4.僕は期限切れのフィルムでどこまでも綺麗な世界を写す

 綺麗な世界の可能性を奪う精密機械ほど、僕とよく似ているものはない。


 レンズを向ける先にはこの部屋の窓から見える外の景色。唯一この部屋に招いたことのある少女はこの窓の風景に対して「最悪」という評価を言い放ったものだ。向かいの民家のせいで遠くは見通せず、その民家との間を通る路地は面白みのかけらもない。


 それでも僕はシャッターを切る。ピントを合わせたりとか、角度を調整したりなんかしない。初めからこだわりなんて意味がないからだ。


 僕はこの行為を三日に一度、決まった時間に行う。大学入学と同時に親戚からもらったポロライドカメラと大量の期限切れフィルム。こだわってとっても、変色や写らない箇所があったりで残念な仕上がりになるそれを、僕は二年間窓からの写真を撮ることで消費し続けている。


 自分でもおかしいことをやっていると思う。でも、他に撮るものがないんだ。でも、撮りたい。最近は撮った写真が現像されなくなったりでいよいよこの行為の意味がなくなってきているんだけど、多分この先も取り続ける。結局は自分主義なんだ。


 本来、ポロライドカメラは撮った瞬間に現像されるものだ。現像されたときはまだ色はなく、数分立つと絵が浮かび上がる。でも、ここ一か月くらい、このカメラはいくらフィルムをセットしていても僕が撮った写真を現像してはくれない。壊れたってわけじゃないんだけど……。


 窓を閉めて、カメラを定位置に戻し、ベットに腰かける。


 世間は夏休み。それは、僕の心に少しの安らぎを与えてくれるものなんだけど、外から聞こえる楽し気な声たちは憂鬱だ。手元とリモコンで付けた冷房がすぐに効いてきて、この世界の狭さを改めて実感してしまう。


 突然、ポラロイドカメラが動き出して一枚の写真を現像した。何気なしに、手に取ってもまだ写真は真っ暗。その写真をテーブルに置いて、僕は二度寝をきめることにした。


 いつも通りの日常。退屈な日々に刺激はいらない。ただただ、緩やかな怠惰があるだけでいい。その条件を満たす最高の行為が睡眠だ。何もかも忘れさせてくれる。


 そんな睡眠をニ十分くらいで、終わらせたのはカメラから現像される本日二枚目の写真だ。薄い意識の中、先程の一枚目の写真に手を伸ばす。その内容ないつもと違ったものだった。


 写っているのはメモのようなもの。変色はしているが、欠けている部分はない。これは、当たりのフィルムだ。メモに書かれている文字も濃くハッキリと浮かび上がっている。


 その書かれていた言葉に僕は固まってしまう。


『私メリーさん。今からあなたの家に行きます』


 背中が汗で濡れていくのを感じる。二枚目の写真をポケットに入れて部屋を見渡す。


 ――とりあえず、片付けないと。




 夏といえばあれやこれやとあるけれど、怪談となれば語れるネタが一つある。とはいえ、それが起きたのは夏が始まる前のことなんだけど。とっても不思議な体験なんだ。


 でもその前に、現実的にもっと恐ろしいことを言わせてもらいたい。僕は今、不登校の引きこもりなんだ。何かしらのトラウマを抱えているわけじゃなくて、ドミノ倒しみたいに一つが崩れてから色んなものがダメになっていった結果。


 そんな僕の居場所は自室しかないわけだ。怪奇が起きたのはその自室。


 僕は趣味というか、ルーティーンというか。とにかく機械のように三日に一度、決まった時間に決まった場所から決まった景色を、ポラロイドカメラで撮っては、現像された写真をアルバムに入れていたんだ。


 異質だと思われるかもしれないけど、それでいい。ほかの人と違うというオリジナル性が欲しいんだと自分で思っている。一種の精神安定剤みたいな。


 まぁ、そんなカメラ趣味にまつわる怪談なわけだけど。ある日、いつも撮ってすぐに現像されるはずの写真が出てこなくなったんだ。


 最初はフィルムがもうダメになったんだと思ったよ。期限切れだったからね。僕の持っている機種は、ほとんどの機能はカメラじゃなくてフィルムにあるんだ。フィルムが正常じゃないと、カメラの電源さえ入らない。


