第16話

第十六回

「おい、あいつ、誰だよ」

仲村トオルが教室のうしろの方からのぞくと見たことのない中学生がうしろの方にちょこんと座っている。

「だれだれ」

ルー大柴も別所哲也ものぞき込んだ。

「三人とも、何してるのよ。早く、入りなさいよ」

あとから来たKK子が教室の中になかなか入らない三人の背中をつついた。

「ほら、見たことない奴がうしろの方で座っている」

「誰なの、あれ。中二にしては小さいじゃない」

四人がその侵入者を眺めていると、同じクラスの倖田來未が同じように四人の背中をつついた。

「何だ、知らないの。中一のヨン様じゃないの。ヨン様はどこへ行ってもいいって教育委員会の方から許可が出ているんだって。この前なんか、用務員室でフライパンで銀杏焼いて食べながら用務員のおじさんたちと株価について語り合っていたし、給食室では炊きあがったご飯を大きなおしゃもじで返していたわよ」

四人がヨン様の方を見てもヨン様は自分のこうもり傘をたたむのに熱中していた。

四人の方を見ることもなかった。

四人はいつものとおり自分たちの席に座っててんで勝手ににくつろいでいた。

KK子のとなりに座っている倖田來未が筆箱のさきでKK子をつついた。

「なによ」

「知ってる、転校生が来るそうよ」

「どこから」

「韓国かららしいわ。わたし、見ちゃったのよ。一階の職員室で、ちらっと横顔だけだけどね。イケメンよ。イケメン。わたしが見ていたら国語の便所のスリッパがやって来て、何、見てんだって言うからその場からおさらばしたんだ。正面からは見ていないんだけどね」

「あんたらしいわね」

「もう、なに言っているのよ。わたしはイケメン募集中だから、あんたみたいに教室の中に愛人が三人もいて平井堅にまで追いかけられているって言うわけじゃないもん」

「もう、三人とも違うわよ。幼なじみ、幼なじみ、それに平井堅なんてぜんぜん関係ないわよ」

「もう秘密にしちゃって、でも、なんで平井堅に追いかけられちゃうことになったの。みんな、知りたがっているのよ」

「知らない」

KK子はまた前の方を向いた。

自分を守ってくれると宣言した三人の会の連中、だれきって机の上にたこみたいに顔をつけている、はなはだ頼りなかった。

廊下に面した窓際にいた連中が窓から顔を出して廊下の方を見ていたが一斉に歓声を上げた。

「来たぞ、来たぞ」

女子は手を叩いて喜んでいる。

「イケメンよ、イケメンよ」

教室の前の戸ががらりと開いて

「うるさいぞ、騒いでいるんじゃない」

担任の阿部寛が両手で教室の連中を制した。

「きみたちの新しい仲間だ。さあ、こっちに上がってくれるか」

その韓国人は黒板の前に立った。

男子生徒たちは見たことのない新しい人間がここに来たことに対して、そして女子学生たちはカッコイイ男子が来たことに対して喜びが隠せなかった。

そして仲村トオル、ルー大柴、別所哲也の三人は本能的に反感を感じていた。その反感というのもKK子を、まだKK子が彼らのものだというわけでもないのに、とられてしまうのではないかという動物的なひらめきだった。

「みんなに紹介しよう。いや、きみから言ったほうがいいかな」

「イ・ビョンホンといいます。得意なのは語学、とくに韓国語、それに政治史です」

それは誰あろう、風船拳老師武田鉄也によって中学二年生にされてしまった篠田正浩の息子だった。飲んだくれて墜ちるところまで墜ちていたイ・ビョンホンは風船拳老師の力で今は釈由美子を追うのではなく中学二年生になってこの教室にいる。

教室のうしろの席でヨン様が彼をじっと見つめている。

その日はイ・ビョンホンのことで教室中は持ちきりだったし、他のクラスからも多くの生徒がイ・ビョンホンを見にきた。特に女子中学生が多く、彼を見ると嬌声を上げた。なかには女の先生まで見に来ていた。

「すてき、イケメン、わたしの理想だわ」

中学校からの帰り道、自分のかばんを抱きしめながら倖田來未はイ・ビョンホンの姿を想い出しながら言った。

みんなは市電通りを歩いていた。市電通りに植えられた柳は緑の若芽を出している。爽やかな風が通りを流れていた。その印象はイ・ビョンホンにつらなっている。

「なんでぇ、くだらねぇ」

倖田來未の嬌声を聞きながらルー大柴が反感をあらわにした。

下唇を突き出して両手をポケットに突っ込んで舌打ちをした。

「最初で新鮮だから、みんなあんなに騒いでいるだけだよ。なあ、トオル」

別所哲也がとなりに並んで歩いている仲村トオルに話しかけた。

仲村トオルはイ・ビョンホンがどうだかということよりも、KK子がイ・ビョンホンをどう思っているかということにしか興味がなかった。

「なんか、どっかで見たことがあるような気がするんだよな。あいつ」

「何、言っているのよ、あんな、イケメン、めったにいないわよ」

「いや、見たことある、どっかで見たことある」

「ないってば」

「ある」

「ない」

すると前の方を歩いていたKK子が急に仲村トオルの方を向いて、

「トオル、イ・ビョンホンくんって格好いいじゃないの。素直に認めなさいよ。男らしくないぞ」

KK子は母親みたいな調子で言った。KK子の髪はきれいなカーブを描いて回った。なにかシャンプーのコマーシャルに出てくるひとこまのようでもある。

仲村トオルはこの母親みたいな調子がむかつくのである。

思い起こせば小学校の頃、プールの水泳で二十五メートルの折り返しが出来ないことがあった。そのときにもKK子がいた。折り返しというから五十メートル泳ぐことである。それは小学校の四年生のときだったか、夏の薄曇りで夕立が降りそうな天気だった。なぜか女子ではKK子だけがプールのスタートラインのところでローレライで歌われたライン川の川岸にいる乙女みたいに、いやに色っぽく足をくずしてプールの中を見ていて仲村トオルがやっとのことで五十メートルを折り返してプールの中で立つと、そのスタートラインから手を叩いて

