第7話 錘(おもり)

「僕はね、自分のことはもう、粗方大丈夫だと思っているよ。本当は早く律ちゃんの元に行きたいくらいなのだから。でもね、石岡のことは、放っていけないって思っているのだよ。」

 低く、ゆっくりとした声で亮さんは呟いた。

 私たち二人も、伸一さんの隣で静かに横になった。亮さんの心配する声が、耳の奥に残っているような気がした。


 あくる日の朝は、大人3人の目が少し腫れていた以外は、何事もなかったような始まりだった。

 私の中では、亮さんと伸一さんの慟哭が残り、もやもやと落ち着かない。ドキドキする。それでも、子ども達と大人たちのご飯を作り、洗濯をし、掃除をした。耳の奥で亮さんの声が響いていたけど、気にしないように身体を動かした。

 これからの3か月をどうしようか。まずは、遊びに行く計画をしなくちゃね。独り言をつぶやいていたら、伸一さんが答えた。

「遊園地やアトラクションテーマパークとかいいんじゃない?野球観戦も行きたいって言ってたよね?」

 私たちはお互いのスケジュールを見せ合いながら、場所や時間を決めていった。

「出来るだけ楽しもう!」

 伸一さんが笑って話す言葉に同意して、子ども達に希望を募り、誰がどこに行くか決めながらその先の憂鬱を忘れようと心に決めた。


 どこに遊びに行くのにも、伸一さんは嫌な顔をせず同行してくれた。子ども達にとって、大人の男性2名付きの外出は珍しく、どの子もはしゃいでいたと思う。亮さんの余命については、どの子も分かっていたが、目の前の楽しさに心を奪われているかのように振舞っていた。家に戻ると、亮さんが良くなる方法はないか…とつい皆で話し込んでしまう。何度も泣きながら話し合ったが、良い案は見つからなかった。時には伸一さんが泊りがけで話し合いに参加して、号泣することもあったが、少しずつ亮さんの気持ちを優先することが一番良い方向なのかもしれないと思い始めていた。

 亮さんの身体は、徐々に痩せていき、歩くだけで息があがるようになったのは8月末であった。動き回る場所へ遊びに行くことを止め、車いすを使って見て回ることを中心に行先を決めたが、動くことが難しい状態に近づきつつあった。


 9月15日、長男である滉一の誕生日を祝うため、私の家に皆が集まっていた。

「僕はもう、ホスピス病棟に入院しようと思っている。」

 亮さんが、乾杯のあとに皆にそう告げた。

「こんな祝いの時に申し訳ないけど、皆にきちんと言いたくてね。僕の我儘に付き合ってくれて、本当にありがとう。今住んでいるマンションは、大体片づけた。もう引き渡せるよ。石岡、貰ってくれないか?そして、預金通帳は、優里ちゃんに持っていて欲しいんだ。これからもいろいろ面倒を掛けてしまうと思うから…。律ちゃんや両親のお墓とかは、きちんと供養できるように手配したし、何にも心配はいらないのだけど、僕自身の後のことについてはやっぱり誰かに頼むしかなくてね…。」

 皆、泣きだしていた。でも、亮さんの穏やかな表情と静かな口調は、異議を唱えることを許していなかった。

「うん。分かった。最期まで手伝わせてね。」


 入院までの時間は、亮さんの仕事関連や書類関係のものが多く、ほとんどを伸一さんにお願いした。私は、マンションにあった荷物などを整理したり、掃除をしたりと出来る限り身体を動かし、くたくたになろうとした。私が亮さんの死を受け入れられないのだ。死んでほしくない、何としてでも、1分1秒でも生きていて欲しい、願っても叶わないことを何度も心の中で叫んでいた。


 最近の病院には、入院セットというものがある。寝衣やタオル、バスタオル、オムツなど必要なものが準備されており、入院のための荷物が少なくて済む。亮さんは、律ちゃんや両親と一緒に写した写真と下着、携帯電話を携えて入院した。

「写真も携帯電話に保存されているのだけど、いつも見えるところに置いておきたくてね。」

 少し照れたように笑って話した。亮さんの頬は落ちくぼみ、身体全体が二回り程小さくなっている。

「実は、ほとんど水分しかダメでね、痩せたでしょう?」

 私の視線を真っ直ぐに捉えて、静かな口調で言った。

「夕方には、石岡も来るから、少し話しをしよう。」


 自宅には遅く帰ってもいいように、夕飯の準備も済ませてきていた。入院の手続きは、早々に終わりpain clinic担当医師から今後の疼痛コントロールについての説明を受けた後、亮さんを病院のパジャマに着替えさせ、二人で病室のソファに座った。動くだけで息があがる、どう見ても今の亮さんは、病人にしか見えない。胸の奥がざわざわしてきた。


「おっと、もう入院患者さんに様変わりですね。」

 軽口を叩きながら伸一さんが入っていた。落ち着いた色合いの壁紙と少し暗めの照明の病室には、その口調は似合わないなと思い、亮さんがもうすぐ死を迎えることを受け入れつつある自分に気が付いた。

 子ども達の近況を笑いながら話していても、私の心は落ち着きを取り戻すことが出来ずにイライラしていた。


「優里ちゃん、何か話したいことがあるでしょう?僕は一度もご主人の話を聞いていなかったと思うのだけど、それはどうしてなのかな?」

「今、それどころじゃないでしょう?どうして、いつも他人のことばかり気にするの?」

「今だからだよ。優里ちゃんや石岡ときちんと話ができる時間は、僕にはあと少ししかないからね。」

「でも、だって、そんなこと無いって…。それに、もっと他にあるでしょう?身体のこととか、苦しくないの?何かして欲しいこととかないの?何でも言って?何でもするから…。」

 何だか涙が溢れてきた。何も出来ない自分が嫌になる。


「僕もね、律ちゃんが亡くなる前、いつもそう思っていて、いつもイライラしていたよ。律ちゃん本人が僕に伝えたかったことを聞こうとせずにね。僕が願うのは、僕の身体についてではなくて、遺していく人達の幸せだけだよ。ね、教えて?ご主人とは何があったの?」

 私は、亡くなった寛人君のことを考えた。そして、ずっと胸の奥にしまっておいた黒い塊を見つけた気がした。

「寛人君は交通事故で亡くなったって話したでしょう?他に何もないよ。」

「でも、何かあったのでしょう?話してみて?」

「寛人君とは、社会人になってから入った大学で知り合ったって話はしたよね?とっても優しい、いい人だったよ。子どもが3人生まれて、私は育児に追われ…、仕事もしていたし、本当に大変だった。父の体調も悪かったから、母にも手伝ってもらえなくて…、寛人君も出張が多くて、家に居なかったから、女性が働くことに異論はない人だったけど、育児とか家事とかは全然ダメで、私は夜勤もあったし…。そう、だから私忘れていたのだと思う…。」

「何を忘れていたの?」

「自分が女性であること…」

「ん?」

「化粧とか、服装とか、諸々のことをおざなりにしていて、だから仕方なかったのだと思う…。」

「仕方なかったの?」

「そう、寛人君が浮気をしてしまったことも、元を正せば私が悪かったと思う…。」

「自分が悪かったって、思っているのだね。自分を今でも責めているの?」

「そう、事故のあったあの日は、寛人君の浮気が分かって、二人だけで話し合うために外食する予定だった。家での様子が変だったから、カマを掛けたのよ。そしたら、出張に同行していた同僚とホテルに一緒に泊まってしまったってポロっと漏らして、私が激怒してしまって…、離婚の危機だった。私、すっごく怒っていたから…。本当は、子どもも3人いるし、離婚とか考えていなかったのだけどね、本当に腹が立ったのよ。私は育児に家事に仕事に頑張っているのに、何よ!ってね。それでも、12月24日クリスマスイブに少しお洒落なお店を予約して、一緒にご飯を食べて謝ってもらうつもりだった。でも直前になって私行けないって思ってしまって…。鏡の中にいた私は、育児や仕事に疲れ、年寄りも老けて見えるほどボロボロになっていた。こんな私を見せたくない、こんな私じゃ女性として見てもらえなくて当たり前だって…。何度も何度も自宅の電話が鳴ったわ。『はやくおいで』って、『待っているよ』って、留守録から彼の声が聞こえたけど、行けなかった。寛人君が死んだのは、この日の帰宅途中よ…。私があの日、あの店に行っていたら、違う、もっと女性として愛される人であり続ける努力をしていたなら…。」

 私は涙が溢れ、次の言葉が止まってしまった。私は本当にこんなにも自分を責めていたのだ。誰にも言えない程・・・。


「寛人さんは死ななかったかも?って思うのだね。自分を責め続けているのだね。辛かったね。ずっと抱えたまま、先に行けなかったのだね。全部自分のせいにして、誰にも言えなくて、悩んでいたのだね。もっと吐き出していいのだよ。本当に今日まで良く頑張ってきたね。ね、少し分けて考えてみようよ。寛人さんが亡くなった交通事故は、避けられない運命だったかもしれないよ?僕や律ちゃんのように、優里ちゃんのご両親のように、もっと早く分かっていれば…って思う場合もあるし、あの時こんな風に行動しておけばとか悔やむけど、誰かの寿命は、もうずっと前から決まっていたことかもしれないよ。だから、この事は、優里ちゃんのせいじゃないよ。あとね、女性として愛される人ってさ、化粧とかスタイルじゃないと思うよ。その時、優里ちゃんは仕事や育児を頑張っていたのでしょう?寛人さんは、このことに文句なんて言ってなかったでしょう?きっと感謝していたと思うよ。だって男には出来ない出産を3人分やってくれてさ、その上家事も仕事もやっていたのだからね。浮気の件は、僕があっちに行ってから問い詰めてあげるよ。女性が美しくなれないのは、一緒にいる男性が絶対に悪いのだよ。だから、だからさ、もう自分を許してあげなさいよ。今だから言うけど、僕は優里ちゃんが妹でなかったら、プロポーズしていると思うよ。本当に魅力的な女性だと思うよ。子ども達も本当に素直に育っていてさ、どれだけ優里ちゃんが頑張って育てたのか、愛情を掛けたのか分かるよ。優里ちゃん、君はもっと幸せにならなきゃね。」


 10年間、この事は誰にも言えずにいた。いつも電話の電子音に怯えるだけだった。あの時、あの店に行っていたら、電話に出ていたら…、何度も何度も考えていた。


「バッカじゃないの?優里ちゃん、あのね男の浮気に奥さんは怒っていいの!当たり前なの!結婚でそういう契約でしょ?他の女性が好きになったなら、制度上でも身ぎれいにしてから行動すべきだよ。遊んでいいのはフリーのときだけ!浮気なんて、とんでもない!」

 息を荒くしながら、伸一さんが怒っている。

「子どもを3人も生んでくれた人に、何やってんだ、お宅の旦那は…。あ…くそ!」」

 もう居ない寛人くんに殴り掛かりそうな勢いである。何だか笑ってしまった。


「そう、笑っていてね。こんな風に優里ちゃんは笑っていてね。君の笑顔は、僕に勇気をくれたよ。本当は、皆との楽しい時間がずっと続けばいいと思ったのだよ。もっと早く会いに来ればよかったって…。まるで、自分の子どものように、優里ちゃんの子ども達が愛しいよ。これからをずっと見ていきたいよ。こんなに生きたいって思うのは、病気が分かってから初めてさ。ありがとう。何度お礼を言っても足りないよ。」


 帰り道は伸一さんと二人でゆっくり黙って歩いた。月が出ていて、少し明るく、散歩が楽しくなるような夜だった。

 

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