 でも、確認してみるとカメラの電源は入っていたんだ。試しにフィルムを変えて撮ってみたけど現像されなかった。あぁ、遂にカメラの方がダメになったんだなって思ったよ。


 諦めて、カメラを置いて普段の生活を始めるんだけど、精神安定剤を打たなかったせいか、何もする気が起きなくてさ。何をするわけでもなくボーと窓の外を見ていたんだ。


 すると、突然カメラが動き始めて写真を現像し始めた。すぐに駆け付けて、カメラを撫でたよ。動きが鈍くなっただけでまだ使えるんだと思って喜んだんだ。早速写真をポケットに入れて、写るまで待った。


 でも、そこに写っていたのは窓の外の写真じゃなかったんだ。元々写りの悪いものでね。ここじゃない何処かってことしかわからなかった。心霊写真ってわけでもない、それはただ風景をとった写真だった。


 面白いことに、僕は恐れるわけじゃなくて、その写真に心を惹かれていたんだ。期限切れのフィルムでも、撮り方や撮る場所によって作品になれるんだなって。


 ほかにも出てこないかなと適当にシャッターを切ったけど、やっぱり現像はされない。と思うと、少し遅れて何枚か写真が現像される。数分おいて、浮かび上がった写真を見ると、さっきと同じようなここではない何処かの写真。


 怪談ならここでおしまいだ。写真を心霊写真ってことにすれば仲間内ではウケるだろう。でも、怪談じゃなくなったこの話はもう少し続きがある。


 勝手に現像された写真が七枚くらい揃った頃だった。すでに中身が見られるようになった六枚の写真を見比べてみると、花畑をそれぞれ違う角度や位置で撮ったものだと分かった。しかし、七枚目の写真は他の写真とは違ったタイプのものが来た。


『あなたは誰?』


 メモ帳に濃くハッキリとそう書かれた写真。いきなりの人の気配が漂う写真に少しとまどった。写真に心を奪われるばかりで、そこに撮っている誰かがいるということを忘れていたんだ。


 その写真を見て、何かが繋がった感じがした。今僕の撮ったd¥窓からの景色はどこに行ったのだろうか。この風景と言葉はどこから来たのだろうか。


 僕が考えたのは、自分手元にある写真たちはどこかの誰かが撮ったもので、僕が撮った写真はその人のカメラから現像されているんじゃないかというもの。


 この言葉を送ってきた人はいち早くそれに気づいて、交信を図ってきた。そんな、妄想。さすがに確信は持ててなかったけど、試すように僕は自分のメールアドレスを綴った紙を撮ってみた。


 数分たってメールが届いてきたことには流石に動揺したよ。その不思議な現象にというよりも、こうも自分の予想がハマったことがなかったからね。こんな時に当たるって、やっぱり自分はおかしな夢でも見ているんだなって思った。


 でも、夢じゃなかった。


 そのメールの相手は、『メリー』という人物からだった。「これは貴方の写真ですか?」という内容で添付された画像は、色鮮やかに写し出された僕の部屋から撮られた写真だった。


 ここからが異常なんだと思うんだけど、僕とメリーはお互いの考えが一致して、不可思議なことが身に起こっていることを理解したうえでお互いの活動を続けることになった。


 『メリー』は偽名でただの一人旅が趣味の日本人女性だという。彼女も僕と同じで、残すことよりもそのカメラで何かを撮ることに意味を持たせているようだった。取った景色が自分のカメラから現像されなくても活動を辞めたくはないという。


 僕にとってもそれはありがたいものだった。あのカメラで撮るからこそ意味があるのだ。カメラがダメになったからといって、携帯のカメラ機能で撮るのはなんか違う。それならもう撮らないということを選択しただろう。


 そんなこんなで、僕とメリーの奇妙な関係が始まった。とはいっても、写真を撮った後にその報告をいれたり、フィルムがないから現像できないと向こうから連絡がきたりとかそのくらいだ。


 彼女との交流は濁った日々を送る僕にとって少しだけ有意義なものとなった。彼女の写真が来るのは、彼女が旅をしている時のものだ。その写真が自分のカメラから現像されるのを見ると、まるで自分が旅をしているんじゃないかという錯覚に一瞬だけ染まれる。


 残念なのはそれが期限切れのフィルムから浮かび上がってくることだ。本気で新しいフィルムがほしくなったけど、生憎引きこもりには金がない。魅力的な写真をきれいな姿で見たいという望みは今までの僕には無かった欲求だ。


 少しだけ、無くした色を思い出せたように僕は感じていた。




 メリーはメールを見る限りだとかなりお茶目な人物という印象だ。とはいえ、まさかこんな形で連絡を入れてくるとは思っていなかった。普通にメールで言ってくれれば、気づくのが遅れることは無かったというのに。そもそも、いきなり家に来るというのも変だ。


