 舌足らずながらもハキハキと彼女は言葉を発する。


「私は、レミ。よろしくね」


 私は彼女の頭を撫で、彼女は無抵抗に私に撫でられた。この子と関わるのはこれだけにしようと思った。


 でも次の日、私が帰ると家にはアイだけがいた。彼女は私の部屋のベッドで私のように死んでいる。大事そうに瓶詰めの飴玉たちを両手で握り胸の前で抱きながら。


「シズルの部屋にいなよ。私、遊んであげられないよ」

「いい。だから、ここにいる」

「あっそ」

「おとこの人のにおい、きらい」

「……あぁ、そういう」


 私は、帰りに買ってきた食材でいつも通り食事を作り始めた。アイの分は作らない。作る訳がない。あの子のためには動きたくない。


 できた料理を皿に分けて、シズルの分はラップをして置いておき、自分の分をもって部屋に戻る。アイの態勢は変わらず、やはり人形を彷彿させてきた。


 食事をとる横で彼女は腹を鳴らし続ける。でも、こちらを見ることもなく、物乞いもしない。別に頼んできたら作ってあげるわけじゃないけど。


 そんなこんなで、アイの腹の虫のせいで孤独な食事が台無しになりながらも全てを食べきった。


「これ、いる?」


 食器を洗い部屋に戻ると、アイは私の方を見てそう呟いてきた。よくわからず、首をかしげると彼女は色とりどりの飴玉が入った瓶を天井に向けて突き上げた。


「あいじょう」


「愛情?」


「うん。ママが言ってた。『あいじょう』って何? ってきいたらこれだって。これあげたら、皆やさしくしてくれるって」


「……頂戴」


 アイは起き上がると、瓶の中から愛情を一つ取り出した。そして、私が差し出した掌の上にそれを乗せる。


「あーん。して」


 私がそういうと、彼女は言われるがままに口を広げた。私は渡された愛情をその開いた口の中に放り込む。彼女をベットの上からどけて、一人で横になった。


 これで、腹の虫も少しは黙るだろう。




 シズルは私のことをわかってくれている。なんだって、私たちは二人で一つなのだから。彼は、私が何も言ってなくてもコンビニでアイの飯を買ってきた。弁当をアイに渡すと、自分の分の料理をレンジで温め始める。


「アイはどうだった?」


 私が死んでいる横で彼はアイと向かい合って食事を始めている。ここで食うのはいつも通りだからいいんだけど、今向かい合っているのはアイなのだから。彼女に話しかければいいじゃん。


「知らない」


「そっか」


 二人は黙々と食事を続ける。


 そもそも、アイは何者なのだろうか? シズルが恋している女性は既婚者なのか。そうなると、この前言っていた「先客がいた」という言葉の意味が大きく変わってきてしまう。


 どうするべきなのだろうか。兄妹が過ちを犯そうとしているなら止めるべきなのだろうか。でも、それでシズルが心を知れるならいいのかもしれない。


 そっと寝返りをうち、二人の様子を見る。シズルはいつもの無表情で箸を淡々と進めていく。対するアイは不器用にプラスチックフォークを扱い、辺りを汚しながら無表情で淡々と口に運んでいる。


 人形劇でも見せられているのだろうか? この二人の元々が異質すぎる故に簡潔に見た時にそういった像として写ってしまう。


 再び寝返りをうって『面倒くさい』の一言を脳裏に浮かべる。私が面倒くさいと思うのだ、かなりのものだと思ってもらいたい。




『ごめん、レミ。アイをここまで連れてきて欲しいんだ』


 流石に震えている。私はシズルと違って怒るときは怒る。どうせ、シズルに怒ったって「ごめん、レミ」しか言わないのはわかっているけど。分かっているけど……。


 そう思うと案外どうでも良くなってきた。アイは相変わらず私の部屋で死んでいる。そういえば結局あの子と会話らしき会話をしたのは飴玉の事以来無いかもしれない。


「おかえりの時間みたいだよ」


 カクッっと不気味に首を曲げてこちらを見つめてきたアイの目はどこか懇願しているように見えた。何を望んでいるのだろうか? 


