第7話
第七回
龍中のある商店街を抜けて行くと、昔は澄んだ水をたたえていただろうと思える川がある。意外にその川は広く、深くて、川の片側は自動車の通れる道路になっているが、もう片側は崖になっていて、ちょっと不気味な木々に覆われていて、崖の上の方には死体焼却場の灰白色の煙突がすっと立っている。その崖の一郭に白亜のベルサイユ風のマンションが立っている。地中海の住まいのように白く波立っている壁と海のような青い天井がついている十階建てのマンションがある、つまり日本で言うところの高級分譲アパートである。そこの最上階の一番東側に假屋崎 省吾が住んでいる区画がある。
白いバスタブの中に薔薇の花を埋め尽くし、
バスタブの横の青いすみれやえにしだをデザインしたタイルには金色の石鹸置きと金色のお湯の出る蛇口がついている。金色のお湯の出る蛇口からバスタブの中にお湯を注ぎ、頭にピンク色のタオルを巻いた女が赤い薔薇の花弁に包まれたお湯の中から、声をかけた。
「省吾ちゃん、早く、いらっしゃい」
女は明らかに水商売の女である。商店街の中にあるクラブ、パープルシャトーのマダムであった。
バスルームの扉が静かに開いて、タオルで前を隠した全裸の假屋崎 省吾が入って来ると、彼はそろりそろりと薔薇の花で全面を覆われた湯の中にパープルシャトーのマダムの身体をよけながらお湯の中に身を沈めた。
假屋崎 省吾は中三でありながらバーのマダムと同棲していた。そのマンションの一室で大番長ではない、別の一面を見せていたのである。
「省吾ちゃん、最近、おもしろい事、あった」
「あるわけないじゃない、あんた。膠着状態はまだ続いているわよ。本当にいまいましいったらありゃしない。まだ、鳳凰中ですら、陥落出来ないんだから、子分たちがだらしがないのよ。本当に」
「省吾ちゃん、大事の前にあせりは禁物よ」
大番長假屋崎 省吾、その身体能力は異常ではあったが、頭の方は中の下だった。基本的には何でも腕力で解決しようとした。電柱に自分の自転車をチェーンでつないで、その暗証番号を忘れて自転車がのれなくなったときは力まかせにチェーンを引きちぎって、チェーンを引きずりながら自転車をこいだりするのである。そんな腕力ひとつで暴走しようとする假屋崎 省吾をいいように手なずけるのが、このバー、パープルシャトーのマダムであった。
この浴室の中では子分たちに見せない一面を見せる、悩みもこの女に相談する。
「典子、わたし、本当に平井堅とチェ・ホンマンを打倒出来るかしら」
「心配することないわ。牛のように進むのよ。省吾、あなたが三中学を統一する日は近いわよ」
「本当、うれしい。典子」
このバーのマダムの名前は青田典子という。
青田典子におだてられて、喜んだ假屋崎 省吾は薔薇の花をかき分けて裸の身体を裸の青田典子の方に近づけて、そのくちびるにキッスをした。それから湯船の中で熱い抱擁をした。
ふたつのイルカが海の中でじゃれているように湯船のお湯がざわめいた。
それから身体を離すとまた、内輪話を始めた。
「省吾ちゃん、龍中で何か、おもしろい事はないの。学校で起こったことは、みんな、この典子に話してご覧なさい」
假屋崎 省吾は最近、子分たちが収集した話しを思い出してみたが、これと言っておもしろい事もなかった。
假屋崎 省吾は何の興味もなかったのだが、二年B組の何とか言う女が風呂屋の入り口で誰かに告白されたという話しがあったような気がしたが、あまり、詳しい話しは知らなかった。
「大黒湯の入り口でうちの女性徒がどこかの男に愛の告白をされたというような話しがあったかしら」
「ほほほほほ、中学生らしいわね。可愛いい」
青田典子も微笑んだ。それからふたりはまたお湯の中で抱き合った。
翌日、大番長假屋崎 省吾は子分をぞろぞろつれて龍中の廊下を巡回していた。生徒たちはこの怪物を怖れて遠くから彼を離れて見ていた。假屋崎 省吾の姿はあたりを威圧した。その長髪も豪奢な学ランも廊下をするようである。廊下は真ん中に白いペンキで往きと帰りの交通整理がなされていたが、假屋崎 省吾は廊下の真ん中を占有して一人暴君のように歩いていた。假屋崎 省吾のうしろには武骨な子分たちがしたがっている。
教室の中の生徒達はみんな首をすくめて假屋崎 省吾が通り過ぎて行くのを沈黙しながら待っていた。それはまるで江戸時代の大名行列の一行が街道を通過して、茶店のそばにいた平民が土下座してそれが行き過ぎるのを待っているようだった。
突然、假屋崎 省吾の歩みが止まった。
そして、廊下と教室を隔てている窓から教室の中に視線を止めた。