 彼女から送られてきた二枚目の写真は最寄り駅についたことを伝えるものだった。僕の家を完全に分かったうえで向かってきている。


 でもまぁ、僕は部屋の窓からの写真を向こうに送っているわけだから、その気になれば住所を特定できるのかもしれない。


 気になるのは、何を目的としてメリーはここに来ようとしているのかということ。写真を回収するためか。はたまた、この怪奇を面白がっているようだったし、その正体を探ろうとしているのか。 


 そんなこと考え、部屋をある程度片づけた。一息つこうとした瞬間、呼び鈴が鳴る。いつもは甲高い声と共に母親がすぐに向かうのだが、今は仕事に出ている。この時間の来訪者は、無視するのが僕の鉄則なのだが。


 カメラから写真が現像される。期限切れだといっても、フィルムには限りがある。家に着いたことを伝えるなら、メールでも十分なのに。


 ドアの前まで行っても、そこまで緊張はしなかった。どうやら、案外引きこもりの症状は軽症なのかもしれない。自分が思っている以上に自分は弱くはないのでは?


 そんな思い込みの勢いに任せて僕はドアを開ける。少しだけ、防犯意識や顔の知らない相手に出会うということへの危機感を覚えたが、もう遅い。


「こんにちは」


 目が合った瞬間に挨拶をされた。その綺麗に澄んだ瞳に吸い込まれそうな感覚に陥っていた僕は、その挨拶を返せない。それでも、その女性は、優し気な笑顔を見せて軽く一礼をした。


「メリーです。写真はちゃんと届きましたか?」


 夏の日差しの強さか、その女性の笑顔か。僕はただただ目を細めて「どうも」と消え入りそうな言葉を吐いた。




 中学の頃、佐野と言う苗字の女子がいた。


 読書好きで落ち着いた、大きなメガネが特徴的な女子生徒なのに金髪だった。プリンのように、上の方が黒くなっていた時もあったし、完全に染めていた。それでも彼女は「地毛です」と言い続けるような少し変な少女。


 彼女の姉は僕らの二つ上で、校内ではかなり有名な問題児だった。一年の頃に廊下の横を佐野の姉が自転車で過ぎさって、騒動になった事なんかもあったくらいだ。


 そんな人の妹だし、金髪だしで完全に佐野は教師陣や上級生、噂を拾った同級生たちから『危ない奴』認定されていた。さらに、何を考えているかも判らない彼女のことを皆は気味悪がった。


 始まりは、僕が彼女と同じ図書委員になった事からだ。僕らの中学校は、佐野姉のような存在がいるくらいの荒れた学校だった。休み時間の図書室も秩序の欠片もない有様で、読書や勉強に集中できる場所ではなくなっていた。


 目の前で騒ぐ上級生たちを注意したのは姉じゃない方の佐野。彼女はしっかりと図書委員の仕事をやってのことだが、そんな仕事あってない様なものだし、諦めて時間が過ぎるのを待つべきだと考えていた僕には衝撃だった。


 佐野妹のことを恐れていたこともあってだろう。気味の悪い空気を残して、上級生たちは出て行った。図書室にいたのはそのグループだけだったから、その場所は僕と佐野だけの空間になった。


「ありがとう」


 この空気と、少しの罪悪感を紛らわそうと。横の席に戻ってきた彼女に礼を入れる。


「ごめんね」


 帰ってきた言葉はそんなセリフ。彼女は先ほどまで読んでいた本を再び読み始める。言葉の意味を確かめようにも、どうも話かけずらい。結局謎のままその日は終わってしまった。


 その二日後くらいのことだった。学校で、佐野姉が集団で佐野妹を殴る蹴るという事件が起こった。理由は「妹のくせにでしゃばりすぎ」だった。


 佐野姉は妹を嫌っている。妹のバックに姉はいない。それが広まった途端、恐ろしい日々が始まった。


 教師、上級生、同級生。による佐野妹への総攻撃が始まった。


 僕は最初はそれを見ていただけだった。でも、図書室で彼女の隣に委員として座っているだけで、目を付けられることもあった。彼らは、自分のせいで誰かが傷つくという事が、一番効率の良い精神的苦痛であるという事を熟知していたのだ。


