第10話

第十回

同じ時刻、常時休業中の喫茶店「サタンの鼻」の中では龍中大番長、假屋崎 省吾が作戦会議を開いていた。

假屋崎 省吾以下、子分たちはサタンのお面を被っていた。

窓はみな遮光カーテンで閉じられて、部屋の中には黒い重厚なCDプレーヤーと音響アンプ、海外製のスピーカーが置かれ、部屋の中には鑑賞用の,熱帯植物が置かれている。

部屋の片隅にはブランデー入りの紅茶とベルギーのお菓子が山盛りに盛られている中にジャズが流れている。

假屋崎 省吾はお菓子をひと囓りすると、真ん中に置かれた大きなテーブルの上に置かれた、龍中、鳳凰中、虎中のの勢力図の上に覆い被さるようにしてその地図を指し示した。

「今晩は東B地区担当、彦麻呂から重要な報告がある」

大番長 假屋崎 省吾から名指された彦麻呂は目をぎょろりとさせて関西弁で話し始めた。

「わたしが大番長から説明のあった彦麻呂です。ふだんは料理番組のレポートをしていまっせ。大番長の命を受けて、虎中大番長のチェ・ホンマンの調査分析をしてまっせ。もう、半年ぐらい、それにかかりきりでやんがな。それでチェ・ホンマンのある特徴を見つけましたんでんがな。主に僕はチェ・ホンマンのこの地区での出現頻度を調べてますやんけ。それである法則を見つけたちゅう訳でがんな」

「それはどういうことだ」

「ちょっと待ってくれや」

彦麻呂はそう言うと自分の後ろの方から透明なシートを取りだした。透明なシートの上には黒い点がたくさんついている。しかし、その点も一様についているわけではなく、ある部分には集中しているし、密度が薄くなっているところもある。

そのシートを彦麻呂は机の上にひろげるとちょうどぴったりするようにこの地区の勢力図の上に重ねた。

假屋崎 省吾も子分たちもその重ねられたシートをのぞき込んだ。

「見てください。明らかな特徴があるやないか」

「たしかに、この地区にありながら、点がまったくついていない場所がある。そこだけ空白になっている」

「その空白には決してチェ・ホンマンは近付かないということを意味しています」

「その空白の中心は何があるのよ。勿体ぶらないで教えなさいよ」

「大番長、大発見ですって。その空白の中心にはちんけな自転車屋があるんですよ」

「その自転車屋の名前は」

「武田鉄也自転車店」

************

駅の真ん前にある軽食屋カトレヤでいつもの四人組はカレーライスを食べた。テーブルの上には小さなガラス製の容器に入れられた福神漬けが運ばれて置いてある。窓からは散髪屋のぐるぐる回る看板みたいなものが見える。それだけを見ているとアラビヤに来ているような気になるのだった。

カトレヤは二階にあり、一階はレコード屋になっている。

別所鉄也が買いたいレコードがあるというので三人はついて来たのだ。ついでに二階の軽食屋でカレーライスを食べた。

四人はそこに自転車屋でやって来た。一階の道路に面したところに自転車がとめてある。カレーライスを食べ終わった三人は夕暮れの駅前に停めた自転車にまたがると家に向かって自転車をこぎ始めた。

駅の端に瀬戸物屋がある。その隣は映画館がある。映画館には赤い大きな海老が描かれている看板がかかっている。海洋物の映画のようだった。その映画館の前に電話ボックスがあって、その横を曲がると石で出来た小さな橋があって、その橋の下には小さな川が流れていて、水の中には魚が泳いでいる。水も綺麗だったし、泳いでいる魚もきれいだった。