「一年D組、一年坊主なのね」
假屋崎 省吾はつっぱりがよくかけている眼鏡のふちがつり上がっているそれを指先でずり上げた
そこは一年生の教室だった。つい、六ヶ月前まではランドセルを担いで小学校に通っていた連中である。教室のうしろにはポケモンのカレンダーがつり下げられていた。
假屋崎 省吾の眼はその教室の中の何でもない生徒に注がれていた。
頭はマシュルームカット、そしてちょっとしゃれた銀縁眼鏡をかけている。その生徒は校庭に面した真ん中ぐらいの席に座っている。
机の上には画用紙帳を出し、クレヨンを出し、何か、お絵かきをしている。
假屋崎 省吾の眼はやはりその生徒に注がれていた。
その様子に子分たちも気づいた。
向こうから、びくびくと歩いて来る生徒を子分のひとりがつかまえた。
「大番長様、わたしは何もやっておりません~~~ん。どうか、お許しを」
「別にお前がどうというわけではない。大番長様が興味がある生徒がいるとおっしゃっている」
子分はそう言って、さっきの窓際でクレヨン画を描いている生徒を指し示した。
「あの一年坊主のことを知っているか」
「ええええぇぇぇぇ、あの生徒ですか。大番長様。あれは日本人じゃありません。三ヶ月前に龍中に来たんです。大番長様。みんなは彼のことをヨン様と読んでいます」
「ヨン様」
大番長假屋崎 省吾は舌なめずりをした。何故か大好物を見つけたように。彼には何か、その中一坊主に感じるものがあった。
このヨン様にその日の午後、学校から帰るとき、出来事が起こった。
出来事というほどのものではないが。
一年D組では学校が終わって帰りの礼をする前に学級委員会というものがおこなわれることになっていた。
その時間もヨン様、つまりペ・ヨンジュは画用紙帳とクレヨンを出し、何かを描いていた。
「皆さん、何か議題がありますか」
すると、いつもレリアンを編んでいる女子生徒が手を挙げた。
「はい、学級委員、このクラスに変なお友達がいます」
「誰です」
「転校生のペ・ヨンジュくんです」
すると、ヨン様は今まで動かしていたクレヨンを持つ手を止めて、
発言した生徒と学級委員長の顔をかわるがわる見つめた。
「この子、おかしいわ」
三つ離れたところに座っている女が突然、立ち上がると、ヨン様をゆびさした。
「理科の時間でも、社会の時間でも、国語の時間でも、いつもクレヨンを握って絵を描いているんですもん」
「そうだ、たしかに、おかしい」
もう一人の生徒が発言すると学級委員長は彼を制した。
「発言する前には手を挙げてください」
すると、少し離れた生徒が手を挙げ、委員長に指名される前に立ち上がり、発言した。
「勉強もしないで、いつも絵ばかっかり、描いているのはおかしいと思います」
「絵じゃないぞ、それ、塗り絵だよ」
そう言われて、ヨン様の隣に座っている生徒がその画帳をのぞき込むと確かに塗り絵だった。
画用紙の中には大きな蜜蜂と花と三角屋根の小さな家の輪郭だけ描かれていて、それは妖精が作った牛や羊が住んでいる牧場のようだった。まだ、あまり色がついていないが、小さな池やアカシヤの林なんかがあった。そしてその中の三分の一がクレヨンで塗られていた。
「塗り絵だ。塗り絵だ」
笑い声と嘲笑が教室中にあふれた。
その様子にヨン様はひどく混乱しているようだった。
追い打ちをかけるように今度は教室の廊下側の一番前に座っている生徒が振り向いて言った。
「それに、ヨン様が話しているのを聞いたことがない」
「お便所どこ、給食いつっ、て言うのを聞いたことがあるぞ」
そこでまた笑い声が起こった。
教室のうしろの方の席でいつもこの教室の支配権を握っているちょっとニヒルな生徒が後ろの方にのけぞりながら
「そいつ、日本語、話せないんだよ。GG電子の修理工場が川のそばに出来ただろう、それで転校して来たんだよ。そいつ、朝鮮語しか、しゃべれないんだよ。へへへへへ」
そのとき何者か訳のわからない遊星人の襲撃を受けたような衝撃が教室中に広がった。
「チョンだ。チョンだ」
教室の中にざわめきが走った。
「この教室の中にチョンがいるぞ」
ヨン様は教室の連中が何を話しているのか、わからなかった。
しかし、非常なる敵意の塊を感じて、心の中に動揺を覚えた。
「何で、チョンがいるんだよ、ここは虎中じゃねえぞ」
「そうだ、きっと虎中のスパイなんだよ。チェ・ホンマンに命令されてここに来たのに違いないぜ」
「そうだ、スパイだ。スパイだ」
教室中の敵意と嘲笑と無関心がヨン様のまわりに押し寄せて来た。
しかし、教室のみんなが何と言っているのか、ヨン様には理解出来なかった。
