第3話 母の過去

 私と母は、顔も体形も性格もあまり似ていない。母は、どちらかというと大人しくて、自己主張しないひとだった。2歳上の父とは同郷の方からの紹介でお見合い結婚であったと聞いている。

 母が26歳の時に結婚し、28歳で私を産んだ。私が生まれる前に1度流産しているため、私は二人にとって初めての子であり、弟妹は出来なかったので一人っ子だ。

 両親の仲は良いのか悪いのかはっきりと判断しにくい関係であったと思う。父はお酒を飲むと荒れて乱暴になるが、母に暴力を振るったのは覚えている限り1回だけだ。そして、母が家出をしたのは、その暴力が原因だった。

 その頃から住んでいた東京の小さな家を出た母は、自分の兄妹を頼って大阪にまで逃げて2年位帰ってこなかった。父は母が家出をした後、本当に途方に暮れていた。お酒を飲みながら泣いて悔やんで、またお酒を飲んでいた。仕事は何とか続けていたようだが、自動車で事故を起こしたり、仕事で怪我をしたりといつも身体に傷を作り病院にばかり通っていた。

 あまりにも気の毒に感じた父方の親類が母とその親族に連絡を取り、間に入って心からの謝罪を母や母方の親族に行った。母は戻りたくないようだったが、双方の親族や友人たちに子どもの事も考えなさいと諭され、父の泣きながらの土下座する姿にほだされ、仕方なく東京に帰ってきたようだ。

 私には、母にとって戻ったことが良かった事なのか判断できない。それからは、父は母の顔色を見ながら、ちびちびと酒を飲み、仕事でイライラすると母でなく私に小言を言う生活だった。母は、私をかばうこともなく、父と喧嘩するでもなく、当たり障りのない日々を過ごしていたように思う。


 父はお酒の飲み過ぎからくる肝硬変のため69歳で10年前に亡くなり、目立った病気もなく過ごしていたはずの母はすい臓がんで6年前に71歳で亡くなった。

 父の場合は、入院と通院を繰り返し、家族がへとへとになるくらい看病が大変だったが、母の病気の時は、わかった時にはすでに手遅れだった。食が細くなった、やせたなと思っていたが、「お父さんや寛人君を思い出すから病院に行くのがつらい。」と言われると強く受診するよう説得できなかった。


 父と母は何故喧嘩をしたのだろう。父が暴力を振るうほど怒ったのは、何に対してなのだろう。それはやはり、あの写真が関係するのだろうか。

 母が亡くなって数か月が過ぎたころ、私は改めて母の普段使いのバックの中身を見てみようと思い立った。母の遺品は、ブローチやスカーフなどが多く、親類やお友達へもいくつかお渡しし、何となく心の整理が出来たように感じていたが、日常的に使っていたものを触ることが、何となく憚れてしまい、躊躇していたのだ。

「やっぱり、あまり仲良くはなかったのよね…。」

 少し大きな独り言を吐き出してから、母の財布を開き、カードや明細書を一つずつ見ていった。亡くなる前に購入したレシートには、お茶のペットボトルとアンドーナツが記載されていた。笑みがこぼれた。そして、その長財布の奥に小さな写真が入っていることに気がついた。

 元々は白黒であったものが、セピア色に変色した集合写真だった。白い帽子を頭に乗せた看護師らしき人と白衣を着た医師らしき人、患者らしき浴衣をきた数人(その中に母がいた)が笑って映っていた。

 10代の終わり頃、精神科の病院に入院していたと本人からは聞いていた。心の病気だったからか、少し言いにくい様子であった。もしかすると、うつ傾向があったのかもしれない。あまり几帳面でもない母と躁うつ病が重ならなかったためか、話を聞いたのかもしれないが私の記憶にはあまり残っていない。

 聞き流していたというべきかもしれない。母が何かを隠しているようにも感じられなかった。或いは、昔を懐かしんで、ちょっと病弱だった自分を楽しそうに話す母がいやだったのかもしれない。看護師をやっているせいか、病弱であることを自慢するような話が、何しろ嫌だったのだ。


 もう少し詳しく聞いておけばよかった。その後悔は母の死後にやってきた。母の生命保険の手続きが一つだけ出来なかったときだ。何故か母は保険金や家の相続の受取人を私に指定していた。

 私は、一人っ子だったのに…。でも、一つだけ、指定されていなかった保険が偶然見つかり、これまでと同じように手続きを申し込むと説明されたのだ。

「相続人全員の同意がないと手続きできません。」

「えっと、相続人って家族ですよね?父は亡くなっているし、母の兄妹ってことですか?」

「いいえ。この手続きには、お子さん全員の同意書が必要です。」

「え?私は一人っ子ですが…。」

「もうおひとかた、おられますね。その方の委任状か同意書が必要となります。」

「は?え? ちょっと待ってください。もう一人?」

「はい。こちらでお調べしましたら、そのようになっておりますが…。」

「分かりました。私の方でも調べてみます。」


 それから、戸籍謄本を取り寄せ、詳しく調べてみた。母は19歳の時に分籍し、新しく戸籍を作っていた。子どもを産んだからだ。子どもの認知はされていなかったため相手が誰かは分からず、『亮』という名のその子はすぐに除籍されていた。