 そこで、彼女の謝罪の意味をしれた。彼女はそれがわかっていたのに注意したということだったのか。それとも、注意した後に後悔したのだろうか。


 社交関係を一切行えなくなった今となっては不思議だが、僕はそんな佐野から距離を取らず、逆に近づいて行った。理由は簡単で複雑なものだ。

「初恋」の相手だったから。同じ図書委員になったのもそのためだ。僕は全く本に興味なんて無かった。


 結局、彼女は僕の好意から逃げ続けた。今思えばアプローチが過ぎたなと思う事もした。青い記憶だ。成し遂げられたものと言えば、彼女から一冊の本を紹介してもらえたくらいだ。


 好きな本を語る佐野は今思い出しても美しく、色鮮やかな景色の一枚として記憶の中で輝いている。それと、一度だけ部屋に招いた事もあったか。招いたと言うよりも、家でした彼女を匿った事が一度。


 それが今までの人生のなかで一番輝いていた頃の思い出。ドミノ倒しは、彼女と違う高校に行った後から始まる。それは、もう今まで輝いていた心のフィルムがどんどん薄汚れていくような話だ。思い出したくも無い。




 淡い記憶を引き出したのは、あの頃と同じような気持ちになったからだろう。「初恋」ではない。ただ、目の前にいる女性 『メリー』がその目に写している景色が色鮮やかであると感じたせいだ。僕もあの頃はこんな目をしていたのに、みたいな。


 黒く長い髪はポニーテールにして、肌は健康的に焼けている。背も男性の平均ほどある。目を細めてしまうくらい爛々と人生の豊かさが輝いて見えた。


「驚きましたか? 我ながら、面白いアイディアだったと思うんですよ。夏にぴったりだったでしょ?」


 引きこもりの陰鬱さ漂う部屋の中。彼女は僕の期限切れフィルムで現像された自分の写真を並べ、別世界にいるような笑顔で言ってきた。


「期限切れと言っても、フィルムは有限なんだ。遊びで使ってほしくないな」


「それはごめんなさい。でもまぁ、貴方がたまにとる写真は私のちゃんとしたフィルムから現像されているんです。その分、私の方が損しているわけなんですから」


 そう言ってメリーはバックの中から写真束を出してきた。僕が怪奇現象に見舞われても撮り続けていた窓からの写真。


 それは、確かに僕が今まで撮ってきたものとは違い、ハッキリとした写真だった。でも、思った以上にただの窓から撮った写真。特に感動なんてない。それは、彼女のカメラから出てきたのだけど、やっぱり僕が撮った写真だったからだろう。


「でも、良いですよね。期限切れのでもやっぱり趣があります。何だか、ぼんやりと覚えている昔の記憶みたい。はっきりとしない所がまたいいと言うか、思いでの写真って、本来こんな感じがベストなのかもしれないですね」


 彼女の言葉に少し驚いてしまう。だって、僕が思い描く過去の記憶ってものは、彼女のカメラから出てくるような、色鮮やかな景色なんだから。


「まぁ、自分は残すことが目的じゃないから。いくら趣があっても意味がないんだけどね」


「私もそうなんだけど。うーん、でもこれはもったいない。……なんて、思っちゃいます」


 メリーは、写真を掲げたり、光にあてたり、様々な角度で見ながら光悦とした表情を見せている。そんな表情を見せるということは、色あせていた過去に何らかの思い出があるのだろうか。


 何を思ったのか、僕はそんな彼女に向けてシャッターを切った。彼女の横に置かれたカメラから写真が現像される。完全に現像されるまでの一瞬のうちで僕は軽く後悔をした。一体何をしているんだ。


 メリーは表情を戻したが、僕に対して何を咎めることなく、現像した写真を渡してきてくれた。


「お返しです」といって、彼女も僕を撮影しようとしてくる。


「まって、そっちのカメラだと僕のフィルムで現像される」


「いいんです。私はそっちの方が好きなんです。まぁ、好きになったのは今さっきなんですけどね」


 そういって、メリーは窓の前に僕を立たせて一枚撮った。


 お互いの写真を見比べる。


 僕が撮った写真にはしっかりと彼女の表情が写っている。対して、彼女が撮った写真は酷かった。色褪せが強く、インクが写ってなくひびが入ったような線が数か所あった。右上の角は完全に色がない。これは稀にみる外れフィルム。人が写っていることはわかる。それが僕だということも。でも、他はもうぐちゃぐちゃだった。


 それなのに、僕が撮った写真よりも、彼女の撮ったものの方が心惹かれるのはどうしてだろうか。僕のも悪かったわけじゃない。寧ろ最高傑作だ。でもなんだか、彼女のものは本当に僕という人間の過去も未来も全てを平面世界に押し込めたような。そんな一枚のような気がした。


