【短編集】我が世の青

岩咲ゼゼ

1.シュレーディンガーの殺人鬼

【トモくん大変なの! ショウが行方不明になって。お母さんどうしよう……】


 あぁ、なんて最悪な一文だ。不愉快で絶望的で吐き気がする。


 携帯に届いた親からのメッセージはショウ、つまりは俺の兄についての文な訳だ。


 親からの連絡に少し喜びを感じ、母さんは俺を見捨ててなかったんだ! なんて思っていたらやっぱり兄のことじゃないか。


 俺の両親はいつもそうだ。いや、両親だけじゃなくて俺の周りの全てがそう。


 かっこよく、頭脳明晰。礼儀正しく、それでいて周りから期待されている。それが兄だ。


 そんな兄と比べ、至って平凡な俺は人として兄と肩を並べることができなかった。いや、結局あの場所では人ですらなかったのかもしれない。


 思い出したくない過去がある。でもそれは、兄のことを思い出すと必ず蘇る光景。


 俺は唾液と混ざった血の味を知っている。殴られた後の、ただ怯えることしかできない自分を知っている。俺を殴る兄の顔と、その口から溢れる暴言の数々を知っている。


 携帯を置いて、ベッドの上で仰向けになる。


 あぁ、また思い出してしまった。


 兄という存在に縛られて身動き一つとれなかったあの頃の俺。逃げ出して一人暮らしを始めた今でも、それは変わらないのかもしれない。


 つまり、俺は兄が嫌いであり、兄と俺を比べる周りが嫌いだ。そして何より、嫌い嫌いと考え落ち込むだけの何もできない俺自身が嫌いでならない。


 ついでにこの親からのメッセージも嫌いだ。

 行方不明だなんて本当に不愉快だし、吐き気がする。

 母は兄のことになると大げさなのだ。連絡が取れなくなっただけで行方不明だと大騒ぎしたこともある。今回もそれだろう。結局兄は特別扱いなんだ。


 憂鬱な気分を引きずりながらゆっくりと瞼を閉じる。

 寝て起きればきっと忘れているはずだ。




 起床、時刻はすでに九時を回っていた。これだと、一限目には間に合わない。どうやら昨日、携帯のアラームを入れ忘れたようだ。


 携帯に手を伸ばそうと掛け布団から這い出る。すると、妙な肌寒さに襲われた。


「あれ、服は?」


 俺はいつもジャージのズボンと白いTシャツを着て寝ている。それなのに、今はパンツ一枚だ。着ていた気はするんだけどな。


 冷えた体を摩りながら、掴んだ携帯の画面をつける。

 そこには、パンツ一枚で寝ていた謎なんてどうでもよくなるようなことが起きていた。


「兄さんからのメッセージ?」


 手が震えた。


 頭から抜けていたのに、また色々と思い出した。


 連絡なんて今まで一切来たことがない。なんとなく携帯を買ったときに連絡先を交換したけど、使う機会がなかった。何で今?


 内容を確認すると、俺は言葉を失いその文面に思考が止まってしまう。


 直ぐに家を飛び出したくなったが、ひどいデジャヴと脳内からのストップ命令によって、体も固まる。


 そして、空っぽになった脳内にはその文字列だけがしっかりと刻まれていく。


【俺は人を殺してしまった。どうすればいいかわからない。とにかく助けに来て欲しい。場所は……】


 じわじわと活動を再開していく思考の中で、遂にやってしまったかと誰かが呟いた。


 よく見れば、かれこれ七時間くらい前の連絡。


 もう手遅れだろうと思いながらも俺はその文を読み進めてしまう。


「この場所って近くのアパート。なんで兄さんがこんなところに」


 どうせ、授業は遅刻。兄のことを思い出したこともあり、出席する意欲は無くなっている。俺は、兄が指定した場所に向かってみることにした。


 その小綺麗なアパートは出来てまだ新しい。見るからにしっかりとして安心感のある住居だ。そこの105号室が兄から指定された場所になる。


「……ッ⁉」


 ドアの前に立った時だった。


 いきなり手が震えだし、汗が止まらず、呼吸が乱れた。

 一瞬の出来事で理解が追い付かない。


 恐怖というか拒絶というか……。そんな感覚が全身を支配してくる。


 あぁ、帰りたい、帰りたい。


 訳も分からず、ただそう念じ続けている。


「帰りたい……」


 遂には口にも出してしまう。これは異常だ。何も考えずこの場を立ち去るのが一番だろう。


 でも、あの兄が俺に助けを求めてきた。それだけで実は嬉しかったが、逆に怖くもあった。兄の様な強い人が俺を頼る事があっていいのかと。


 覚悟を決めて、震えながらもインターホンを鳴らす。


 ……。


 返事も足音も聞こえない。


 留守なのか?


