第11話

第十一回

「何者かが、市の善良な市民をおびやかす変質者を始末した。**化学工場空き地の用水池の中で繰り返し性的犯罪を繰り返していた会社員****の溺死体が鎖分銅をぐるぐる巻きにされた状態で水死体として発見された。何者かがこの犯人を殺害したものと見られる。この男の被害者は市内だけでも十数人にもあがっていた。警察も一連の性犯罪に対してこの男の犯行だと的を絞って監視している最中だった。何者がこの男を殺害したのかは全く不明である。これで夜の外出も安心出来ると中学生の一部の保護者もほっと胸をなで下ろしている・・・」

上戸彩の父親である市長の大島渚は自宅のソファーに深々と腰を落ち着けながらこの記事を読んでいたが、家族にもこの記事のことを知らせたくて南米の鑑賞用植物の葉っぱの影から妻の小山明子の名前を呼んだ。

「明子、あの犯人が捕まったよ。それも犯人は殺されてしまったんだ。一体、誰が始末したんだろう。そんな人間がこの市にいるんだなぁ。長年、市長をしているけどそんな人間がいるなんてことは全く気づかなかったよ。まあ、議会でこの問題が追求される前に片づいてよかったなあ。市議会の連中、市長が市費を削って街灯の数を減らしたからそんな事件が起こったなんて言い出すしな、市長選のいい攻撃材料を与えるところだったよ」

「誰でしょうね。そんなバットマンみたいな人って」

小山明子はそのことが現実味もないように間延びした声で答えた。「夜、遅く出歩くことがあるから私も心配していんですよね。あら、パリから取り寄せたデザインの原画、どうしたかしら、あなた、ご存知じゃない。たしかにここに持って来たと思いましたけどね。ちょっと手を加えたいのよね」

「そこらへんにあるんじゃないか」

市長の大島渚は妻のまた金のかかる道楽の道具かと思って気乗りしない声で答えた。

妻の小山明子は夫の顔色にも無関心にマントルピースの上あたりを探していたが見つからないようだった。

そこへ野球帽を被った上戸彩の弟が樫の木で出来た立派な扉を勢いよく開けて入って来た。

「何だ、僕がつかまえようと思ったのに」

扉が少し開いていたのか上戸彩の弟はその話しを全部聞いていたようだった。

「子供が変なことを言うんじゃありません。逆にあなた変ないたずらをされちゃいますよ」

妻の小山明子はまたこの子変なことを言い出すという顔をして自分の息子を睨みつけた。

「変ないたずらって、どんなこと」

弟は野球帽のつばのさきをいじりながら上目遣いに母親の顔をのぞき込んだ。

「そりゃあ、変ないたずらよ」

小山明子はばつが悪そうに息子の顔を見た。

父親の大島渚はむっりと新聞を読んでいる。

「へん、本当は僕、知ってるよ」

弟はにやりと笑いながら小山明子の方を見た。その変化を見て小山明子は憮然とした表情をした。

「まあ、本当に口のへらない子ね。一体、誰に似たのかしら」

そこでむっりと新聞に顔を埋めていた大島渚は顔を紙面から上げて自分の妻に反撃した。

「そりゃ、お前だろう、大人しそうに見えて、屁理屈をこねるのがうまいのはお前の方だからな」

小山明子は自分の夫を睨みつけた。

「まあ、憎たらしい。あなたこそ、変な言い訳をこさえて、夜、遊びに行ってばかりいるじゃないですか。そして、いつも言い訳ばかりしている。本当にお仕事の相談なんだか、どうだか、わかったものじゃありませんわ。これでも私は清和源氏の血をついでいるのよ。あなたなんて、どこかの山賊の末裔じゃないの」

「楠正成も山賊の末裔だ」

大島渚はまた新聞の方へ目を移した。

高見の見物としゃれ込んでいた上戸彩の弟もここぞとばかりに口を挟んだ。

「お父さんもお母さんも、今どき、そんなの流行らないよ」

その場所にハーモニカがあったら弟はハーモニカを吹いていたに違いない。

「まあ、憎らしい、全く、へらず口を聞くようになったわね」

母親は自分の息子を睨め付けた。

「へん、僕のは一般民衆の意見だよ。僕の方が世間のことを良く知っているね」

弟は鼻のさきを尖らした。

「ふん、お前がそんな減らず口をきいてもおにぎり一つ握れないじゃないか」

「へん、珠美さんにオムライス作ってもらうから、いいよ」

珠美というのはこの家にいるまだ若いお手伝いさんである。

「ふん、わたしが夜食をお前のところに持って行かないように言っておくからね」

「お母さん、越権行為だよ」

上戸彩の弟は腕を組んで胸を張って抗議した。

「どこが越権行為なもんですか」

市長の大島渚は呼んでいた新聞を勢いよく閉じると

「ふたりともうるさいぞ。選挙民のみなさんには暖かい仲良し家族の市長というイメージで売っているんだからな。まあ、とにかく、市の安全を脅かすへんなおじさんがいなくなって良かったなあ。これでわしも枕を高くして眠れるよ」