「これは、最高傑作ですね!」 


 それは彼女も同じ感想のようで、また写真を様々な角度で見ながら悦とした表情を見せてくる。


「私、このカメラで人を撮ったのは初めてなんです。自分すらも撮ったことなかったんですよ」


「そういえば、僕もそうだ」


 確かに、このカメラをもらってから一度も人を映したことがなかった。相手がいないということもあるのだろうけど。僕は、ただただ窓の外を撮り続けるだけだった。


 彼女を撮った写真をポケットの中にしまう。彼女もそうだが、僕も一応最高傑作が撮れたんだ。それなら、このタイミングが一番なんだろう。


「なぁ、このカメラあげるよ」


 目の前にカメラを置かれた彼女は戸惑いの目で僕を写す。


「いいんだ。また写真を回収しにここまで来るのは面倒だろ? 僕よりも君が持つ方がいい。フィルムも全部上げるよ」


「いや、そんな。大丈夫ですよ。別にここまで来るのはそこまで苦じゃないですし」


「本当にまた来る気だったのか」


 そう聞くと、彼女は下を向く。少し間をおく、声音を変えて「だって」と甘えるように話し始める。


「私、ずっと一人だったんです。写真を撮り始めてから」


 自分のカメラを指でなぞりながら、彼女は目を泳がせる。そこまで見て、自分が彼女の一挙手一投足に集中し過ぎていたことに気づく。目線を窓の外に写して、彼女の言葉の続きを待つ。


「色んな事があったんです。それで一杯一杯になって。旅に出ました。ただ、旅をするだけじゃ寂しいので、カメラを買って写真を撮ることを目的として景色のいいところとか、パワースポットを回って写真を撮りました。そして、あるとき気づいたんです。写真を撮っている時、それに集中していると気を紛らわすことができている自分に。それから、私の旅の目的は写真を残すことから、より楽しく写真を撮れる場所を、嫌なことに囚われない瞬間を求めるものになりました。そんなときに、今の異常現象が起こったんです」


 異常現象。彼女の周りに広がる、僕のフィルムから現像された写真に目線が写る。あのフィルムたちが写しているのは本来、この部屋の窓から外を撮ったもののはずだ。それなのに、メリーが旅先で撮った写真が現像されている。


「そして、導かれるようにここに来てしまいました。でも、良かったです。貴方と話して、写真を取り合って。そうしていると、やっぱり嫌なことを忘れられるんです」


「だから、また来るのか?」


「……いや、やっぱりいいです。いま考えれば、迷惑な話でしたね。少し、興奮してしまっていたのかもしれません。最高傑作がとれましたしね」


 僕を写した写真を掲げて軽くたたいて見せた。


「ただ、良ければなんですけど。今度、旅に同行してもらえませんか?」


 確かにその瞬間。僕の心は揺らいだ。


 彼女にカメラを渡そうとしたのは、この生活から抜け出そうという決意。だからといって、カメラがないだけで元の生活に戻れるわけはない。今の生活になったのはカメラのせいじゃないし、寧ろ今この状態を保てているのはカメラのおかげだ。


 結論、彼女は嫌なことから逃げるために僕を利用しようとしているんじゃないのか。そう思うのがなんだかしっくりとくる。というか、それ以外の可能性を極力考えないようにしたかったのかもしれない。それなら、僕も彼女を利用すればいい。


 僕は彼女の誘いに乗ることにした。




「ここからの眺め、最悪だね」


 部屋に入れてから、かれこれ一時間。親に内緒で同級生の女子を部屋に入れるなんて、どうかしているかな。なんて、考え始めていた矢先に彼女が一言を発した。


「私の部屋からは、海が見えるの。結構遠くだから、眺めがいいってわけじゃないんだけどね。でもここよりかはマシ」


「僕は、意外と好きなんだけどなぁ」


「うん、私も」


 一体なんなんだと思いながら彼女の動作を目で追う。


 タオルケットにくるまって、ベッドの上で丸まっていた佐野は立ち上がると、両手の指で額縁を形作り窓の外を捉えた。


「なんか、落ち着く景色」


 指を戻し、傷だらけの肌をなぞりながら佐野はベッドに腰かける。


 彼女に訊きたいこと、話したいことはたくさんあった。こんな夜中に、僕の家の前で泣いていた理由。その色の薄い肌に落書きをするように痛々しく刻まれた傷の数々。そんな深いところじゃなくても、僕は彼女について多くを知りたかった。