四人はその橋を渡って小学校の横を走り抜けた。

一人だけ自転車が遅れていた。スピードが遅い。

「お~~~い、早く来いよ」

別所哲也がうしろを振り返りながら、ルー大柴に声をかけた。

「何か、空気が抜けているみたいなんだよ~~~~」

うしろの方からルー大柴が大声を上げたので前の方を走っている三人は自転車を止めた。

「何か、タイヤの空気が抜けているみたいなんだけど」

「このさきに自転車屋があったわよ。そこで空気を入れれば」

「そうするよ」

四人がゆっくりと自転車をこいで行くと、自転車油で店中が汚れたような小さな自転車屋があった。

店の看板には「武田鉄也自転車店」とかいてある。

「ここで空気をいれれば」

KK子が自転車からおりて振り返るとルー大柴に言った。

「自転車屋さ~~~~ん」

ルー大柴が声をかけると小さな女の子がピンク色の合成樹脂で出来たわけのわからないおもちゃで遊んでいて、四人を眺め回したあとで店の作業場の奥の方に入って行って、奥の方でおじいちゃ~~~んと呼ぶのが聞こえた。

中から片手に味噌を塗りたくった握り飯を抱えて、もう片方の味噌のついた指をなめながら年寄りが出て来た。かれらの姿を認めてもやはり片方に握り飯を握り、片方の指についた味噌をなめている。彼らの前に来ると、年寄りは握り飯を半分ほおばった。

「空気入れてください」

KK子が言うと

「十円、持ってる」

「十円ぐらい持ってますよ」

「ポンプを動かすからね」

また老人は奥の方へ行った。そして何かの電源を入れたようだった。

小さな振動音が微かに響いている。

空気が出てくる管を持って奥から出て来た。

「空気、入れてください」

「どの自転車」

「これこれ」

ルー大柴が自分の自転車の後輪を指さした。

「まず、十円ちょうだい」

老人は黙って手を差し出すと、KK子がその手の平の中に十円玉を落とした。

老人はこれほどうれしいことはないという顔をして、顔をにっとした。

「よくパンクしていることがあるんだ」

「パンクはしていないと思います」

年寄りはスタンドを上げたルーの自転車の後輪をくるくると回すと空気バルブのあるところをつかんでふたをはずすと空気の出てくる管をつなぐと凹んでいるゴムタイヤはみるみる膨らんでいく。

「おじいちゃん、また、わたしのお医者さんごっこに使うゴムの管、使ってる」

さっきの女の子が怒りながら空気ポンプのはじっこを握りながら外に出て来た。

年寄りは振り返りながら空気ポンプのさきっぽを持ちながら空気を入れている。後輪のチューブの中には空気がまだ送り込まれている。

「なっ、なんだ。このじじいは」

「えっ、えっ」

四人は年寄りをじっと見つめているが年寄りは何事も起きていないように自転車の後輪の前でかがんだまま空気を入れている。

「タイヤに空気、入ったよ」

不思議である、エネルギー不滅の法則というものがある。熱や運動のエネルギーの総量は不変であるという法則である。ものすごい巨視的世界やその反対の微視的世界からすればそのエネルギーも物質の質量に変わるという、しかるにこの世界は日常世界である。空気がどこからか生成されるということがあるだろうか。それとも化学変化が生じているというのか。言葉の意味からすれば空気ポンプの管から空気が出てくるのは何の不思議はない、空気ポンプの管というものを老人が持っているのだし、空気ポンプが動いているからだ。しかし、空気ポンプと管がつながっていないのにそこから空気が出てくるというのはどういうことだろうか。

「おじいちゃん、今度、人のゴムチューブ、無断で使ったら、ただじゃすまないからね」

女の子はあかんべぇをすると、それのお返しに年寄りの方もあかんべぇをした。女の子は片手に人形を持ったまま奥の方へ行った。

「どういうこと」

KK子が言うと、三人が口を揃えた。

「知らん」

そのとき、店の前に黒塗りの高級車、リムジンが停まって、中から美少女が出て来た。

「あっ、市長のお嬢さん」

年寄りが顔を上げると花柄のワンピースを着た市長のお嬢さんが年寄りの方を見た。

「市長のお嬢さん」

四人組は市長の顔を選挙のときに顔がポスターに貼ってあったから見たことがあるがその娘を見るのははじめてだった。

「あなたが龍中のKK子さんとそのお友達ね」

「何で、私のことを知っているの」

「私は何でも知っているわ。私、あなた達とお友達になりたいのよ」

そこに立っている美少女は上戸彩だった。

「四人ともお乗りになったら、この車だったら四人、乗っても平気よ。うちにいらっしゃったら三時のお茶をさしあげますわ」

「行く、行く」

三人はすぐ行く気になった。

KK子も仕方がないのでその言葉に同意した。

高級リムジンはするすると動き出した。四人はこんなにも乗り心地の良い後部座席に座るのははじめてだった。車が加速を加えると座席のシートにどこまでも吸い込まれて行くようだった。