と言った。市長の顔には本当に安堵の表情が現れている。

そこへ半開きになっているドアを開けて上戸彩が入って来た。

上戸彩の表情にはいつものような精気がない、それは最近ずっと続いている。

「彩、お前の通っている中学校でもあの事件のことは話題になっているかい」

大島渚は首をくるりと回して上戸彩の方を見たが、あまり、その表情に変化はなかった。上戸彩はその話題にほとんど興味がないようだった。何故か外界と自分の精神を遮断することを望んでいるようだった。

「何だ、元気がないな。どうしたんだ。まだ、中学生なんだから、変なダイエットなんかに凝るんじゃないぞ。女の子はぷくぷくしている方が可愛いんだから」

小山明子はテーブルの上にのっている紅茶茶碗にティーポットから紅茶を注いだ。

「そうよ。彩ちゃん」

「何でもないわよ」

紅茶茶碗だけを受け取って自分の部屋に戻ろうとする上戸彩が応接間のドアに手をかけようとすると、弟が馬鹿にするように声をかけた。音声としては聞こえないが弟は心の中で「へん」と舌打ちをしたようだった。

「姉ちゃん、失恋したんだよ。姉ちゃんに恋のライバルがいるらしいよ」

ドアに手をかけていた上戸彩はその手を止めるときびすを返して暖炉の上に置いてある弟の吸盤のついたおもちゃの矢を手にとって弟のところに行き、その吸盤を額のところに思い切り押しあてた。吸盤は弟の額にぴったりと吸着してぶるんぶるんと揺れた。

きっと吸盤のあとがついているに違いない。

「姉ちゃん、何するんだよ」

弟は涙声で抗議したが、上戸彩はドアをばたりとしめて出て行った。

大島渚と小山明子はその様子をおそるおそる見つめた。

「本当か、彩が失恋したというのは」

夫婦は顔を寄せた。

「本当だよ。僕が嘘つくわけないじゃん」

弟はまだ涙目になっている。

「失恋したということは、つまりだ。平井堅くんにふられたというわけか」

市長の大島渚は目をまん丸くして息子の顔を見つめた。

上戸彩の両親は上戸彩の恋人が平井堅だということを知っていた。両親公認の恋人である。平井堅は家柄も申し分ない。何しろ大自動車メーカーの跡取り息子であるし、平井堅自身にも問題はない、願ってもない相手である。

市長の娘と大会社の跡取り息子、これほど理想的な組み合わせはないはずである。

「彩が失恋したということは、彩が平井堅くんに嫌われたということか」

市長夫妻は息子から話しを聞きだそうとして御用聞きから貰った棒付きの飴を上戸彩の弟にしゃぶらせた。

「そういうことじゃないみたいだよ」

弟は棒付きの飴をなめながら答えた。

「じゃあ、どういうことなの」

妻の小山明子が心配気な顔をして自分の息子の瞳を見つめた。

「姉ちゃんのことを嫌っているというわけじゃないけど、もっと好きな人が出来たってことじゃない」

弟は足をぶらぶらさせながら答えた。

市長の大島渚はそのことが頭から離れなかった。市長の執務室に入ってもそのことが頭の片隅にある。はんこを押しているあいだのそのとぎれとぎれのあいだの空白にそのことが思い浮かんでしまうのだった。

「あら、どうなさったの。ミスター大島、考え事をなさっているようですわね」

金髪の胸もおしりもでかいグラビアに出てくるような外人女性がはんこを持ったまま空中で手をとめている市長の大島渚に対して声をかけた。

「タンポポ公園にあひる池を作るなんて、誰の要望なんだ」

大島渚は自分の眼の前に置かれている書類を見ながら言った。

その表情は明らかに内面のいらつきを現している。

「近所に幼稚園がありますわよね。そこの幼稚園長の要望らしいです。何ていう幼稚園だったかしら、そう、夕焼け小焼け幼稚園という名前だったと思いますわ」

市長の秘書が事務的に答えた。

「それだったら、自分の幼稚園の中にそれを作ればいいじゃないか」

市長の大島渚は八つ当たりして答えた。

「わたくしもそう思いますわ」

「だいたい、いくらぐらいかかるんだね。きみ」

「三十万くらいです」

秘書はその金額のことを覚えていた。

「ええええっ、三十万、そんな金があったら、クラブ、パープルシャトーに何回、行けるんだ。これは議会を通ったのかね、きみ、だいたい、どこの業者がこの工事を請け負うことになっているんだ。業者によったらこの書類、破って捨てちゃおうかな」

「それは、いけませんぞ。市長」

そのとき市長の執務室の正面のドアがいきおいよく開いて、よく日に焼けた日系ブラジル人が入って来た。そして市長の執務机の端をしっかりとつかんだ。

「セルジオ越後くん、きみはこの件を知っているのか」

「ええ、市長、その幼稚園をご存知ないのですか。選挙前にだいぶポスターを貼らせてくれたじゃないですか。その幼稚園の園長は市長の味方ですぞ。ここはひとつ予算をつけた方が良いかと」