「そういえば、本持ってたよね」


「これ?」


 彼女はベットの端の方に置いていた一冊の本を手に取って軽くたたいた。ブックカバーの付いたその本は、何度も読み返したのだろう。今の彼女のように一ページ一ページがボロボロになっている。


「それなんて本なの?」


 一番話しやすそうだったから、その話題を選んだ。彼女と僕の間を繋ぐものといえば、図書委員であることくらいだ。本の話ならしやすい。


 これすらも、答えてくれるかわからなかったけど、彼女は答えてくれた。題名は実は覚えていない。彼女と話せるその瞬間に集中し過ぎていたんだと思う。でも、彼女がそれを語る姿は鮮明に記憶した。あくまで表情を崩さず淡々と語る彼女だったけど、その言葉の一つ一つに綺麗な何かが宿っていた。


 純情きらめくひまわり畑。ネオン街のマスカットワイン。切ない夏の終わり。彼女の語りが上手いのか、その小説にそれほどの魅力があるのか。僕は、見ても知ってもない物事をおぼろげながら想像し、花火が上がってはじけるような幻想に包まれていた。


「私、大人になったら旅に出ようと思うんだ。とにかく遠くへ行きたい」


「じゃあ、僕も一緒に行くよ」


 僕はいつも通り、彼女に対して格好をつける。どこかの物語から引用したようなお粗末なセリフ。子供の僕は彼女の思いを汲み取れず、自己満足の言葉を出してしまう。


 それでも、彼女は微笑んでくれた。何も知らない僕に対して。




 かなり遠くまで来た。今日知ったことなのだが、どうやらメリーは僕と同い年だったようだ。金のない大学生二人が、大した贅沢もせず、最安値ルートでやってきた。


 旅とはこうも疲れるものだったとは、電車の中で何時間も揺られ続けられたこの身体はもうボロボロだ。


「ここから徒歩ニ十分程度です。一応バスもありますよ」


「君が決めてくれ」


 恥ずかしい話。金はすべて彼女が出してくれている。親に彼女のことを話すとややこしいことになる。僕と彼女を繋いだのが怪奇現象だということが本当に厄介だ。


 何も言わずに出て行ってしまったから、いらぬ勘違いをされていないかすこし心配なところ。僕も両親も、お互いまだまだ成長が足りない家庭なんだ。


「じゃあ、徒歩ですね。途中でおいしいうどんの店があるのでいったんそこで昼食も取りましょうか」


 時計を見るとすでに十四時半。でも、時間にルーズな感じが旅っぼくていいのかもしれない。しっかりとした足取りの彼女をふらふらと追いながら、僕らは進み始めた。


 その道は一度も訪れたことがないのに、なんだか懐かしいような気がしていた。車で通ったわけじゃない。テレビで映るような場所でもない。というか、歩き見た風景が記憶の何かと重なる。ふらついた足取りと、おぼろげな記憶にため息を漏らしながら、炎天下の下涼しい風に煽られて歩く。


 雄大に広がる田畑。上空を染め上げる青と白。彼女の背中。そんな、どこか黄色い夏の風景に囲まれながら、僕はあの窓に戻りたくなっていた。


 そんな憂鬱をコシのはいった冷たいうどんと共に流し込んで、十数分。僕らはやっと目的地にたどり着いた。


「一人旅って、気楽でいいんですけどね。たまに大きな欲求に悩まされることがあるんですよ」


 目の前に広がる光景に圧巻されている僕の横で、彼女は静かに語る。少し声が震えている。


「最高の光景を誰かと共有したいっていうやつです。私が見ている光景は本当に綺麗なのか。これくらいの感動をもっていいものなのかって」


 その言葉を聞いて、少しほっとした自分がいる。そして、『あぁ、そういうことか』と思った。知らずのうちに彼女と同じ欲求を抱いていたのだ。


「どこまでも、綺麗だと思う」


 彼女の思いに応えるためにそう呟く。言った後に少しだけ馬鹿っぽいなって気づいて「センス無くてごめん」と笑った。


「いや、大丈夫ですよ。本当にどこまでも綺麗だし」


 真剣な顔で彼女は答えた。そして、両手の指で額縁を作り、その光景を収めた。僕も、それを真似する。


 手前を見れば緑と黄いろ。でも奥を見れば見るほどそれは黄色一色になっていく。地平線まで続くようなひまわり畑がそこにある。どこか子供っぽいその黄色は夏の青空とよく合う。


