第13話

第十三回

「くっくっくっ」

市長の大島渚は新聞をひろげながら声にならない声を上げている。「お父さん、何かうれしいことでも書いてあるんですか」

妻の小山明子は朝食の目玉焼きとケチャップを運びながら自分の夫の変化を見逃さなかった。

彼の目の前にひろげられた新聞の一行広告の中に市長を喜ばせる情報が掲載されていることを妻の小山明子は知らない。

「十玉そろばんを持っている。詳細は******に電話するよろし」

「載っている。載っている」

市長の大島渚はまた声にならない声を上げた。

「あなた、何、喜んでいるんですか。パープルシャトーに今夜、行く予定でもあるんですか」

「そんな予定があるか、そもそもパープルシャトーに行くのだって、部下の労をねぎらうために行くのだ。秘書のダニエランと助役のセルジオ越後の顔なんて見ていたって酔えるものか」

「そうですか、そうですかねぇ。あなたのお気に入りのホステスがいるなんて噂を聞いたんですがね」

「ばか、言うなよ。ホステスの若槻千夏のことだろう、あれは、助役のセルジオ越後のお気に入りだ」

「さあ、そうだかどうだか。あなた、あそこに行くといつもすっかりと素行をくずしているって噂ですよ」

「なに言っているんだ。そんなこと、誰に聞いたんだ」

「誰でもいいでしょう。あなたがどんなことして楽しんでいるのか、いっぺん私も行ってみようかしら」

市長の大島渚は急にあせった。

「ばっばっ、ばっか言っているんじゃないよ。あんなところ、女が行ったっておもしろくも何ともありゃしない」

「じゃあ、男の人が行ったらおもしろいということでしょう」

「金がかかるだけだよ。もう、あんなことに金を使っている自分があほらしいよ」

市長の大島渚は新聞で顔を隠した。

「お母さん、お弁当用意してくれた。今日は小学校、給食がないんだからね」

「珠美さんが作ってくれたでしょう」

「あっ、これか」

上戸彩の弟の真之介はテーブルの上に置いてある白バイの絵の描いてあるお弁当のふたを開けると、歓声をあげた。

「わあ、ソーセージのたこみたいなのも入っている。珠美さんはよく気がつくな」

新聞をたたみなから、市長の大島渚は息子の真之介の方を見た。

「真之介、わしが話しをしているときにあくびなんかするんじゃないぞ」

「まったく、何でわざわざ、学校を休日なんかにするの。ばかみたい」

「何を言っているんだ。この罰当たりめが」

市長の大島渚は息子を睨め付けた。

「川辺呑舟居士の治水事業がなければこの市の繁栄はなかったのだ。だから毎年、呑舟居士の偉業をたたえてこの日を休日にしているのだ。給食のないのもそのためなのだ」

「お父さん、それはいいけど、自分のお父さんが演台に上がってむずかしい話しをして、それを有り難く聞いている小学生なんて僕だけだよ」

川辺呑舟というのはこの地方の治水事業をした遠い昔の人である。それがなければこの地方が遠いそのあと現代において市に昇格したことはなかったであろうと言われている。川辺呑舟はそんな偉い人だった。この市ではその偉業に感謝して学校をすべて休みにして生徒は体育館や講堂で偉い人の話を聞くのであった。

ドアが開いて上戸彩が入ってきた。

上戸彩には相変わらずもの憂い表情がうかんでいる。

その顔を見ても市長の大島渚はいつもより機嫌が良かった。

「彩、お前の行っている鳳凰中にも行くからな。まさか、お前がわしが話しているときにいねむりをすることはないと思うが」

「お父さん、鳳凰中にも行くの。じゃあ、僕の学校には来る必要ないよ」

「そんなこと出来るか」

市長の大島渚は目玉焼きの白身のところをすくい上げると、自分の口に運んだ。

その無愛想な表情の中にも市長の大島渚のうれしそうな表情がほの見えているのを娘の上戸彩は見つけていた。

「お父さん、何か、うれしいことでもあるの。くちびるのはしがほころんでいるように見えるんだけど」

「父さんはきっとクラブ・パープルシャトーに行くつもりなんですよ」

「そんなことがあるか」

市長の大島渚はあの秘密の計画のことを娘には言えないと思ったが、娘のためになるに違いないと信じていた。

「彩、最近、平井堅くんから連絡があるか」

その言葉に上戸彩は無言だったが、市長の大島渚の表情が曇ることはなかった。

「行ってくる」

上戸彩はトーストを一枚、口にくわえるとかばんを小脇にかかえて部屋を出て行こうとしたが、弟の方はまだテーブルにしがみついて目玉焼きを口にかっこんでいる。

「真之介、早くしなきゃだめじゃない、あんたの方が小学校、早く、始まるんでしょう」

上戸彩が弟の耳をつまむと弟は抗議した。

「なにすんだよ。姉ちゃん、そんな凶暴だから、平井堅に逃げられちゃうんだぞ」

「なによ、あんた」

「ほらほら、喧嘩しない、喧嘩しない」

市長の大島渚は精神的余裕を見せていた。ふたりの子供たちが学校に出て行くのを見送った。

それから彼は市庁舎へ出勤するといつものように秘書のダニエランと助役のセルジオ越後がすでに出勤していた。

予定どおりいくつもの学校をまわり、訓辞をたれ、そんな一日が過ぎると、あたりは暗くなった。

「警察署長は来ておるのかね、越後くん」

黒い高級セダンの後部座席でとなりに座っているセルジオ越後に話しかけると、彼は前に座っている秘書のダニエラに同じことを聞いた。ダニエラは半身を振り返って、市長の大島渚の方を見ながら自分の手帳を開いて、そのスケジュールを確認した。

「パパイア鈴木署長はすでに来ているに違いないですわ。このスケジュール帳によると午後の六時半には東洋貿易の向かいのビル、エルゲランに入っているという話しです」

「エルゲランの五階にたまたま空き部屋があるというのも不思議なことだね」

「市長、そうではありませんぞ。署長のパパイア鈴木は暴力革命学生の動向をさぐるために、そこを警察で借り切っているのですぞ」「暴力革命学生、なんだ、そりゃあ、市長のわたしはそんなことは全然、聞いていないぞ、そんな不穏な動きがあるなんてことも聞いていないし」

また、秘書のダニエランがうしろの方を向くと付け加えた。

「例の三人の学生のことじゃないかしら」

「ばかな、まだ中学生だろう」

「部屋を借りるためなら、何でも、理由はつけられますわ」

「市長、何か、おもしろいことがはじまりそうですね。わたしゃ、これでも口の堅い方ですからね。よく、あるじゃないですか、運転手が捜査の糸口になったというような。いえ、決して、わたしは市長がおかしなことをやるというようなことを言っているんじゃありませんよ。何しろ、市長にはずいぶんよくしてもらっていますからね。市長も重職で毎日、大変なこととお察し申し上げています。それに市長の奥様は名家の出ですし、いゃあ、実際、家に帰ったときぐらいは男と言うもの、すべての力を抜いてくつろぎたいもんですよ。脱力感というんでしょうかね。それが自分の女房が昔の宮中に出入りしていたようなやんごとない方だったりすると全く気疲れしてしまうことでしょうよ。そこへいくとあっしの女房なんて駅前の食堂の娘でして、外見は不細工ですが、気を使わないですむというのが何よりも取り柄でして。市長、これからどこへ行くんでしょうか。わたしゃ、決して口外しませんからね。市長には随分、感謝しているんですからね」

「うるさいよ。きみ、これも公務だよ」

セルジオ越後はうしろから叱責したが運転手はひるむことはなかった。

「でも、みなさん、ずいぶんと楽しそうじゃないですか」

「市民の福利を追求することが市長の喜びでもあるのだ」

市長の大島渚はもっともらしい顔をしてつぶやいた。

「エルゲランに着きましたでございます」

運転手は自動車を停めると、まっさきに外に出て、市長の横のドアを開けた。

運転手はくちゃくちゃになった帽子を脱ぐと、ぺこりと頭を下げた。「いいご返事を待っていますよ」

そして運転手は入れ歯の入っている口をにやりとゆがめた。

運転手のその言葉の語尾まで聞かないうちに三人はエルゲランの中に入って行った。

ビルの中には興信所や輸入代行業やら、いろいろな事務所が入っていたが、中で働いている人間はみんな帰っている。

ぎこぎこと変な音のするエレベーターに乗って三人は五階まで上がった。

入り口のドアには正木コーヒー豆店という看板がかかっている。

ホーローびきの看板にはコーヒーの木とエチオピアの国のかたちが描かれている。そして正木コーヒー店という日本語と同じ内容がアラビア語で書かれているが、もちろん、そこにいる誰も読めなかった。ただ変わった文様としてしか見えないのだろう。

「これだ、これだ」

「警察署長のパパイア鈴木が言ったとおりの偽装工作がなされています」

セルジオ越後がいきおいよくドアを開けると、中にいた巨大なアフロヘアーが振り向いた。

「市長、お待ちしていましたよ」

パパイア鈴木の横にはサーカスで使うような実弾の飛ばないような大砲みたいなものが置いてある。

これがドクター中松が開発した人間捕虫機である。

その横には白い実験着を来たドクター中松が立っている。

部屋の中にはそれだけしかない。

いや、まだある、部屋の備品の椅子が数脚、それに電話の置いてある小さな机。

「新聞広告を見ましたよ。あれで平井堅がつれますでしょうか」

「つれますよ。絶対に」

パパイア鈴木は自信に満ちあふれて答えた。

そのとき部屋の中にある電話がなった。

「もしもし、えっ、なに、冷やし中華、三人前、ここはラーメン屋ではない」

パパイア鈴木は怒ってがちゃりと電話を切った。

そしてまたすぐあとに電話が鳴った。

「ここはラーメン屋で・・・・」

ここでパパイア鈴木はみんなを手招きして呼び寄せた。

「もしもし、新聞広告を見たのか」

すると電話の向こうから彼の声が聞こえる。

「きみ、もしくはきみたちが平井家の家宝、十玉そろばんを盗んだことは何も聞かないことにしよう。とにかく、それを返してもらおう」

「よし、返してやろう。もう、われわれにはそんなものは必要がなくなったのでな」

「どうやって返すのだ」

「商社ビルの側面に記念モニュメントが出来ているのを知っているか、そこに今夜だけ十玉そろばんをかけて待っているので取りに来るのだな」

パパイア鈴木はそれだけ言うとがちゃりと電話を切った。

「かかりましたよ、かかりましたよ」

そこにいたみんなは声を押し殺して腹をかかえて笑った。

「電気をけさなければ」

パハイア鈴木は電気を切って、窓を全開にして、向かいの商社ビルをのぞいた。

記念モニュメントの上方、地上十メートルの高さのところに前もって十玉そろばんの入ったふくろがかけられている。

部屋の中にいたみんなは沈黙したまま、下の道路の方を見ていた。

「来ましたよ、来ましたよ」

下の道路を監視していたセルジオ越後は蟻のように動いている黒い影を見つけて、他の連中を呼んだが、みんなが窓際に来てその影を見つめたときには一番下のところからよじのぼりはじめていた。

「スパイダーマンみたいな奴だなあ」

「おっ、あれは」

パパイア鈴木はもうひとりの人影を見つけた。

「ヨン様」

秘書のダニエランがその見たことのある中学一年生の名前を小声で呼んだ。

「あいつ、何しに来たんだ」

「いいよ、まず、平井堅を捕獲するほうがさきだ」

ドクター中松が大砲の照準を壁をよじのぼって行く平井堅の方に合わせた。

「間違わないでくださいよ、あっちじゃなくて、あっち」

「うるさい、わかっておるわ」

「いまだ」

ドクター中松が引き金をひくとドンという音がして網がひろがり、平井堅の身体を包むと地上に落ちて行った。

その少し下の方の壁をよじのぼっていたヨン様は身の危険を感じて壁の横の方へ行き、いつしか地上に降りて、その姿は見えなくなった。

「はやく、下に行くのだ。地上には特殊仕様の囚人護送車が置いてある。

平井堅は警察署に運ばれた。

警察署長のパパイア鈴木と市長の大島渚は署長の部屋の中で計画がうまくいったことに安堵していた。

「やりましたなぁ。ついに暴力革命学生のひとりをつかまえました」

吸ったたばこの煙を満足そうに鼻の穴から出しているパパイア鈴木はしてやったりという顔をしている。

「署長、頼みがあるんですが」

「大財閥の平井家から身代金を取るのでしょう、わたしも一口、いれてください」

「いや、そんなことではありません」

「じゃあ、どんなこと」

「平井堅は今どこに」

「警察署内でも難攻不落、外部から入ることは不可能、内部から逃亡することも不可能という取調室にいます」

「平井堅のことはわたしに一任してもらいたい」

「一任というと」

「平井堅の取り調べはわたしに任して欲しい。短時間で終わります。そして、ひとつだけ聞いたら、彼を解放します」

「せっかく、つかまえたのに」

パパイア鈴木は口をへの字に曲げてすねた。

「彼は何も犯罪を犯したわけではない」

「じゃあ、なぜ、平井堅を捕まえたのですか」

「彼はある女性の心の中にあしあとを残した。それが問題なのです」

「それは一体誰ですか」

市長の大島渚が答えるまでもなく、それは市長の娘の上戸彩だった。「それが誰だか聞くのはやめましょう。個人的なことだから。この秘密のドアをつかえば、平井堅のいる取調室に行くことが出来ます」そう言われて、秘密の鍵を預かった市長の大島渚はその部屋へ行くための通路に入った。

通路は斜めの坂になって下に降りて行けるようになっている。

市長の大島渚は伝説の大番長、平井堅をせめるつもりはなかった。

自分の最愛の娘、上戸彩を苦しめている張本人だとしてでもである。

きっと、鳳凰中に通う、その女子中学生が彼を騙しているのに違いない、そう確信していると、むしろどうやって、その女狐が平井堅をたらし込んだかということに興味がふくらんでくる。

そんなことを考えていると坂の一番下の場所までたどり着いた。秘密の鍵をあけると、もの憂げな瞳をして平井堅がこちらを向いた。「平井堅くん、久し振りだね」

「大島渚市長、これはどういう真似ですか」

「きみがなかなかつかまえられないのでこんなお芝居を仕組んだんだよ。きみはまだ娘の上戸彩の友達だろうね」

すると平井堅の顔に申し訳なさそうなかげりが生じた。

「実はきみが変な女にたぶらかされているという話しが耳に入っている。そのことできみに聞きたいことがあるんだ」

「話しましょう」

平井堅は市長の大島渚の顔を見た。

大島渚は期待に胸がふるえた。

そして緊張もした。

どんな、やすっぽい方法を使ってその女が平井堅を籠絡したかを。

平井堅は静かに話し始める。

市長の大島渚の顔は緊張している。

しかし、話しを聞いているうちに大島の顔の緊張はゆるみ、むしろ脱力感さえ、現れている。

そして、市長の大島渚は急に大声を上げた。

「ばかげている」

「それがすべてなんです」

平井堅は静かに言った。

「それがどうしたと言うんだ。本当にばかげている。そんなことできみは、きみは、その女がきみにとって特別な存在になったとでも思っているのか、きみがそう思っていても、相手は何も思っていないに違いないんだ。きみには上戸彩という世界中捜しても見つからないような最高の伴侶がいるじゃないか」

ふたりのあいだに沈黙が流れた。

「約束どおり、僕は帰らせてもらいます」

平井堅は静かに立ち上がった。

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