思想シェルター
小林秀観
初めての貝谷
思想シェルターは全ての人間の思想を守る地下シェルターだ。
全ての国に出入り口があり、入った者は地下列車に乗って総合受付へ行く。
列車の中では通訳機が配られた。僕が選んだのはイヤホン型で、他にネックレス型やブローチ型などがあった。
イヤホンを付けるとバラバラだった音が言葉となって耳に届き出す。
一婦多夫制の有効性を説くおばさんらの話が僕の耳のほとんどを支配しているが、目だけは向かいに座るスーツの男性に向かっている。その男性は車窓の茶色を背景にピシっと背筋を伸ばし、鞄を足元に入れ込んでいる。
そして、おそらくこちらも茶色であろう僕の頭の裏の景色を凝視している。
きっと仕事に行く途中で衝動的にシェルターへ飛び込んだのだろう。会社は実に効率よく思想を無に書き変えるから仕方がない。何となくだけれど、この男性は僕と同じ日本人かもしれない。
『まもなく総合受付。総合受付。思想難民の皆様は手続きを行ってください』
案外と早く着いた。ドタドタと我先に降りる人たちをやり過ごしてから立ち上がると、あの男性も同時に立ち上がる。
「どうぞ」
僕は言うけれど通訳機は通訳をしない。
「どうも」
こちらも機械ではない、生身の声が返ってきた。
しかし他国から乗った列車で母国の人間に会えるなんて驚きだ。会話をしたい思いを押さえて降り、受付の列に並ぶ。
並ぶ人たちは一様に疲れ切った顔をしている。まぁ、喚き散らしている女性もいるが多くはない。そんな狂声まで機械は誠実に訳してくれる。
「次の方どうぞぉ」
先ほどの男性が呼ばれる。
「思井根シエルです。二十九歳です。国と思想のズレが激しくて来ました。仕事先には伝え、辞めて来ましたので問題ありません」
「はぁい。今回は戻って来るの早くないですか? 案内とか説明はいりませんよね。じゃあ左手だして下さぁい。はぁい、おっけーでぇす」
そんな会話をしてあの男性はスッと背筋を伸ばし、仕事にでも行く雰囲気で歩き出した。
「次の方どうぞぉ」
僕が呼ばれ、慌てて受付嬢の前に立つ。
「あ、はい。えっと……初めてです。二十六歳、貝谷そうしと申します」
「はぁい。シェルターに来た理由はなんですかぁ?」
「あの国の全てが恐ろしくて。国も会社もニュースも僕を洗脳しようとするんです。出来ないなら牢か追放だって。何より僕の彼女ですよ。日本にいた時はちょっとワガママな可愛い女の子だったのに、結婚して彼女の母国で暮らし始めた途端に日本の悪口を言い始めて、僕なんか罵声を浴びせられて奴隷扱いですよ。酷いでしょ? それで裁判したんですけど、裁判官は僕が悪いって言うんです! もうあんな国には一秒だって居られませんよ」
「分かりましたぁ。じゃあ離婚の手続きと、お子さんはいますか?」
「いません」
「仕事先には何か言ってきましたか?」
「何も言ってないんです。不味かったですか? 不味いですよね? 戻って退職しないといけませんよね。分かってるんですけど、つい飛び込んじゃったんです」
「いいですよぉ。思想難民はシェルターから会社に通知を送れますから。送りますかぁ?」
「お願いします!」
「次に行きたい国の希望とかありますかぁ?」
「あの国じゃなければ何処でもいいです」
「分かりましたぁ。じゃあ思想難民証明印を押すので左手の甲を出してくださぁい。この印は十四日で消えますから、その間に相談窓口へ行くかシェルターを出て下さいねぇ。印が消えるとシェルター内の施設の利用が即時できなくなりますのでお気を付けくださぁい。シェルター内では専用の通貨しか使えないです。向こうに換金所がありますのでご利用くださぁい。手続き関係はシェルターの中から出来ます。弁護士事務所のリストを渡しておきますねぇ。あとどこを歩いてもらってもいいんですけどぉ、鍾乳洞とか地底川に繋がってたりするんで気を付けて下さぁい。急に地上に出られる穴が開いてたりすると、ほぼ密林なんで出ないようにお願いしますねぇ。変な病気が広まったらシェルター壊滅なんで」
紫の目をした受付の女性はその口調に反して、漏らすことなく説明をしてくれる。
「あ、それからぁ」
「はい?」
受付嬢が僕を手招きして小声で言う。
「そんな女と縁が切れて良かったじゃないですかぁ。新しい人生が開ける時には必ず古い人生が終わるんですよぉ」
思わず口説きそうになったが、どうにか黙って頭を下げて歩き出す。僕は衝動、欲望、本能に打ち勝ったのだ。新たな人生の一歩を踏み出した。
「おじさん」
そんな僕の目の前に目も髪も全てが金色の、小学生くらいの子供が立っていた。
「へぇ、子供も来てるんだね。どうしたの? 迷子かな?」
「違う。私は一人でシェルターに来たの。可哀想でしょ? なんか食べさせて」
「はっきり物を言う女の子だなぁ」
僕は今朝までいた国の人々の事を思い出した。駄目だ。いくら子供でもここで甘い顔をしたら付け狙われる。もしかしたら親もいるかもしれないのだから。
「はっきり言うよ。だってここは思想シェルターだもの。言いたい事は我慢しないの」
「なるほど。そういう事なら僕も言わせてもらおうかな。集られても困るよ」
「大丈夫よ。高い物は食べないわ。シェルター孤児院ではおやつが出ないから食べさせて欲しいだけなの。お願い。私、ここに来て長いから案内でも何でもするから」
変な子供に目を付けられたものだと思いながらも了承してしまった。これは国民性だから仕方がない。
そして「手続きをするから待っていて。帰ってしまってもいいけど」と伝えて換金を終え、弁護士事務所に入る。女の子は玄関の植木の淵に座った。
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