 ひまわり畑を見ていても、どこかデジャヴを覚える僕だったけど、これは案外早い段階で気づくことができた。


「君が最初に送ってきた写真はここで撮ったもの?」


「そうです。別に子供のころに来たとかいうわけじゃないんですが。ここには多分思い出があるんです。だから、あのフィルムで正解だった。でも、今回は過去の思い出とか関係なく、今を写しに来た」


 彼女がシャッターを切る。するとやっぱり僕の方のカメラから現像される。少したって、中身を確認すると青々とした空の白で爛々と輝くひまわりたちの世界が浮かび上がっていた。これは、期限切れのフィルムじゃない。この日のために、新しいものを買った。というか、買ってもらった。


「あぁ、でもやっぱり違うなぁ。そのカメラ自体古いタイプみたいですし。なんかやっぱり、どこか味のある絵になるみたい」


 それでも彼女は気に入ったようで、少し嬉しそうな表情で写真をしまう。


「んじゃ、ひとまず解散しましょう。お互い最高十枚」




 最初っから撮るのは一枚だけのつもりだ。最高の一枚。僕は一銭も出していないから、あまり撮る気にはなれない。でも、せっかく来たなら取るべきだ。というわけで一枚。


 とはいえ、どの場所、どの角度でもいい絵が取れそうな幻想的世界。センスのない僕は最高のポジションというものが見ただけではわかったりしない。そういうのは何枚も取っているうちに自然と身につくものなのではないのだろうか。


 そんなこんなで歩き回っていたけど、体は流石に限界が来ていた。自動販売機が並ぶ小さな休憩スペースのような場所のベンチにとりあえず座る。


 冷たい飲み物を口に含みながらも、どこかそわそわしてしまうのはメリーから写真が送られてくるのを期待しているからだろう。彼女は一体、どこからどんな写真を撮るのだろうか。


 そんなふうに思いを馳せていたら、送られてきた一枚目。現像されたことの連絡を彼女に入れて、僕はその写真が写るまで待つ。


 現像された写真はやっぱり、僕を魅了する作品だった。でも、そこで気づく。また、デジャヴだ。さっきメリーが撮った写真はそこまでじっくり見ることができなかったから感じなかったんだろう。


 目の前にある写真を見つめる。彼女から遅れてきた最初の写真。それ以外に、何かある。これは、道中に感じたモヤモヤと似ている。ここならテレビで見たとかありそうだけど、違う。


 そして、一人の少女が語った世界を思い出す。


 ――何かが繋がっていくのは一瞬だ。




「案外近くにいたんですね。どうでした? 私の写真は」


 気が付くとベンチの横にメリーが立っていた。僕は何気なしに写真を掲げて彼女に問う


「ここのひまわり畑って。なんかの小説で出てきたりした?」


 唐突な質問とはいえ、そこまで異質なものではないはず。でも、僕の目には少しだけ彼女が固まったように見えた。


「えぇ、ここを描いた小説はありますよ。駅からここに来る道中や、あのうどん屋のことも書いてあったはずです。タイトルは覚えてないんですけど」


 やっぱり、それはあの小説なのだろうか。


「昔のことはあまり覚えていないんですけど。私、その小説が好きだったみたいなんですよね」


「なにその言い方?」


 彼女のまるで他人を語るような口調に少し笑ってしまう。さすがに昔のことといってもそれくらいは覚えているだろうに。僕のように誰かの口から語られたならまだしも、好きな小説なんだから。僕が未だに好きだった人を忘れられないように。そういったものは長い間残っているものなんじゃないか。


 そう思うのが正しいかどうかはわからない。少なくとも僕はそう思った。でも、彼女は違う。


 彼女の顔が少し曇った。その曇った顔に少しの既視感を覚える。


「私、高校二年の夏ごろから前の記憶がないんです」


 メリーは淡々とした口調でそう告げた。何回も大勢の人たちにその説明をしてきたのだろう。同情なんていらない、どうせ覚えていないんだから。と言いたげだ。


「色々あったんですけど、今は忘れたことは忘れたままの方がいい気がするんです。記憶っぽいものはたくさんあります。でも、その全てが、ぼやけているんです。何かを物語った記憶でも、それが何かはわからない。みたいな」


 ――なるほど。そういうことだったのか。


 僕の部屋で、期限切れフィルムに浮かび上がった写真に対して彼女は昔の記憶みたいだと言ったこと。このひまわり畑に来た時に「過去の思い出とか関係なく今を写しに来た」といったこと。彼女が一度ここを訪れたのは記憶が戻るかもしれないと思ったからなのではないのか。