「あいじょう、いる?」


「いる、頂戴」


 彼女から愛情を受け取ると、その手を取って外に連れ出した。彼女の持ち物は飴玉だけだ。風呂には入れたが、服はずっと変えていない。そんな汚い服で自分のベッドを占領されていたんだということに気づくと私は少しだけ、気だるさを覚えた。


 外に出るや否、アパートの玄関から外へと愛情を投げ捨てる。地上から四階。人が飛ぶと運が良ければ死ねる高さ。放物線を描いた愛情は流星のごとく素早く闇に溶けていった。


「よるが、やさしくなる?」


 首を傾げた彼女に煽られた気分になったのは多分私が穢れているからだ。そう思う方が楽。


 多分アイの頭は飴玉の詰まった瓶のように甘々なものをぎっしり詰め込んでいるのだろう。だからこそ。そんな言葉が出る。


「優しかったら夜じゃないよ」


 アイの手を強引に引っ張り、シズルから指定された場所へと向かう。


 夜の住宅街を幼い他人の子供の手を引っ張って歩く。私はふと逃げ出したあの日の夜のことを思い出した。中学三年。シズルと逃げ出して、暗闇が怖くても彼と一緒という安心感だけが命綱だった。


 寄り添い密着して眠り、強い光で目を覚ました時には、シズルは私から引き剥がされていた。パニックになった私は一人逃げ出した。無事捕まったらしいがその間どこで何をしていたのかは未だに思い出せない。


 そのときから私は夜が嫌いで、警察が怖くなった。


 アイを抱き寄せて持ち上げる。腕を引っ張るよりもこうした方が、見栄えは良いだろう。アイも何の抵抗もなしに私の服をギュッと握った。少しだけ安心して先を急いだ。




 その場所は、一言で言えば汚れていた。玄関先に置かれた生々しいごみ袋と、その袋の上に貼られた管理人からの警告文。それだけでも汚いと言えるが、なんか雰囲気というか多分ごみが無くなってもこの汚さは消え失せないような気がした。


 腕の中のアイが自分から離れて、地面に降りた。


「ここであってる?」


 そう聞くと、彼女は頷く。私が一歩足を進めようとすると、アイが私のズボン掴んできた。


「どうしたの?」


「これ、持ってて」


 アイは愛情の入った瓶を私に差し出してきた。よくわからなかったが、私はそれを受け取りポケットに入れる。すると、アイは自ら足を進めて、ドアに向かって思いっきり蹴りを入れ始める。


「はいはい~。いまいきます」


 やたらねっとりした声と、足音が聞こえた。そして、その扉が開いた瞬間。私は不快感に包まれてしまう。


「……あなたがレミちゃん?」


「はい」


 まず、匂いが酷かった。甘ったるい、頭が痛くなるような刺激臭がその部屋から漂ってきた。そして、中から出てきた女性。ふわふわしたウェーブ上の薄い桜色の髪。控えめなデザインなのに過剰に刺さった装飾。扇情的なヒラヒラして面積の少ない衣装。


 私はもう、この人の名前を知っている。シズルから何度も聞いた。『カオリさん』綺麗な名前なのに、その人はわざとその名を汚しているように見えた。


 思わず、目をそらすとアパートの管理人の警告書が見えた。どうやら異臭の苦情が付近から来ているようだった。私の嗅覚は間違っていないんだ。


「入ってく? お礼がしたいわ」


 多分私はこれ以上なく嫌な顔をしているだろう。封印したはずの表情だったのに、思わず湧き出てしまった。


「いや、家のことがあるので」


 私が、帰ろうとしたときにはもう、カオリさんは至近距離まで近づいて来ていた。裸足だった。意味不明なにおいが鼻を通り越し脳に直接刺激を与えてくる。ビビッている間に、するりと右腕を抱かれ、体を押し付けられた。