高級リムジンがついたところは貧乏人ばかりが住むこの市で唯一の金持ちが集中している場所だった。立派な門構えの家が並び、それらの家は大きな壁に囲まれていて、家の敷地の中には倉のある家ばかりだった。オーソン・ウエルズの大富豪の死の秘密を題材にした芸術映画、市民ケーンに出て来るような装飾された鉄扉が開けられてリムジンは庭の中に入って行った。まるで大きな薔薇の花が一輪庭の宙に浮かんでいるような感覚を四人は持った。

四人と市長の娘が大邸宅の玄関の前に立つと、横の方からインディアンの格好をした小学生が出て来て吸盤付きの弓矢を射るとルー大柴の額に命中して額には吸盤付きの弓矢がぶら下がったままになった。

「何、すんだ。このガキ」

「やめなさい、真之介ちゃん、お客様なんだから」

その小学生はあかんべぇをすると庭の茂みの中に消えて行った。

玄関に入ると、その中は教会の待合室のようだった。

向こうからひらひらした服を着た着飾った女が同じように着飾った服を着た女たちを従えて向こうからやって来る。

「彩ちゃん、桜美由紀さんの新作発表会に行ってくるから、留守番よろしくね。あら、そちらはお友達、彩ちゃんをよろしくね」

香水のにおいをぷんぷんさせながらその女たちは外に出て行った。やはり外に車を待たせているらしい。

「私のお母さんよ。これからファッションショーに行くらしいわ」

「お嬢様、三時のお茶のご用意は出来ています」

お手伝いさんが上戸彩のそばに来て言った。

四人が招待された部屋は二階にあった。上戸彩の個室だった。扉を一枚開けるとその奥にベットが置いてある寝室があるようだった。

明治時代に出来た図書館の待合室のように部屋のいろいろなところに装飾がなされている。テーブルの足はライオンの足みたいに変な曲線を描いていたし、本棚の扉の丸いつまみは宮殿を護衛する兵隊のボタンのようだった。

