第4話 アルアルだった

 現代に戻れないーー。

 つまり家族や友人とも会えない。自分なりに楽しんでいた学生生活にも戻れない。お気に入りの定食屋にも、もう行けない。もう、人知れず想っていた先輩にも会えない。心の奥底から浮かびあがってくる感情。それは絶望しかなかった。


「少し待ってくれないか……」


 申し訳なさそうな表情をしている彼女に向かって、俺は気力を振り絞って言った。


「うん……。けれど、あまり時間がないから、そんなに待つことはできないわ」


 冷たい床に座り、再び目を瞑って瞑想した。

 何か予想外のこと、トラブルなどが起きた時に瞑想をするのは俺の癖であり、ルーティンワークでもある。


 もう、帰れない。そんな事実は、とても受け入れられない。はじめはそう思った。本当は外聞など気にせず、泣き喚きたかった。誰だってそうだろう。しかし、瞑想に入り、己の心に立ち向かってみると絶望を感じている心のまた違う部分で、諦めとは異なる感情が出てきているのも感じてきた。


 決して諦めてはいけない。

 それは自分を厳しくも優しさをもって指導してくれた祖父の口癖だった。少し時代遅れながらも最盛期は多くの弟子もいた武術道場の師範だった祖父。ありきたりな言葉ではあるが、生き様を含めてまさに「男の中の男」であった彼を俺は幼い頃から尊敬していた。なので、何かくじけそうになった時はその言葉を思い出し、克己していた。こんなところでくじけていたら、もし絶望から死を自ら選んだとしたら、祖父に合わせる顔がない。


 神である少女は無理だと言ったが、それを決めるのは誰もない。自分だ。

 数瞬の間に絶望から希望へと心の状態をシフトした俺は、現実へと思考を戻し、目を開けた。


 また美少女の顔が超近距離にあった。


「うおおぉぉ!?」


 デジャブのように、また壁際まで後ずさった。何度目かの近い距離で彼女を見たので、唇は淡いピンク色だということはわかった。いや、そんなことはどうでもいい。重い空気になっていたのに、なんとも間抜けな感じになった。

 彼女は先ほどまでの沈んだ表情ではなく、安心したかのように少し微笑みを浮かべている。また俺の心の中、決意を読んだのだろう。


「正直厳しいかもしれないけど、人間っていつも私たちの想像を超えることやっちゃうからねー。鉄の塊が空を飛んだ時には、たまげちゃったわよ。どんな形であれ、希望を持つことはすばらしいことだわ」


「ああ。どうにも諦めるということは性に合わないんでね。そんな簡単に見つけられるとも思えないから、とりあえずこの世界で生きていくことは決めた」


「わかったわ。じゃあ、説明を続けていい?」


 その問いかけに頷きつつも、先ほど壁に逃げたままの間抜けな格好から、彼女に向かいあうように姿勢を直して座る。

 う。彼女が浮いているから座っている目線だと、なんともチャイナ服のスリットの割れ目が危ない。もう少しで見えてしまう。と言っても、少し先ほどの頭痛自体はないものの余韻がまだあり、立つのも辛いのでそこには目がいかないように気をつけよう。


「別に見てもいいのに。力不足の神様からのプレゼントよ」


 そう言いながらちょっと得意げな顔でスリットに指をそわせ、ふとももの根元部分までたくしあげようとする。思わず、顔を全力でそらした。


 牢屋の中が薄暗くてよかった。明るかったら色んなものが見えていた気がする。というか、帰れない代償としては安いプレゼントではないか?