 みると、アイがドアを開けたまま私の方を見ていた。視線に気づくと彼女はそっと部屋の中をへと消えていく。


「大丈夫。怖がらなくていいの。貴方のことはシズルくんからたっくさん聞いてるから」


 意味分からないことをいう彼女だが、実際この人の行動は私にとって致命的なダメージになる。引くことよりも受け入れることの方が楽な状況。


 私は高所に置かれたガラスの床に足を踏み込むような足取りで甘ったるいその部屋の中に飲み込まれていった。


 においの原因っぽい一室のドアを通り越して奥のリビングらしく場所に出る。絨毯はなく、家具はシンプルな白の椅子が二つと同種のテーブル。その足には床を気づつけないためか靴下がゴムで止められていた。


「さぁ、座って」


 もう、何も考えることができない。一人で他人の家にいること、頭を刺激する匂い、異質な空気。限界と気づいたときには体は震えるばかりで言葉も発せない。


 部屋の角ではアイが体を丸めてじっとこっちを見つめてきていた。


「ごめんなさい。久しぶりに親が来てたの。アイのことは未だに言えなくてねぇ。色んな所に。あ、あった」


「はぁ」


 カオリさんは部屋の右端に備え付けられたクローゼットから、ガサゴソと何かを取り出してこちらに持ってきた。クローゼットの中は荒れ果てているようで、でも彼女の印象からすればまだ綺麗な方だった。


「その親からもらったお菓子。私、甘いものが苦手だからもって帰っていいわよ」


「ありがとうございます」


 甘いものが苦手。私はそっとポケットの『愛情』に触れていた。この人は不気味だ。私たちが欠けている存在としたら、この人は歪んでいる存在そんな気がする。


「アイはどうだった? 変な子だったでしょ。そう育てたんですもの」


「えっと……そうですね。でも、飴玉をくれました」


 そう答えると、明らかにカオリさんは動揺を見せた。その時、初めて彼女の顔をみた。死にそうな顔だった、数日後死体で見つかってもそうだろうなって思えるようなもう、死んでいても可笑しくないような。そんな顔。その上に動揺の表情を映し出しているのだから、いよいよ絵画レベルの異質さを誇っている。


「……そう、ありがとう。また、何か頼むかもしれないわ」


「はい」


 それからカオリさんから異質さが消えていた。


 帰り道、公園に寄り道をして、トイレ横のゴミ箱にお土産のお菓子を捨てて帰った。一口も食べてないけど、まずいのは知っている。

 



 今日も今日とて帰りの遅いシズルを待っていたらインターフォンが鳴り響いた。出る気も起きなかったけど訴えるようになり続ける。結局、音がやかましくて扉を開けた。


「……アイ?」


 そこには満面の笑みを浮かべたアイの姿があった。彼女は舌足らずな口調で恐ろしいことを呟く。


「みんな、いなくなった」


 それ以上は何も語らず、ひとまず私は彼女を家に入れてシズルの帰りを待つことに。でもいくら待てども彼は帰ってこなかった。


 何かを察していたのは事実だ。私はそれを知るまでの数日間バイトを無断欠席して、アイと死にながら一日を過ごしていたのだから。


 そして、その日が来た。携帯で何となく目にした事件。


 異臭がするという通報によって捜査されたアパートの一室から男女合わせて六名の遺体が見つかった。


 二名はそこに住む女性の両親であり、見つかる数週間前からそこにあったという。そして、別の四人の死体は一人が住人の女性であり、その他は女性と交際関係にあったと思われる男性三名。彼らは同時に彼女と心中を遂げたと思われるというもの。


 警察が来たのは次の日。私は、現実味に欠けた話だったからだろうか。なぜか、一切心を揺れ動かされることがなかった。ただ、精いっぱいだったのかもしれない。アイを守ることに。