四人が丸いテーブルを囲んで座るとテーブルの上には紅茶とケーキが用意されていた。

上戸彩はフリルのついたカーテンのつりさげられた窓から外の景色を眺めた。

KK子は何故、市長の娘が自分たちのことを知っているか不思議でならなかった。

「わたしが何故、あなた達のことを知っているか不思議でならないようね」

「そのとおり」

別所哲也はフォークですくい上げられたケーキを口に運びながら上戸彩の方に目をやった。確かに自分たちと同じ年齢のようであるがどう考えても接点が思い浮かばない。

「まず、あのおじいさん、自転車屋の武田鉄也老人が空気ポンプも使わずにタイヤの空気を入れることが出来たかということを説明しなければならないわね」

「そのとおり」

上戸彩はまた遠い昔を思い出すように窓際へ行くと窓から見える景色に目をやった。

「まず、この市の特殊な事情はあなたたちも知っていると思うわ。この市の中学校はみんな三人の大番長、龍中の假屋崎 省吾、鳳凰中の平井堅、そして虎中のチェ・ホンマンの三人に牛耳られている。そしてこの三勢力は覇を競って拮抗状態にあることも。そのことをいつも頭の中に入れておいてちょうだい。そんな状態の中でわたしのお父様が市民ニッコリ顔コンテストという写真大会を開いた。素敵なニッコリ顔の写真を撮った人たちに副賞として中国、少林寺観光ツアーで二十人の市民を招待することに決めた。わたしもそのツアーに市の同行員として参加した。そのツアーにあの武田鉄也さんも参加したのよ。素敵なニッコリ顔の写真を撮った作品を送ってくれたからです。そして入賞したから。そしてこんなこともあるのかしら、虎中の大番長チェ・ホンマンもコンテストに入賞して、このツアーに参加していたのよ。わたしたちは成田空港を飛び立った。そして万里の長城を見たあとで少林寺に向かったのよ。みんなも知っているとおり、少林寺は達磨大師がお建てになった中国武術の発祥の地よ。中国拳法のすべての型はこの寺の中で確立したの。わたしたち一行はその歴史と精神を堪能したの。しかし、少林寺を訪れたその昼食時に事件が起きたの。少林寺の側でツアーのみんなの昼食を用意していたけど、みんなが達磨大師面壁の場所に来ていたときからおかしいと思うことがあった。その場所にツアーの全員が来ているはずなのに一人だけ来ていない人物がいた。それがチェ・ホンマンだった。でもわたしはそのことを全く気にしていなかった。みんなそこを見てからぞろぞろとお弁当を食べる場所に戻って来たらみんなのお弁当を一人で抱え込んでむしゃむしゃ食べている大男がいた。みんなのお弁当、一人で食べてる。ツアー参加者の男の子が叫ぶとその大男はじろりとにらみつけて、またむしゃむしゃと食べていたの。わがままな大男だ。わがままな大男だ、きっとあいつの庭には冬がやって来て、木枯らしが吹きすさび、地面には霜柱で覆われて、家の窓にはつららがつりさがってしまうぞ、ってまたその男の子が叫ぶと俺はみんなの二十倍大きいニダ。だから二十人分食べなければならないニダと言って顔を上げた。そしてまたお弁当をむしゃむしゃ食べ始めると不思議な顔をした。弁当の数、空き箱も含めて数え始めたのよ。十九ニダ。十九ニダ。弁当の数が一個足りないということに気づいたのよ。そして横の方を見ると木陰で隠れてこそこそと弁当を食べている人間がいる。それが武田鉄也老人だったの。それを見るとチェ・ホンマンの顔色は変わったわ。俺の弁当、食っているニダ。食っているニダ。チェ・ホンマンはその老人の方にずんずんと向かって行った。わたしの顔色は青くなった。老人がチェ・ホンマンに殺されてしまう。誰か助けて。すると少林寺の修行僧がぞくぞくとやって来てチェ・ホンマンを押さえにかかった。しかし、千年の武術の歴史はチェ・ホンマンに通じなかった。だって身体がでかすぎるんですもの。少林寺の修行僧たちはチェ・ホンマンに振りとばされてしまった。わたしは武田鉄也老人の死を確信したわ。しかし、弁当の空箱を下に置くと武田鉄也老人は仁王立ちになった。そして少林寺の型を取り始めた。鶴の型、蛇の型、猿の型、いろいろな型を取ったあとで右手の人差し指を前に出すと何かを指で突き刺す仕草を繰り返した。チェ・ホンマンは向かって行った。チェ・ホンマンの攻撃をかわした武田鉄也老人はチェ・ホンマンのへそに人差し指を突き立てた。そして言ったわ。風船になって飛んで逝け~~~~~~。そして、不思議なことが起こった。チェ・ホンマンの身体はみるみるふくれていくとぷかぷかと空中に飛んで行き、上空の気流に乗ってどこかに飛ばされて行ったの。きっと内モンゴル自治区の、どこかに飛ばされたとばかり思っていたけど、この市に戻って来ていることを知ったときは驚いたわ。お嬢さん、どんな生物でも鍛えられない場所があります。それはへそです。そこから空気を送り込むと何者であっても風船となってどこかに行ってしまうのです。武田鉄也老人がそう言うと少林寺の修行僧たちが集まって来たのよ。シーボー、シーボー、みんなはそう言いながら武田鉄也老人の足下にひざまづいた。彼こそが少林寺の武術者の中でただ一人、みんな風船になって飛んで逝け~~~~~~。を身につけた人だったの」