 もう二回ほど鳴らし最後には声もかけてみたが、中に人がいる気配はない。


「留守か……」


 震えは治まったが、ここを離れたいという思いに変わりはない。一体この中には何があるんだ? 兄がいるのか、死体があるのか。はたまた何もないのか。


 そんなことを考えてしまうが、考えたくないと思う自分もいる。その葛藤劇が行く末は結局関わりたくはないの一つだ。


 返事もないし、一旦大学の方に向かう事にした。一限目は逃したが、次には間に合いそうだ。


 兄に連絡を入れようとしたが、それは止めた。やはり、俺が出る幕はないと思う。なしであって欲しい。


 ……にしても、人殺しか。


 気になることはなぜ殺したかではない。誰を殺したかだ。

 兄は俺以外の誰かに暴力を振るっていたのか。その誰かが今まで俺の変わりを務めてきたというのか。それでいいのだろうか。


 それなら、なぜあの頃俺は暴力を受け入れていたんだ。どうせ、殺すなら……いや、それは。




 授業は、気づくと終わっていた。


 次の授業はあと一時間後。いつもなら学食で昼食をとる時間だが、さすがに今日は何も食べる気にはなれない。


 携帯でもいじって時間を潰そうと、画面をつけると謎の通知が来ていた。……兄からではないようだ。


 少し安心して少しガッカリした。残りの感情はよくわからない。関わりたくないから、返信を送らなかった。でも兄からのメッセージを待っている自分がいる。それは、なぜ?


 ため息が出そうになった。意味もなくこらえてしまう自分が馬鹿馬鹿しい。


 そんなの分かっている。悩む必要もなく、考える意味もない。答えは最初から出ている。ただそれを認めたくないだけ。


 現実逃避になるかは分からないけど、送られてきたメッセージに集中する。


 ユーザーネーム【リン】からのメッセージは【君に聞きたいことがある。食堂の前に来てくれ。私は目立つからすぐにわかるだろう】というものだった。


 学部は違うが同じ大学の生徒のようだ。もちろん、その名に聞き覚えはない。一体何者なんだ?


 とりあえず食堂に向かうことにした。


 リンは思いのほか目立っていた。一度疑ったが、多分男だ。かなりの美形でスタイルもいい。それでいて、彼が身につけているものはすべて女物だった。


 いわゆる女装。この現代社会の中に存在するという認識はあったし、テレビでも最近はよく見る。しかし、それが目の前にいる。驚きと謎の感動で、目線が彼の方に向かってしまう。