「むっかー。安いってなによ!!」


 視線を戻すと、無事スリットは元の位置にもどっていた。そして彼女は頬を膨らまして、目つきを厳しくしてこちらを睨んでいた。その表情もなんとも可愛らしいものではあるが、怒らせてしまったようだ。


「すまない、失言だった。魅力的なプレゼントだったぞ」


 これは本音だ。自分も女性に不慣れではあるが、男である。平時であったら、こっそり目をそらさなかったかもしれない。


「う…。さっきから天然なジゴロの才能があるような…」


 よく意味がわからない。


「というか、時間がないのだろう。アフターケアなるものを進めてもらってもいいか」


「そ、そうね! とりあえず向こう側の心配はないわ。転移自体の現象は止められない代わりに、問題なく転移後に生活できるように戸籍や周りの認識を日本の神が修正するから。私と同じように本人に説明してるはずよ。本人自体の記憶や認識を変えてしまうこともできるし」


 なるほど。たとえば両親や周りの友人にとって「もともといた存在」として認識されるワケだ。代償として俺自身の記憶は彼らから消えてしまい、実際に帰れた時にどうすればいいのかという疑問もあるが、それはまたその時に考えればいいだろう。というか、そんなことまでできるのに、元の世界には戻せないのか。まぁ、今は考える余裕はない。俺は現実的でもありつつ、わりと楽観主義なのだ。


 俺の思考を読み取っているのか、少し時間を置いて彼女は続けた。


「正直こっちの世界の戸籍とかは結構適当なものだから楽だわ。本人も家を出ている状態だから、あまり親にも会わないと思うけど、あなた自身の記憶とかはどうする?」


 その回答はもう決まっている。記憶操作というのがどのようなものかはわからないが、家族から受け取ったものを忘れたくない。なにより元の時代に戻ったときに困る。


「答えはノーだ」


「わかったわ。あ! 大事なことを忘れていた。アフターケアのもうひとつとして、言語能力の修正があるわ。こっちの言葉を元の日本語と同様に聞こえて、話すことができるの」


「それはお願いしたいな。さっき看守達が何を言っているかさっぱりだったし、生きていくうえは言葉がわからないと困る」


「オーケー。戸籍とかはまたあとでやるけど、言語は簡単だわ。じゃあ早速修正するわね」


 彼女は先ほど俺に頭痛を与えた時と同じように、指を鳴らした。力を発揮するスイッチなのだろうか。


「これで完了。もう言葉がわかるはずよ」


「実感が湧かないな。もともとが中国語だから語尾が『アル』とかに聞こえるのか?」


「どういう偏見よ! 普通の言葉に聞こえるわよ。実感が湧かないなら時間を動かして、そこにいる人間の言葉を聞いてみればいいじゃない」


 その言葉に返答しようと思ったら、少女はもう指を鳴らそうとしていた。


 ……ん? 時間が動くということは……?


 彼女が指を鳴らした瞬間、座っている俺の真横に剣が通り過ぎた。床に当たったのか、軽い金属音がとても間近に聞こえた。


 うおおおおお!!!あぶねええええええ!!そりゃ時間を動かしたら、そうなるわ!

 時間が止まる前にいた位置からはズレていたので、ギリギリ直撃は避けられた。すぐに飛び上がり、距離を置いて男と向かい合う。

 男は思いっきり剣を床にぶつけて痺れたのか、苦い表情をしながらこちらに向かって怒鳴ってきた。


「オマエ! ドウヤッテ避ケタアルカ! ソシテ、横ニイル女はダレアル!?」


 めっちゃアルアル言ってるじゃねえか! しかも微妙になまっていて、なんとも聞き取りにくい!! ちなみに最後の質問は、依然と牢屋の中に浮かんでいる神である少女を指したものである。


 動揺しながらも、こちらに向かって再び剣を振りかぶる男。今度はしっかりと避けようと姿勢を構えた瞬間に、再び男は固まった。

 横にいる少女の方を見る。すると彼女は指を鳴らした後の状態の手になりながら笑いが堪えている顔をしていた。どうやらまた時間を止めたらしい。


「ふふふ…ごめんごめん…。ちょっと修正が弱かったみたい。やり直すから大丈夫よ」


「もし死んでいたらどうするんだ!」


「位置的に当たらないのはわかっていたわよ。…ふふふ。決してさっき安いプレゼントと言った仕返しとかじゃないから……」


 もしかして、この女、さっきの頭痛といい、ドSなんじゃないか?

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