第4話 同母兄
夜勤勤務(16時から9時)は週に1回あるかどうかで、殆ど毎日が日勤(8時15分から16時45分)である。夜勤明けは、時間に余裕があるため、病院近くの喫茶店で少し本を読んだり、ちょっとした買い物をしたりしてから帰宅する。
子どもが大きくなってからは、家事を分担していているため、急いで帰宅する理由もあまりない。この日も少しだけ読書をしようと深夜明けに病院の朝食を少し食べたにもかかわらず、病院近くの喫茶店に入ってモーニングを頼んだところだった。このお店のモーニングはトーストとサラダとコーヒーのセットであるが、サラダのドレッシングに凝っていて、和風のソースにチーズが混ざったあっさりこってり味でやみつきである。
焼きたてのパンの匂いを吸い込み、一口パンを口に入れようとしたときに、その人はお店に入ってきた。数日前に『光ってみえた』付き添い方の人だ。今もこの人は内側から光り輝いて見える。あの時は救急外来での受診付き添いで来られていたから、直接話もしなかったから、名前は分からない。きっとこの人も私のことなど覚えていないだろう。
その人は、ゆっくりと店内を見渡すと私の方へ近づいてきて言った。
「あの時の看護師さんですよね。えーと名前は高梨さんでしたっけ?」
「あ、はい。よく覚えておられましたね。あの…、今日は彼の入院ですか?」
「いいえ、石岡は3日前に入院しましたよ。今日は私が受診でしてね。ご一緒しても大丈夫ですか?」
「ええ…はい、どうぞ。」
人当たりの良さそうな笑みを浮かべながら、静かな口調で話しかけてきた。少し店内がざわついている。混み合っているのだろう。BGMはジャズがかかっている。なんとなく、拒否するのも気が引けてしまい、同席する形となり、彼も同じモーニングを頼んだ。
「受診って?どこかお悪いのですか?あ、いえ職業柄つい変な事を伺ってしまって、すみません。」
「構わないですよ。ちょっと体調が悪くて…。でも大丈夫です。薬を貰いましたから。」
「そうですか。」
何だろう。病院では今は亡くなった夫の姓である桜井を名乗っている。どうして戸籍上の旧姓である高梨を知っているのだろう。
私はかなり怪訝な表情をしていたのだろう、照れ笑いと悪戯っ子を混ぜた顔で彼は口を開いた。
「私は柴田亮と申します。」
名刺を差し出された。○○劇団 総責任者 柴田亮 と記載されていた。
「少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」
名刺を見ながら、ゆっくり頷くと彼は静かに話し始めた。
自分は生まれて間もなく里子に出されたこと。引き取り先の両親は子どもが長らく出来なかった夫婦であったため、とても大事に育てられたこと。中学生のときから付き合っていた女性と結婚したのは22歳の大学卒業後すぐで、子どもには恵まれなかったが、本当に幸せな毎日を送れたこと。その奥様が5年前に乳がんで亡くなり、それで自分の出自を調べてみようと思って興信所に依頼し、やっと自分の本当の母親のことや妹がいることが分かったことなどを私に話して聞かせた。
「ただ自分の本当の母親がどうしているかを知りたいだけでした。どうして私は里子にだされてしまったのか、その理由を知りたかったのです。そうしたら…。高梨さんはご自身のご母堂から何か聞いておられませんか?年の離れた兄がいるってことは、ご存じでしたか?」
「大変申し訳ないのですが、母からは何も聞いていません。突然こういった話を聞かされて、私はとても混乱しています。柴田さんは私に何かしてほしいのでしょうか?何か謝罪でも?」
私の口調はかなり厳しかったと思う。気持ちの抑制が出来なかった。母に子どもがいることさえ、未だ受け止めきれずにいる自分に何かの決断を迫られたようで、息苦しかったのだ。
「違う、違うのです。いろいろ調べてもらっていたら、あの病院の救急外来に貴方が働いていることが分かり、私も通院中だからいつかお会いできるかもと思って…そうしていたら石岡の怪我で本当に間近にお顔を見ることが出来て、嬉しくて…。絶対気味悪く感じられるだろうとは思ったのですが、どうしてもお話しがしたくて…、本当に突然すみませんでした。謝罪が欲しいとかは全くないのです。もしかしたら、何か聞いておられるかと思って…。」
どうしても気持ちが落ち着かない。それでも、彼には何か切羽詰まった事情があるのだろうことは理解できた。何故ならこの人は『光り輝いている人』だからだ。
3日後の平日で時間がとれる日にもう一度お会いすることを約束して、その日は帰宅した。夜勤で働く以上に疲労した気がして、家事を全て終えてから私は倒れるように眠った。
少し冷静になって考えてみよう。もし、自分が反対の立場だったらどうするだろうか。60歳になってから、自分の肉親を捜すだろうか。探すなら、本当に会いたかったなら、もっと早い時期に探すのではないだろうか。今この時になって会いたいと思う理由があるのではないだろうか。
どこで話をするのが良いのか、本気で悩んだ。人が冷静になるためには周囲の環境が重要である。ゆっくりと食事が取れる個室がある料理屋を予約して、柴田さんに連絡をした。URLさえ添付しておけば、私のような方向音痴でも最近は迷うことなく、目的地に到着できる。便利な世の中であるなど、無理やり思考を違う方向にもっていきながら、再会する日までを過ごした。
柴田さんは、時間通りにやってきた。少し顔色が悪い。相変わらず光り輝いているが…。
「突然変なお話をしたから、ダメかと思っていました。連絡をくれて嬉しかった。今日はお時間を取って頂いて、本当にありがとう。」
「いろいろ考えてみたのですが。失礼ですが、何故今ごろになって連絡を取ろうと思ったのか教えて頂けませんか?」
「やっぱり気持ち悪いですよね。僕はね、妻に先立たれてから、何も、本当に何もする気が起きなかったのですよ。演劇の舞台のマネージメントは続けていましたが、それも石岡が、あ、あの怪我した奴ですが…、あいつが仕事を山のように作って、うるさくせっついてこなければ、きっと辞めていたでしょう。でも、仕事は生きる糧になる。新人がだんだん成長していく姿は、自分の中にあった澱みを浄化させ、新しい演出は鬱憤を吹き飛ばし、僕は仕事に没頭することで何とかここまでやって来ることができたのです。やっと、気持ちが落ち着いたときに、家族って何だろうって考え始めてしまって…。自分は何のために生まれてきたのだろうとか、どんな人達から生まれてきたのだろうって考えれば考えるほど、何も情報がないってはっきり判ってしまって…。知りたくなったのですよ、色んなことを。僕の本当の両親はどんな人で、どうして僕は生まれたのか。僕は望まれて生まれてきたのか。両親は今どんな暮らしをしているのか。僕には兄妹がいるのか。そんな風に思って探したのです。あ、だから誰かに謝って欲しいとかお金が欲しいとかじゃないのです。僕はこう見えても、結構なサラリーを貰っていますし…。ま、お金の使い道がなくて、こんな事をしたのかもしれませんが。」
「急に探そうとした理由は、他にもあるのではないですか?変な事を聞くようですが、どこか体調が悪いのではないでしょうか?病院に通院しているとか、お話しされていましたし…。」
「体調が悪く見えますか?さすが、看護師さんですね。」
屈託なく笑う彼の顔を見て、何だか可愛いと思ってしまった。
「失礼ですが、まず、柴田さんの今日のスーツですが、少しウエストが緩くなっていますよね?上着も少し肩回りが浮いています。最近、急に痩せませんでした?顔色も良くないし、皮膚の張りもない。5~6㎏以上は、減ったでしょう?」
矢継ぎ早に質問を重ねていったのは、私の中に予感があったからである。
「参りました。高梨さんには敵わないです。降参です。僕は、胃がんの末期です。ステージⅣと言えば、多分お分かりになるでしょう?だから、焦って探したのです。本当にごめんなさい。こんな自分勝手なこと、ご迷惑ですよね。」
更に告白された内容は驚きであったが、妙にすとんと腹の奥に何かが納まったような気がした。
「迷惑というよりも、本当に驚きました。丁度母の7回忌だったから、遺品を整理しながら私も向き合おうかと思っていた時だったので…。実は母が亡くなってから、いろんな手続きの時に、母が産んだ兄が居ることだけは知りました。でも、なかなか受け入れられなくて、探すこともせず、見ないふりをしていました。何の解決にもならないのに。お会い出来て良かったと思います。それと、もし宜しかったら、これからもお会いしませんか?ほら、私は看護師だから役に立ちますよ。いざってときは、特にね。」
「ははは、有難いし力強いです。宜しく頼みます。」
私達はそれから自分の家族について、いろいろ話をした。と言っても、専ら私が子ども達の話を延々としゃべり、柴田さんは聞き手であったのだけれど…。
子どもの居ない人に子どもの話をすることは、酷であると言う人がいるが、私はそうは思わない。子どもの自慢や愚痴であれば、迷惑かもしれないが、日々の生活について語ることは天候について話すことと同様に当たり障りがなく、それでいて相手の気持ちを和ませることができる話題の一つであると考えるからだ。
話の間中、柴田さんは笑っていた。彼は昔からの友人のように、安心できる空気を持っていた。3時間程話しているうちに、私達は「亮さん」「優里ちゃん」とお互いを名前で呼ぶほどに親しくなっていた。まるで兄妹でなかった時間を埋めるかのように…。子ども達に会いたいと言われ、本気で嬉しかった。かなりくだけた口調で、帰り際に亮さんは言った。
「今さらだけど、詐欺だとか思わない?僕は優里ちゃんを騙して、お金を取ろうとしているかもしれないよ。」
「それは多分というか、絶対ないと思うというか感じています。ま、騙されたときは、私の判断が間違っていたのですから、仕方ないです。お金はないから、騙されても出ませんしね。」
私は、はっきりとした口調で言い返した。
亮さんは、顔をくちゃくちゃに寄せて、泣き笑いの顔で「おやすみ。」と手を振りながら帰っていった。
私は心の中で呟いた。
「亮さんは母方の従兄に顔や雰囲気が似ている。それに『光り輝いている人』だから…。」
亮さんとはその夜からラインを始めた。
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