「それで空気ポンプを使わずにタイヤに空気を入れることが出来たんだ」

ルー大柴は妙に納得した。

「これは」

手紙を書く机の上に置かれた伏せた写真立てをひっくり返したKK子は驚いた。そこに平井堅の肖像写真が立っていたからだ。

それを見た上戸彩はあわててその写真を伏せた。

「何でもないわ」

上戸彩の頬は桜色に染まった。

「あれ、鳳凰中の大番長の平井堅じゃねぇか。この頃、しょっちゅう龍中に出没するんだよね。KK子に惚れちゃったらしいんだよ」

別所哲也がそう言うとKK子は余計なことを言うなという顔をしたが、上戸彩は心の中で苦しんでいるようだった。

上戸彩の心の中にまた、彼女の愛しい人、平井堅の顔が思い浮かんだ。

小さい頃から平井堅と上戸彩は将来を約束した仲だった。市長の令嬢と大自動車メーカー、大金持ちの跡取り息子、全くぴったりとした組み合わせだった。

しかし、どこかで歯車が狂った。

それは少林寺拳法の達人、武田鉄也の姿を上戸彩が見たことが出発点となった。

もちろん、上戸彩は三人の大番長の抗争を知っていた。

そして上戸彩は虎中 大番長 チェ・ホンマンが武田鉄也の秘技、風船になって飛んで逝け~~~~~~。によって上空の気流に乗ってどこかに行ってしまったのを目撃した。

上戸彩は自分の愛する婚約者、平井堅にこの市の中学すべてを制覇してもらいたいと思った。

そして武田鉄也にその秘技を平井堅に伝授してくれるように頼んだである。

市の金時山の頂上でその秘技の伝授が行われた。

長年の武道の修行のおかげで平井堅は一度でその技を会得することが可能だった。

上戸彩もその場所に来ていた。

さあ、風船の技はあなたに伝授しました。武田鉄也にそう言われて早速、ためして見ようと思って平井堅は不思議そうにこちらを見ている猫にその技を使おうとした。振り返ってその技を試そうとするとそこに猫はいなかった。彼が可愛がっている弟が何かおもしろいことがありそうだと思って彼らに見つからないように彼らのあとをついて来ていたのだ。誤った平井堅の指先から発する気は彼の弟のへそをめがけて命中して、弟は風船となって上空に上がって行き、その姿は点となり、いつか見えなくなっていた。

平井堅も上戸彩も愕然とした。

ふたりは武田鉄也に責任をとって貰おうと思ったが彼はいつの間にか逃げていた。

弟は見つからなかった。

そのことが平井堅の心に暗い影を落とした。

上戸彩にも平井堅を地獄から救うことは出来なかった。

平井堅は上戸彩を避け始めた。

上戸彩はもどかしかった。自分が何も出来ないことが。

しかるに、ある日、平井堅の顔に希望の光がほんのりとさしているのを発見した。上戸彩はそれが自分への愛のための希望の光だと思っていた。

しかし、事実は違っていた。

この伝説の大番長はKK子という女に惚れていたのだ。

上戸彩は平井堅の本心を確かめたかった。

あなたは誰かを愛しているのですか。

すると平井堅は答えた。

この愛の灯火を消したくないと。

そう言った平井堅のことを思うと上戸彩はたまらない気持ちになるのだった。

「あの目がうるうるしているんですが」

事情を何も知らないルー大柴が無遠慮にたずねた。

「何でもないわ」

そう言いながら上戸彩は目のあたりをこすった。

「この市が普通じゃない状態だということはあなたたちもよくわかっていると思います。中学校すべてが三つの派に分かれているなんて普通じゃないわ。わたしは市長の娘としてこの市をもっと良くしたいの。だからわたしに協力してくださいね」

「あそこ、あそこ」

別所哲也が窓の方を指さした。

「誰かが、こっちをじっと見ているぜ」

「ヨン様だ、ヨン様だ」

二階の窓際にヨン様がよじ登って、窓際にへばりつき、顔だけを出しながら、こっちをじっと見ながら、この部屋の出来事を盗み聞きしている。

「ヨン様、人の話を盗み聞きしちゃだめなんだぞ」

ルー大柴がそう叫ぶとヨン様はヘッと言って、二階からとび降りると脱兎のごとくこの屋敷の庭を走り逃げて、すぐに見えなくなった。 *********************

「人造人間の可能性があるか」

授業から脱線して理科の教師がフランケンシュタインの話しを始めた。

「人間の身体は機械であるから、やはり再生出来るという説がある。つまり死んだ人間を生き返らせる可能性だよ。機械と言っても有機化合物で出来ている機械だからね。しかし人は神の創造物であるからにして微妙精密な機械である。人間の手では作ることが出来ないくらい複雑な構造を持っているから、昔は再生出来ないと言われていた。しかるに科学の進歩によって人造人間の可能性も出てきた」

「先生の話しているのはフランケンシュタインのことですか。俺、それを映画で見たことあるよ」

窓から外に広がる空は曇り空となり、昼間なのに普段では信じられないくらいに暗くなっていた。黒い雲の中では雷のもとになる、陰イオンと陽イオンが互いに争っているようだった。雷がおこり、雨が降り出しそうな空模様だった。

「死人の身体をばらばらにしてくっっけて動くように出来るかということだな。人間の身体は筋肉で動く、その筋肉は電気信号で収縮と弛緩を繰り返すということを近代のイタリアの科学者ボルタが見つけた」

「でも、先生、その電気信号を送り出すもとになるものがなければならないと思います」

「それは人間の脳だよ。きみ、脳からその信号が送られる。だから、人間の脳さえ、生きていれば死人を、生き返らせることが出来る」

眼鏡をかけたまるこめ坊主のような優等生が教師の顔を見上げた。

「悪人の脳を使ったら」

「殺人鬼が出来るかも知れない。プロレスラーの屈強な部位をつなぎ合わせたら、恐ろしいような殺人鬼が出来るに違いないんだ」

理科の教師は眼鏡の奥の目をぎろりとさせて斜め上の方を眺めた。「本当にそんなこと出来るとは思えないよ」

「でも、そう信じている人間がいて新鮮で生きている人間の部品を集めようと思っていたら」

ここで教室中の生徒たちの表情が曇った。

この市にそう信じている人間が実際にいたのだ。

それはやごがたくさん住んでいる大きくて深い用水路のあるうち捨てられた化学工場の中が事件の端緒だった。その工場はすでに廃業されていて金網で囲まれた施設の中は無人だった。その工場の中には事件が起こる前にすでに死のにおいが漂っていた。悪魔がそこを誰知らずのぞき見ているようだった。

その中に入るものと言えば暇つぶしの種を探している中学生だけだった。その工場の中には人体に有害になるような薬品をたくさん造っていたという噂があって大人たちはそこに入ることを中学生たちに禁じていた。

まわりは森で囲まれているし、近所に住宅はないし、昼間から不気味な雰囲気が漂っていた。そこの金網を乗り越えて遊びに来た中学生たちがいた。彼らは工場の廃屋の中に入った。大きな蒲鉾型をした建物の地面の中になかば死蝋化した足が土中から出ているのを中学生が発見したのだ。

それは殺人事件だった。

犯人は意外な人物だった。

市の西北のあたりにクリーニング屋があり、中年の夫婦がやっていたのだが、突然、夫の方がなくなり、妻一人が切り盛りしているという店があった。その妻が犯人だった。妻が何かのことで口論となり、夫を殺害したのだった。この事件の特殊性というのがどこにあったのか、それはこの妻が狂人で人間をその頭部だけ保管して置けば再生出来るという宗教のようなものに入信していたことだっただろう。警察がその店の家宅捜査を行うと冷蔵庫の中に殺した夫の頭部があった。冷蔵庫の室内灯に照らされて死んだ夫の頭部がこちらを向いていた。そしてクリーニングに使うドラム缶の中に人間のばらばらにした死体部位が二三人分ぐらい見つかった。この犯人の話ではこのままでは夫の殺害の罪を問われると思ったので死体を再生させようと思って、人間の部位を集めるために殺害を繰り返したということだった。

この教室の中学生たちはその事件を思い出した。

「あなた方はあの嫌な事件のことを思い出しているようですね。でも、心配ありません。あの犯人は捕まって、すでに監獄に収監されているのですからね。むしろ心配なのは」

理科の教師は窓際に行くと窓をいきおいよく開けて校門の方を見た。すると窓際に座っていた生徒たち、ヨン様も見たのだが、校門のあたりを黒い業務用自転車が急に走り出すのを見た。男の背を丸めた後ろ姿が見えた。それは小太りの中年の男性のようだった。

「むしろ、心配なのは、変なおじさんです。すでにこの市の各所で目撃されています。みなさん、変なおじさんに気をつけてください。変なおじさんは甘言を持ってみなさんに近付いて来ます、ドラクエ3持っているんだけど、一緒にやらない。おじさんの家に来ない。やさしい言葉で近付いてきます。ケーキをごちそうしてあげるよ、おじさんの友達になってくれない、こんな言葉を信じてはいけません。それに変なおじさんは人気のない草むらのある空き地であの黒い業務用自転車の横に立っています。そして、ふたりきりになると態度を豹変させるのです」

「へんなおじさんは何をするんですか」

丸めがねをかけたクラスで一番背の低い優等生が質問した。

ルー大柴は聞いていてばかばかしくなった。すると誰かが言った。

「いたずらをするんだよ」

するとヨン様は急に首をすくめた。

「この前、変なおじさんに追いかけられたっていう友達を知っているよ。自転車に乗って追いかけて来たんだって、一生懸命走って、自転車が通れないような路地裏に逃げ込んで逃げ延びたんだって」

「大事にいたらなかったのですね、よかった。へんなおじさんの何よりも好きなものは男の子のおちんちんです。でも、女の子も安心してはいけません。変なおじさんは女の子も大好きです」

窓の外の雲はいよいよ黒くなり、この市の上に重く押しかかった。下校時間になり、KK子が下駄箱の前で靴を履き替えると今にも雨が降り出しそうな重っくるしい景色の中で校舎の出入り口のところでヨン様が立っていた。KK子はいったい誰をヨン様は待っているのだろうかと思ったが、それは自分ではないだろうとは思った。案の定、いつも元気のいいあの連中、つまり学級委員会で解剖されようとしたヨン様を助けたあの連中が来たとき、ヨン様の表情に変化があったのでKK子はヨン様が彼らを待っていたことを了解した。彼らが出入り口から走り出て行こうとするとヨン様は彼らを押しとどめた。

「今日はやごとりに行くニダか」

「そうである」

彼らは口を揃えた。彼らは薄汚れたズックで出来た肩掛けかばんをぶらぶらさせた。

「今日はやめといたほうがいいニダ」

「なんで」

「何でもニダ」

「いくらヨン様の忠告だからって僕らはきかないからね。こういう曇天の日の方がやごは水面近くに上がって来てとりやすくなるんだよ」

「どうしてもだめニダか」

ヨン様は困ったような顔をした。

「ごめんな、ばいばい」

彼らは校門を走り出た。

KK子はその様子を見ていたが、ちょっと目を離したすきにヨン様の姿は見えなくなっていた。

ヨン様って何てすばしっこいの、KK子はそう思った。

元気のいい連中はやごとりにやる気まんまんだった。やごのいる場所は例の化学工場の廃屋である。あそこの深い用水池の中にやごが自生しているのである。

彼らはいつものように工場を囲っている金網を乗り越えようと思っていつもの場所に来たが、その場所はいつもと違っていた。金網の下のところに大きな穴が開けられていて、そこにゾンビのような妖怪のゴム製の仮面を頭からすっぽりと被った大人が座っていた。

彼の横には捕虫網がたばねられて置かれている。

彼らはその穴から工場の中に入った方が簡単だと思ったのでそこから入ることにした。

彼らがそこから入ろうとすると大人が彼らを呼びとめた。

「きみたち、やごとりをするんだろう」

「おじさん、誰」

「僕は町の昆虫学者だよ」

ゴム製の仮面の下からくぐもった声で答えた。

「実はきみたちを待っていたんだよ。僕はおもにやごの生態を研究している。ここに置いてある網もそのための用意なんだ。君たちはやごを採るのが上手だろう。そこでどうだろう、この網を貸してあげるから、やごを僕のかわりに採ってくれないかい。一匹、十円で買い取ってあげよう」

その話しを聞いて彼らは顔を合わせた。彼らはそのことに何の疑いも持たなかった。よく、龍中の校門の前では竹で出来たじゃらじゃらと音を出す蛇のおもちゃや、閉じて開くといろいろと絵柄の変わるカルタをつなげたようなおもちゃや、ぜんまいで動くブリキの自動車、いろいろな動物のかたちになっている棒付き飴を売りに来るおじさんがしょっちゅう来ているからだった。

「悪い話しではない。じゃあ、網を貸してくれるかい」

彼らは網を手にとるとやごがうようよしている用水池の方へ向かった。用水池は一辺が十メートルくらいの四角で深さはどのくらいあるかはわからない。コンクリート製で水をためている垂直な壁面が下の方に行くと見えなくなっている。深いことは確かだ。彼らは網を持ってその中をのぞき込むとやごがうようよと動いている。

金網のところで例の大人が彼らをじっと見ていることも気づかなかった。彼らが網を用水池の澄んだ水の中に入れると屈折率の関係で網の柄は折れ曲がって見えた。

彼らが池の中をのぞき込んでいると誰かが背後に忍び寄っていた。荒い息づかいが聞こえた。彼らが後ろを振り返るとゴム製の仮面の下からよだれがしたたり落ちている。そして、大人はズボンのチャックを開けて自分のいちもつを出して、右手でそれをしごいていた。

「あっ、お前は」

彼らは口々に声を出した。

開けられた金網のところを見ると業務用の自転車が針金でしばりつけられていた。

「へへへへへへ、もうにげられないよ」

男は舌なめずりをしているようだった。

「おっおっ、お前はへんなおじさんだろう」

「今頃、気づいても遅いよ。可愛い子羊ちゃんたち」

彼らは一目散に逃げ出して金網をよじ登ろうとしたが中学生にはその金網は高すぎた。

ひとりの中学生はよじのぼろうとしてズボンを男につかまれてばだばたとした。

そのときである。蒲鉾型の廃屋の工場の屋根から高らかな声が聞こえた。

「へんなおじさん、お前の好物はこれだろうニダ」

高さ十メートルの屋根の上からチャックを開けた韓国人中学生が自分のいちもつを出すと空中でぶらぶらさせた。

韓国人中学生の声は雷を含んだ黒雲を背景にして朗々と響いた。

「はははははは、へんなおじさん、いや、はっきりとお前を変質者と定義するニダ、さあ、これをつかまえられるものならつかんでみるニダ」

韓国人中学生は自分のなにをつかんでぶらぶらさせた。

韓国人中学生は地上に降り立つとものすごいいきおいで走り始めた。変質者も平行に走り出す。そしてヨン様は急に方向を変えて用水池の方に向かって走り出した。

それを見ていた中学生たちは叫んだ。

「ヨン様、そっちはだめだ。用水池でおぼれちゃう」

ヨン様を追って変質者もものすごいいきおいで走り出す。

ヨン様が用水池にはまってしまう直前、ヨン様はジャンプをすると十メートルもある水面を飛び越えて用水池の向こう側に降り立った。変質者を水がさえぎり、そこで立ち止まった。

「お前の悪事を懲らしめるニダ」

ヨン様は鎖分銅をとりだすとぶんぶん回して向こう側から変質者に向かって投げつけた。

「うっ、ぎゃあ」

その鎖とおもりは変質者の身体に巻き付き、よろよろとよろけ、変質者の動きは停止した。倒れまいと身体の平衡を保とうとしてよろよろしている。その微妙な力の釣り合いのためにほんの小さな力だけで良かった。ヨン様がおもりを用水池の中に投げ込むとどぶんと大きな音がして水しぶきが上がった。大きな水しぶきは五十センチくらいあがり、水面に吸い込まれるようにそれは消え、水面の下の世界に変質者は行った。彼は水の中に飲み込まれて、そのかわりにぶくぶくと水の泡だけが水底から上がってきた。やがて水の底へその姿は見えなくなった。

ヨン様は用水池のふちに立つと満足気にその様子を見つめた。

*****************

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