第6話 少女の名前は、劉備玄徳

 聞き間違いだろうか。いや、明らかに目の前の少女は「劉備玄徳」と名乗った。

 衝撃のあまり、言葉を発せなくなった俺を見て、少女はまた顔を曇らせていく。


「あの……大丈夫でしょうか。なにかご機嫌を損ねることをしてしまいましたか」


「あ、いやいや。知り合いの名前に似ていまして。気にしないでください。俺は……関羽といいます。関羽雲長です」


 気が動転して、つい元の名前ではなく関羽の名前で名乗ってしまった。今さら言い直しても変な空気になることは明白なので、このままでいこうと心の中で決意する。とりあえずはこの世界に順応しなければ。


「関羽殿ですね。改めて助けていただき、ありがとうございました」


 整った顔立ちに微笑みを浮かべ、少女は腰を折りつつ再度礼を告げた。美少女の笑顔は、破壊力抜群だ。ボーっと見惚れそうになったが、慌てて思考を進める。呆けている場合ではない。


 目の前の少女が「劉備玄徳」だと? 男ではなく、女? まさかと思ったが、わざわざここでそんなピンポイントな偽名を使う必要もないだろう。俺は、脳内の三国志の知識を総動員して、彼女に向かって疑問を投げかける。


「劉備……殿は、もしや家の近くに大きな桑の木がありますか? そして、お母様と二人暮らし……だったり?」


 どちらも小説や漫画で知った知識だ。ちなみにこの桑の木があることで、劉備の住む村は「楼桑村ろうそうそん」と呼ばれていたらしい。


「はい、どちらもその通りです。なぜそれを?」


「えーっと……そうそう! この近くに来た時に、村人に聞きまして」


 慌てて俺は適当な理由をでっちあげる。一応は納得したものの、まだ疑わしげな顔をしている少女。

 さて、どうしたものか。おそらくこの少女は、あの劉備である可能性が高い。劉備玄徳という名前が古代中国でどれだけ同姓同名がいるかは不明だが、今の疑問への回答、そして「俺自身が関羽である」ことからそう結論づける。関羽であれば、運命的な何かで劉備と会うこともあるだろう。その時、あの女神が最後に言い残した台詞が脳内に蘇る。


 ーー「あーー!! 大事なこと忘れていた!! この世界の武将は、お」


 あの最後の言葉は「女」だったのではないだろうか。あの女神、本当に大事なことを言い忘れていたな。改めてヘイトが高まる。

 というか、そうなると、あの張飛ちょうひ曹操そうそうなども女になっているのか? ダメだ、あまりの事態に頭がパンクしそうだ。


 改めてひとりで冷静に考える時間が欲しい。そう考え、いまだに疑わしい表情をしていながら少し可愛らしく首を傾げている少女、もとい劉備に一度別れを伝えようと思った時だった。


「ぐぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 俺の腹から壮大な音が鳴った。

 思うとこの3日間、木の実や水しか腹に入れていなかったので、空腹も限界だったのだろう。それが今の男たちとのやりとりが終わり、緊張の糸が切れたようだ。少し頭もフラフラする。


「ぷっ……あははははははははは」


 その腹の音がおかしかったのか、突然、劉備が顔を崩して笑い出した。ああ、笑顔もとてつもなくかわいい。だが、恥ずかしさで物理的に加えて精神的にも死にそうだ。

 そんな俺の様子を見て、劉備は笑いを止め、慌てた顔でこちらに両手を差し出して振りながら否定する。


「失礼しました! このご時世、空腹なのは多々あることなのに、笑ってしまうなど……」


 とても礼儀正しい子のようだ。まぁ微妙な空気のなか、突然間抜けな音が聞こえてしまったら笑ってしまうのもしょうがない。


「いえいえ、こちらこそ申し訳ない。ワケあって、手持ちもなくて……」


 正直、どう言葉を切り出そうかも迷っていたので、会話が始まって助かった。


「そうなのですね。あ、では私の家に寄りませんか? 簡素なものになりますが、食事をご用意しますので」


「いやいや! それはさすがに申し訳ない」


 とてもありがたい申し出ではあったが、いきなり家というのも何を話していいかわからない。なにしろ、俺はこの世界のことを未来を含めて知っているのだ。今はひとりで現状把握、そして今後のことを考えたかったので、俺は拒否の意を示した。


「いえ! 助けてもらった身として、お礼もしないなど劉家の娘として出来ません!」


 どうやら礼儀正しさに加えて、頑固さもそれなりにあるようだ。その後、「さすがに」「ダメです!」の押し問答が何回かあった結果、俺が折れた。



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 森を出て、とりとめのない会話をしつつ劉備の家へふたりで向かう。

 とりあえず俺は、自分が違う世界ではあるが未来から来たことは隠そうと心の中で決めた。正直なところ、どう説明していいかわからないし、そんなことを言ったら不審に思われることは間違いない。すでに怪しさは満載だが、服装(ジャージ)のことなどは生まれた土地特有の民族衣装だということでどうにか納得してもらった。劉備は素直な性格でもあったので、とりあえずセーフなご様子。


 これ以上、自分のことを喋ると、どんどんボロが出そうなので、話題を変える。


「そういえば、なぜ襲われていたんですか?」


「港でこのお茶を買ったのですが、それをどうやら見られていたようで……。帰りの道中に無理やり奪われそうになったので逃げたのですが、あの森に追い込まれてしまって……」


 そう言って、胸元から小瓶を取り出す劉備。う、少し胸が見えそうになった。この時代には下着がないのか? 気づかなかったが、華奢な割にそれなりにあるような……と不埒な考えになるのを頭を振って消し去り、俺は返答する。


「なぜお茶を?」


「母に飲んでもらいたいと思いまして。少々高価だったのですが、父を早くに亡くして苦労をしているので少しでも癒しになれば、と」


 この話は、いくつか三国志の物語でも知っていたが、実際に聞くとその親孝行さに改めて胸が熱くなる。とてもいい子だ。


「あの賊は……黄巾賊こうきんぞくですね」


「はい。最近、ここあたりにも拠点ができたとは聞いていたので、もっと注意すべきでした」


 黄巾賊、またの名を黄巾党こうきんとうーーー。

 仙人から「太平要術たいへいようじゅつ」という書を授かった張角ちょうかくという男が起こした組織だ。書から学んだ医術で病に苦しむ民たちをたちまち治して、その噂を聞いた様々な身分のものが張角のもとに弟子として集った。張角は腐敗した国に不満を持つ弟子たちと組織を作り、反乱を起こした。しかし、反乱といえど、その実情は「国に従わず好きなことをせよ」という大義名分のもと、逆らうものは容赦無く殺し、女・財宝を略奪するという無法なものであった。張角が髪を束ねるのに黄色い巾を使っており、弟子たちがそれを真似て黄色い巾で髪を結っていたので「黄巾党」と自称し、市民はそのあまりの暴虐ぶりに「黄巾賊」と彼らを恐れた。


 たしかゲームでは劉備が黄巾賊の反乱を鎮圧するところから始まることが多いな、と俺は自分の知識を再確認した。


「この乱世はいつまで続くのでしょうか……」


 そう呟いた劉備は、その瞳に怒りをにじませていた。この世界で実際に生きる彼女らにとって、国の腐敗、黄巾賊の脅威は俺が情報として知っているより遥かに重く、生活に影響があるのだろう。


 あなたも近いうちに黄巾賊の鎮圧に参加するのだ、と歴史を知っている俺は口に出してしまいそうになったが、先ほどの決意を思い出して、言葉を飲み込む。ちなみに劉備の腰にある、服に比べて装飾が多く高価そうな剣についても、劉備自身は「先祖代々の家宝」というだけしか知らなかったようなので、その真実も合わせて黙っておく。


 そうこうしているうちに、ついに劉備の家に着き、食事をいただいた。

 粥らしきものと、野菜の切れ端が入った汁。決して豪華とは言えないものだったが、久しぶりのちゃんとした食事だ。ましてやご馳走になった身で、文句などあろうはずがない。


「この度は私の娘を助けていただき、ありがとうございます」


 食事を終え、一息をついている俺にそう告げたのは、机を挟んで反対側に座っている女性だ。劉備玄徳の母親である。劉備もその横に座っている。

 娘を見て少し予想していたが、これまた美人だ。母親といえど、まだ20代にしか見えない。劉備と同じく、その服装は貧しいものであったが、娘と同じく高貴な美しさを備えていた。


「いえ、こちらこそご馳走になってしまいまして」


 そう返しつつ、俺はそろそろお暇しようと考えていた。もうすっかり日が暮れてしまっていたが、やはりひとりで考える時間がほしかったし、なによりこんな美女ふたりと同じ屋根の下で寝るというのは寝られる気がしない。と思っていたが、満腹になっていた俺は気が抜けていたのか、つい大きなあくびをしてしまった。


「ふふ。おつかれなのですね。もう夜も遅いですし、泊まっていってください」


 あくびを見た劉備玄徳が、微笑みつつ、提案してくれた。


「いや! さすがにそこまでは申し訳ない。それに女性だけの家に泊まるなど」


「お気にしなくていいのに! あなたがそのような人とは先ほどまでのやり取りで思いませんし、私は母の部屋で寝るので私の寝室を使ってください」


「そうですよ。これで帰ってしまわれたら、私たちも心残りです。存分に休んでください」


 親子、しかも美人ふたりに立て続けにそう言われたので、言葉に甘えることにした。おそらく固辞しても先ほどと同じように押し問答が始まるだけだろう。寝室ではなく、今いる居間の床で良いとも言ったが、「恩人を居間で寝かせるなど!」と劉備がガンコモードに入ったので、嫌々ながらも受け入れた。これは人生初の「女子の部屋に泊まる」イベントと言っていいのだろうか。


 すると安心したのか、眠気が一気にきた。なんだかんだでこの世界に来てから安眠できていない。夜の山中など、時々動物の声が聞こえて、なかなか心が休まらなかったからな。


「私はこの後、草鞋を作ったりしますので、先に休んでください」


 そう劉備に言われつつ、寝室に案内された。


「ではおやすみなさい」


「ああ、おやすみなさい」


 部屋を出ていく劉備。もう眠気が限界だったので、木で作られたベッドのような寝床に倒れ込むように横になった。「女の子のいい匂いがする」と思ったやいなや、俺の意識は薄れていった。



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 どこか遠くで、鳥の声がする。目蓋越しに陽の光を感じて「ああ、朝か」と思いつつ、俺はまだ眠気に勝てず、まどろんでいた。3日ぶりの安眠ではあるが、まだ睡眠時間は足りなかったらしい。すると、両手に何か柔らかいものが当たった。


 なんだろうか。右手には指先でつまめるほどのコリコリした物体、左手では手のひら全体がマシュマロみたいなものが当たっている。どちらの感触もとても心地よい。半ば夢の中にいた俺は、思うがままにその感触を楽しんだ。


 すると、手を差し出している方向から


「んんぅ……」


 と悩ましげな声がした。その声に少しだけ意識が浮上した俺は、ゆっくりと目を開いた。


 目を閉じて、寝息を立てている美少女の顔が間近にあった。劉備である。向かい合う形で俺たちは寝床の上で横になっていた。

 なぜここに!?と驚愕しつつ、視線を動かしてみると、これまた衝撃的な光景が目に飛び込んできた。


 劉備は全裸であった。

 その形のいい左胸を俺の左手が掴んでおり、感触通りの柔らかさゆえか、手に合わせて少し形を変えていた。先端は俺の手でうまく隠れていたが、右の胸は全て丸見え。そして、俺の右手は劉備の左耳の耳たぶを指で摘んでいた。ああ耳をコリコリしていたんだなぁと思った次の瞬間、俺の意識は一気に覚醒して「うおっ!!??」と大きな声を出してしまった。


 すぐさま両手を劉備の体から離そうと思ったが、時すでに遅し。声が聞こえたのか、劉備が目を開けた。


「ん〜……だぁれ……?」


 昨日までの気丈さからは想像ができない甘さのある声。その声に思わず固まってしまう俺。すると寝ぼけながらも自分の体の違和感に気づいたのか、耳たぶを俺に摘まれながら劉備は己の胸へと目線を落とした。そこには見事に乳房をつかんでいる俺の手。その手がどこから来ているかを確認するかのように眠気まなこな目でゆっくりと腕に沿って視線を戻す劉備。そして、再び俺と目が合った。


 現状を把握したのか、徐々に見開かれる瞳。そして陽の光に照らされている以上に赤みを帯びてくる顔。あ、これはヤバイ。


「きゃあああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」


 そうして俺は、のちの蜀の統治者となる名将・劉備玄徳の名を持つ少女に、思いっきり頬を平手打ちされた。

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