「前近代的ですわね」

金髪の女が冷ややかに答えた。

「きみ、きみ、秘書の分際で何を言うんだ」

横にいたセルジオ越後は金髪の秘書を睨みつけた。

この秘書とセルジオ越後は仲が良くないようである。

「わたくし、秘書と言っても日本の一地方の政治研究のためにここで働いているんですわ」

するとセルジオ越後はせせら笑いながら

「もう、何を言っているんだ君、このセルジオ越後がきみがロシアンパブで働いていたのを引き抜いて来ただけじゃないか」

と言った。その口調には前よりいい生活が出来るようになったのは自分のお陰だと言っているような押しつけがましさがあった。

「セルジオ越後、そんなことを言ってもいいの。あなたがロシアンパブに入り浸っていたこと、その他、痴態をみんなにばらしてもいいの」

「全く、この女は」

セルジオ越後はその言葉を床の上に吐き捨てた。

「もう、やめたまえ、セルジオくん、きみも市政の一翼を担う助役なんだから、それにダニエラ、きみも口が過ぎるぞ。まあ、いい。このあひる公園の建設に予算をつけることにしよう」

セルジオ越後はやっと安心した顔になった。

「市長、それは全く、いい決断です。これで幼稚園児たちも喜ぶことでしょう」

「喜ぶのは幼稚園の園長だけじゃないかしら。わたしには関係のないことだけど」

秘書のダニエラは自分のシャープペンを指先で弄んだ。

「まだ、言っている」

セルジオ越後はふてくされた。

セルジオ越後はこの市の助役である。そして日系ブラジル人である。市長とこの助役は利害が一致していた。市長を乗り越えて自分がトップになるという気持ちはない。ナンバー2で市長のおこぼれを貰うのが何よりも一番だと思っている。一心同体いわゆる同じ穴のむじなである。そして市長の秘書はつい最近までロシアンパブで働いていた。助役が見つけて来たのだ。みんなはダニエラと呼んでいる。

「きみたちがけんかをしていては駄目じゃないか。市政にさしさわりがある。そうだ、今晩はクラブ、パープルシャトーに行かないか。仕事ばかりでみんなストレスがたまっているから憎まれ口でも叩くようになるんだからな」

この件に関してはふたりとも異存はなかった。

「賛成ですな」

「わたしも異存はないわ」

週に一度も宴会のない夜はないと言われる日本の政治家である。宴会が行われるのは市の高級料亭である。自分はあまりそれに出ないと言う市長であるが、やはり毎日、宴会はあった。そして言外にはこの市でタクシー会社を経営している市議会議長の方がよく行っているという非難が含まれている。そして今晩は久し振りに宴会がない。そこで自分たちだけで楽しむにはクラブを使うのである。クラブには綺麗なおねえちゃん達がたくさんいる。もちろんそうでないのもいるが。その中でも市で一番高級なクラブがパープルシャトーであった。パープルシャトーのマダムは青田典子である。

「ダニエラくん、役所が引けたら車を裏の駐車場にまわすように手配してくれ」

「承知しました」

高級クラブ、パープルシャトーは市で一軒だけある映画館の隣の隣にあった。隣はハンバーガー屋である。そこら一帯の街路には四角い敷石がしきつめられているが、その敷石を何枚かはがして柳の木がうえられている。クラブパープルシャトーはその名前のとおり道に面した壁には紫色のガラスみたいなものが貼ってあり、照明でぼんやりとした光を当てられていて神秘的な様相を浴びていた。

セルジオ越後は昼間と違って満面に笑みを浮かべていた。

「千夏ちゃん、来たよ~~」

厚いアクリルの扉を開けると、猫ひろしと同じにおいのする馬鹿みたいな女がフリルのついた服をひらひらさせながら出て来た。

「セルジオ、待っていたわよ~~ん」

千夏の背後には深海のような、あるいは真空の宇宙のような世界が広がっていて、テーブルを囲んで、男や女たちが向き合っている。

「市長も来たんだから、典子ママも出迎えてくれなきゃ」

セルジオ越後は市長の手前、店のオーナーである青田典子が出迎えに来ていないことを言った。しかるに彼自身は若槻千夏がいるからそれで満足なのだったが。

「ずっーーと、ここに居座ってやるからな」

店の中のカウンターのあたりで大声でどなる声が突然聞こえた。市長たちがその方を見るとまだ若い男がグデングデンに酔って、また、机の上にうっぷしている。入ったときはその声にびっくりしたが、この手の自我喪失してしまう酔っぱらいはよくいるのだ。そして彼はまたテーブルの上に顔を伏せたので市長たち一行は何もないように店の中に入った。

「大島市長、こっちにいらして、この人は」

ホステスの若槻千夏は店内の妖しく暗い絨毯の上を案内した。

「わしの秘書でダニエラというんだ」

「へぇ、外人でも秘書になれるんだ」

ホステスの若槻千夏は振り返ると金髪の女を見た。

「そんなこと言うなら、こっちの助役さんだって、日系ブラジル人で国籍はブラジルだわよ」

ダニエラは抗議して今度は闇の中でにたにたしているセルジオ越後の方を見た。

「わたしの事はどうでもいいんです」

いつもならここで喧嘩がはじまるはずなのにやはりセルジオ越後はにたにたしていた。

若槻千夏は三人をステージから少し離れた席に座らせた。席としてはここは特等席である。市内の重要人物しか座ることは出来ない。

「いつものブランデーでよろしいわね」

若槻千夏が手を叩くとボーイが来て注文をとった。

ホステスの若槻千夏が店のマッチで火を起こすとたばこをくわえたセルジオ越後が顔を近づけた。

店の従業員入り口のところで帯を直していたマダムの青田典子が髪を直しながら店の中を歩いて来た。

「お待たせ、お待たせ」

「ママ、市長さんをお待たせて、だめじゃないの」

ホステスの若槻千夏はおかまみたいな仕草をしてマダム青田典子を迎え入れた。

「ママ、相変わらず、きれいだね」

下駄みたいな輪郭の顔、その四角四面の顔のそのままに目や口だけを緩ませて市長の大島渚がマダム青田典子に軽口を叩いた。

「やだ、市長さん、お口が上手ね。お化粧に時間がとられちゃって、いつもより、念入りにお化粧してきたのよ、これも市長さんのためよ」

やはり青田典子は髪たぼを手のひらでぽんぽんと叩いている、髪のセットが気になっているらしい。

「うれしいことを言ってくれるなあ、ママは」

そこにブランデーが運ばれて来たのでパープルシャトーのママ、青田典子はみんなにブランデーを注いだが若槻千夏は乾杯をする前にぐびぐびと飲み干してしまったので、彼女の分だけはまた注がなければならなかった。このクラブの売り上げには貢献しているわけだが。

大島渚市長がグラスに注がれたブランデーの半分くらい飲み干したところで、いつもと違う大島のかげりを青田典子は発見していた。「市長さん、ちょっと元気がありませんわね」

