第14話

第十四回

「えい、死んじまえ」

「ばか、ばか」

「お前、呼吸してんのかよ」

市内に花見小路という飲食店街がある。入り口は三メートルぐらいの幅で、入り口と出口には花見小路と書かれたアーチが立っている。入り口から中に入ると道の両側にはおもに飲食店、一杯飲み屋だとか、小料理屋、おでん屋、とんかつ屋などが並んでいる。朝の早い時間には、それらの店の営業が夜遅くまでおこなわれているので働いている人間はいない、夜中の店の閉まる時間の頃にゴミ出しがおかれ、店の裏口のあたりに生ゴミが出される。働いている人間は朝にはその店の中、もしくは自宅に戻っているので、小道にはいない。からすがそのゴミをつっいたり、野良猫がゴミ箱の中に入るのを防止するためにナイロンの網がかけられている。

しかるにその通路は近所の小学校の通学路になっているから黄色い丸い帽子を被った小学生の集団登校のための集合場所になっている。集団登校というのは年長の小学生が列の先頭と後方に立って低学年の児童を挟んで小学校に登校するためのやり方である。その目的は交通事故に遭わないためとか、変なおじさんにつれさられないためにとか、いろいろある。もちろん、遅刻をしたり、風邪をひいて病院へ行ってから登校する児童はひとりもしくは親につれられて小学校の校門をくぐることになる。その花見小路の中のとんかつ屋の前で倒れている男がいて、もちろん生きているのだが、それを見つけた集団登校のために集合している小学生たちが、そこらへんにある紙くずをぶつけたり、黄色い握りがひよこのかたちをしている雨傘でつっいているのである。しかし、倒れている男はまったく起きようとしなかった。

「何してんだ。おめぇら」

黒い業務用の自転車をきーこきーこと音をたてながらこいで来た老人がそこでとまると自転車から降りて小学生たちを叱りつけた。

「この人が病気で倒れて、死にそうだったらどうすんだ」

「へん、病気なもんかい、酔っぱらってぶっ倒れているだけだよ」

小学生達が憎まれ口をきいた。

「最近の小学生は鶴の恩返しも読んだことないんだな」

「何だよ、それ」

「浦島太郎みたいな話しだよ」

「お前ら、どこの小学生だ」

「へん、そんなこと言えるか」

そのときゴミ箱の横で倒れていた男がうつ伏せになって倒れていた身体を反転すると右腕を伸ばしてそばにいた小学生の足首をつかんだ。

そして、

「釈由美子、釈由美子~~~~~~」

と叫びながら、げっぷを二三回繰り返したあとでげろを吐いて、小学生のソックスの上にひっかけった。

「きゃあ~~~~~~」

小学生たちは身動き出来ないと思っていた男の突然の反撃にあい、奇声をあげながら走り逃げた。

「水を、水を」

男は上半身を起こすと水を求めてさまよった。

「あっ、お前は」

「あっ、あなたは」

「わが弟子、イ・ビョンホン」

「風船拳始祖、武田鉄也老師」

「一体、どうしたということだ」

自転車屋の親父の武田鉄也はイ・ビョンホンの身体を抱き起こした。

かっての弟子、イ・ビョンホンの醜態を目の当たりにした自転車屋の親父、武田鉄也は絶句した。

「とにかく、駅前の喫茶店、カトレアで詳しい話しを聞こう」

風船拳老師武田鉄也は老人とは思えない力でイ・ビョンホンの身体を抱きかかえると自転車の荷台に座らせてまたペダルをこぎ始めた。

ゴムの木でまわりから見えにくくなっている小さいデコラ板で出来た長四角のテーブルを囲んでイ・ビョンホンと武田鉄也は向かい合った。

イ・ビョンホンの心の中ではこんな落ちるところまで落ちた自分の姿をかつての師に見せても恥ずかしいという気持ちが起きないくらい彼の感覚は麻痺していた。社会的体面という感覚が全く麻痺していた。

武田鉄也の方はと言えばかつての自分の弟子のあまりの変わり様にいろいろな類推の断片の接続も出来ないくらい想像の域を超えているイ・ビョンホンの変わり様だった。

武田鉄也の知っていた頃は有能な外交官として日本と韓国のあいだを行き来していたのだ。その身のまわりには華やかな噂が行き交い、将来は政治家として国政の重要な部分をになうことは確実視されていたのだ。テーブルの前でイ・ビョンホンは背を丸めて小さくなっている。

「一体、どうしたというのだ。その変わり様は。お前は無意識に夢の中で釈由美子、釈由美子と叫んでいたではないか。釈由美子というのはお前の婚約者の女だったのではないか」

すると涙目になりながらイ・ビョンホンは風船拳老師武田鉄也の手をとった。

「一体、何が不満だというのでしょうか。わたしの将来は約束されていたというのに。金もある、地位もある。東京湾には外洋用のクルーザーだって置いてあるし、別荘も立科に一軒、逗子に一軒、外車は五台もあります。外車の一台はシルバーゴーストという骨董的な価値もある車ですぜ。一体、何故」

「何故とは」

風船拳老師武田鉄也はイ・ビョンホンの目を見つめた。

するとイ・ビョンホンはなぶられ続けた犬のように暗い目をしてくちびるをゆがめながら、この喫茶店の木目がプリントされたベニヤ板を見つめたが、あきらかにそれは遠い昔の何者かを見つめているに違いなかった。

「その女に逃げられたのか」

もう何も隠し立てをしてもしようもないと思っているらしかった。

「婚約して、結婚の直前、各界の名士を招待して盛大な披露宴をとりおこなう予定でした。それなのに、何故。あんなわけのわからない男と駆け落ちするなんて、前衛舞踏家という肩書きを自分で名乗っていますが、ふだん、やっていることと言えば新宿のターミナルビルの前で鮭缶の捨ててあるのを拾って来て、一日中、それを前にして缶からの中に金が入ってくるのを待ちながら座っていることですからね。それなのに、釈由美子はその男のあとをどこまでもついて行くと宣言して僕に後足で泥をかけ逃げて行ったのですよ」

「愛だな」

風船拳老師武田鉄也はぽつりと言った。

「愛ですって、師はその男を見たことがあるのですか。むかし、二丁拳銃とい名前で漫才師をやっていましたよ、その後、気候予報士の試験に通って、そのあとに前衛舞踏家になったらしいです。名前は矢部とか言ったような、言わないような」

「イ・ビョンホンよ。お前は釈由美子と一緒に暮らしていたのか」「そんなこと出来るわけないじゃないですか。年がら年中、韓国と日本のあいだを行ったり来たりしていましたからね。しかし、由美子は何不足もないはずなんだ。あいつが不足を感じるはずがないんだ。豪勢なくらし、豪勢なおくりもの、何でもやっていましたよ」「しかし、釈由美子とテーブルを囲んで、食事をしたことは、お互い楽しい語らいとまで言わないが」

「あるわけないじゃないですか、僕は年がら年中、韓国と日本のあいだを行き来していた。それをあんな二丁拳銃の漫才師なんかに、年収は僕があいつの百倍もある。あんな奴に、あんな奴に」

イ・ビョンホンの頭上にも風船拳老師武田鉄也の頭上にも巨大なアドバルーンのように二丁拳銃という漫才師の貧相な矢部の顔が覆った。

その上そのアドバルーンはふたりを見下すようにニヤリと笑った。「お前は負けたのだ。二丁拳銃の矢部に」

イ・ビョンホンの表情は凍り付いたようにじっと動かなくなり、その気まずい状態がしばらく続いた。

そして皮肉な表情を浮かべたイ・ビョンヒホンはふたたび口を開いた。

「師よ、わたしは何を信じていいか、わからなくなりました。わたしの財力、地位、そしてこのルックス、これらを持ってしても不可能なことがあったとは・・・・」

「イ・ビョンホンよ。現実を受け止めなければならない、時間は過ぎ行くのだ。ひとつとして確かなものはない。しかるに真理は常住不偏不滅である。イ・ビョンホンよ。お前が一番、光輝いていた中学二年の頃を思い出すのだ」

イ・ビョンホンの中学二年の頃はその人生の最盛期だった。その上、国家目的も凌駕するような秘密の任務を負って暗躍していたのだ。イ・ビョンホンはその頃のことを思い出していた。

「お前をあの日に返してやろう」

風船老師武田鉄也はテーブルの前に置かれているコーヒーのカップを横に置くと、風船拳の構えをとった、そして、右や左に両手を動かしてから人差し指を差し出すとイ・ビョンホンのへそのあたりをさした。

「中学二年生にな~~~~~~れ」

イ・ビョンホンは自分の身体がいくぶんか小さくなったような気がした。

「イ・ビョンホンよ、お前はもう中学二年生だ」

そう言って風船老師武田鉄也の差し出した手鏡で自分の姿かたちを見ると信じられないことだが確かに中学二年生になっている。

「イ・ビョンホンよ。お前はもう中学二年生だ。これからは中学二年生として行動するのだ」

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