「トオルくん、よくやったわね、がんばった。がんばった」

とその言い方が母親のようで足の組み方が西洋の絵画に出てくる裸婦像のようであり、あきらかに小学生のくせに肉体は成熟していた。仲村トオルはその上から見下ろしてものを言うKK子の態度にはいつもむかついていた。

しかし水着につつまれたその身体はもうすっかりと大人びていた。「もう、むかつく」

ここでまた母親ぽっい調子が出ていた。

たしかに同じ年齢なら向こうが大人になるのは早いわけだが・・

「あれ、あれ」

倖田來未が市内電車の停留所に立っているチマチョゴリを着た女を指さした。

「あれ、虎中のチェ・ジュウじゃないの」

「あれがチェ・ジュウか」

ルー大柴も遠くからそこに立っている女を見て言った。

市電の停留所には五六人の乗客が待っている。

青銅で出来た市電の停車標識の前にすっきりと立つ彼女の姿はそれだけでも景色の中にとけ込んで一幅の絵を作っている。

やがてこの市の歴史そのものといえるようなモスグリーンと黄色の配色の骨董品のような市電が停車場に滑り込んで来た。それはまるで十九世紀の空想科学小説に出てくる乗り物のようだった。

チェ・ジュウは他の乗客と一緒に市電に乗り込むと乗車口の戸が閉まった。彼女は車内の奥の方に押し込まれた。電車の窓はすっかりと開けはなれていたので立ったままの彼女の姿が窓からのぞき見ることが出来た。

やがて、ごとりという音がして線路の上にのっている車輪が回転して市電が動き始める。

そのときだった。列車の中の方でチェ・ジュウは混雑している車内で乗客の身体に押されたらしく、窓の方に手をついてかばんが外に放り出された。そのかばんが外に落ちた。

「かばん、落ちちゃった」

「あれあれ」

別所哲也とルー大柴が口に手を当ててそのかばんを見つめた。

「まだ、間に合う。いけ、いけ」

倖田來未がそのかばんを指さした。

「間に合わねぇよ」

「間に合うわよ。すぐさきに信号があるじゃない。あそこで最低二分は止まるから」

「お前が行けばいいだろう」

「あんた、行きなさいよ」

倖田來未はそばにいる仲村トオルの片腹をかばんで押して無理矢理押し出した。

「疲れんだろう」

そう言いながらも仲村トオルはよたよたと走り出して、かばんを拾って走りだすと目の前をとろとろと市電が走っている。

市電は停車場を出て少ししか走らなかった。

倖田來未が言ったように市電はすぐそばの信号機のところで止まっている。

仲村トオルが息を切らせながら走って行くと(普段の運動不足のため)チェ・ジュウが止まっている市電の中から手を出して待っていた。その女に仲村トオルはカバンを差し出した。

市電の中の乗客たちは目を丸くしてその様子を見ている。

窓からチェ・ジュウが仲村トオルに微笑みかけた。

「ありがとう、あなたの名前は、同じ中学生でしょう」

「へへへへ、龍中二年、仲村トオルなんちゃって」

「わたし、虎中二年、チェ・ジュウ」

「へへへへ、知ってたよ」

「ありがとう」

チェ・ジュウは微笑んだ。

信号機の色が変わり、また市電はゆっくりと走り出した。

その去って行く電車を見ながら仲村トオルはいつまでも手を振っていた。

なにかいいにおいがするような気がする。

それから、とことこと他の四人が待っている場所に戻って来ると、ルー大柴と別所哲也のふたりがさかんに質問して来た。

「つき合ってくださいって言ったか」

「まず最初は友達からという方がさきなんだよ」

仲村トオルは得意になって手で首のうしろのあたりを掻いている。

「やったじゃない、トオルくん、電車に間に合ったよね」

「ねえねえ、そばで見た、チェ・ジュウ、どうだった。どうだった。何、話したの」

意外なことに女の中でも倖田來未はチェ・ジュウに興味があるようだった。

「そばで見てどうだった。やっぱり背が高いの」

「へへへへへ」

仲村トオルはやっぱり頭を掻いている。

「チェ・ジュウってこの市では有名だもんね。きれいなことで」

倖田來未の言ったとおりだった。

この市の中ではチェ・ジュウは有名だった。

市の中では全中学一の美女として認定されていた。

したがって他中学の生徒もチェ・ジュウのことを知っていて、龍中の生徒の中で彼女の通学の途中に彼女に愛の告白した生徒もいた。

「チェ・ジュウがどこの生徒ですかって聞いたから、俺、答えちゃったよ。龍中の二年の仲村トオルって名前だって」

「やったじゃん」

「でかした。トオル」

「大統領、大統領、あんたは偉い」

「あんた、最高」

何をでかしたのかよくわからない。

三人の会なんて言うものを作ってKK子を一生守るなどという約束をしていた三人のバカたちであったが、そんなことも忘れて浮かれ騒いでいる。

何しろ、チェ・ジュウは全中学一の美女だからだ。

「へん、やった。やった」

仲村トオルは両の手ひらを組み合わせて頭の上に上げ、さかんに勝利のポーズをとっている。

「トオル、バカじゃないの。あんなとろとろ走って。それにあのかばんを渡したときのにやけた表情、まるで陸に上げられた蛸みたいじゃないの」

仲村トオルの御機嫌な表情を見てKK子はプリプリしている。

「ふん、おれだって、行きたくて、かばんを届けに行ったわけじゃねぇや。倖田來未が無理矢理行かせたんだよ」

「でも、かばんを渡すとき、結構うれしそうだったじゃないのよ」

「そうだ、そうだ」

「そのとおり、そのとおり」

別所哲也とルー大柴のふたりも倖田來未を応援した。

「そんなことあるかよ」

「そんなことあるわよ」

KK子は自分のかばんの角のところをさかんに仲村トオルの腰のあたりにぶっけている。

「いてぇなあ、何すんだよ」

「まあ、いいじゃないの。チェ・ジュウは所詮、住んでいる世界が違うんだしぃぃぃぃ。トオルがチェ・ジュウとつき合う可能性は限りなくゼロに近いんだしぃぃぃぃ」

「まあ、そうね」

KK子も倖田來未のもっともな意見に同意を示した。

「お汁粉、食べて帰らない」

倖田來未の意見に他の四人も同意した。

四人と別れて家に着いた仲村トオルは、自分の部屋に入って、ごろりと横になると天井を見つめた。

今日の市電での出来事が思い浮かんで来る。

かばんを渡したときのチェ・ジュウの微笑み。それは自分に投げかけられたものだったのだ。そのとき仲村トオルはチェ・ジュウだけしか見えなかった。チェ・ジュウのまわりの景色はチェ・ジュウひとりにピントがあってまわりは色だけでかたちのない世界のようにぼんやりしている。

たしかに、その微笑みは普通の中学生の無邪気な微笑みとは違う。高級宝石店そのもののような雰囲気があった。

しかし、そういう印象を持てば持つほど自分と遠い世界の住人だという印象だけが残るのだった。

仲村トオルはやはりKK子の方を好ましく思ってしまう。

どう考えて見ても全中学最高の美女、チェ・ジュウと自分の接点はない。

「トオル、晩ご飯の支度、出来たよ」

下の方から彼の母親の呼ぶ声が聞こえた。

下におりて来ると、他の兄たちもそこにいた。弟もそこに座っている。

「早く来いよ、トオル、この果報もん、腹減っちゃっただろう」

一番下のまだ幼稚園に通っているピエールがトオルを罵倒した。

「幼稚園生のぶんざいで、だいたいなんでお前、そんな言葉知ってるんだよ」

次男の布施博は自分がその言葉を教えたもんだからにやにやしている。

トオルはピエールの頭をこずくと

「こんにゃろ、こんにゃろ、トオルなにすんだ。こんにゃろう」

と言いながらピエールは箸で仲村トオルのもものあたりをさかんにつついた。

「ピエール、そんなことやんじゃないの、かりにもあんたのお兄さんなんだから」

「俺だってこんな金髪の弟がどうして生まれて来たのかわからないよ。ほら、ソース」

仲村トオルは弟のピエールの皿の上のコロッケにソースをかけてやった。

「トオル、ほら、ソース、貸せ、貸せ」

斜め前に座っている長兄の所ジョージが手を伸ばしてソースを受け取った。

長兄の所ジョージは几帳面にコロッケの周囲の線に沿って万遍なくソースをかけている。

「かあさん、おれの同級生の市川崑って、知ってる、あいつ、カメラマンになったらしいよ」

「市川崑って、お前の同級生にしてはすごくふけていた友達だろう」

横から父親が口を挟んだ。

「知ってる、知ってる。あいつ、俺の遠足のとき、ついて来て写真を撮っていたなぁ。それもすっごい古いカメラで、写真を撮るとき意外は何もしゃべらないの。ずっと無口で何か悩んでいるようだった」

仲村トオルの横に座っていた布施博が答えた。

布施博の五歳上が所ジョージである。

仲村トオルの三歳上が布施博である。

仲村トオルの十二歳年下がピエールでピエールは生まれたときから金髪である。この家の実の子供かどうだかもよくわからない。

「あいつ、学生時代から、そんなアルバイトで稼いでいたんだよ」

所ジョージが説明した。

「それにしても、このコロッケ、うめぇなあ」

仲村トオルは何を食ってもうまく感じる年頃である。

その横でピエールはご飯粒を口のはたにつけながら箸を不器用に動かしている。

「どんな、写真を撮っているんだ。ジョージの友達のその市川・・」

「市川崑だよ。アイドル写真集らしいよ」

「ええ、アイドル写真集」

とたんに次男布施博は目を輝かした。

そういう方面に関しては仲村トオルも興味津々である。

「えっ、どんな写真を撮っているの」

「だから、アイドル写真集だって言っているだろう」

「どんなアイドル、どんなアイドル」

「だから可愛いアイドルだよ」

幼稚園児は箸をばってんに握ったまま茶碗の中のご飯を口の中にかきこんでいる。

「おい、うるさいぞ、アイドルでもなんでもいい。ピエールがご飯を食べているのを邪魔するんじゃない、今は食育の時間でもある」「そういうことだなあ」

長兄の所ジョージはすました顔をしてお茶を飲んだ。自分だけ、いい子になっている。

「アイドルの話しぐらいしたっていいじゃないか」

次兄の布施博はぶつぶつと言っている。

「そうだよ。そうだ」

仲村トオルもぶつぶつと同意した。

「そうだ、トオル、あとで、市川崑の作ったアイドル写真集を見せてやるからな、今はコロッケを食うだけで満足していろ」

「本当」

仲村トオルはほくほくとした。

自分の部屋に戻った仲村トオルはふたたび自分の部屋でごろりと横になっていた。

「トオル、ほら、持って来たぞ」

ふすまの向こうで長兄の所ジョージが仲村トオルに声をかけた。

彼は身体を反転させて立ち上がった。ふすまを開けると長兄の所ジョージが立っていた。

「ほら、持って来てやったぞ」

「これ」

それは意外にも貧弱な小冊子だった。しかし表紙には「市川崑ファースト写真集」という題字が堂々と書かれてある。

「これが未来の巨匠市川崑の作った写真集だ。その形容詞も僕がそう確信しているだけだけどね。せいぜいこれを見て青春のボルテージを高めるんだな」

「ジョージあんちゃん、ありがとう」

一応、礼を言って長兄が去ったのを待って、また、寝転がって、その写真集をぱらぱらとめくって見る。

その中には女の子の普段着の表情がたくさん載っている。

しかし、これをアイドル写真集と呼んでいいのだろうか。

モデルになっている女の子は可愛いことは可愛いが、全然知らない女ばかりである。

そして、写真の下には歯科助手とか社交場勤務とか書かれている。するとふすまが再び開いて、長兄の所ジョージが顔を出した。

「お前が誤解をしているかも知れないから少し説明をくわえておこう。市川崑、まだ金がなくてな、そこらへんにいる可愛い子に声をかけて写真集を作ったというわけだ。それでもお前にとっちゃ満足だろう。女に飢えているから」

「けっ、あんちゃんだって」

そう言いながら、仲村トオルはその冊子のページをめくっていたが最後の方のページになって、思わず声を上げた。

あきらかに盗み撮りなのだが、他の写真とは一線を画する一枚があった。

「これ、これ」

仲村トオルが指をさすと、所ジョージもしゃがみこみながらその写真をのぞき込んだ。

「お前、この女の子、知っているのか」

そのとき、下の方から母親が仲村トオルを呼ぶ声が聞こえた。

「トオル、電話だよ。女の子から、早くしな、待っているんだから」

「ちょい、待ち」

仲村トオルはその電話の主がKK子か倖田來未のどちらかだろうと思っていた。電話をかけてくる女の知り合いと言ったらKK子か倖田來未しかいない。

「ほら、早く、早く」

階段をあわててかけおりて母親から電話を受け取って耳に当てると

「アンニョンハセミヨ」

と鈴のような声が外耳道を通って鼓膜を振動させた。

その心地よい声で相手が誰であるかすぐにわかった。そして仲村トオルの顔はばら色に輝いた。

「あなたは誰」

「今日、あなたに助けて頂きましたわね」

「どういうこと」

仲村トオルはわざと可愛い声を出してすっとぼけた。

「市電乗り場の出来事ですわ」

「うっそ~~」

「虎中のチェ・ジュウです」

「何で、うちの電話番号を」

「龍中には知り合いがいるんです。その人に仲村トオルさんの電話番号をって聞いたら、教えてくれたんです」

「今日は本当にありがとう」

「でも、なんで僕に電話をくれたんですか」

「あなたとお友達になりたくて、今度お暇でしたら、ゆっくりとお会いしたいですね」

それからチェ・ジュウは仲村トオルに電話番号を教えた。

受話器を戻した仲村トオルは夢見心地だった。

二階の自分の部屋に戻ってくると、その上気した顔を長兄の所ジョージは見逃さなかった。

「お前、誰から電話かかってきたの、お前のところに電話のかかってくる相手と言ったら、KK子か倖田來未のどちらかだろうけどな。そうだ、おれは何を言おうと思っていたんだっけ、お前が電話におりて行ったから忘れちゃったよ。そうだ、さっきのことだけど、その最後に載っている女の子のことだったな。お前、知っているのか、この市では有名な女の子だぞ」

「あんちゃん、その本人から電話がかかって来たんだよ」

「本当か。トオル、嘘じゃないだろうな」

長兄の所ジョージはその言葉を言うと部屋の中に入って来て仲村トオルの胸ぐらをつかんだ。

「これが誰だか、知っているのか」

所ジョージはその最後のページを指さして舌をベロベロと出した。

「知ってるよ。その本人から電話が今かかって来たんだよ」

仲村トオルは得意そうな顔をして答えた。

「どうして」

長兄の所ジョージは目を丸くした。

そこで仲村トオルは今日のできごとを説明した。

すると長兄は涙目になって仲村トオルのそばにすり寄ってきた。

「この子、紹介してくれよ。いや、俺のためじゃない。この子に写真のモデルになって貰いたいんだ。市川崑のな、彼女をモデルにすれば**芸術社から、もっとちゃんとした写真集を出せるし、上野賞だって取れると市川崑は言っている」

上野賞というのは写真界で権威のある賞らしい。

「それに市川崑は自費出版で写真集を二冊も出して五百万の借金があるらしい。トオル、どうか、彼を助けてくれ」

「そう言われても」

仲村トオルは戸惑った。たまたま知り合いになったと言っても今さっきのことであるし、盗み撮りされているチェ・ジュウの写真があるということは市川崑は無理に彼女の写真を撮ったに違いないし、頼んで断られた可能性もある。そうならチェ・ジュウは市川崑にいい印象をもっていないのに違いない。しかし、チェ・ジュウの電話番号は教えてもらった。教えてもらったというよりも向こうから仲村トオルに知らせたのである。

技術工科室の裏庭で仲村トオルはいつもの仲間、別所哲也とルー大柴の三人でそこらへんの地面に敷かれているコークスの燃えかすを足でけっ飛ばしながら放課後の時間をつぶしていた。技術工科室の中には電気のこぎりとかボール盤とかが何台も置いてあり、壁の横にはのこぎりや金槌がかけてある。机は頑丈な木で作られていて、その横には工作物をはさむための万力がそなえつけられているが、今はそこには誰もいない。昼間の授業で黒板に板書された木製の振り子人形の設計図が消されずにそのまま残っている。

「チェ・ジュウから電話が来たのかよ。そりゃあ、すごいね、すごいね」

ルー大柴が仲村トオルの横腹をこずいた。

「なんだって、嘘みたいじゃないか、向こうから電話番号を教えて来たのかよ」

別所哲也も目を丸くした。

校舎の本棟はエルのかたちをしている。その短い辺の方に三人はいた。技術工作室は校舎の一番はじにあってそこを曲がると校舎の裏の方に入るようになっている。

「あんたたち、こんなところで何してんのよ」

校庭の方を歩いていた倖田來未が顔をのぞかせて声をかけた。

三人は秘密の話しをしていたので、倖田來未が煙たかった。

「何だよ、お前、こんなところに顔出してんじゃねえよ」

「何か、秘密のにおいがするなあ」

「何でもないよ、何でもありません」

別所哲也があわてて否定した。

「君たち、KK子を守るための三人の会って言うのを作ったんでしょう。KK子を仲間に入れずに何か話し合っているなんていいのかなぁ」

「何で、そのことを知っているんだよ」

「KK子が教えてくれたのよ」

「KK子を秘密で喜ばせることがあるんだよ、おれたちは」

すると倖田來未の影からKK子が顔を出した。

「KK子」

仲村トオルは思わずつぶやいた。

「トオル、わたし達、用事があるから、さきに帰るからね」

「わたし、もうちょっとここにいたい~~~~~」

倖田來未は反対した。

「いいわよ、行きましょう。トオル、哲也、ルー、わたし達、さきに帰るから」

「そういうことだから」

倖田來未も了解した。

「びっくりした」

ルー大柴が胸をなで下ろした。

「何か、この感覚、何て、言うのかな、教室で授業を受けていたら、外が急に曇りだして、雨が降りそうになって、かあちゃんが急にたずねて来たような、あるいは演劇活動をしていて、監督をして、いろいろな部員に演技指導をしていたら、突然、自分の奥さんがその職場に訪ねて来たような不思議な感覚だなぁ」

別所哲也がそう言うと

「本当、哲也はうまいことを言うなぁ」

とルー大柴は同意した。

仲村トオルは何か重いような気持ちになった。

心の中ではこんなお芝居をしている。

「ああ、きみか」

「お弁当、持って来たの」

「ありがとう」

しかし、お弁当を受け取るわけではないのだ。KK子には秘密の話しが待っているのだ。

「おっ、あいつ」

ルー大柴がへいの方を指し示した。

技術工作室の前はコークスのもえかすが一面に敷かれ、その向こうはブロック塀になっている。ブロック塀の前は桜の木が等間隔で植えられているのだが、花や葉が落ちすぎないようにかなり剪定されている。とくに初夏の頃には毛虫がたくさん発生するのでその対策もあるようだった。なかには幹のところから真っ二つに切られて乾いた年輪が見えている。その幹のところにちょこんと座っている中学一年生がいる。

ヨン様だった。

「見ざる、聞かざる、言わざるニダ」

ヨン様はそう言うと実際に耳を両手で押さえて三人の方をじっと見ていた。

「どうする」

「かまいやしないよ」

「いいさ、こいつバカだから」

三人はヨン様を無視して話しの続きをすることにした。

「さっきの話しの続きだけどさ。これを見てくれ。アイドル写真集、ただし、自費出版だ。だから一般には流通していない」

仲村トオルは長兄の所ジョージに貰った例の写真集らしきものを取り出すと、別所哲也とルー大柴のふたりの前に出した。

「なんだよ。これ」

「見て、見て」

ふたりはパラパラとその写真集をめくっている。

なぜだか、ヨン様までもがその写真集をのぞき込んでいる。

三人はよだれをたらしそうな感じでそれを見ていたが、最後のページをめくると一斉に声を上げた。

「おおおおお~~~~~」

それはヨン様も同時だった。

「チェ・ジュウじゃないか」

「ただし、盗み撮り」

仲村トオルは付け加えた。

「これを撮ったのは俺の一番上の兄貴の友達で市川崑って言う人なんだ。兄貴の話によるとその人は写真家としては今いちで、チェ・ジュウをモデルにして作品を作れば、売れっ子になると確信しているらしい、それに、わけのわからない写真集を自費出版して借金が五百万もあると言っている。一番上の兄貴に頼まれたんだ。チェ・ジュウにモデルになってくれるように頼んでくれって」

「たしかに、写真の出来というのはつまるところ誰をモデルに選ぶかということによるからな。チェ・ジュウはこの市の全中学一番の美女であるし、彼女を使えば、市一番の写真集が出来ることは間違いない、つまり、三段論法であるな」

ルー大柴は仲村トオルの顔を見た。

「それでチェ・ジュウは仲村トオルに好印象を持っている。それで向こうの方から電話番号まで教えてきた。じゃあ、簡単だ。チェ・ジュウにモデルを頼むのだ。簡単じゃないか」

ルー大柴は続けた。

「でもなぁ」

仲村トオルは複雑な表情をした。

「三人の会って言うのもあるしぃぃぃぃ」

「三人の会って言うのはルーの口からの出任せじゃないか」

別所哲也は口を添えた。

「トオル、お前の言いたいことはわかる。たしかに三人の会というのは俺の口の出任せだ。でも、その出任せから俺達三人とKK子はいつも行動を伴にしている。でもなぁ、KK子と俺達は夫婦だというわけじゃないし、チェ・ジュウとこれからつき合うというわけでもないだろう」

しかし、仲村トオルの心の中には引っかかるものがあった。

「じゃあ、こうしよう。ヨン様に意見を聞こう。俺達三人はチェ・ジュウにモデルを頼んでいいですか」

三人は一斉にヨン様の方を向いた。

「いいニダ」

ヨン様は一言で答えた。そして森の中に住む妖精のようにどこかへ行ってしまった。

そこで三人はチェ・ジュウに売れない写真家、市川崑のモデルをやってもらうようにたのむことにした。

仲村トオルがチェ・ジュウに会いたいという連絡をとると、チェ・ジュウが行きつけの店があるというので、バカ三人組はその店に行くことにした。

市の西側にスプーン橋という名前の橋があって、その橋を渡ると、ちょっとこじゃれたゆるやかな坂道があってその坂道の両側に洋装店や輸入家具などの店が並んでいる。

三人組にはほとんど縁遠い場所だった。休みの日には市の中学に通う女子などがよくこの通りに来て店の中の商品なんかをよく品定めをしている。

KK子も倖田來未も休みの日にはここによく来るらしい。

そんな店が並んでいる一郭に一階が入浴に関した、石鹸とかシャンプーとかバスタオルとか、香水や入浴剤、その他お風呂に関したものが置いてある店があって、その二階が南欧風のレストランになっている。場違いな買い物用の自転車に乗った三人がスプーン橋を渡って一階のその店の前に行くと二階のレストランのテラスから虎中の二年生のチェ・ジュウが手を振って三人を迎えた。そして彼女はレストランの中に消えて行った。

三人はいろいろな色の透明な入浴剤の丸い玉の横を通りながら店の中央に置かれている階段を通って二階に上がると外側の通りを背にしてチェ・ジュウが外の景色を眺められるテーブルに座っていた。

「よく、いらっしゃました」

三人はチェ・ジュウがなぜそういう言い方をするのかはわからなかったが、ここでくつろいでいる彼女の様子を見ると非常に頻繁にここに来ているという、つまり根城にしているらしいということは理解出来た。

「かばんを拾ってくれて、ありがとう。仲村トオルくん」

その横で別所哲也とルー大柴のふたりはさかんに自分たちの胸のあたりを指で指し示している。

「こっちが別所哲也、そして、こっちがルー大柴、ふたりとも龍中の二年生」

仲村トオルはふたりを紹介した。

「市電の停車場には、女の子がふたりいたみたいだけど」

「ああ、僕たちの友達でして、同級生なんですね。英語で言えばクラスメートっていうわけですね」

「まあ、座って」

チェ・ジュウに促されて三人は座った。

「突然、電話をかけてびっくりしたんじゃないの」

「でも、なんで、俺の家の電話番号を知っていたんですか」

「わたし、龍中にも知り合いがいるの。鳳凰中にも知り合いがいるわ」

「チェ・ジュウはこの市すべての中学の中でもナンバーワンですからね、きっといろいろな中学の男子生徒がつき合ってくれと言って寄って来るんでしょう」

語尾を変なに上げて、ニヤニヤしながらルー大柴がチェ・ジュウに媚びを売った。

「そうでもないよう」

チェ・ジュウはわざと男っぽく答えた。

「いやいや、そうでしょう」

ルー大柴はやはり変な目つきをしてチェ・ジュウを眺めている。

「その意見、賛成」

別所哲也まで同意の意を示した。

(おい、お前ら、仮にも俺達は三人の会というのを作っているんだからなぁ、ちょっとはKK子のことも頭の片隅に入れておけよ)

仲村トオルが小声で言うと

(ここに、KK子、いないだろう。トオル)

(そうだよ、トオル、ここまで来て、なに。KK子に義理立てしているんだよ)

(そりゃあ、KK子はおれたちの一番の宝物だけどさ。目の前に全中学最高の美女がいるのに)

「みんな、なに話しているのですか」

三人がチェ・ジュウに聞かれないようにごちゃごちゃ言っているのを怪訝な顔をして見つめている。

「そうだ、チェ・ジュウに見せたいものがあって持って来たものがあるんだ」

仲村トオルは腰のポケットのあたりをまさぐると例の小冊子を取りだした。

「見て見て」

「なに、これ」

テーブルの上に置かれたそれをチェ・ジュウの可憐な指がめくっていった。

「女の子たちの写真じゃない。わたしと同じくらいの年だわ」

それから最後のページをめくって

「あっ、これ私だ。でも、撮られた覚えはない」

「そうでしょう。盗み撮りですよ」

ルー大柴はまたニヤニヤしてチェ・ジュウの顔を見つめた。

「盗み撮りでもよく撮れているなぁ」

別所哲也もその写真を見てうなずいた。

「決して悪気があってやったことじゃないんだよ」

チェ・ジュウは仲村トオルの顔を顔にご飯粒でもついているのではないかという表情をして見つめた。

「この写真を撮ったのは俺の兄貴の友達なんだ。その人、売れない写真家なんだ。わけのわからない写真集を自費出版して五百万も借金があるんだよ。それで頼みというのが、チェ・ジュウにその人のモデルになってもらいたいんだ。そうしたら、その人、売れるに違いないと信じているんだ」

「というわけ」

「そういうこと」

チェ・ジュウは仲村トオルのその話しを聞くと、すっと立ち上がって店の奥の方に行くと何か大きな絵本のようなものを持って戻って来た。

そのあいだ、ルー大柴と別所哲也のふたりは紫色のよくわからないジュースみたいなものをすすっていた。それからテーブルの上に置いてあるメキシコのお好み焼きみたいなものを食べている。

(ふたりとも、がっっぃてるんじゃねえよ)

(いいだろう、ただで食わしてくれると言うんだから)

チェ・ジュウが椅子に座ったので三人はひそひそ話をやめた。

「これ、な~に」

ルー大柴がテーブルの上のその大きな絵本に疑問を持つ必要もなく、それは写真集だった。それもその表紙は白い地の中にチェ・ジュウの水着姿が写っている。

「これはなにニダ、なにニダ」

別所哲也は韓国人になっていた。

「なかを見ていいニダか、いいニダか」

「どうぞ」

「おい、これ」

仲村トオルはある部分を見て目を丸くした。

「撮影、篠山紀信って書いてある」

仲村トオルは自分の口の中に自分の手を突っ込んだ。

「篠山紀信って、あの有名な人」

「これはパイロット版だけど、写真集を出す予定になっているの」そこにいた三人は絶望的な気持ちになった。

これでは売れない写真家市川崑の手助けをすることなんか出来そうにもないと思った。

「別にこういう状況になっているからって、あなたたちの要求を断るというわけではないわ」

「じゃあ、兄貴の友達のモデルになってくれるのかい」

チェ・ジュウが無言でうなずいたので、仲村トオルはテラスから手を振ると、やがて売れない写真家市川崑が二階に上がって来た。

そして、そのうしろから階段を上がって来たのは仲村トオルの長兄の所ジョージだった。

「あんちゃん、何で、来たんだよ」

仲村トオルは自分の兄がのこのこここについて来たことに閉口して叫んだ。

「市川が心配なんで、ついて来たんだ」

「うそばっか。チェ・ジュウを見に来たんだろう」

「ばれたか、でも、市川のことが心配だからって本当だからね。この前、お前に写真集を見せてやっただろう」

テーブルの上にあるそれを見つけて長兄の所ジョージは喜んだ。

「それだって、あんちゃんが市川の助手をやって完成したんだからね。それに市川には致命的な秘密がある」

市川崑、彼こそがこの場のチェ・ジュウをのぞけば最大の主役であるべきである。しかるに彼は少し離れた場所から遠慮がちにその集団を見ていた。それはそれを客観的に観察するために遠く離れているというのでも違うようだった。その秘密というのはなんなのだろう。しばらく沈黙が続いた。そして、どもりながら

「ぼ、ぼ、ぼ、ぼく、女の人がこわいんです」

と言った。

市川崑は長兄の同級生のくせに所ジョージと較べようもないほどふけていた。

頭にはよれよれの正ちゃん帽をかぶり、長四角い黒縁めがねをかけ、首からは金属製の一眼レフカメラをぶら下げている。

口には煙草をくわえていて、その煙草もいったん灰皿で火をもみ消したものをふたたびくわえたようにさきの方がつぶれていた。

「女の人を目の前にすると何も話せなくなっちゃうんです。いつも女の人と目を合わせないようにしているんです」

奥の方で新しい客人の到来を見ていたチェ・ジュウが視線を市川崑の方に向けた。

「それでよく女の子が撮れたのね」

すると市川崑は殺人光線でも受けたかのように両手で自分の顔を覆うと指のあいだからチェ・ジュウの顔を盗み見た。

「だ、だ、だ、だめ、僕、美しすぎ光線でやられてしまう、ああああ、目がつぶれてしまう」

そう言って指まで閉じると指のあいだから見える世界までシャットアウトしてしまった。

「トオル、だからあんちゃんが助手としてつかなければならないんだ」

「わかったわ、市川崑さんには、もっと詳しい話しを聞かなければなりません、こっちにいらしてくださる」

そのテーブルにはチェ・ジュウを主客として席がとられていた。彼女にかしずくように仲村トオル、別所哲也、ルー大柴、それにあとから加わった長兄の所ジョージと市川崑が座った。

席に座ると長兄の所ジョージは自分をアピールした。

「トオルの兄であり、市川の同級生です」

「よろしく」

チェ・ジュウは愛想笑いをしたが、仲村トオルは閉口した。

「どんな格好をした女の人が好きなの」

「わたしから答えましょう、やはり豹柄を着た女でしょうか、なかでも好きなのはスケバンだそうです」

「それはあんちゃんの好みだろう」

「おれもそれ、好き」

「お前はなんでも好きなんだろう」

「中学生、やっぱり女に飢えているなぁ」

「あんちゃんだって、チェ・ジュウを見たいからここに来ているくせに」

また、沈黙を守っていた市川崑がおどおどしながら答えた。

「ぼ、ぼ、ぼ、ぼく、スケバン、好きです。手の甲に皮の手袋をはめた、ヨーヨーを使うやつ、ぼ、ぼ、ぼ、僕、好きです」

「スケバン刑事だ」

別所哲也が言うとルー大柴が横にいるチェ・ジュウに説明を始めた。さかんにヨーヨーをやるふりをしたり、セーラー服の説明をしたりしている。

「わかりません」

チェ・ジュウはスケバン刑事を知らないようだった。

「そうだ、あんちゃん、チェ・ジュウはパイロット版だけど、あの有名な篠山紀信撮影で写真集を出す計画があるということを知っている」

「おい、聞いたか、聞いたか、市川、篠山紀信撮影の写真集を出す計画があるんだってよ。これで市川の写真集も宣伝効果があがる」

長兄の所ジョージは何でもいい方向で解釈していた。

「篠山、篠山、篠山、しののののの・・・・・」

市川は意味もなくうめいた。

「そうだ、チェ・ジュウもどんな写真集を作るつもりか、わからないと困るよね。どんな写真を撮っても話題騒然、チェ・ジュウの魅力が百パーセント爆発するには違いないけど、市川カメラマンはどんな写真を撮るつもりですか」

ルー大柴はいやらしくニタニタしながら、テーブルの上に置いてある胡椒瓶をマイクみたいに握ると新たに来たふたりの方に向けた。

「その問いには市川の親友である、この自分から答えよう。なにしろ市川は女を、特に美女を前にするとなにも答えられなくなる。それにこの僕は市川の芸術の正確な伝達者である。彼の制作における微妙な制作意図の隅々のところまで説明出来るのは僕であるからな、市川がかたちのはっきりとしない発光体だとすると、それをはっきりとかたちにして印画紙に現すというのがこの僕なのだ。焦点を結像させるのは僕であるし、また像の浮き上がった印画紙を持っているのはこの僕なのだ。このことは市川も了解済みなのだ。僕が市川の正当な宣伝係だということを」

そのあいだじゅう市川崑は両手で顔を覆ってその指の透き間を閉じたり、開いたりしてチェ・ジュウを盗み見ているのは変わりなかった。店の中には彼らしかいなかったので奥の方ではこのレストランのオーナーが電卓を叩きながら伝票の集計をしていた。カウンターの奥にある石造りのかまどの中ではちろちろとたき火の火が燃えている。

「わたし、あなたのことを聞きました。カメラマンとして、これから活躍する予定だそうですね。わたし、あなたのお力になりたいと思っています。あなたに写真を撮ってもらいたいと思います。それでわたしを使って写真集を作ってください」

チェ・ジュウの言葉を聞きながら市川崑は恐縮して身を小さくした。こたつで丸まっている猫のようだった。

「でも、どんな絵を撮るのか、知りたいと思いますわ。だって、裸の写真だったら、困っちゃうもん。ハハハハ」

「そうですね、そうですね、困っちゃう、困っちゃう」

ルー大柴も調子を合わせたが、ぎこちない笑いだった。

「ハハハハハ」

他の男達も調子を合わせて笑った。市川崑は顔を赤くしてもじもじしながら下を向いている。

「その件に関して、わたくし所ジョージ、市川崑の助手兼コーディネーターを自認しているしだいです。詳しくこの男から今回の件については話しを聞いているのでチェ・ジュウにお話しましょう。まず撮影場所は決まっています。押さえる予定もたっています。まず、どんな設定にするのか、あなたもこのことについて多いに興味を持っていることでしょう。心配なくわたし所ジョージはここにいる市川崑から詳しく聞いています。結論から言いましょう。まず、チェ・ジュウは若い農家の嫁ということですね。それも何かの手違いで不本意に嫁いで来た花嫁です。夫にも愛情がないし、その家にも愛着がない、しかし、いろいろな手違いからその家を出ることも出来ないという。そして自分がここに来る以前のことを懐かしがっている。ふっと自分の娘時代のことを思い起こしてしまうのです。たまたまその農村には公民館があり。チェ・ジュウが女学生のころから親しんで来た雑誌があって、その公民館の二階に上がってその雑誌を見ることが唯一の楽しみである、つまり娘時代の思い出を呼び起こすことができるからですね。ということになっています。その姿をやはり公民館に来たひとりの中学生がチェ・ジュウの姿に見とれてしまう、そんな設定なんですね。そんな二階が図書館みたいになっている公民館みたいな建物がこの市にあるんですよ。**小学校の裏に市民会館があるじゃないですか。あそこがぴったりなんですよ。あそこを押さえる予定はたっています。チェ・ジュウもあの場所をご存知ですよね」

「知っていますわ。なかなか趣のある場所ですよね。五十年は経っていますよね。大昔のなんとかいう銀行家の私宅だそうですね」

「そうなんですよ。チェ・ジュウも気に入ってくださいましたか。だから、農家の若嫁ということで」

「裸も水着もないということ」

「そうです。安心してください」

その間中、金属製の一眼レフカメラを握りながら市川崑はぶるぶるとふるえてかつ緊張していた。

「ジョージあんちゃん、俺も助手として参加していいだろう」

仲村トオルが当然の権利だという顔をすると兄の所ジョージはあからさまに嫌な顔をした。

「こいつ、また、何をを言い出すやら、ああ~~~~小市民、これは人の歌だけどそんな歌が出てくらい非常識な弟だな、お前は。これは大人の仕事だ。本当に、困りますよね。中学生のくせに」

「いいですわ、わたし、むしろ、それを望みます。その方が精神的に安心できるし。それにわたしだって中学生ですよ。同じ年頃の人が多くいる方が安心できますわ」

「僕たちも」

「僕たちも」

ルー大柴も別所哲也も自分たちの方を指で指し示した。

「もちろんですわ」

チェ・ジュウがそう言うと所ジョージは

「全く中学生のくせ」とかぶづぶつ言いながら苦々しい顔をして弟たちの要求を認めざるを得なかった。

隣に座っている市川崑が所ジョージの方に耳打ちをした。そして所ジョージはふむふむとその言を聞いてうなずいた。

「テスト撮影をしていいでしょうか、この男はフィルムをつめたカメラも持っていますし」

「ええ、よろしいですわ」

とチェ・ジュウが答える間もなくカメラを握った市川崑はテーブルの上に駆け上がるとその巨大なレンズをチェ・ジュウの顔に近づけた。チェ・ジュウの顔と前方のレンズとの距離は五十センチも離れていなかった。すでにこのしなびた煙草をくわえた未来の巨匠はカメラと一心同体になっていた。

チェ・ジュウは思わずあとずさりした。

「なに、この人、なに~~~。こわい~~~~~」

仲村トオルも別所哲也も思わずのけぞった。

ルー大柴にいたってはのけぞりすぎて椅子をうしろに倒して転んでしまった。

チェ・ジュウのとまどいも無視して市川崑はシャッターを押し続けている。市川崑は仰向けになってみたり、はいつくばってみたり、立ち上がってみたりといろいろな体勢をとりながらチェ・ジュウにレンズの筒先を向けていた。

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