「そんなことあるもんか、市長はいつも元気です」

隣にいるセルジオ越後がパイナップルをひとつすくい上げて口の中に運んだ。

「パイナップルを食べ過ぎると、すっぱいげっぷが出ますわよ」

「余計なお世話だ」

ダニエラが言うとセルジオ越後はむきになった。

「大変、わたし、食べ過ぎちゃったわよ。すっぱいげっぷが出たらどうしよう」

若槻千夏が両手を胸の前でぶらぶらさせてさも重大な病気を申告された人でもあるように言った。誰も市長の方に関心を向けていなかった。

「実はちょっと悩み事があってね」

市長は少し猫背になっていた。

「娘のことでね」

そう言った大島渚の姿は市長の貫禄もなく、今はただの父親だった。

身体のどこかをつっいたらしぼんでしまう風船みたいに見える。

「お嬢さんのこと、あのきれいなお嬢さん」

そんな感想を持ったマダム青田典子は市長のご令嬢の顔が浮かんだ。

「中学二年の頃ってきみどんなだった」

「どんなって」

市長の話を他の三人は全く聞いていなかった。がつがつと食いたいものを食い、飲みたいものをがぶがぶと飲み食いしていた。

市長の相手をしているのは青田典子ただひとりである。

「だから、あの年頃の娘って言ったら決まっているだろう。恋愛のことだよ。きみの初恋はいつだったんだい、幼稚園のころにキッスをしたというような話しではだめだよ」

青田典子は右手の人差し指の先で自分のあごのあたりをいじりながら少し可愛い仕草をしながら

「そうね、やはり中学生の頃かしら」

と言った。

「それで結末は」

「そうね、中三で離ればなれになったから悲恋って言ってもいいのかしら」

「やっぱりね。初恋というのは破れるものなんだ」

市長の大島渚はいやに深刻な顔をしている。

そんな話しをしながら大島はこの店に入るとき奇声を上げた若者のことが気になったのでその方を見るとやはりテーブルの上にうっぷしたままだった。

そこへボーイがやって来てマダムに耳打ちをした。

「なに、問題のある客がいるって、どこなの」

ボーイが広い店内のはじの方の席を指さした。そこは主に金のなさそうな客を座らせる場所だった。

「どういう客なのよ、なに、行ってみればわかるって」

マダム青田典子はがつがつと飲み食いしているホステスの若槻千夏の肩のあたりをこずいた。

「千夏ちゃん、お仕事よ、お仕事」

「何よ、マダム」

若槻千夏は顔を上げると上目遣いにマダム青田の顔を睨みつけた。

他の連中はみんな若槻千夏の役割を知っていたので何も言わない、問題のある客を担当するためにこのホステスは雇われていたのである。

「変なお客が来ているらしいのよ。あんた、行って、相手してちょうだい。お金、持っていないようなら追い出してね」

「食べている最中じゃないの」

「うーーん、もう、まったく、千夏ちゃんを雇っているのはそのためでしょう」

「もう、全く、どんな客なのよ」

若槻千夏の口からはいかげそのしっぽが出ていた。

「行って見ればわかるって」

ボーイから耳打ちされた青田典子は言った。

「どこなんだよ」

「あそこだって」

ホステスの若槻千夏が見ると店の一番粗末なセットのところでどうやら人影がうごめいていた。

「行ってらっしゃい」

ほくほくして若槻千夏を見ていたセルジオ越後も今はちょうどよくほろ酔い加減になっいて若槻に冷たかった。

「行きゃあいいんだろ、行きゃあ」

やけになったホステスの千夏は立ち上がるとボーイの袖を引っ張った。

「問題のある客ってどこのどいつなんだよ、そこに連れて行けってんだよ」

ボーイはおそるおそるホステスの若槻千夏を案内した。

ホステスの若槻千夏がその場所に行くと、客は伏せていた顔をあげてニッコリとした。

「お~~~~ぃ、子供じゃねぇか」

若槻千夏は絶句した。あどけない顔をしてこの水商売の女の顔を見つめているのはまだ子供だった。肌はつるつるしている。その上、心持ちかピンク色に輝いている。

客のテーブルには何も運ばれていない。

ホステスの若槻千夏はスカートの裾をたくると客の前に座った。

いつもなら、真っ先に客の横に座って媚態を振り向くのだったが、いつもと違った。ホステスの千夏はテーブル越しに客の顔をまじまじと眺めていたが、客はつぶらな瞳を千夏の方に向けているだけだった。

「おい、お前、何者なんだよ。よく、この店の中に入って来られたなぁ。お前、いくつなんだよ。お前、中学生だろう」

するとその客は答えた。

「ヨン様ニダ」

「お前の名前を聞いてんじゃねぇよ。いくつ、年いくつかって聞いてんだよ。お前、中学生だろう」

「ヨン様ニダ」

客とホステスのあいだに押し問答が続いた。

どうしても客は店から出て行こうとしない、言う言葉と言えばヨン様ニダだけだった。

とうとう根負けしたホステスの若槻千夏は仕方なしに所持金を聞いた。

「お前、いくら持っているんだよ」

するとヨン様はがま口をとりだして、テーブルの上に小銭をばらまけて

「デザートはいらないニダ。ウーロン茶のサワー割りでいいニダ」

と言った。仕方なしにホステスの若槻千夏は指を鳴らしてボーイを呼ぶとウーロン茶のサワー割りが届いたので、ヨン様の目の前に置き、マドラーでそれを混ぜて

「ほら、飲みな」

と言ってどかんと置くと、ヨン様はなかなかそれに手をつけなかった。

「ほら、飲めよ」

ヨン様に言ってもヨン様は飲もうとしない。

「お便所、どこニダ」

「便所、行きたいのかよ。便所、あっちだよ」

手で指し示すと、ヨン様はそそくさとトイレに行った。そして、戻って来たときには小皿の上に何かのせて戻って来た。

テーブルの上に置かれたそれが何かよくわからなかったホステスの若槻千夏がそれをのぞき込むとメロンの皮だった。

「中学生なんか相手にしてられるかよ。それにお前、中学一年生だろう」

ホステスの若槻千夏がしゃべりかけても、ヨン様はメロンの皮をしゃぶりながら、焼酎のウーロン茶割りをちびちびと飲んでいる。

「あほくさ、こんな貧乏人、相手にしてられねぇよ。その上、中学一年生だしぃぃぃ」

ホステスの千夏はその席を立ち、市長たちの座っている場所に移動した。テーブルの上には豪勢なデザートが置かれ、食い散らかされている。

「千夏ちゃん、どうだった。どんなお客様」

マダムの青田典子が心配気に聞くと

「何だよ、金がなかったら追い出すんだろう。まあ、小銭は持っていたよ。ウーロン茶飲んでいるよ。ウーロン茶、一杯飲んだら出ていくだろう。ママ」

「まあ、良かったわ。市長さん、千夏ちゃんはここにいていいんですって」

媚びを込めてホステスの青田典子は市長の大島渚に言うと、やはり、市長はそんなことにも関心がないようにしんみりとした調子になって

「さっき、初恋の話しをしたじゃないか」

大島渚はその方に話しを戻した。

「まあ」

マダムは大きな目を開けて、ソファーの片隅の方を指さした。

韓国人中学生が小さなフォークを使って、巨峰を刺している。

「お前、何しに来たんだよ」

ホステスの若槻千夏が立ち上がってヨン様につかみかかろうとすると、急にヨン様は涙目になって

「デザートがないニダ、デザートがないニダ、デザートが」

それから本当に涙を流して、

「市長がいじめるニダ、貧乏な中学生に、デザートを食べさせないニダ」

「おい、何だよ、この中学生は」

セルジオ越後は身を起こしてその中学生の顔を見たが、中学一年生はやはりフォークに刺した巨峰を手放さなかった。

「まあ、いいじゃないか、デザートを食うぐらいなら」

市長の大島渚には大人ぶりをしめしながら、その表情にはやはり苦々しいものが露わだった。それは余計な金を払わなければならないということもあったが、話しの腰をおられたことの方が大きかった。

