初めての貝谷――二
弁護士事務所では会社についてと離婚について簡単に話すと、あとは後日という事で早く終わった。
「では数日以内にご連絡いたします。シェルター内でも通常のスマホが使えますのでご安心ください」
「よろしくお願いします」
混んでいなかったので一時間ほどで外に出る。
女の子はまだ座っていた。
「帰らなかったのか?」
「まだ何も食べさせてもらってないのに帰れないわ」
女の子は一つくしゃみをした。
「僕はシェルターの中は詳しくないから、好きなレストランに案内してくれ」
「分かったわ」
換金してみたらどこの国の通貨でも同じで十倍になるらしく、思わぬ大金になった。
もちろん外に出る時はその逆なのだけれど。足りなくなれば日雇いや週払いの仕事もあるらしいから見知らぬ女の子にご馳走して困る事はない。
食穴(通訳機はしょくけつと訳した)のエレベーターで十七階まで降り、そこから夜の路地裏、屋台通りのような所を素通りして階段をカクカクと曲がりながら三つ降りる。
「ねぇ、レストランはまだかな? ちょっと不信感が凄いよ」
「大丈夫よ。シェルターは縦穴の町がたくさんあるみたいになっているでしょ? だから階段でしか行けない場所もあるのよ。それに私はシェルター孤児院にいるから悪い事はしないわ。そんな事をしたら外に出されちゃうもの」
女の子は決して振り返らないままで言う。朱色の光に照らされた行燈の前まで来ると、女の子は「ここ!」と元気よく僕を見た。
「ここって日本食の店じゃないか」
「そうよ。日本は良いわよ。あなた知らないでしょう? 私が教えてあげる。みたらし団子でしょ? あんみつでしょ? 羊羹に大福!」
つい、お土産にイチゴ大福を買ってあげようと思ってしまった。
中に座って僕はぜんざいを、女の子は団子の盛り合わせを食べながら話をした。名前も聞けた。ドールだ。ドールは母方の家族とオーロラの見える国に住んでいたと言う。
「ママはね、私をお人形だと思っていたのよ。頭を撫でてくれるけど口では隣のおばさんたちの愚痴。ママは口を汚しながら美味しいわねって言うのよ。でも私の前には水だけ。私はお爺ちゃんや隣のおばさんにご飯をもらいに行ったわ」
「じゃあ、ママから逃げてシェルターに来たの?」
「そうよ。でも受付の分からず屋が、それは思想の問題ではないって言うから言い負かしてやったわ。あのね、こういったの。おばさんたちが必死に訴えても、子供一人さえ助けてくれない国なんて好きになれると思う? 私はあの国に怒っているの。これは私の思想でしょ? って」
「逞しいね」
「ありがとう」
子供の側からの話を聞いたのは初めてで、返答に詰まってしまう。
そもそも子供が辛い思いをさせられているのに、子供の言葉を聞くのが初めてなのは何故か? 聞いていないからだろう。自分を含め、大人たちがあまりに情けない。
「なにか飲み物は?」
「日本にはカラフルな飲み物があるんでしょ? あれがいいわ」
少し時間はかかったが、ソーダ水の事を言っているのだと分かって店の人と笑った。
ソーダ水にはチェリーの他にイチゴが乗っていた。
「僕はね、奥さんと別れて国から逃げて来たんだ。情けないだろう?」
「別にいいじゃない。逃げられる時に逃げないと後悔するわよ。で? 今ひとりなの?」
「そうだよ。もう家族はいない。ドールは、その……」
「私にも家族はいないわ」
ドールがグラスを握りしめる。
「半年たったら一度、外に出なきゃいけないだろう? ドールはあとどれくらい?」
「先月ちょっとだけ日本にいたわ。でも十二の子供が一人で暮らすには大変な国ね」
ドールはお会計を済ませた僕にしっかりと頭を下げた。
そして孤児院にドールを送り、そこの先生と少し話をして別れる。
受付嬢の、新しい人生が開けるという言葉が渦巻いていた。そこにあの思井根シエルという男性が現れ、思わず声を掛けてしまう。
「あの!」
「はい。何か御用でしょうか?」
「あ、いえ……列車で一緒だったので思わず声を掛けてしまいました。すみません」
「いいじゃないですか。出会いは縁ですからね。一期一会。この機会を逃したら二度と繋がれないかもしれない」
それならと酒に誘ったのだけれど、彼は酒より博物館だと言って僕の手を引く。その時、ピシっとしていた彼のスーツがよれて白い毛が疎らに付いているのが気になった。
それにしても陽が暮れない。昇る事もない。
何はともあれ、明日はドールに色んな穴を案内させよう。
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