「君が、リン?」


「そうだ。メッセージを見て来てくれたんだな。ありがとう」


「……あぁ、わかった。ところで話って?」


「立ち話だとアレだ。食堂の中で話をしようじゃないか。昼飯がまだなら、私が奢ってもいいが?」


「いや、今日は食欲がないから遠慮するよ」


「そうか」


 俺とリンは窓際の席に向かい合って座った。


 しかし、リンの姿には驚かされる。大学にはいろんな人がいると思ってはいたが、こんな人までいるとは。


「聞きたいことは一つだけだ。私の姉のアリサは君の兄と交際していたみたいなんだ」


 また無意味にため息をこらえてしまう。……ここでも兄か。


「そして、そのアリサが行方不明になった」


 ……ここでも行方不明。


「良ければ、君の兄に連絡を入れて欲しい。話を聞きたいんだ」


「ごめん、実は俺の兄も行方不明なんだ。詳しいことはよくわからないけど、昨日の夜に両親から連絡があった」


 兄の殺人のことは黙っておこう。話を聞いている中で勝手ながらも、兄が殺したのはリンの姉ではないかと感じた。多分、リンもそう思うだろう。


「なるほど。アリサが行方不明だと私が気づいたのは今日のことだ。時間的に関係性はありそうだな」


 リンはニヤリと笑うと俺の手を取って握りしめてきた。その手が少し震えていたのは、なぜだろうか。


「少し、私に付き合って貰う。アリサを探すことは君の兄を探すことに繋がるはずだ」


 面倒くさい奴に出会ってしまった。でも、悪い奴ではなさそうだ。兄の事には関わりたくないが、こうなってしまった以上、付き合えるとこまで付き合おうと思う。


「では、今日の授業が終わった後に、アリサが住んでいるアパートに行ってみよう。私の勘違いで帰ってきていたら、君の兄の事についても聞けるかもしれない」


「わかった」


 頷いた直後、携帯に通知が来た。親からのその文面はため息を吐きたくなるものだった。もういっそ、思いっきりため息を吐いてもいいのかもしれない。


「リン。悪いけど、今日は無理そう。兄さんの事について警察が俺のところに来るらしい」


「そうか。なら、私一人で行こう」


 ひと段落ついて、俺はリンから解放された。

 午後の授業内容は全て記憶に残っていない。知識を詰め込み何かが溢れるのを阻止するかのように。




 リンと出会った後だったからか、そこまで衝撃は受けなかった。しかし、やっぱりこれはおかしい。


「僕はフジヤマアツシ、こう見えても警察だ。君がトモ君だね?」


「はい」


 ハキハキと喋るその男は到底年上とは思えない容姿だった。そのサイズがある事に驚いてしまうほど小さな制服に子供っぽい顔と髪型。


 冗談のようにしか思えない。


「失踪事件なんて普段は、こんな直ぐに動くことはないんだけどね。ここだけの話、ウチは平和で手が空いている人が多いんだ。新人育成って言えばいいのかな。というわけで僕が捜査させてもらうことになった。少し不満だろうけど、よろしくね」


 差し出された小さい手を握り、握手を交わした。フジヤマさんがペンと手帳を取り出し、聴取は始まる。

 と、言っても俺はここ最近の兄について全く知らない。


 まだ、よく分かってないからミスター・リンの姉についても言わなかった。


 勿論、兄からの連絡のことも。


 ぶっきらぼうな俺に文句も言わず、フジヤマさんは熱意を持って聴取に取り組んでくれた。


 正義感の感じられる発言に良い印象を持ってしまうが、見た目が子供っぽいせいか、あまり安心感がない。


「このくらいでいいかな。君はお兄さんにあまり良い印象を持ってないみたいだね」


「いえ、別にそんな事はないですよ……」


「そうか、そうか。まぁ、この事は僕に任せて君はキャンパスライフを楽しむといい。それと、もしお兄さんについて何かわかったり連絡が来たりしたらここに電話してくれ」


 フジヤマさんは手帳に番号を書き込み、乱雑にページを引きちぎった。そのページを折って俺に渡してくる。


 連絡が来たりという言葉に少し反応してしまったが、慌ただしく動くフジヤマさんの目には入ってなかったようだ。


 紙を受け取り、開いてみる。数字なのにここまで汚くかけるのは才能に思えた。


 カチッと心地よいボールペンのクリック音と共に素早くフジヤマさんは飛び出していく。その様子が、見た目のせいで落ち着きのない子供のようにしか見えない。


 あの人は絶対に見た目で損をしている。


 その後は特に何もなく一日が終わり、色々あったせいか、すんなりと眠りにつくことができた。




 次の日、俺はリンと共にアリサさんが住むというアパートに行くことになっていた。彼いわく昨日もアリサさんは帰ってなかったという。


「色々調べたが、ここら辺は意外と平和なところで、最近事件は起きてないみたいだ。あっても、下着で走り回る不審者情報や、深夜に若者が大声を出して騒いでいたとかそんなものだ。事件に巻き込まれたとは考えにくいな」


 それは、どうだろうか。


 俺の中では兄のせいでただの家出よりそっちの可能性の方が高い気がしている。たぶんこの道のりからすると、もうすぐそれは確信に変わる。


「ここだな。このアパートだ」


 やはりな。


 脳内でそう呟いた俺の目の前には、兄が指定してきたあのアパートが建っていた。


「私は、よくこの場所に泊まりに来ていた。大学が近いからな。昨日も泊まるはずで一昨日から連絡も取り合っていた。一限目の前に少しだけ様子を見ようと立ち寄ってみたら消えていて、今は連絡も取れない状態だ」


「だから、行方不明?」


「あぁ、でも昨日は結局ここに戻ってきていなかった。やはり君の兄が怪しい」


「そう言われても。まずは、今居るかを確かめてみないことにはなんとも言えないだろ」


「まぁ、そうだな」


 インターホンを鳴らしたがやはり人の気配はない。ドアには鍵がかかっている。


 そして、また来た。昨日のあのいやな感じが。拒絶反応のような帰りたい、関わりたくないという思い。それに支配されていく脳内。


 体は震え、汗が止まらず、呼吸が乱れる。


 なんなんだよこれ。


「大丈夫か?」


 リンが紳士的に背中に手を回してきてくれた。少し落ち着いたが、今の俺は相当惨めに見えるだろう。勘弁して欲しい。


「ありがとう。もう、大丈夫。それにしても、まだ帰ってきてはいないみたいだ」


「やはり、アリサは行方不明という認識であっているようだな」


 俺も、だんだん確信に変わってきた。多分、もうこのアパートの一室の中に兄は居ない。アパートの中にいるのは、アリサさんの死体だ。


 そうなると、今兄は何処にいる?


 逃亡だと考えると納得できるが、何処かつっかえるところがある。


「ん? あれは……」


 アパートの敷地から出てふと横を見るとその人はいた。


 見間違えるはずはない、あんな背の低い警察官はそうそういないだろうから。


「どうした? あれは警察か……子供の様に見えるが」


「そう。フジヤマさんっていって兄さんの捜査をしている人」


「誰かと話しているようだな」


「あの人は知らない」


 フジヤマさんは道端で女性と話をしていた。どこか真剣な顔に、緊迫した空気が感じられる。


「……思い出した。あの女はこのアパートの管理人だ。そういえば、何回か話したこともあったな」


「管理人……それなら、事情を話せば鍵を貸してくれるんじゃないか?」


「そうだな。その手があった。部屋の中に入ればアリサの手がかりが見つかるかもしれない」


 手がかりで済むかどうか。


 しかし、なんでフジヤマさんはここの管理人と話をしているんだ。まさか、兄とアリサさんの関係を掴んでここまでやって来たのだろうか。


「とりあえず、行ってみよう」


「そうだな」


 こちらから近づいていくと、直ぐにフジヤマさんが俺に気づいた。


「おぉ、トモ君じゃないか。どうだい、あの後お兄さんから連絡か何かきてないか?」


「いや、全く」


「そうか……」


 俺とフジヤマさんがそんな話をしている間に、管理人がリンに気づく。


「ア、アリサちゃんの妹さんね……今日はどうしたの?」


 どこかぎこちない管理人と違い、リンは真剣な顔でハッキリとものを言う。というか、リンは妹じゃなく弟なんじゃ……。


「アリサと連絡が取れないんだ。今もいないみたいだし、昨日もいなかった。何か聞いてないか?」


「……」


 管理人は黙って下を向いた。


 そして、一瞬フジヤマさんと目を合わせるのを俺は逃さず見ていた。


「うーん、聞いてないわね」


「そうか、なら。鍵を貸して貰いたい。急に連絡が取れなくなって、少し心配なんだ。もしかしたら、手がかりがあるかも知れない」


 その一言で、管理人が固まった。


 横を見ると、フジヤマさんもどこか表情が固い。


「ご、こめんね。実は私のドジで鍵をなくしてしまったの。今業者さんに頼んでて……ないのよね」


「……そうか、なら仕方がないな」


 納得はできてないみたいだ。それもそうだろう、せっかく掴みかけた希望が直ぐに消えてしまったのだから。


「そういえば、フジヤマさんはなんでここに?」


「あー、えっと。実はそこの管理人さんは、僕の叔母なんだ。たまたま会ってね、少し話をしていたんだよ」


「えぇ、あっくんは昔から正義感が強くてね。久しぶりに見たら、警察官になってるんだもの。立派になったわー」


 そういって、笑顔でフジヤマさんを撫でる管理人。「子供扱いはやめてください」なんてフジヤマさんは言うが、見た目のせいで、子供扱いの方がしっくりくるような気がする。


 とはいっても、今のような和やかな雰囲気ならまだしも、さっきの様などこか緊迫した空気は、久しぶりに会って立ち話を始めたとは思えないものだった。


「まぁ、いい。取り敢えず、姉が戻ってきたら私に連絡を入れる様に言っておいて欲しい」


「えぇ、わかったわ」


 結局フジヤマさんはリンの姉と俺の兄の関係は知らないようだ。でも別に知っていようが知らなかろうが、何かあるわけじゃないはずだ。


 なんで俺はそんなことを気にしてしまっているのだろうか。


「仕方がないな、どうやら私は待つことしかできないらしい。今日はもう帰るとする」


 リンは何処か悲しげな表情でその場をあとにする。俺も続いてフジヤマさんと管理人から離れた。


 その後はただ、何となく過ごしていた気がする。


 兄のせいで何かに縛られている感じだ。いろんなことに手がつけられなくなっている。


 解放されたい。




 かなりの時間寝ていた。体がだるい。


 流石に腹が減ってこれ以上眠る気にはなれない。


 でも、寝ている間はいやなことを忘れられる。それは救いだ。

 寝て起きたら本当に忘れてしまえるんじゃないかと思って、二度寝三度寝と繰り返したが、忘れることはできなかった。


 よく考えれば、俺は無関係じゃないか。親に迷惑をかけるのも兄の勝手、人を殺そうが兄の勝手、アリサさんと付き合うのも兄の勝手。全部俺は関係ないじゃないか。


「違う……」


 唸る様に声が出た。寝言を自分で聞いた様な。もちろん俺は起きている。寝言なわけがない。なら……。


 違う……か。いや、違わない。俺は何もやっていない。


 そんな風に悩みながら、ゴロゴロしているとベッドから転げ落ちてしまった。寝すぎたせいで体が思う様に動かなかったのも原因だろう。


「痛っ……」


 そうなっても俺は、起き上がる気にはならなかった。冷たい床に横になっていると何だか落ち着いた。


「ん、何だあれ?」


 気づいたのはその時だった。一体、いつからそこにあったのだろう。ベットの下に、ペンギンのストラップが付いた何処かの鍵が落ちていた。全く身に覚えのないものだ。


 それを手にとってやっと起き上がる。時計を見ると十三時。そんなものか。


 いつも通り、携帯を手に取る。その動作で、一瞬忘れていた兄のことを思い出してしまった。


 どうしよう、また寝ようかな。


 そんなことを思いながら携帯の画面をつけると、リンから通知が来ていた。


【アリサの居場所がわかった。あの管理人の家の中だ。直ぐに来てくれ。もしかしたら、君の兄も一緒かもしれない】


 兄のメッセージを見た時と同じだ。頭が真っ白になっている。


 考えることを放棄してしまう。じゃあ、なんで、あれは。そういった疑問達が、何もなくなった脳内を走り回っている。


「とにかく行ってみよう」


 脳に、身体に言い聞かせる様に呟いた。


 立ち上がり、顔を洗い、服を着替える。なんとなく、さっき見つけた鍵が気になった。悩んでいる暇はない、その鍵をポッケットに突っ込み、家を出る。


 リンからの連絡は一時間程前のものだったが、彼がこの場所までくる時間を考えると、到着は丁度同じくらいになる。


 アパートの前でリンと合流した。


「アリサさんが見つかったって本当?」


「あぁ、連絡がきたんだ。そう……これだ」


 彼が差し出した携帯の画面には、アリサさんからの連絡が写っていた。絵文字が多く使われていて、しかも自撮り写真付きだ。全く緊張感が感じられない。


 内容は、助けてと書いてはいるが、後半の殆どが軟禁されていたことの愚痴だ。それと携帯を見つけるまでの奮闘の物語。


「まぁ、元気そうだね」


「あぁ、よかった。何か酷いことをされていなければいいが」


「兄さんの事については書いてないみたいだけど」


「……まだ可能性がないわけじゃない」


 同情する様な目でこちらを見てきた彼に少し怒りを覚えてしまう。

 別に兄の安否なんかどうでもいい。これで、やっとこの件から解放されるのだ。


 アリサさんを見つけられたという事は、ミスター・リンと共にここを訪れる事は無くなる。アリサさんが兄の居場所を知っているなら、全てが終わる。


 しかし、疑問に思う事もある。


 兄は一体、誰を殺したんだ?


「では、早速乗り込もう」


 リンは駆け足で、管理人が住む家の敷地内に入っていく。

「アリサを返せ!」


 彼は玄関を開けて叫んだ。後に続いて俺も中に入る。


「やっぱり、アリサちゃんは助けを呼んでいたのね」


 奥の方から、管理人が現れた。


「上がっていいわよ。さぁ、ついてきて」


 意外と冷静な対応に、熱くなっていたリンは呆然としてしまっていた。


「リン。行こう」


「あ、あぁ。そうだな」


 軟禁されたというより、住んでいたという方がいいかもしれない。管理人の家の一室はアリサさんの部屋となっていた。


「あっ、リンちゃん。来てくれたんだ!」


「アリサ! 心配したんだ。急に連絡取れなくなるから」


 何だか、本当に姉と妹に見えて来た。心なしか、リンの表情も柔らかくなっている。リンの方がお姉さんのようだ。でも本当は……いや、今はこれでいいんだろう。


「……ごめんなさいね、アリサちゃん」


「いいんです。私、確かにおかしくなっていたから。あと、家にも戻れないし」


「家に戻れない?」


 リンが首をかしげた。俺の目線は、窓からみえるアパートに移動する。


「そうなの、私の彼氏があそこから出てこないの」


 移動させた目線が、アリサさんの方に勢いよく戻る。


「……その彼氏ってショウのことですか?」


「あれ、ショウくんの事知ってるの?」


「彼は、ショウさんの弟だ」


「えぇー、そうなの! じゃぁ、あなたがトモくんね」


「えっ……あぁ、そうです」


 知っているのか、てことは兄は俺のことを……。


 いや、まずは兄があのアパートの中にいるってことだ。人を殺してしまったという殺人鬼の兄。彼は一体、あの中でどうなっているだろう。生きて死体を隠し続けているのか?


 それとも、もっと違う理由で……。


「そう、貴方はショウくんの弟さんだったのね。少し待って頂戴。こうなってしまったら話さなきゃならないわ。でもあの日の事を話すには、もう一人呼ばなければならない人がいるの」


 管理人さんはそう言って携帯を取り出した。


 あの日のこと? もう一人? 疑問に思うことは多いが、分かったことはある。


 俺はもう、逃げられない。




 その人物が来たのは、それから一時間はかからない頃だった。


「フジヤマさん……?」


「意外と早くバレたみたいだね」


「ごめんなさいねあっくん。おばさんが目を離した隙に、アリサちゃんが隠していた携帯を見つけて助けを呼んだみたいなの」


「だって、暇だったんだもの。そうだ、携帯でも探して暇を潰そうって思って、見つけたから嬉しくなっちゃって。それでつい、リンちゃんに送っちゃった」


「えっ、でも助けてって」


「暇だったから、早くきて欲しかったの」


 この人は本当に兄と付き合っているのだろうか? なんだか、意外だ。


「とりあえず、まずはショウについて話そう。ショウは今、あそこのアパートの一室に立て籠っているんだ。その理由はよくわからない」


 ……これまでのことがイマイチ整理できない。


 兄が殺したと思っていたアリサさんは、ここで軟禁されていて。兄はあのアパートに立てこもっていて。どうやら、フジヤマさんは兄と知り合いらしくて。兄があそこに立てこもっている理由は分からない。


 全てが繋がっているのだろうけど、まとまらない。


 それをまとめるために、管理人はフジヤマさんを呼んだのだろう。


 俺は、フジヤマさんが語るのを待った。


「じゃあ、話すよ。あの日、あのアパートの一室で起こった事を」




【フジヤマ、夜遅くにすまない。ちょっと来てくれないか? 話したいことがあるんだ】


 その文章を見た時、僕は酷く怯えていた。


 ショウとは大学で出会って直ぐに打ち解けた。こんな見た目なのに正義感が無駄に強く、周りからよく引かれていた僕だったがショウは気にしなかった。そんな人は身内以外で初めてだった。