「さすがに、市長、私なんかと違って、度量が大きい」

セルジオ越後はほかに言う言葉もないのでそんなことを言って場を取り繕った。

「もう一皿、フルーツの盛り合わせを注文するわ」

ダニエラが言ったのでマダムの青田典子はボーイを呼んだ。

端の方でヨン様はフルーツをがづがつ食い、助役たちは市議会の連中の悪口で盛り上がっている。

市長の大島渚だけはマダム青田典子の顔をじっと見つめて、やはりしんみりとしている。

「さっきから、初恋だとか、悲恋だとか、どういうことですの。市長、まさか、市長がそんなことを」

「馬鹿、言うなよ、君、娘のことだよ。娘には将来を約束した男がいるんだよ。わしの目から見ても、申し分ない取り合わせなんだけどな、その男に好きな女が出来たみたいで、娘は失恋しちゃったみたいなんだな」

「市長さんのお嬢さんっていくつでしたっけ」

「中二だよ」

「じゃあ、ひとりの相手で一生確定というわけじゃいかないでしょう。まだ、若いんだから、これからいろんな事があるでしょうし、それは相手の人にも言えることでしょうしね。市長のお嬢さんの相手って一体、誰なんですか」

「君でも、それは言えないよ。私の目から見れば申し分のない相手だ。あんな男が自分の息子になったらなぁと思うような男だよ」

市長の大島渚の脳裏にはあの平井堅の日本人ばなれした奥目の顔が浮かんだ。

「まあ、随分と買っていらっしゃるのね」

「彼には彼の人生がある。まあ、それは仕方ないことだがね。問題はわしの娘だ、娘が彼のことをどのくらい思っているのか、それが心配なのだ。娘の心の中の大部分を彼がしめているとしたら、彼の心が離れたら、彩はどうなっちゃうのか」

そこで市長の大島渚は喉の焼けるようなブランデーを楽しむためではなく、理性を越えた何者かに向き合ってでもいるかのように一気に飲み込んだ。

「市長も家庭の中ではいろいろなことがあるんですね」

「あんな太陽のように明るかった彩が彼のことを言われたら怒り出して弟の頭に矢を突き刺したんだからな」

「まあ、矢を」

マダムは大げさに驚いて見せたが、市長の大島渚は渋面を少しゆるめて

「矢と言っても、君、さきに吸盤がついた奴だよ」

と言った。

市長の悩みにも関係がなく、横の方にいる連中はただで飲み食いが出来ると思ってがつがつと食い荒らしている。

そんな彼らを見て市長の大島渚はまたため息をついた。

本当に市長の悩みにつき合ってくれる連中はひとりもいない。

店の入り口に誰か入って来たようだった。

よろよろと店の中に入ってくるとちょうどよい自分の席をさがしてうろついているようだった。

薄暗い室内でその男の姿ははっきりとわからなかったが、どうやら市長の大島渚と同年齢のようだった。彼はまだ自分の座るべき席が見つからないようで、ときどきテーブルの角に足をぶつけているようだった。

その男が市長たちのテーブルのそばに来たとき大島渚は顔を見上げた。よれよれのくたびれた背広を着ているが、それは確かにあの男だ。

「篠田正浩くんじゃないか」

そう言われたその男は明らかに大島渚に会いたくないという表情がその顔に如実に現れていた。顔を合わせないようにちょっと横を向いたが、そのとき顔の半分に影が出来た。

「篠田正浩くんじゃないか」という大島渚の言葉でそのテーブルにいた連中もその顔をじっと見つめた。そのため多くの連中の視線がそこに集中した。

最近、公務の場からその名前は消えていた。

彼もやはり政治家である。そして盛んにやっていたのである。

一時期は国会のテレビ中継でもその名前はしょっちゅう見られたのである。

「篠田先生」

メロンの上に生ハムをのせていたのをほおばっていたセルジオ越後もそっちの方を見上げた。

ヨン様までもが何も知らない中学一年生のくせに篠田正浩の顔をじっと無目的に見つめた。

明らかにその視線は篠田正浩にとってはきつくて耐えられないようであった。

「何だ、きみか、こんなところにいたのか」

篠田正浩はばつが悪そうに答えた。

この地区では篠田正浩も大島渚も変な友情でつながっていた。

それはエリート意識である。

ふたりともエスタブリッシュメントであり、セレブだった。

ふたりとも市では有力な一家に生まれ、中学は越境して他の市の名門中学で学んだ。

その後、大島渚は市長となり、篠田正浩はこの地区の利益を代表する国会議員になったのである。

子供の頃からライバルでもあり、また、変な友情、つまり、エリート意識でつながっていたのである。

篠田正浩の一時期のいきおいはすごかった。大臣の椅子も狙えるところまで来ていたのである。

それが些細なことでつまずいた。つまずいたのは家庭問題だった。

「きみ、何でこんなところにいるんだ」

「ちょっと用事があってね」

篠田正浩は何も語りたがらなかった。

本当にどこかに隠れてしまいたい気持ちでいっぱいのようだったがそこには隠れる場所も、入って行く穴もない。

「あっ、そうだわ、ピアノを弾いてもらうために頼んでいる女の子がいるんだけど、どこかで見たことがあるのよね。篠田先生の顔を見たら、そのことを急に思い出したんだけど、どういうことかしら」