 そう、訳が分からないけど。私は、アイのことを庇い続けた。海外に旅行に行った友人から預かったと。


 全てを失いながらも、かろうじて傍にいた彼女を手放したくなかった。私は、無力だ。一人が怖い、孤独はつらい。


 だから、彼と過ごしたその場所もすぐに離れた。幼い人形の様な少女を抱きかかえて。




「新しい絵の資料です」


「アイです。ごさいです」


 ここに戻ってくることは何となく両親もわかっていただろう。でも、そのあまりにも常識はずれなお土産に頭を抱えた。


 流石のアヤカさんもウキウキを表に出しながらも言葉では文句を垂れ流してきた。


「まぁ、この子はどうでもいいや。あんたももう大人だし。私たちは関係なしってことでいいよね。それを含めて、私はあんたが心配だわ」


「まぁ、正直私もこれからどうすればいいのか」


 兄であるシズルを失った私はもう、生きる意味を無くしたにひとしい。二人で一人前の私達。つまり、半分が死んだことになる。半分死んで半分生きている人間がいたとしたら、間違えなくそいつはまともに生きられない。私は今そういう状態。


「シズル周りのことは私たちに任せて、あんたは……まぁ、その子のことにひとまず集中すれば? 人の育て方って知ってる?」


「愛情をあげればいい」


 私は手にもった瓶の中から飴玉を一つまみしてアイに渡した。受け取ったアイは、それを勢いよく私に投げつけてきた。


「ほら、子育ては難しい」


 ちょっとだけ腹を抱えて爆笑するアヤカさんに悔しさを覚えた。




 私達は二人ならどこまでも行けるはずだった。進む道はお互いの意思によって迷うことはない。だから、肩を寄り添ってずっとここまま進んでいくべきだった。


 でも、彼だけ立ち止まってしまた。彼だけ、お菓子の家に入ってしまった。そして、全てがずれてしまった。それも、そのはずだ。私は甘いものが大っ嫌いなのだから。


 もし、『愛』というものが砂糖の塊のように甘いものなら、私はいらないんだ。必要じゃないんだ。でも、シズルにはそれが必要だった。そして、私は唯一必要だった彼という存在を失った。


 左翼を失い、右翼だけがあって何になる? 一本の箸は箸とも呼べず、片割れた靴は無様だ。私はもう、人としてやっていけない。


「……レミ」


 か細い声が聞こえる。震えた声だ。顔を何かから触れられる。泣き疲れてベッドの上。抵抗する気力も残っていない。やっと、彼の死を受け入れることができたんだ。もう少し、孤独を楽しませてよ。


 不意に何かを口に押し込まれる。それはとっさに口内で溶けて、甘ったるい味わいで全てを侵していく。あまりの、不気味さにやっと、起き上がる。


「……なに?」


 少女は私の目を見ても怯える様子はない。虚無を写しているようなその目に逆に私が恐怖を感じてしまう。


 頭をかき、少し考える。口に入れられたのは、飴玉だろう。


「わたし、レミに『あいじょう』もらった。やさしくしてあげないといけないから」


 五歳の少女とは思えない不敵な笑みを浮かべて、彼女はそういった。


 流れる涙は多分、さっき泣いた分の残りかすか。


「だから、レミも」


 そう言って、小さな手で私の両頬を包むと、少女は小さな舌で涙を舐めてきた。少女の行為は誰かを真似したものだとハッキリわかるほどぎこちなく、不慣れなものだった。そうか、あの女の娘なんだから。


 アイを引き剥がして。抱き寄せる。複雑な思いを覆いこむように温かいナニカが広がっていく。それは甘ったるく受け入れがたく、それでいて今の私に必要なものだった。


 片割れを失えば、補えばいい。はなから足りないのは変わりがあるからなのかもしれない。


 シズルが、カオリさんに寄り添ったように。私にも、歪に重なるパズルのピースがあるのかもしれない。もしそれが、この子なら。私はどこまで生きて、どこまで苦しめばいいのだろうか。


「……レミ?」


「んー、もう大丈夫」


 そうか、本当に愛しいものは手放すべきじゃなかったんだ。それを知っていたから、理解したから、シズルはカオリさんを選んだ。


 彼が知ろうとしたのは、恋なんかじゃなかったのだ。愛だった。


 アイの頭を撫でる。今は、何日の何時なのだろう。彼女の髪は少し脂っこい。


 でも、『アイ』か。あんなクソみたいな女にしてはマシな名前を付けるもんじゃん。母親心とかあったのかな?


「あんたは、『愛』そのものね」


 私の欠けてしまった部分に、それは皮肉なくらいぴったりとハマったのだった。

 


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