 子どもは1歳になる前に里子に出されたようだった。母の両親は亡くなっており、母の兄妹は、遠方で疎遠でもあるため確かめてはいないが、確かに私には9歳年上の兄がいる。母の知られざる過去を暴く気にもなれず、それ以上の詮索を止め、生命保険の受け取り手続きも中断してしまった。

 当時は母が亡くなった悲しみがあまりにも強く、現実と向き合う気持ちが萎えてしまったのだ。あれから6年が経った。何故今ごろこんなことを思い出すのだろう。


 母が亡くなる前に、母の中に『光り』を見たのは捷人だった。

「おばあちゃん、なんか光っているよね?明るいっていうか、眩しいっていうか。俺、目がおかしいのかな?眼科行った方がいい?」

 捷人がそう言いだしたとき、私は笑えなかった。すぐに捷人を眼科に受診させ、問題ないことが分かると、母に受診を勧めた。嫌な予感がしたからだ。案の定、母はがんだった。それもすい臓がんの末期で手術も適応外、化学療法での完治も難しい状況だった。

「私は治療をしたくないよ。だってお前だって抗がん剤は苦しいから、自分ががんになっても治療はしないっていつも言っているじゃない。私、痛いのとか苦しいのとかは、いやですよ。」


 何度も治療するよう勧めても答えは同じだった。主治医には出来るだけ苦痛がない治療を出来るだけ行ってもらうよう、裏でお願いして入院させたが、母が納得して治療を受けたと言える医療処置は、鎮痛剤や入眠剤の投与だけだった。

 ホスピス病棟に入院して、最期まで穏やかに過ごす母に何かやり残したことは無いかと問うても、「何もない」しか帰ってこなかった。

「私は幸せだったと思うよ。お父さんは少し乱暴な人だったけど、私には優しかったし、貴方は手のかからない娘だったしね。唯一の心の残りは、流産してしまった子のことかしらね。男の子だったと思うのよ。きっと…。ちゃんと産んで、育ててあげたかった。」


 鎮痛剤として麻薬を使い始めており、過去の記憶と言動が一致しなくなったころ、こんな風に流産した子の話をしていたことを覚えている。それ以外で母が話したことは、生前の父のこと、私の小さい頃のこと、孫のことだった。私の夫である桜井寛人君のことは、あまり話題にしたくなかったのか、怒っていたのか分からない、恨み節が多かった。

「あっちにいったら、娘に子ども3人も押し付けて!勝手に死んでしまって!苦労させた!っていっぱい言ってやって、怒ってやるつもりよ。でも、優しい旦那さんだったよね。本当にいい人だったよね。逝くのが早かったね…。」

 亡くなる数週間前になった母の口調は厳しかったり、優しかったり…取り留めがなかった。複雑な思いがあったのだろう。それとも、私を置いて逝くことに不安があったのだろうか。いや、それはきっと…ないだろう…。

 亡くなる直前、昔話ばかり繰り返していた母が、真面目な顔をして私に言った言葉が忘れられない。

「これからきっと幸せが来るから、貴方は幸せになるから、心配いらないよ。」

 もうすぐ、母の7回忌がくる。お母さん、貴方は自分が産んだ息子に会いたいですか?


 滉一が二階から降りてきた。夜遅くにそっと降りてくるときは、内緒話があるときだ。

「おばあちゃんの7回忌はいつするの?」

「5月の連休かな?亡くなったのは5月20日だったから、早めは大丈夫なはずだよ。」

「お母さんはさ、おばあちゃんの事で何か悩んでいるの?」

 無駄に察しがよい長男である。母に私以外の子どもが居たことを話して相談したのも長男にだけである。

「おばあちゃんに私以外にも子どもが居たってこと、前に話したよね?おばあちゃんの7回忌までに探して、呼んだほうがいいのかもって悩んでいるのよ。滉一はどう思う?」

 長男に対しては、つい私自身がどう行動すればいいかの確認を取ってしまう。

「必要なくね。俺らが知らない人を呼んでも、その人も困るでしょう?」

「そりゃそうだ。私だったら困るわ。」

「それよりも日程を早めに教えてよね。大学行事と被ると困るからさ。ま、どうせ俺らだけでこじんまりとするだろうけど」

「ま、ひっそりと言ってくださいよ。早めに日程を決めるね。ありがとね。おやすみ。」

「おやすみ。」

 心に浮かんだ不安や疑問を口に出せるのは、いつも滉一にだけ。だけど受け止める方は、息子なのだから嫌に違いない。親が悩んだり落ち込んだりする姿など見たくないだろう。そう思うのに、長男には頼ってしまう。


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