2.僕枷ーボクカセー
ギターを撫でる。鉄線を掻き鳴らしたい欲望を抑え込む。
憂鬱だ。果ての見えない憂鬱の海で僕は浮いている。僕は軽すぎる。この海に潜ることも、沈むことも、溺れることもできない。僕はまだ、進むことができない。
いっそこの海を自分の一部にできたら、自分の力にできたら。
「カナデ」
姉の声だ。僕の名前だ。
横目で見ると開けたままにしていた扉の脇に姉がいた。でも僕は反応を返さない。
「……悩んでいるなら、したい事をやったほうがいいよ。ギターが弾きたいなら行ってくればいいじゃん」
「いい。勉強するよ。僕は姉さんと違って大学に行かなきゃならないから」
「……そう」
姉は悲しそうに目線を下げる。
姉のこんな姿は見たくない。誰よりもそう思っているのは僕なのに。どうしてなんだろうか。いつも強く当たってしまう。現実を受け入れたくない自分と、受け入れるべきだと主張する自分が見事なまでに葛藤劇を繰り広げて滑稽だ。
色んなものに雁字搦めにされている現状。いくら考え込んでもこの思いに素直になることはできない。深く考えることが怖い。
「隙あり!」
僕がギターから離れて机に向かおうとした瞬間。姉は部屋の中に入り込む。そして、僕の、この家の中で唯一僕だけの物である、僕のギターを奪って扉の横に戻った。
「なにしてんだよ!」
「フハハハ! 返して欲しくば、そのだらしない顔を洗い、外出の準備をしてから、外に来い! さらば」
そう言って、姉はギターを持ったまま外に飛び出す。
あぁ、敵わないな。いや、敵うわけがない。僕が兄だったとしてもこんなことはできない。年の差、男女の差、人生経験の差。それだけじゃ納得できないくらいの違いをたまに感じてしまう。
姉は小説家だ。
高校時代、姉が新聞部で勝手に始めた小説コーナー。校内で有名になって、調子に乗った彼女は公募に作品を出し、見事大賞。児童向け小説『猫屋敷同盟シリーズ』を書くことになった。そのおかげで僕は、大学に行くという選択肢を獲得。姉との違いが生み出す小さな劣等感が募りに募って重い。
洗面台に向かい顔を洗う。鏡を見ると、誰でもない自分の顔が映っていた。こんなにも、腑抜けた顔をしていたのか。馬鹿馬鹿しいな。
もう一度顔を洗ってから、上着を着込む。外の寒さにはだいぶ慣れてきたこの頃。しかし対策は怠らない。暑いぐらいが丁度いい。
「行ってきます」
姉は既に外。母は、夕食後に夜勤に出た。誰もいない我が家だからこそ、いつも以上の元気で言ってやった。
「き、来た。遅いよ」
外に出ると姉が僕のギターを大事そうに抱え込んで待っていた。
また一段と寒くなったな。着込んで来て正解だ。
一方姉は、何故か好んで着るいつもの服。驚いた顔をした猫とその後ろに広がる宇宙がプリントされたダサめのTシャツ一枚だ。寒いに決まっている。
「ギターを返して」
姉が抱きしめているギターを強引に奪い返す。ケースの中に入れて原付のカゴに差し込んだ。
「なんで、いつもカゴに入れるの? 背負えばいいじゃん」
「いいだろ別に、何となくだよ」
いつも通りの会話を終えて、僕は原付を走らせた。
高校が近くにあるといっても、ここの駅を利用する人は少ない。なのに何故か作られてしまった、この無駄に広い公園。朝は近くの住人や部活生のランニングスポット。放課後は生徒たちの集いの場。そして日が沈んだ後は、
「今日もいい感じに騒がしいな。こんなに寒いのに……」
老若男女問わず多くの人々が楽器を鳴らしに来る。大道芸の練習をしている人もいる。ここら辺は住宅街なのに、この公園での喧騒は許されているのだ。
いつもの場所は空いていた。別に、こだわりは無い。ケースからギターを取り出し、軽く鳴らしてみる。
うわぁ……。指がめちゃくちゃ痛い。
でも何故かそれが、楽しくて仕方がなかった。今日はいつもより良い仕上がりになりそうだ。
欲望を解放する。凍えていた指は鉄線を掻き鳴らすたびに熱くなっていく。気持ちも、心も、魂も。掻き鳴らすたびに満たされ、熱くなっていく。
背負わされていたものが嘘みたいに軽くなっていく。この瞬間。この瞬間だけだ。僕が一人になれるのは。
本当は、姉が小説家になったみたいに僕もミュージシャンになりたいんだ。でも、知っている。姉がどれだけの苦しみを味わいながら、小説に向き合っているのか。軽々しく姉みたいになんて言えない。だからといってその金で大学に行き無意味に過ごすのも嫌だ。
いや、忘れろ。そんなこと、今は忘れてくれ。その為のギターだろ。懸賞で手に入れた。正しく僕以外の誰の物でも無いこのギター。これを弾いている時だけ、僕は嫌なことを忘れられるはずなんだ。
ウォーミングアップは終わりだ。本気で弾いてやる。
モヤモヤした感情を鉄線に絡ませる。イヤイヤに囚われた脳内は楽譜で覆われる。
――サイコーだ。
「情熱的なギターソロ……」
自分で言ってしまった。
「自分で言うの、それ? それに、最初からギターだけだし」
――止まった。止められてしまった。
「あっ、邪魔しちゃった? まぁ、いつものことだしいいよね」
「あ、あぁ。うん。いいよ、別に」
ギターをケースに戻し、近くのベンチに腰を下ろす。彼女はその隣に座ってくれた。
「今日もいい感じだね。まだ、歌詞はできないの?」
「うん。リズムはいいのが出てくるんだけど」
「そっか」
「フミカはまたネタ探し?」
「うん」
「良いネタは見つかった?」
「ううん」
「そっか」
意味のない会話。わかっている。フミカは僕が来るから、ここに来る。僕はフミカが来るからここに来る。いつのまにか出来ていたそんな関係。二人ともわかっている。
でも、僕は本当にギターを弾きに来ているわけだし、彼女も新聞部として学校周辺のネタ探しでここに来ているのも事実。
「大学は決めた?」
少し苦しい雰囲気だった。だから何か話したかったんだろう。その話は今の僕にとってはタブーなんだけど。
「行くのかも決めてない」
でも、僕はその話に乗ってしまう。
「ダメじゃん」
「まだ、いいだろ。そんなの、三年生になってからで」
「二年の冬なんて、もう三年生みたいなものじゃん」
「やめてよ」
フミカとなら、この話をしても大丈夫だと思った。何かに気付けるかもしれないと思った。でも違った。ただ、重荷になっている何かの重量が増しただけだった。
「ねぇ。もしよかったら、私と同じところを受験してみない?」
「え?」
思わず彼女の顔を見てしまう。彼女もこちらを見ていた。その目は綺麗に輝いて眩しい。思わず顔を背けると、フミカが右手を握ってきた。僕の手と違って彼女の手は冷え切っている。
驚いた。
新聞部で熱意とその文才を買われている彼女は、多少強引なところがある。だけど、それは新聞部での話だ。今は違う。
「私、大学でもっと文章について学んで、私だけの記事が書けるようになりたいの。カナデくんもそこに入れば絶対に良い歌詞が書けるようになると思う。それこそ、有名な歌の作詞をした人が出ていたりして」
「もういいよ」
強めに言った。だって本当に嫌だったから。それでも、彼女の手を振り払うことはできなかった。
「……ごめん」
右手に置かれた彼女の手を左手でゆっくり、剥がす。その手は冷たくて、震えていた。
僕は立ち上がり、ギターケースを背負う。彼女の顔を見ることができない。見ておくべきだと思った。それなのに、一瞬姉の顔がチラつく。結局僕は、何も捨てきれずに抱え込んだものに押しつぶされてしまうのだろうか。僕はその場から逃げ出した。
辺りで奏でられる音たちが僕を急かせる様に怒鳴り立てている。鬱陶しいな。僕の方がうまい。どうせ皆、すぐに飽きるんだろ。簡単で単純でウブな好奇心に囃し立てられて楽器を手に握ったんだろ。どうせすぐにどうでもよくなる……。
「あっ……しまった」
もしかしたら、僕は動揺していたのかもしれない。原付を置いたのとは反対側。学校方面の山側に向かって歩いていた。恥ずかしいな。逆方向に逃げていく僕を見てフミカはどう思ったんだろう。
引き返そうと思った時、ほんの少しの違和感を感じた。それは、些細なもので日常の中ではどうでもいいもの。それでも、僕はそれに声を掛けられた気がした。こっちにおいでって。
それは、整備された公園の敷地内には不釣り合いな獣道。先に灯はなく、真っ暗だ。あんな道はなかったはずだ。
その道は囁いてくる。誘ってくる。手招きしてくる。一体なぜ僕はこんな不気味な光景に心を踊らせているのだろうか?
「……行こう」
足取りは軽い。好奇心というより探究心。求める何かがこの先にあるという謎の確信を持って、僕は進んでいく。
視界は最悪。携帯のライトで一歩先が見える程度だ。でも、今日の月は大きい。目が慣れれば大丈夫だろう。冷たい夜風は草木を揺らす。その音が鼓膜を撫でてくる。
僕を急かしていたあの喧騒はもう聞こえない。僕を殺さんとばかりに締め付けていた悩みの数々は、ギターを弾いていた時と同じように、この冷え切った不思議な空間ではどうでもよく思えてくる。
そして数分後、ついに僕はそこに辿り着いた。
「……こんなところに、トンネル?」
目が慣れてきた今となれば、その全貌を視界に収めることは容易なことだった。しかし、見れば見るほど不思議な光景。
トンネルといっても場所が場所だ。車が通るためのものでは無いはず。昔の流通経路? 戦時中の防空壕? 歴史はありそうだ。
携帯のライトを当てて中を覗き見ると、かなり奥まである。
この胸の高鳴りは恐怖からくるものではない。僕が求めていたのは単純な刺激だったのだ。悩みを抱えて悶々と過ごす毎日に、刺激が欲しかっただけ。
僕はゆっくり、その暗闇の中に溶け込む。
気がつくと、外に出ていた。出口ではない、これは入り口。なぜか入ってきたところに戻っていた。
冷たい風は、冷や汗を更に冷やす。揺れる草木は先程よりも激しい。大きな月は相も変わらず僕を見下ろしている。
いつの間に戻ってきた? 真っ直ぐ進んでいたはずなのに。
もう一度、トンネルに入ろうとして振り向いた。なぜかさっきよりもそのトンネルの暗さが恐ろしい。
……今日はもういいや、明日にしよう。
トンネルを潜ってみる。それだけで僕の探究心は満たされて、消え失せていた。空っぽになった感情にゆっくりと恐怖感が侵食していく。
僕は駆け出していた。この場から離れたくて仕方なかった。僕を急かす広場の喧騒が聞こえてくる。躓いてしまったが、慌てて体勢を立て直した。深呼吸をしてゆっくり歩き出す。
なんとか公園に戻り、原付の方まで足早に向かった。遠回りもできるのに、僕はあえて彼女を置いてきた場所を通る道を選ぶ。まだ、この恐怖は拭えていない。彼女と会うことで、もしかしたら和らぐかもしれない。この際、恥は捨てよう。
「……帰ったか」
ベンチにフミカの姿はなかった。周辺を探してみても居ない。
酷く切ないようで、自分を責めたくて仕方がない。そんな感情が全身を駆け巡って少し痒い。
……帰るか。
連絡がきているかもしれないと携帯の画面をつける。映し出されたそれを見て、僕は完全に固まってしまった。
「圏外……? なんで、ここは普通に繋がるはずなのに」
携帯が壊れた? 意味がわからない。
とりあえず、家に帰ろう。とにかく、知り合いに会いたい。誰かの顔を見たい。この不安を払いのけて、あの悶々とした日々に戻りたい。
聞き慣れた周囲の楽器もいつもと違うものに思えてくる。見えているもの全てが違うものに見えてくる。大きくなっていく不安を抱えながら、原付を停めていたところまで戻ってきた。
「ない……」
なんで……? ここに止めたはずなのに。盗まれた?
「最悪だ……」
携帯は圏外。原付は盗まれた。知り合いは帰った。
詰んだ。完全に詰んでしまった。
あのトンネルのせいだ。あんなところに行っていたから、こんなことになった。あぁ、そうだ。僕のせいなんだ。
背負うものが重くても。先に進めないことに焦っても。いつもの日常は心地が良かった。悩むことは苦のようで楽しむことができていた。刺激が欲しいなんて強欲にも程がある。それなのに、僕は抜け出そうとした。これは、その罰なのかもしれない。その価値を認識させるための。
「歩こう……」
そうだ、原付がなくても帰れる。携帯が無くても話せる。まずは、帰って落ち着こう。反省はそれからだ。この時間なら、母さんが帰る前には家に戻れるだろう。
足取りが重い。背負っているギターの重さがやけに鬱陶しい。なんで僕はこんな重くて大きくて邪魔なものを背負っているんだ?
今すぐ捨ててしまいたい。嫌なんだ、何かを背負うのは。
おかしい。そう確信が持てたのは家の前に着いてからだ。電気がついていない。僕らの家は暗黙の了解みたいなもので、外出時でもリビングの明りをつけたままにするというものがある。でも、真っ暗だ。誰もいないように。
植木鉢の下に鍵はない。姉が家の中にいるのか?
「姉さん……!」
レバーハンドルを握り引いてみる。それは当たり前のように開き僕を招き入れてきた。少しほっとした。そうだよな、おかしいよね。全部僕の妄想。大丈夫。
「ただいま……」
震えた声で中に入る。
「お、おかえりなさい! 早かったね……!」
あっけにとられたのは一体どれくらいの間だっただろうか。僕はその人物を知っている。でも知らない。彼女はこんな醜い姿じゃなかった。
ぼさぼさの髪。ボロボロの服。生気のない怯えたような瞳。やせ細った身体。僕はこの人を知らないけど、この人は紛れもなく僕の姉だった。
「姉さん……?」
「ひっ!」
僕が一歩歩み寄ろうとすると彼女は三歩さがった。猫背をさらに丸めて、全身を震えさせながら上目遣いで僕を見てくる。
やめてほしいな、そんな姿を見せないでほしい。そんな目で見ないで……。
「あ、えっ。ゴホゴホ。だ……誰?」
「え?」
「んっ……グッ。ゴホッ。うちには何もないですよ……。警察は呼ばないので、できれば他をあたってほしい、です……」
「姉さん! どうしたんだよ!」
なんなんだよ。からかっているのか? 今回は本当にタチが悪いよ。
「姉さんじゃないです……私。貴方の。新手の詐欺?」
「からかうなよ! ほんと、タチが悪いよ……。まじで……」
「えっ! ど、どうしたの? 泣いてる、え。私泣かせた? え、なんで?」
「泣いて……ない! こんなんで」
いや、泣いている。本当にかっこ悪い。でも、刺さったんだ。姉さんの態度や発言が。どうしようもないくらい。心をえぐってきたんだ。
「あっ、と……とりあえず。あがる? なんか、話。聞きたいし……」
なぜか、靴を履いたままでいいと言われて彼女の部屋に招き入れられた。
その部屋は、汚いの一言で終わらせるのが一番だ。有様、匂い、そして住人。薄々気づいてきた。本当に彼女は僕の姉じゃないのかもしれない。彼女はまるで僕の知っている姉が反転しているみたいだ。存在の芯というか、意図して変えられるようなところじゃない。そんな何かが。
「……嘘ッ」
僕の免許証を見た彼女が驚きの表情を見せた。
「もしかしたら、本当に私の弟……? でもそんな」
「どうしたの?」
「カナデって……。死んだはず」
「はぁ?」
「ひっ!」
やめて欲しいな、そのリアクションは。なんかいじめているみたいだし。なんか嫌だし。
「どういうこと? 僕が死んでいるはずって」
「えっとね。確かに、私にはカナデって弟がいるはずだったんだよね。でも、産まれる前に死んじゃった……」
「えっ?」
僕は生まれていない? じゃあ、僕はなんなんだよ。ここにいるじゃないか。そう、ここにいる。でも、いたらダメなのかもしれない。この世界じゃ……。
携帯が圏外。原付の紛失。姉の異変。
認めたくないけど、この不思議な現象を納得するための考えがある。
あのトンネルだ。不気味で不思議なあのトンネル。僕はあのトンネルから僕が産まれなかった世界にやってきた。SFチックで、奇々怪々。非現実的で、滑稽な推測。でも、それを証明することは可能だ。
またあのトンネルを潜ればいい。潜った後、携帯が繋がって原付が見つかっていつもの姉が「おかえり」って言ってくれれば……。
「たーだーいーまー!」
「しまった、こんな時間……隠れて!」
「え、ちょっと」
押されるがまま、僕は衣類が散乱するクローゼットの中に入った。でも、クローゼットの扉は穴だらけだ。うまく隠れられているのか? というか、誰だ今の。男の声……?
「捨てネコー! 出迎えはどうした? このクソガキ!」
「ご、ごめんなさい」
ゴッ……。
僕は見てしまった。蹴り飛ばされた。彼女が。相手は大人だ。おっさんだ。靴を履いている。
男は彼女の髪を掴み、持ち上げる。
「誰のおかげで、生きてると思っているんだ捨てネコが! いや、お前はネコ以下だ。何の役にも立たない」
男は更に彼女の腹を殴った。やせ細ったその身体から悲鳴が上がる。鈍く、おぞましい悲鳴が。
「ごめんなさい」
「ちっ」
舌打ちと共に男は部屋の電気を消した。
真っ暗の部屋の中、衣類がすり落ちていく音が僕の鼓膜に焼き付いてくる。一体何が起こっている?
男が彼女を蹴り飛ばす鈍い音がまた聞こえてくる。
「早く、脱げ。無能が」
……今、なんて言った? まさか・・・・・・ヤるのか。ヤるつもりなのか。
最悪の考えが脳を侵し、思わず目線は辺りをさまよい始める。そして、彼女の目と合い。焦り始めていた思いと共に停止する。
大きな月を反射させた彼女のその目は潤んでいた。そして、確かに僕を映していた。
もし、もしもだ。この世界が本当に僕のいない世界だとしたらだ。何をしてもいいんじゃないか。罪を犯してもいいんじゃないか。
「うああああああああああ」
飛び出していた。答えも確信も正義もいらない。鈍器をケースから出して、男に向けて振り上げる。
「誰だおま……」
振り下ろした。
部屋の中に聞いたことのないギターコードが鳴り響く。僕はそこで、ずっと背負っていたものを捨てた。とても大事なものだったはずなのに、後悔は生まれない。寧ろ、清々しい気分に浸っていた。
「ありがとう……」
僕よりも早く彼女が声を出したのは少し驚きだった。
「この人は、お父さん?」
なんとなく、そんな気がしていた。遊び人で、僕が産まれてすぐに家から逃げ出したらしい。子供二人を背負って生きていくことが嫌だったのかも知れないとお母さんは言っていた。
彼女は頷いた。
「私は大丈夫。そこまで大切な人じゃないから」
「そう」
僕にとってもそうだ。写真すらあまり見たことがない。殺す前も殺した今もこの目には赤の他人として映し出されている。この流れる鮮血を僕は本当に受け継いでいるのだろうか。彼女も受け継いでいるのだろうか。
確かめておきたいことがある。もしかしたら、これのために僕はここに来たのかもしれない。だって、顔もよく知らない父親を殺すために来たなんてわけはないだろうから。
「姉さんは……養子だったんだね」
ずっと前から気になっていた。そもそも、僕と姉は似てない。そして何より、さっき聞こえてきた『捨てネコ』という言葉。古く、色もついていない僕の記憶の中に、その言葉は確かに存在していた。
真実を知っても彼女に対しての思いは変わらないだろう。でも、僕自身は今に戻れなくなるかもしれない。決断を飲み込むために僕はここにいる。
「……多分ね。そうだと言われたことはないよ。まぁ、言われなくてもあんな風に呼ばれてあんな扱いを受けていたら、さすがにわかっちゃうけどね」
「そうか……やっぱりそうだったんだね」
背負ったものが一気に軽くなっていく。悩み事に意味はなくなり、壁は壊れ、感情は流れ始める。
いつの間にか、彼女の首に両手を添えていた。それでも、彼女は笑っていた。
「カナデは、私を助けに来てくれたんだね」
その言葉を聞いて自然と力を込め始めてしまう。
「違うよ」
貴方にとって僕の行動は助けなのかもしれない。でも、僕がなぜここに来たのか。答えはもう出ているし、満たされている。
僕は僕のために来たんだ。成長するために来たんだ。歩みを止めた自分に鞭を打っただけだ。それを成し得ても、僕は貴方にこれくらいしかしてやることができない。
結局僕は、彼女に笑っていてほしいだけなんだ。
「僕は、姉さんに『大っ嫌い』を言いに来たんだ」
不気味身だったその道は更に、おぞましい姿になっていた。
等間隔に建てられた【!】マークのひし形標識。何かを訴えかけてくれるそれを通り過ぎながらトンネルを目指す。いや、その先の世界を。
大丈夫。今の自分ならしっかり進むことができる。いつも危ういところに立っていた。重心はぐらついて、いつ取り返しのつかないことになるか怖かった。でも大丈夫。いや、大丈夫だった。重荷があるから。浮ついたこの足を地面につけることができるんだ。
それがやっとわかった。僕は、この枷を自分の一部に出来た。それが自分の価値だったことに気づけた。
トンネルの闇に身を浸していたはず。気が付けば公園の真ん中。あの道はもうない。ただその場所には当たり前のようにさっきの標識が一つだけ立っている。
携帯は携帯は繋がり、原付は見つかった。後は姉が「おかえり」と言ってくれればよかった。でも、それは叶わなかった。
リビングの明りがついている我が家にほっとして、玄関を開けた僕の前に現れたのは、母だった。
「こんな時間まで何してたの!」
こっぴどく怒られてしまった。ギターが盗まれて、探していたということにし、ギターがないことの辻褄も合あわせておいた。
同情してくれたのか、夜も遅いせいか、すぐに僕を開放してくれた。
「ギター残念だったね」
「ううん。もう、いいんだ」
「お姉ちゃんが買ってやろうか? ん?」
「大丈夫。もう必要ないから」
「……何かあった? なんか、カナデ別人みたい」
「何もないよ」
「……たまには、相談とかしてくれたっていいんだよ。私は小説のネタができるし、ウィンウィン!」
「ほんとに何でもないし。大丈夫だから。姉さんは心配しなくてもいいよ」
「うーん。まぁ、それならいいか」
どこか面白くなさげに、それでいてどことなく楽しそうに姉は扉の脇から離れていった。
携帯にフミカから「ごめんね」というメッセージが届いていたけど、どう返せばいいのかよくわからなくてまだ返せていない。
思いなぞれば夢だったようにも感じる。自分の作った嘘の方が信憑性が高い。寧ろ、嘘が事実だったりしないだろうか。でも、それだとかすかに残っている両手の感触が分からない。このままだと本当に嘘になってしまいそうだ。
両手をゆっくりと閉じて力を込める。力を抜くと同時に小さなため息を吐き出す。
姉が言ったように、あの世界で僕は変わってしまった。天邪鬼のいたずらのように反転していた家庭。彼女の笑顔が、まだしっかりと記憶に焼き付いている。伝えた言葉に後悔はない。
この思いも、知ってしまった関係も、あの笑顔も。重い枷となり僕の一部になったから。もう一人で歩いていけるから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます