第12話

第十二回

許嫁の釈由美子に捨てられたイ・ビョンホンに人格崩壊が始まった。同じことが大島家にも起こらないとは限らない。この家が崩壊していく。息子から自分の娘は失恋したらしいと聞いた。彼女は恋人を失ってしまったと。

娘の上戸彩にどんな変化が起きているのか、男と女の位置が逆転しているが、まさに同じケースなのだ。とにかく上戸彩に彼女自身や彼女のまわりの状況がどんなことになっているのか聞かなければならないと思った。

二階に上がって行くとロココ調のドアの中の方から軽やかな音楽と同時にアルプスの麓の村の旅行記の朗読が聞こえる。その旅行記というのも今から五十年前に書かれたもので海外旅行など夢のような時代の産物だった。その番組に記憶がある。どうやら自分が若い頃に聞いたことのあるラジオ番組がまだ放送されているようだった。

市長の大島渚はドアをノックした。

「彩ちゃん、入ってもいいかい。おいしいかりんとうを買って来たから一緒に食べようと思って」

大島絣の着物を着た大島渚はドアの前でかりんとうと紅茶をのせたお盆を持って待っていた。

「いいわよ」

部屋の中から声が聞こえて上戸彩がドアを開けた。

市長の大島渚は自分の娘の部屋にほとんど入ったことがない。

中に入ったと同時にリカちゃん人形の部屋に入ったような気がした。部屋の中はそれほど華やかさと可憐さで満ちている。

小さなテーブルの上にお盆を置くと上戸彩は自分の机の前に座って非常防災用のラジオを見つめている。上戸彩はそこらへんにあったラジオをたまたま気に入っていつも使っている。音もよくないし、かたちも色も何の工夫もされていないのに何でこのラジオを気に入っているのか、大島渚にはわからなかった。

何から話していいのか。

「この前、持って来たプリン、おいしかっただろう」

「あのガラス瓶に入ったプリン」

「そうだよ」

「おいしかったわ」

上戸彩は椅子に座ったまま振り向いて答えた。

「あれは結婚披露宴のお返しでね。金星醸造のひとり娘の結婚式で貰って来たんだよ。セルジオ越後が司会をつとめたんだ。新婦の紹介なんかをしたんだけどさ。新婦が随分品行方正みたいに司会で紹介していたから、おかしかったよ。その娘のことは父さんはよく知っていたんだけどさ、その女の子が随分遊び歩いていることを知っていたからね。まあ、つき合っていた男の数は十人はいただろうさ」

市長の大島渚はかりんとうをひとつ口の中に放り込んだ。市長の大島渚の眉は特定の角度をとって動かない。

「その女の子、結構、おとなしそうでそんなふうには見えないけど、いろいろ遊んでいたんだなあ、でも、やっとひとりの男に落ち着いたんだなぁ」

上戸彩はやはりラジオの方を向いたままで市長の大島渚に背を向けている。

「わたし、そんな変な噂を立てられないようにする。だって、お父さんは市長だし、暖かい仲良し家族のイメージでやっているんだものね」

大島渚は出鼻をくじかれたような気がした。

そんなイメージよりももっと大変な問題がある。イ・ビョンホンの人格崩壊を見て来たばかりなのだ。

自分の娘が失恋のために変なことになって大島家の崩壊などが起こったら大変なことになってしまう。

「彩はまだ若い。これからいろいろな男に出会うに違いない。真之介が変なことを言っていたな。彩が失恋したなんて」

上戸彩はまだ机の正面の方を向いた。

「失恋、たしかにそうかも知れない」

上戸彩はぽつりと言って、そのあとは無言だった。

市長の大島渚には彼女が向こうを向いていたのでその表情はわからなかった。

「平井堅くんは昔からの知り合いだ。彼の小さい頃から彩はよく一緒に遊んだ。だから思い出もいっぱいあるかも知れない。でも彩はまだ中学二年生なのだし、これからたくさんの男に出会うと思うよ」

上戸彩はしばらく無言だった。

何も上戸彩が言わないので市長の大島渚はさらに言葉をついだ。

「平井堅くんはきっと、心が迷っているんだよ。要するに熱病だね。パパも男だから平井堅くんの場合を冷静に分析することが出来る。男にはよくそういうことがある。きっと平井堅くんは誰かにたぶらかせられているんだよ。きっと彼は彩のところに戻ってくる。たとえ、戻って来なくても、彩にはこれから素晴らしい男性がつぎつぎにやって来るに違いないんだ。それが人生というものだよ。きっと変な女にひっかかったことを後悔して彩の前に戻ってくるに違いないんだ」

今まで机の前の方を向いていた上戸彩は上体だけをねじって市長の大島渚の方を向いた。

「もし平井堅くんが誰かを好きになって、わたしの方を振り向かなくなったとしても、わたしはその人のことを悪くは言わないわ。だって平井堅くんが好きになった人なんですもの。わたしは平井堅くんのその気持ちを大切にしたいの」

市長の大島渚は心の中でうなった。

確かに上戸彩は平井堅のことを愛している。

「彩ちゃん、そうしたらきみは何も平井くんから受け取ることは出来ないじゃないか。そんなに、まだ若いうちからそんなことを言っちゃだめじゃないか」

市長の大島渚は上戸彩の心を平井堅から引き離そうと思った。何かのきっかけで上戸彩の人格崩壊が起こったら大変である。上戸彩はあきらかに平井堅を愛している。疎遠な関係のイ・ビョンホンと釈由美子とのあいだでもあんなことがあったのだ。市長選も何年か後には控えている。かつてのライバル篠田正浩の落剥も目にしているのだ。

しかし、平井堅の心をつかんだ女とはどんな奴なのだろうかという疑問も生じた。

平井堅は大自動車メーカーの跡取りでもあるし、大金持ちである。平井堅と結婚すれば文字通り玉の輿である。裕福で幸福な一生が約束されているのだ。

きっと何かの魔法で平井堅は騙されているに違いないという考えも浮かんで来た。伝説の大番長だと言ってもまだ中学二年生なのだし、女の誘惑にはころりとまいってしまうに違いないのだ。

そしてその反面で上戸彩は平井堅に本気で恋しているようだし、娘の心の中から平井堅を取り除くことは無理なように思えた。

翌朝、市役所に出勤すると秘書のダニエラと助役のセルジオ越後が川の沿道に植わっている街路樹の害虫駆除の会社の選定のための書類を持って待っていた。まず最初にその書類を決裁してくれと言った。

市長の執務室の机の前でこの市出身有名な書家の書がかかっているのを見つめた。墨のこすれ具合や紙の余白の中に何かを捜そうとしたが市長の大島渚には何も見つからなかった。

彼はずっと昔に同じような気持ちで何が書いてあるかわからない書を見たことがあるのを思い出した。それは自分がまだ小学生の頃、たまたま校長室に入ったとき校長室の壁に掛かっているそんな額を見た。そのことがふと思い出された。

「市長、何をぼんやりなさっているのですか」

秘書のダニエラは執務室の机に座りながら前を見ている市長に声をかけた。

「市長は市がどうなればよくなるかということでいつも頭を悩ませていらっしゃるのだ」

横にいる助役のセルジオ越後が抗議した。

「いや、そうでもないんだよ。家庭内のことでね。きみたちも僕に娘がいることを知っているだろう。どうもその娘が恋に悩んでいるらしいんだ」

「まったく、けしからんですな。市長の素晴らしいお嬢さんをそんなに悩ませるなんて、一体どこのどいつなんです」

セルジオ越後は表面的だけでも息巻いている。

「その男は君も知っているさ、平井モータースの跡取りの平井堅くんだ」

「ああ、あの平井堅くんですか」

助役のセルジオ越後はその相手というのが大財閥の跡継ぎだと知って舌鋒が緩んだ。

「一度、平井堅くんに会いたいと思うのだが、いつも自宅に電話をしても留守なんでね、困っているんだよ」

秘書も助役も同時に前の方に進み出た。

「警察署長に探し出してもらえばよろしいんじゃないでしょうか。ちょうど、市議会の方で用があるらしくて、市役所に来ていますよ。一階のロビーで会いましたよ。そういうことのために警察署長はいるんじゃないですか」

どんどんとドアを叩く音が聞こえてドアが開いて、呼びもしないのに警察署長のパパイヤ鈴木が顔を出した。

「市長、御機嫌いかがですかな、あまりに顔を出さないと市長に忘れられるかも知れないんで、ご挨拶に来ましたよ」

あのもじゃもじゃとした巨大な頭が突然に現れた。

警察署長のパパイヤ鈴木は身体の横に大きな地図帳のようなものをかかえている。

「これは、いいところに来てくれましたな。こちらから警察署長のところに行こうかと思っていたところですよ」

「何か、ありましたか、まあ、この市では何もないとは思いますが」

この市ではもう長いこと事件らしい事件が起こったことがなかった。最後にあった事件は七年前で駅前にある食堂で起こった食中毒事件で、駅前の旅館に泊まっていた旅行者が玉子どんぶりを食べてそのまま死んでしまった。その旅行者の風体が奇妙だったこともあり、最初に誰かが毒殺事件だと騒いだので、この市の警察が動いたというだけのことだった。

「どうしてもつかまらない男がいてね。その男からいろいろなことを聞きたいんだ」

市長の大島渚はそのときの様子を想像していた。とにかく平井堅を正気に戻して自分の娘の方に目をむけさせなければ。

「平井モータースの跡継ぎの平井堅なんだよ。まだ中学二年生なんだけど、ぜんぜん、つかまらない」

「平井堅」

警察署長のパパイヤ鈴木はぎょろりとした目を見開いて、そのジャングルのような頭もちょっと大きくなったみたいだった。

「平井モータースの跡継ぎのあの平井堅ですか。実は」

警察署長の平井堅は持っていた綴りを市長の大きな机の上に置くと

「これを見てください」

と言ったので市長も秘書も助役もその机の上をのぞき込んだ。

「平井堅、警察でも注目しています」

そして机の上にその綴りをばんと置いた。そして開くと、最初の一ページが開いて指名手配のような顔写真がのっている。

それから警察署長のパパイア鈴木はぎょろりとした大きな目でその場にいるみんなを見回した。

「市長もご存知のように、この市には何も事件がありません、きわめて平和な市であります。しかるにこの市の平和を乱すような存在があらわれました。そのひとりが平井堅です。警察でも彼の情報を集めています」

もじゃもじゃ頭のアフロヘアーはひとりひとり人物を指さして説明した。

「これは、平井堅、鳳凰中の大番長ですな、これはチェ・ホンマン、虎中の大番長、そして、これは龍中の大番長の假屋崎 省吾、みんな私は知っていますよ」

パパイア鈴木の説明のあとで市長の大島渚は言った。

秘書のダニエラも助役のセルジオ越後もこの三人の大番長のことを知っていた。しかしその中に見かけない顔がいる。

「これは」

市長の大島渚は見かけない顔を見つけて指をさした。

警察署長のパパイヤ鈴木はその写真を指で指し示した。

「龍中の中学一年生です、こいつも、この市で何かを企んでいます。最近、どこかから転校して来たんですけどね。きっと他の三人に負けず劣らず問題の種に違いないんです」

「名前は何と」

「自分ではヨン様と名乗っていますよ」

この中学一年生がへんなおじさんを始末したことを市長はもちろん知らなかった。

「三人の大番長たちの目的は何なのですか」

「この市の中学すべてを制覇すると言っていますね」

「この中一は」

秘書のダニエラが指さすと

「全く、わかりません。こいつが何の目的でこの市に来たのかということもですね」

パパイヤ鈴木はつけくわえた。

「まあ、いいじゃない、なんやかや言っても、まだこれは中学生だから、署長。それよりも平井堅くんですよ。彼の存在は私にとってもわたしの家族にとってもはなはだ大きい、何しろわたしの家族の一員になるかも知れないんですからね」

「これはおめでとうございます。市長」

パパイヤ警察署長が言うと市長の大島渚はあわてて手で制した。

「いや、まだそうなると決定したわけじゃないですけれど、とにかく、一度、平井堅に会わなければなりません」

市長の大島渚のはらづもりはもちろん上戸彩に関連していたが詳しいことはその場にいる誰にも話すつもりはなかった。

「とにかく、平井堅をつかまえることですね。何かいい方法はないかしら」

秘書のダニエラが言うと

「いい方法があるんですよ」

警察署長のパパイヤ鈴木は執務室の入り口のところに行くと、そこに待たせていた男をつれて来た。

「一度、彼らをつかまえて職務質問でもしなければならないと思っていました。それでうまい道具を考えている男がいましてね。それがこの男です。市長にも紹介しようと思ってつれて来たんです」

「ああ、きみか」

その男が来たときに最初に声を出したのは市長の大島渚だった。

「市長、また会いましたな」

「市長はこの人をご存知なんですか」

「わたしたちも知っているわ」

秘書のダニエラも助役のセルジオ越後も同時に言った。

「靴にばねをつけて、車も自転車も電車もいらなくなるから、この交通手段を市の職員全員が買い取ってくれと言った人でしょう」

「ドクター中松」

市長の大島渚はつぶやいた。

「その後、買い取る計画は立ちましたかな」

ドクター中松のその言葉には市長の大島渚は無言を通した。

「今度の発明は凶悪犯罪者に最適です。これをご覧ください」

そう言ってドクター中松はカタログのようなものを取り出すと自分の前でひろげた。

「人間捕虫網発射機」

「言葉が少し、おかしいような気がしますが、捕虫網と言ったら虫をとるものでしょう」

セルジオ越後が言うと

「人間を捕まえるための捕虫網のようなものと言ったほうがよろしいかな」

「これはなんですか」

「この筒のさきから網が出て来て凶悪犯人を捕まえるんです。移動には、オンボロで使わなくなった消防車が一台あるそうなんで、それを使えばよろしい。市庁舎の裏に停めてありますよね」

「これで平井堅を捕まえるつもりですか」

「もちろん」

「警察署長もそういう考えなんですか」

市長の大島渚はそのカタログの中の発明品を見た。

「でも、どうやって、平井堅をおびきよせるんですかな」

市長の大島渚のもっともな質問にも警察署長のパパイヤ鈴木には採算があるようだった。

「一度は平井堅を捕まえて職務質問でもしなければならないと思っていたんですよ。それでいい考えがありましてね」

「一体、どんな」

「平井モータースの創業者、平井惣太夫の十玉そろばんが盗まれた事件を知っていますか」

「平井モータースが家宝にしていたというそろばんですか」

「そうです」

警察署長のパパイヤ鈴木はしたり顔で答えた。

セルジオ越後もその十玉そろばんのことを知っていた。

平井モータースは江戸時代に平井惣太夫が絹問屋としてその基礎を築いた。

その絹問屋を始めた頃の話しである。まだ小さな店だった。平井惣太夫が屋台で夜鳴きそばを食っているとその横で小さなお百姓の子供の兄弟が三人、ものほしげな顔をしてじっと見ていた。三人の顔は泥で汚れ、三人が三人とも指をくわえ、惣太夫がそばを食っているのをじっと見ていた。あまりに食べたそうな顔をしていたので三人の子供に夜鳴きそばを買ってやるとがつがつと食べてそのままどこかに行ってしまった。家に帰った丑三どき、家の戸をどんどんと叩く音がする。惣太夫が雨戸を一枚開けると、十玉そろばんが置かれ、その向こうの方で、もぐらが三匹ぺこりと頭を下げると土の中に消えてしまった。その十玉そろばんを使うようになってから平井家は繁栄を始めた。そして現在の平井モーターズの繁栄の基礎を築いたのである。

その家宝の十玉そろばんが突然盗まれた。平井モータースは八方手をつくしたが結局見つからなかった。

「その十玉そろばんを平井堅をおびきよせる餌に使うのですよ。実は十玉そろばんが発見されているのですが、平井家には返していないのです。こんなことに利用出来るのではないかと思い、警察に保管してあるのですよ。市民大運動会が開かれたとき建設された記念モニュメントがあるじゃないですか。あの巨大な壁にそれをぶら下げて置くのです。そうしたらきっと平井堅がそれを取りに来ますよ」

その巨大モニュメントというのはこの市にある商社ビルの補強のために片方の壁をコンクリート一面で覆い尽くしたものである。

「そして、新聞広告を出すのです。十玉そろばんを盗んだ犯人だという広告をです。そして十玉そろばんが入っている袋だと言って地上十メートルのところにぶら下げておくのです」

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