 もうそろそろ、確認してもいいのではないか。可能性を感じながらも聞けずにいた疑問。メリーという女性は、もしかしたら。


 なぜ、彼女はすぐにこの怪奇に気づくことができたのか。なぜ彼女は僕の家に来たのか。彼女の記憶の中におぼろげながらも僕の窓からの景色が残っていたとしたら。彼女は言った「導かれるようにここに来たんです」と。彼女を導いたものは、おぼろげな記憶なのではないか。


「君、もしかして佐野って名前?」


 メリーが一瞬見せた表情を僕はすぐに忘れてしまう。それくらい、その表情は彼女に似合わず、メリーという存在と結びつかないものだった。そして、気づけば彼女の視線は斜め下に注がれていた。


「……いえ、名前は泉麻衣です」


 その物悲し気な表情は見たことがあった。あの、傷だらけの少女が逃げ出してきた夜。僕の自己満足の言葉に対して、あの子が見せてきた表情そのものだ。


「やっぱり、会っていたんですね。記憶を失う前の私と」


「多分。そこまで仲が良かったわけじゃないから、確信はもてないけど」


 そう、すべて仮説にすぎないんだ。名前は違う。でも、中学のあの日。彼女は本だけをもって家出をしていた。もし、高校二年生の頃の彼女も本だけをもって家出をしたら。彼女が望んでいた遠くへ旅に出ていたら。そこで、事故にあって記憶を無くしてしまったら。


 いや、さすがに強引すぎる。


「ありますよ。会ったこと、絶対」


 でも、彼女はきっぱりといった。


「……佐野さんは貴方が好きだったんです。だから、わかります」


 他人のことを語るように泉はそういった。そう、他人。


 しっかりと持っていたはずの写真が手元から流れ落ちた。


 ――そうか、やっぱり僕は期限切れだったんだ。


 勢いよく立ち上がるつもりが、やっぱり力が入らずふらふらになってしまう。でも、決めるしかない。そう、ドミノ倒しの原因はカメラではないのだ。


「写真を撮らせてくれないか。君とここの」


 震えた声に彼女は少し口角を上げて答えてくれた。


 場所は適当に選んだ。できる限り、彼女と空とひまわり以外が写らない場所を。どこで、どのように撮ったってやっぱり僕が撮った写真になるのだから。


 カメラ越しに彼女を見て、綺麗だと思った。ひまわり畑と同様、どこまでも綺麗な世界が彼女を引き立てている。それは、この期限切れのフィルムをもってしても変わらない。


 シャッターを切る。すると、写真は僕のカメラから現像された。今までの怪異が嘘だったかのように。


 僕らは目を合わせた。言葉は発さず写るのを待つ。浮かび上がったのは色鮮やかな青と黄色、そして一人の女性の笑顔。


 その写真を見ていると、乾いた笑いが止まらなくなった。少しだけ無意識の涙が汗とともに頬を伝う。既に一枚、彼女のことは写真に収めたはず。なのに。


 自分が馬鹿馬鹿しく思えて仕方がない。もうどうしようもない思いが絶望する様子が惨めで仕方がない。


 ――佐野じゃないか、どっからどうみても。金髪が黒になろうが、陰鬱さが消し飛ぼうが、眼鏡をかけてなかろうが。ここに写っているのは佐野じゃないか。


 僕という期限切れのフィルムで写していたことで、その顔はぼやけていたんだろう。分からなくなっていたんだろう。でも、たった今、最高傑作を撮った。ぼやけようが、彼女とわかる。僕が好きだった人だと分かる写真。


 僕は失った色を受け入れた。




 あの旅が泉との最後だった。お互い怪異から解放され、僕は彼女のメールアドレスを消した。もう、僕からの連絡手段はない。怪異のせいで彼女は記憶から僕という存在を薄くも掘り起こしていた。近づかない方が彼女のためだし、僕自身のためにもなる。


 窓辺へ向かい、シャッタ―を切る。現像された写真が写るのを確認せずにアルバムの中に押し込む。カメラを置いて、リュックを背負い家を出た。結局大学は退学することになって、今はバイトしながら何となくで生活している。未来がどんなに明るくても、僕には変色して赤っぽく映る。赤の未来は僕を苦しめるけど、綺麗な過去を振り返れば少しは和らぐ。


 僕は期限切れのフィルムでどこまでも綺麗な世界を映していた。これからも、ずっとそうなんだろう。あの頃の色を思い出しながら、変色しきった現実と向かい合う。でも、やっぱり世界は綺麗なんだ。どこまでも、どこまでも。


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