マダム青田典子がそう言うと、篠田正浩の顔はまた急に曇った。

「先生なんて、呼ぶのをやめてくれないか、もう、国会議員じゃないんだから」

篠田正浩は自嘲気味につぶやいた。そして言葉の終わりは声にならないほど小さくなっている。

「国会議員じゃないなんて、篠田、きみは今度の選挙に出ないのか」

大島渚は手に持っていたグラスのことも忘れているようで、飴色の液体を入れている宝石のようなガラスのカットの尖っているところが天井の照明できらきらと輝いている。

大島渚は通路を隔てたテーブルに彼を座らせると篠田正浩もあきらめの境地なのか、素直にその席に座った。

「選挙に出ようと思っても借金がかさんでいて、家までも抵当に入れてしまったよ」

篠田正浩の表情はそれほど沈鬱なものだった。

市長の大島渚はかつての友人でもあり、ライバルであるこの男が家庭内の問題で躓いたという話しをちらりと聞いたことがある。

しかし、その詳細は知らなかった。

すると剣豪小説宮本武蔵を語る人みたいな顔つきをしてセルジオ越後は言った。

「釈由美子さんは大変な爆弾だったわけですな」

すると、通路の向こう側に座っている篠田正浩が顔を上げてセルジオ越後の顔をじっと見つめたので、通路のこっち側にいるマダム青田以下、ヨン様までもがセルジオ越後の顔を見たので、彼は鼻しろんで、次の言葉を失ったが勝手に篠田正浩は次の言葉を続けた。

と同時に彼は頭をかきむしった。まるで有名な楽団の指揮者のように。

「実に大変な爆弾でした。最初はおとなしめのピアノ教師だとばかり思っていましたよ。釈由美子は」

ここで篠田正浩はまた肩を落とした。

「篠田、きみには優秀な跡取り息子がいたじゃないか。きみは僕と違って結婚も早かったから子供も大きいじゃないか、僕の子供達はまだ学校に通っている。俺はお前のことをうらやんでいたんだぜ、あんないい息子がいたんだからな。篠田一族も安泰なはずだ。それにもうすっかりと充分な大人だからな」

何も知らないのは市長の大島渚だけだった。

言う必要もないことをと言うなこの男はという顔をしてその場にいた連中は大島渚の顔を見ている。ヨン様だけが何も知らないようにみんなの顔を見ていた。

「きみのせがれのイ・ビョンホンは外交官として日本と韓国のあいだを行き来していたね、将来は地盤をゆずって、せがれを国会議員にするつもりだったんだろう」

ここでまた市長の大島渚はここでまた無知を露呈した。

そのテーブルにいる連中は中学一年生のヨン様をのぞいて、ピアノ教師の釈由美子の名前も篠田正浩の息子のイ・ビョンホンの名前も桃色暴露記事を売り物にしている女性パンチや噂の女性で目に焼き付けるほど情報を得ているにもかわらず市長の大島渚だけがこのゴシップを知らないということは不思議だとしか言いようがない。

「もう、だめだよ。息子のイ・ビョンホンは釈由美子の全くの奴隷となり果ててしまった。それが何故なのだか、僕にはわからない。釈由美子が目に見えない魔法の媚薬を息子にふりかけているとしか思えない。あああ、うち一族の将来は真っ暗闇だよ。うちの一族はもう駄目だ。江戸時代から続く呉服問屋の歴史も終わってしまったよ」

篠田正浩は身体を折り曲げ、手をだらりとさせ、床のカーペットをなめるような軟体動物のようだった。

「何を気弱なことを言っているのだ。お互いにこの市から出発して、政治の世界で旋風を巻き起こそうと誓い合った僕らじゃないか。篠田、しっかりしろよ」

このテーブルにいる連中は市長の大島渚のこの無知を表情には出さないがせせら笑っていた。

「市長は何もご存知ないのね、篠田先生が話しずらいなら私から市長にご説明してよろしいかしら」

ダニエラはそう言ったが篠田正浩は乱れた髪の毛に両手の指をさし込んで下を向いたまま無言だった。

「御子息のイ・ビョンホン氏は有能な外交官として韓国と日本のあいだを行き来していた。そして、彼には小さい頃から許嫁として今はピアノ教師をしている釈由美子という女性がいた。ゆくゆくは釈由美子嬢はイ・ビョンホン氏の妻となり、外交官夫人となり、国会議員の妻となる予定だった。典型的なエスタブリッシュメントの成り行きですわね。そんな筋書きが組まれていたのでしたわね」

市長の秘書のダニエラが篠田正浩の方を見てもやはり彼は顔さえ上げなかった。

「篠田一族だけでなく、この設計図にイ・ビョンホン氏も満足していた。それは百パーセント実現するはずだった。イ・ビョンホン氏はこの確定した線路の上で自分の政治上の実績を積んでいればいいだけだった。しかし、重要な駒となっていた平凡なピアノ教師、釈由美子に大きな不都合が生じた。訳のわからない前衛舞踏家と釈由美子は駆け落ちしたのでしたわね。それがどういう理由なのか誰にもわかりませんわ。釈由美子以外には。そして、イ・ビョンホンは全く狂ってしまった。外部の人からは信じられないことだけれども、釈由美子が彼に何の影響も与えていたとは思えない。愛情めいた思い出もひとつもないはずなのに、イ・ビョンホンの精神に与えたダメージは信じられないくらいのものだった。失踪した釈由美子とその訳のわからない愛人のあとを追ってイ・ビョンホンもすべてのものを、輝かしい外交官としての経歴も、光り輝く政治家としての将来もうち捨てて、流浪の旅に出た。そして、篠田一族は崩壊を始めたのでした」

「そんなことがあったのか」

市長の大島渚は下駄みたいな顔をしてつぶやいた。

その場にいたみんなはとても怖い怪談話を聞いたように顔を見合わせた。

そのときステージの上にあるピアノが調べをたてはじめた。

その上にある照明が黒いピアノと釈由美子を照らした。

一心不乱にビアノに向かっている釈由美子の横顔がオレンジ色っぽい光に浮かび上がった。

そのとき誰かが丸いステージの上に上がると釈由美子に襲いかかった。そして釈由美子の前に来るとひざまずき、彼女の顔を仰いだ。

「帰って来てくれよ~~~~~ニダニダ」

ステージに駆け上がった男は哀願していた。

「何すんのよ」

釈由美子はその酔っぱらいを力まかせに振り回すと彼は木偶人形のようにステージの上に倒れた。

酔っぱらいは横腹を打ってうめいた。

「イ・ビョンホン、わが息子よ」

下を向いていた篠田正浩は突如顔を上げると、ステージのそばに走って行った。

その場にいた連中もそのあとについていった。

ステージ上にはピアノを背景にして仁王立ちになっている釈由美子、そして倒れたまま、手を伸ばして釈由美子の名前を呼び続けるイ・ビョンホン、ステージの下にはすっかりと零落したが、かつてのほこりにささえられて立ちつくしている篠田正浩、そして彼を見守る市長たちという図式が出来ていた。

ステージの下から篠田正浩が朗々と声を上げた。

それは篠田一族が崩壊する前の声と同じだった。

「釈由美子、なぜ、お前は篠田一族を苦しめるのだ」

そのあいだにも酔っぱらってよこたわったままのイ・ビョンホンは死んだ魚みたいになって

「釈由美子、帰って欲しいニダ、帰って欲しいニダ、ニダニダ」

とぼそぼそとつぶやいている。

釈由美子はイ・ビョンホンなど眼中にないようにステージの下にいる篠田正浩を冷徹に見下ろしていた。

「釈由美子、一体何が不満なんだ。わが一族の名門としてのほこり、経済力、社会的地位、そして何よりも息子はお前を愛していた。それなのに後ろ足で泥をかけるような真似をお前はした。あんな訳のわからない前衛舞踏家に騙されて駆け落ちしても、目を覚ますなら今のうちだぞ」

あの大人しい、平凡なビアノ教師が、

「へっ、うるせぇってんだよ。その名門だとか、社会的地位だとか、経済力だとか、言うのが鼻につくんだよ。あたいが選んだ相手にあたいはどこまでもついていくんだよ」

「ばかな」

ステージの下にいる篠田正浩はせせら笑った。

それも実質のないものである。昔の篠田一族であったら、それも格好がつくが、ほとんど芝居がかっていて篠田正浩は芝居をしているようだった。

釈由美子ひとりに篠田一族は崩壊されてしまったのである。

そのあいだ中、イ・ビョンホンは夢遊病者のように釈由美子の名前を呼び続けている。まるで空中に彼女の実像がただよっているように。

釈由美子はうざそうに自分のすらりとした足をあげると靴をイ・ビョンホンの頭の上に上げ、地べたに押しつけた。

「お前、何すんだよ。息子に」

篠田正浩は老体に鞭うって、ステージに上がると釈由美子に襲いかかった。

「何すんだよ、このじじい」

ふたりはステージの上で絡み合ったまま髪をふりみだして平手で殴り合っている。

「やめろ、やめるんだ」

「警察、警察」

ステージの上に若槻千夏たちもかけあがって争っているふたりを引き離したが、お互いにまだまだやり足りないようだった。

市長の大島渚は自分の家に戻ってからも、すっかりと零落してしまった篠田正浩の姿が目にこびりついて離れなかった。

たったひとつのことで篠田一族は崩壊した。


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