 でも、僕にそう言った悪い点があるようにショウにも悪いところがあった。


 彼は、たまに酷くイライラしている時があった。そんなときに近くにいると殴られ、蹴られた。手加減はなしだ。


 でも、彼の機嫌がいいときは、本当に友達として大学生活を過ごせていたんだ。


 大学を卒業して、警察官になった時にようやく気づくことができた。僕は、ショウに依存していたということに。


 だから、メッセージが送られてきたときは酷く怯えた。


 怯えながら行ってみると、そこは女性の部屋だった。その女性のことは知っている。ショウの部活の後輩で、たまに一緒に遊ぶこともあったアリサちゃんだ。


 僕が、床に座るとショウは真剣な顔で言ってきた。


「フジヤマ、本当にすまなかった」


 始めは何のことか分からなかった。そうか、こんな夜中に呼び出した事を謝っているんだ。


 そう思うことにした。


 しかし、彼は深々と頭を下げだした。


「俺は、アリサと付き合ってやっと気づいたんだ。俺がやってきた愚かなことを。フジヤマ、悪かった。俺はお前を傷つけすぎた。本当にすまない……」


 何かの冗談かと思った。思わずにはいられなかった。まさか、ここまでくるとは思ってなかったんだ。自分の大学時代の全てを否定されたような……そんな気分。


 僕は動いた。始めは、彼の頭を上げさせようとしたんだと思う。彼は、抵抗したのかな? あまりその後のことは覚えてない。


 気がついたら、僕はショウを殴り飛ばして何回も蹴りつけていた。彼は血を流して、痣もそこかしこにできていた。


 僕が気がついたのは、アリサちゃんの悲鳴のおかげだった。でも、混乱してしまった彼女は部屋から飛び出した。


 それを追いかけて僕も外に出る。


 外で彼女を捕まえたが、彼女は、抵抗して叫び声をあげ続けた。

 暫くしたら、人が何人か集まってきた。その中には、アパートの管理人をやっていた叔母さんもいた。


 事情を話し、アリサちゃんを預け僕はショウの元に戻った。


 多分三十分くらいはかかったかな。怪我が酷くなっていたら最悪救急車を呼ぶことも考えていた。でも、ショウはアパートの鍵を閉めて立てこもってしまっていたんだ。


 何度も呼んだけど出てこないまま。




「僕がなぜ暴力をしたかはこれ以上具体的には言えない。言葉にできないんだ。ただ……ごめん」


「いや、俺に言われても……」


「そうだよね」


 そうか……フジヤマさんも兄から暴力を……。


「まぁ、後はあそこからショウが出てきて、僕と彼とアリサちゃんで話し合いをするだけだ。心配はいらない、あの時は急だったからね。次は冷静にやるよ」


 本当にこれで終わりなんだろうか?


 違う、違うはずだ。


 なぜかそんな気がしてならない。フジヤマさんが話していた時に思った。自分が謝られたらどうなっていただろうか? そんなことは一度もなかったはずなのに、その様子が鮮明に思い浮かんでくるのはどうしてだろうか?


 とにかく落ちつかなかった。手が遊べるものを探してポケットに入った。丁度いい硬さのものを握り、それを取り出す。


 今朝見つけた謎の鍵……。


 ペンギンのストラップを見つめながら、手でもてあそぶ。


「あっ、それ」


 横を見ると、アリサさんがこの鍵を指さしていた。


「それ……私の鍵。だって……ペンギンのストラップ……えっ、なんで」


 その言葉に、全員の視線が俺に集まる。


 ……なんか、やだな。


 まるで俺が悪いみたいじゃないか。俺は関係ないのに。全ては兄が悪いじゃないか。なのに、なんで……。


「その鍵はどこで?」


「俺の部屋からです。全く身に覚えがないし、どこの鍵なのかもわからないけど……」


 視線を落として鍵を見ると、手が震えていた。


「一応、確認のために開けてみよう」


 誰が言ったんだろう。耳には届いたのに、脳が言葉を飲み込んでくれない。


 ほんと、やだなぁ。




「私が代わってもいいが……」


「いや、大丈夫」


 心配そうにリンが俺の方を見ている。

 本心を言えば代わってほしい。尋常じゃないくらいの震え、汗、呼吸の乱れ。


 それも、鍵穴に鍵が刺さった瞬間に治まっていく。


「刺さった……」


 そして、ゆっくりと回していく。


 ――ガチャッ。


 開いた。開いてしまった。思い出してしまった。


 あぁ、そうだった。全て思い出した。忘れていたんだ。思い出したくなかったんだ。どんなに苦しくても痛くても、それで良かったんだ。それなのに……。


 俺は、扉を開けて靴を脱ぐと走り出した。後に続いて他の人達も入ってくる。皆はその光景を見てどう思うだろう。


 部屋の中には誰一人として入ってくることはなかった。全員その光景を見て停止している。


 誰かが口に出す前に俺は言葉を発する。


「俺です。俺が兄さんを殺しました」


 時間が止まっているように感じた。


 どうやって、忘れることができたんだろう。忘れ方が思い出せない。

 また、何もかもを忘れたい。でも、そうしたら、また兄のメッセージを見て色々と手がつけられなくなって。


 もう、いいや。




 通知の音で目が覚めた。薄い意識の中で携帯に手を伸ばしたのは、通知を確認するためじゃなくて、アラームをセットし忘れていたことを思い出したからだ。


 でも、自然と目に入ったその通知を見て俺は家を飛び出した。


 あのアパートは、学校に行く途中にあったし出来たばっかりだったから印象深かったのもある。携帯を家に置いてきたが、その場所までは迷うことはなかった。


 アパートに着くと、外で誰かが騒いでいた。絡まれたくなかったし、兄のこともある。無視して、兄が指定してきた部屋に入る。


 そこには、傷ついた兄が横たわっていた。


「人を殺したんじゃなかったのかよ。自分が殺されそうになってんじゃん」


 俺の声を聴いて兄が顔を上げる。久しぶりに見たその顔はどこか優しげだった。


「あぁ、お前か。あれは嘘だ。俺はお前のことなんもわかってなかったからな。どうやったら来るか迷ったんだ。それにしても本当に来るか、あれを読んで」


「……たまたまだよ。それじゃあ、行方不明だったのは?」


「行方不明? あぁ、母さんか。ほんと大げさな人だ。ちょっとした旅行に行ってただけなのにな」


「だと思った」


 なんだろう、今頃になってこんな普通に話ができるなんて。

 フッと兄は少し笑った。


 口が切れている。誰かから殴られたんだろう。無理に笑わなくてもいいのに。


「ごめんな。トモ」


「いや、別にいいよ。誰も殺してないんでしょ」


「そうじゃねーよ。昔のことだ。俺は、大学に行っても変われなかった。その仕打ちがこれだ。でも、今は違う。やっとわかったんだ。お前にしてきたことがどれだけのことなのかを」


「やめてよ、急に」


 何かが崩れ始める。ダメだ、それ以上先を言わないで欲しい。


「ごめんな、トモ。できれば、俺を――」


 あ……あぁ。


「――許してくれ」


 バカだと思われるかもしれない。いや、バカだったんだ。俺は兄と違ってバカなんだ。


 俺は、許してくれを殺してくれと捉えた。だってそうだろ? こいつは俺の人生を、俺の全てを奪ってきたんだ。


 許してくれってそういうことなんだろ。


 殺すのは簡単だった。ただ、激情に身を任せて台所から取り出した包丁で刺すだけだ。何度も何度も。


 ――急に冷静になった。


 目の前の光景が見えない。写ってるはずなのに受け入れられない。


 怖くなった。


 血で染まった服を脱ぎ捨て、ズボンも脱いだ。

 机に置いてあったペンギンのストラップが付いた鍵を握って外に飛び出す。


 鍵を閉めて、パンツ一枚で夜の街を走りだした。涙なんか流さない。多分無表情だったと思う。


 だって、それは夢だったんだから。兄が俺に連絡を送ってくるなんてあるわけないし、兄が血だらけで倒れているわけもない。ましてや、兄が俺に謝るなんてあるはずがない。


 ほら、全部夢じゃないか。朝起きれば全てを忘れることができる。


 俺は、俺は深い眠りに就いた。




 あの時見えなかったものが今は見える。


 あぁ、死体だ。グチャグチャだ。これだと、誰なのか分らない。

 一体どんな顔をして、死んだんだろう。


 兄の顔を思い出そうとした。なぜか、あんな兄だったはずなのに、思い出せる顔は笑顔でまだ無邪気に二人で遊んでいた頃の顔ばかりだった。


 もう一度あの顔が見たかった。見れたはずなのに。


 ――もう、見れない。


 ふと、顔を上げるとリンとアリサさんが目に映った。


 彼氏の死体を見て言葉を失っているアリサさんの肩をリンは優しく抱いている。


 あぁ、あれも少しズレてしまった血縁関係なんだろう。でも、羨ましいな。なんで、俺はああなれなかったんだろう。


 後悔できた。俺は今後悔していた。崩れ落ちて、涙を流していた。兄に謝ろうなんて思わない、許してほしいなんて思わない。ただ、泣かせて欲しい。


 やっと、泣くことができたから。ずっと我慢してきたから。




 あの後から考えるようになった。俺はなぜ謝られただけで兄を殺したのだろうかと。理由はあった。でもその理由だっておかしなものだ。


 俺を縛り、苦しめ続けていたあの思いは、今は思い出すことすらできない。確かにあったはずなのに。


 あの時は殺すのが当たり前のような気がしていたけど、それはなぜなのか。


 過去の記憶という密室の中で殺人鬼は眠り続ける。その感情がまだ生き続けているかはもう俺にも分らない。


 それでも、できる限り生きていこうとは思う。自分にはその義務ができてしまったから。

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