「私が翻訳するわ」
何故だか、ハングルを理解出来る女子中学生がヨン様の斜め後ろに座っていて、身を乗り出すとヨン様に朝鮮語で話しかけた。
「みんなはあなたに非常なる敵意と嘲笑を持って向かっています。みんなはあなたが虎中のスパイだと言っています。チェ・ホンマンの命令でやって来たのだと言っています」
するとヨン様はその女子学生に朝鮮語で答えを返した。
「みなさん、ヨン様はみなさんを愛してるニダ。塗り絵は脳年齢を三歳若がえらせるという話しを聞いたニダ。それで塗り絵をやっているニダ。もう、三冊も完成したニダ。次には牡丹と鹿の塗り絵を完成させるニダ。それから今度の日曜日には忍野八海まで行く予定ニダ。あそこは景色がよいということを聞いたニダ」
ヨン様は関係ないことまでも付け加えた。
すると女子学生はそれを日本語に翻訳した。
「みなさん、あなた方はわたしが虎中から来た、チェ・ホンマンの命を受けたスパイだと疑っているようだが、わたしの故郷はこの小惑星から、はるか三十億光年離れたところにある。常時、星の生成と消滅を繰り返している白鳥座星雲にある。と申しております」
「嘘ついてんじゃねぇ」
クラスのあちこちで罵声と嘲笑が起こった。
すると女子学生はまた朝鮮語で何かを伝えようとした。
「韓国にも、塗り絵はありますか。中学には給食がありますかとみんなは聞いています」
「韓国にも塗り絵はあるニダ。給食もあるニダ」
女子学生はペ・ヨンジュの方に向けていた顔をみんなの方に向けた。
「円盤の予期しない故障のためにこの小惑星に降り立った。最初に藤子不二夫先生の魔太郎が来るで地球人の宇宙観と人生観を勉強した。その中で発見した、恨みはらさでおくべきか、これは自分の好きなフレーズであり、人生の座右の銘にしている。地球での活動のために最初に見つけた地球人を殺害して、その中身を抜いて、その中に入っている。だから、現在の姿は本当の自分の姿じゃない、と申しております」
「ふざけんじゃねえ」「嘘つくな」
また、教室のあちこちで罵声と嘲笑がわき起こった。
教室の後ろの方でこの教室の支配権を握っている、ちょっとニヒルな男がニヤリと笑うと言った。
「じゃあ、本当に宇宙人か、どうか、調べりゃいいじゃないか。そいつのパンツを脱がせて、ちんちんがついているか調べりゃいいんだよ」
「そうだ、そうだ、解剖だ。解剖だ」
教室中は騒然として、異常な熱気と暗い欲望に満ちた瞳がヨン様に注がれた。
ヨン様はそれを感じたので画用紙帳で顔を隠した。
「おい、ちんちん見せろ」
教室中の生徒がヨン様のまわりを取り囲んだ。
「おい、帰ろうぜ」
「俺も帰る」
この教室の中で、やごとりやら、かけっことか、遊びと食べることが大好きで、いつも朗らかな生徒が早く家に帰って、作りかけの模型飛行機のことを思い出したりして、家に帰ると言って立ち上がった。
「俺達、帰るからな」
「そんな事、許されるかよ」
「馬鹿野郎、ぶっ殺すからな」
「学級委員会を欠席していいと思っているの」
「へん、俺達は帰っちゃうからな」
「いい度胸しているじゃねえかよ。全権を俺達は先生から委ねられているんだからな」
ニヒルな生徒がすごんだ。
「帰ろう、帰ろう」
それらのグループは肩にかばんをかけると教室のドアから出て行こうとした。
「学級委員会を何だと思っているのよ」
女子生徒が金切り声を上げた。
ニヒルな生徒たちが出口のところで通せんぼをしている。
「帰ろう、帰ろう」
「帰んじゃねぇよ」
入り口のところでもみ合いになった。しかし、活発で遊び好きの生徒たちは彼らをふりほどくと廊下を駈け抜けて行き、だいぶ離れたところであかんべぇをした。
「ちきしょう、あいつら、逃げやがって」
「いいよ、いいよ、ヨン様の解剖はこれからだ」
と教室に残った生徒たちはヨン様を捜したが教室にはもうヨン様はいなかった。さっきのどさくさに紛れてヨン様は逃げ出していた。
最初に教室から逃げ出した中一たちが川のはたを猫じゃらしで遊びながら歩いていると、うしろから人が来て紙片を渡した。
それはヨン様だった。
ヨン様はにっと笑うとすたすたと向こうの方に行ってしまった。
紙を受け取った生徒たちがその紙片を開いて見ると
さきほどはかたじけない。
大した問題ではないが、騒ぎを起こしたくないので
好都合であった。
余の本当の身分はいずれ明らかになるであろう。
と書かれていた。
*************************
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます